自然主義者宣言

2018-02-08 14:22

中川 敏

1 はじめに
1.1 自然主義って何?
1.2 文化人類学って何?

2 哲学と自然主義と人類学
2.1 反自然主義への恐怖
2.2 自然主義への恐怖
2.3 二つの自然主義
2.4 自然主義の代価

3 人類学を自然化する
3.1 コンベンション---社会
3.2 還元論と全体論
3.3 恣意性---文化

4 存在しないモノの存在論
4.1 抽象的なモノ
4.2 存在しないモノ

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. はじめに

【2017-10-15 開催民博研究会、 「文化人類学を自然化する」第一回での趣旨説明だ。 というわけで、その場にいる方々に言及するときは 「さん」がつく。】

「一つの妖怪が哲学界を徘徊している。 自然主義という妖怪が。」

本研究会「文化人類学を自然化」するは、 哲学界の妖怪を文化人類学界へと導入することを 目的とする。

問題は、もちろん、 (哲学の中の)自然主義って何?、 そして文化人類学って何?ということだ。

1.1 自然主義って何?

ここに哲学の自然主義の旗頭の一人である 戸田山さんがいる。 彼の『哲学入門』 [戸田山 2014] は、いわば、この研究会の指定文献だ。 その戸田山さんを差し置いてわたしが 自然主義について語るのは面映いものがある。 ポイントは「哲学の自然主義」以上に (これについてはいずれ戸田山さんに 熱く語ってもらうが) 「文化人類学」、 とりわけ 「自然主義を背景にして見た文化人類学」である、 と判断した結果だ (わたしが趣旨説明をすることにする)。

1.1.1 人生いろいろ

さて、「自然化」とは、 「自然主義」とは何かという問題だ。 たいていの場合、この手の説明は もったいぶった前振りから 始まると相場は決まっている--- 「きみ、自然主義ったっていろいろあってね」と。

パピノー [Papinueau 2016] によれば、 現代の哲学者のそれぞれが自然主義を それぞれに解釈しているという。 そのような状況のなかで、自然主義が何かということを 決定することは無駄だという。 そうではなくて、 現在「自然主義」と呼ばれている (あるいは自称している)哲学者の議論を 追っていくという方針を取ると、 論の冒頭で彼は宣言する。

パピノーの論文を読み通すと、主義や学派であふれ ている --- 非還元論的物理主義、 きちんとした (full-fledged) 物理主義、 コーネル実在論、 非自然主義的実在論、 非実在論 (irrealism) などなど。

1.1.2 とりあえずの定義

とまぁパピノーの皮をかぶって もったいぶるのはやめよう。 あとで戸田山さんがいろいろ話をしてくれるだろう。 「とりあえずのイメージ」から 始めたい。 「哲学/人類学の自然化とは それを自然科学の一つとすることである」と、 自然主義を(とりあえず)定義して 話を続けてゆきたい。 議論の展開の中で、 自然主義のより厳格な定義そして さまざまな種類の自然主義について 述べてゆく予定である。

【方法論的要素 []】

パピノー [Papinueau 2016] によると、 自然主義には二つの要素 (components) があるという。 じっさい、パピノーの論の本文も その二つの要素に従って作成されている。 二つの要素とは 「存在論的」要素 (ontological component) と 「方法論的」要素 (methodological component) である。

パピノー [Papinueau 2016] は「方法論的自然主義」を、 「自然科学と哲学が、基本的に同種の問題に、 同じような方法を使い、同じような目標をもって、 関与している」という考え方だと見なしている。 すなわち、もしこの意味で人類学が自然化されれば、 自然科学と人類学が基本的に同じものであるということ になる。 直前の小節の「とりあえずの定義」は パピノーの言わゆる「方法論的」要素について 述べた、ということになる。 すなわち、方法論に関しては、 科学への全き信頼ということばで 表わすことができるだろう。

・・・・・ 【科学の実在論】 ・・・・・ [戸田山 2015]

この研究会としては、 「科学を信頼すればどうなるか」という 立場を採るのだ、ということを確認するに、 すくなくとも現段階では、留めたい。 要するに、 方法論的自然主義に関する論争には 関わらない、ということだ。 [1]

【隣接科学は何にする []】

研究会の一つの目標は、 人類学を自然科学の一つとして位置付けることであるが、 できれば、 最終的にどのような自然科学になるかの イメージを持つことが明らかにしてゆきたい。 具体的に言えば、 研究会の終わりにおいて、 自然科学としての人類学は 何を隣接科学とするのだろうか?という問題に 答えることができていれば幸いである。 試みに候補者を挙げてみよう。 情報論、生物学、霊長類学、心理学などなどが 思いつく。 あなたも「成功した科学としての文化人類学」 [唐沢 2012]と 言ってみたくはないか? ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

・・・・・ 【お助け人】 ・・・・・

1.2 文化人類学って何?

さて、続いて 文化人類学者でない参加者のために 「文化人類学とは何か」を説明しなければ ならない。

1.2.1 人生いろいろ

「文化人類学にもいろいろありまして・・・」と 始めるしかない状況である。 「百人の人類学者に聞けば、 百通りの定義を聞けるだろう」と。

・・・・・ 【「何が人類学か」は答えられる】 ・・・・・

1.2.2 とりあえずの定義

・・・・・ 【否定的存在としての人類学】 ・・・・・

・・・・・ 【(アクロニムを使わない --- ANT は社会学 だ)←→ 「ANT は人類学だ」中川(理)さん、 中空さん】 ・・・・・

それで終わるわけにもいかないので、 わたしが一般教養で行なっている (聞く人が聞けば人を惑わす)定義を 挙げておこう [中川 2009]。

・・・・・ 【例外】 ・・・・・

【存在しないモノの学 []】

たぶん、この研究会の脈絡にあった 定義としては 「存在しないモノの学」というのが 適切かもしれない。

【学説史---省略 []】

・・・・・ 【学説史】 ・・・・・

・・・・・ 【進化論・伝播論・機能主義の復権】 ・・・・・

2. 哲学と自然主義と人類学

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

2.1 反自然主義への恐怖

パピノー [Papinueau 2016]は、 現代の哲学者で「反自然主義」と呼ばれることを 好む者はほとんどいないであろうという。 たいていの者は「自然主義」(「弱い自然主義」)を ゆるく解釈しることによって、 自分が自然主義者だと呼ばれることに満足している。 例えば中山の「哲学は自然科学と矛盾することを 言ってはならない」という構えは、 そのような弱い自然主義の一つの例であろう。 このようにすれば、 わたしたちが採りたい戦略、 「哲学を、そして人類学を自然科学とする」が 強い自然主義だということは理解してもらえるだろう。

2.2 自然主義への恐怖

これと対照的なのが、 門脇俊介の『現代哲学』 (産業図書、1996年)の序である ( [鈴木 2016] からの孫引き) --- 『哲学的な思考の 試みは、こうした反自然主義とともに始まる。 プラトン以降の西洋の哲学の歴史(の主立った正 統な部分)は、 自然主義への反発や恐怖を背景とした、 自然主義との対決の歴史とみることもできる。」(p.4) と述べている。

2.3 二つの自然主義

・・・・・ 【二つの自然主義】 ・・・・・

2.4 自然主義の代価

自分で作り上げたいいかげんな分類なのだが、 この分類はある問題をわたしたちに投げかける--- 「弱い自然主義は可能なのか」と。 あるいは「弱い自然主義は必然的に強い自然主義に ならざるを得ないのではないか」という疑問だ。

そしてこの疑問に答えることは、 強い自然主義を採用することの代価について 語ることにもなる。

ここから先は、 自然主義と反自然主義を 還元論と全体論に言い換えさせてもらう。 この二つのペアが正確に対応するかどうか (非還元論的自然主義の可能性など)は、 ここでは問題にしない。

ここで、哲学の中の自然主義に関しての、 (あるいは自然主義に反しての)有名な議論、 ムーアによる 「自然主義の誤謬」(Naturalistic fallacy) [moore-principia] を紹介しておこう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 要するに価値・道徳を事実に還元できない、 というのである。

・・・・・ 【弱い自然主義との両立の可能性】 ・・・・・

ムーアはその答を用意している。 それが「スーパーヴィーニエンス」である。 [2] ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

このコトバ「スーパーヴィーニエンス」が デイヴィドソンによって心の哲学に 導入された [davidson-replies]。 たしか脚注でだったと思うのだが、 他の哲学者がそれに飛び付いた。

3. 人類学を自然化する

わたしの人類学的遍歴は、 現在の文脈で言えば、 「反自然主義の人類学」であった。 [3] わたしは文化という考え方が好きであり、 自然主義というのは、 「文化」という概念を脅かすものだと 考えていたのだ。 [4]

わたしは人類学者には二つのリトマス試験紙があると 考えている。 あるいは「踏み絵」と言ったほうが 分かり易いかもしれない。 それを「二つのコンベンション」 および「恣意性」と呼ぼう。 二つを述べる中に分かることではあるが、 この二つはコインの裏表と言える関係にある。 すなわち、基本的に ほぼ同じことを言っているのである。 強いて違いを強調すれば、 「コンベンション」で焦点が あてられるのは社会であり、 「恣意性」で焦点が あてられるのは文化であると言える かもしれない。

3.1 コンベンション---社会

還元論者も、 全体論者も「コンベンション」という 言葉をキーワードとして議論を展開する。 還元論者は言う、 「社会はコンベンションから出来ている」と。 そして全体論者もまったく 同じことを言うのだ、 「社会はコンベンションから出来ている」と。

問題は、 双方が「コンベンション」という語を 全く違った意味で使っているという点にある。

・・・・・ 【契約】 ・・・・・

3.1.1 還元論のコンベンション

まず還元論者の議論を追おう。

ヒュームによれば、 「社会的なもの」すなわち 組織、言語、約束、そういったものは すべてコンベンションから成るという。

このコンベンションを説明するのに、 有名なボート漕ぎのエピソードが 使われる [hume-treatise]。 この箇所は、後に、 デビッド・ルイスの本 『コンベンション』 [lewis.dk-69b] の中にそのまま引用されること となる。

還元論者が使用する 「コンベンション」には、 ヒュームが強調するように、 取り決めや約束はない。 このような「コンベンション」を、 わたしは「黙約」と訳したい。

[Latour 2005]

3.1.2 全体論のコンベンション

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

[austin-how2do] [austin-j-78]

このような全体論者が 使う「コンベンション」を、 わたしは「規約」と訳したい。

3.2 還元論と全体論

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

社会についての同じ対立が、 (コンベンションを巡ってではないが) 心の哲学にもいえる。 心の還元主義者は言う、 心とはニューロンの集りであり、 それ以上でもそれ以下でもないと。 そして社会の還元主義者は言う、 社会とは個人の集りであり、 それ以上でもそれ以下でもないと。 心の全体論者は言う、 心とはニューロンの集り以上のものであると。

3.2.1 創発論---全体論の言い訳

還元論の常識的な見掛けに対して、 全体論はいささか神秘主義的なにおいがするだろう。 立証責任は全体論の側にある。 「全体は部分の和以上である」ことを 証明しなければならないのだ。 もし還元論のほうにいくらかでも 立証責任があるのなら、 それは「パターン」がいかにして 「集り」からでてくるかである。

全体論の側が用意したのは 「創発」(emergence) という考え方である。

ポラニーの 『暗黙知』 [polanyi.m-tacit-j] [polanyi.m-tacit] の議論は、この「創発」に基づく議論である。

ここでは還元論者から 非難を受けるような主張から紹介しよう。 「創発」(emergence) の議論である。 [z.bedau-humphreys-emergence]

大庭は責任について 書く議論の中で、 自分の議論はルーマンの システム理論、自己組織化理論に基づいている、 として、 それを次のようにまとめる。 「・・・・・ マクロ状態の変化は、 環境に対応しながら、 ある機能をうまく 充足する状態へ向かう変化になっている」 [ooba-sekinin: 70]というのだ。 このまとめを見るかぎり、 還元論者の議論と矛盾はない。 もう少し細かく議論を見てみよう。 彼はこの「変化」を三段階に分ける [ooba-sekinin: 71]。

ポイントは二番目の「因果」の否定である。 因果が成り立たなければ、還元はなりたたないのだ。 しかし、どうして因果が成り立たない状況が でてくるのだろうか。 「複雑になれば、いずれそうなる」というのは 答えにはならない。

このような議論を デネットは『ダーウィンの危険な思想』 [dennett-darwin] [dennett-darwin-j]の中で 「スカイフック」と呼んで揶揄している。

3.2.2 複雑さ---還元論の言い訳

還元論者に立証責任はないと言うのは 極論である。 彼らには個体(ニューロンであれ、 個人であれ)が集まって、 それが単なる集り以上の見掛けを呈するという よく知られた現象を説明する義務がある。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 「群れについて」

群れについてのシミュレーションが示すのは、 「群れ」という主体を (個体を越えた主体を)措定することなく、 群れのあたかも意図を備えたような動きを 説明できる、ということだ。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 『利己的な遺伝子』 [dawkins-selfish-genes-j] [dawkins-89]に頻出する コンピュータシミュレーションがある。 ここでは Game of Life について説明しよう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.2.3 見掛け---還元論の言い訳

次なる全体論からの挑戦は この「見掛け」ということばへの 挑戦となる。

「心や社会がいかにできあがっているか」と 問われたとき、 たしかに、全体論の部はわるい。 しかし考えてみてほしい、 わたしたちの普段の生活で そのような問いを問うことが どれだけあるかと。

日常的には、 わたしたちは「心」を実感し、 「社会」や「文化」を実感しているのだ。 「自分に心がない」、 「友達に心がない」と考える人はいないだろう。 「日本国が存在しない」 「大阪大学が存在しない」と考える人はいないだろう。 そのような立場から考えれば、 こんどは 立証責任は還元論の側にあることになる。 日常の心や社会の実在をいかに 「還元論」から説明するか、 ということだ。

それに対し、日常的状態では、 社会や心はすでにある。 それらの社会や心は、いわば、 生活の所与である。 説明はそれらを所与のものとして、 それらに対処している人びとを描くことを 目標とすることになる。

『創発』 (Emergence) という論文集の中の サールの議論、 「意識の還元主義と還元不可能性」という論文 [searle-reductionism]が、 この脈絡において 示唆的である。

サールの議論を 見掛け(主観的経験)と本質(物理的存在)とで まとめてみよう。 還元とは見掛けを本質へと翻訳することである。 「熱とは分子の運動である」 「赤とは周波数これこれの光である」などなどと。 熱という見掛け(主観的経験)を 本質としての分子の運動ということばで 言い換える、 これが還元である。

さて、とサールは言う。 意識というものを ニューロンの作用で言い換えるという還元は 成り立っているのだろうか。 これは成り立たないとサールは言う。 意識から見掛け、すなわち 主観的経験をとってしまうと 意識の本質がなくなってしまうからだ。 あるいは 次のように言えば、より穏健であろう。 わたしたちが知りたいのは 主観的経験として意識である。 その意識から見掛け、すなわち主観的経験を とってしまえば、 最初の目論見(主観的経験としての意識の解明)が 果たされないと。

* * * * *

われわれの持っているこの日常的な 判断、 心は存在する、社会は存在する、に対して、 還元論者は還元論的な説明を提供する 義務がある。

ライルが『心の概念』 [ryle-j-mind] [ryle-mind]において、 素晴しい解決策を示している--- 有名な「カテゴリー錯誤」という議論である。

意識について 還元論的な議論を したのが、 「意識は解明された!」と宣言する 華々しいタイトルを持つ デネットの議論 ( [dennett-consciousness-j] [dennett-consciousness])である。 さらには 生物学者ニコラス・ハンフリーが 『内なる眼』 [humphrey-inner-eye-j] という本の中で進化論的な議論を 展開する。

どちらもややこしいのだが、 簡単に言えば、 つぎのようになる: 脳がシミュレーションの能力を持ち、 世界のシミュレーションを行なうようになる。 さらに進化した脳は完全な世界のシミュレーションを 得る。 その中には、もちろん、自分自身(脳自身)もまた 存在している。 これが意識の誕生なのだ。

人間は集団生活するようになって飛躍的に生存能力 を高めた。 集団生活をするためには他人の心が分からないと困る。 他人を理解しようとするときに、 自分がもしその人だったらどう思うか? と考えるとうまくいく。 つまり、 他人のモデルを自分の中に構築し、 シミュレーションしてその過程および結果を見ることで、 他人の理解につながるのである。 そのとき、 自己意識がなければシミュレーションの結果を見ること はできない。 自己意識は、 他人の心を理解するために進化したものなのではないだろうか。

なんだかだまされたような・・・

3.2.4 階層性---還元論の言い訳

全体論からは複雑さについての さらなる挑戦があるだろう。 さきほども問題にした自然科学の階層性である--- すなわち、自然科学に明白に 物理学/化学/生物学という階層がある。 ということは、 対象である自然の現象にも階層性があるのでは ないか、という指摘である。

・・・・・ 【ラプラスの悪魔】 ・・・・・

・・・・・ 【デネット】 ・・・・・

・・・・・ 【ボールドウィン効果】 ・・・・・ [松本 2014]、 [ドーキンス 1987]、 [デネット 2000]

人類学者にとってはそれらは、 言わば、対岸の火事だ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.3 恣意性---文化

3.3.1 恣意性の神話

[ブラウン 2002]、 [菅野 1999]。 [レイコフ and ジョ ンソン 1986] [Douglas 1973]

4. 存在しないモノの存在論

もう一つの面白い問題系として 存在論の問題がある。 「自然主義の存在論的な要素」だ。 二つの問題領域があると思う。 ひとつは「抽象的なモノ」について どのような存在論を打ち立てるべきかという問題である。 もう一つは 「存在しないモノ」についての 領域である。 とりわけ後者は人類学独特の問題を 引き起こすことになる。

4.1 抽象的なモノ

前者、すなわち抽象的な存在に関する 自然主義とは、 モノしか世界 には存在しないと 考える仕方だと言えよう。 これを戸田山は 「モノだけ世界観」 [戸田山 2014: 19] と呼ぶ。 彼は『哲学入門』の序において 次のように書く--- 「『ありそでなさそでやっぱりある もの』こそ、哲学がずっと考えてきた中心主題」(p.11) であるという。 これらを「存在もどき」と彼は名付ける。 同書の目的は「何とかして、 存在もどきたちをモノだけ世界観に描き込むこと」 (p.19) であると言う。 存在もどきの代表選手は「意味」 である(p.13)。

クワインは1947年の(グッドマンとの 共著の)論文(「構成的な唯名論」)の中で 次のように宣言する。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

4.2 存在しないモノ

次に議論しなければいけないのは、 存在しないモノである。

4.2.1 哲学の中で

存在 (exists) しないけど ある (there is, subsist, bestehen) (と何人かの哲学者の言う)モノである。 クワインは存在論の古典「なにがあるのかについて」 [クワイン 1992]の冒頭に、 マイノング主義者である Wyman を登場させ、 つぎのようなコントを演じる。

However, Wyman, in an ill-conceived effort to appear agreeable, genially grants us the nonexistence of Pegasus and then, contrary to what are meant by nonexistence of Pegasus, insists that Pegasus is. Existence is one thing, he says, and subsistence is another. The only way I know of coping with this obfuscation of issues is to give Wyman the word 'exist'. I'll try not to use it again; I still have 'is'. [Quine 1980 (1953): 4]

すなわち、・・・・・ 【存在と存立】 ・・・・・

4.2.2 人類学の中で

哲学者は議論の中にさまざまな ・・・・・ 【黄金の山、竜、ペガサス】 ・・・・・

[中川 (印刷中)]

4.2.3 存在論的コミットメント

まず出発点のクワインの存在論 [クワイン 1992] を整理しておこう。 (以下は [野村 2015] からの 孫引きで、 [van Inwagen 2001]による まとめだ。) ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

・・・・・ 【ポイントは存在論的コミットメントだ。】 ・・・・・

4.2.4 信念学

・・・・・ 【信念学という学を作ろう。その中に存在論 的コミットメントを埋め込もう。】 ・・・・・

[オースティン 1991] [浜本 2007]

[Currie 1990: 8] [浜本 2007]、 [James 2008 (1897)]

・・・・・ 【欺きの意図の有無】 ・・・・・

・・・・・ 【Make-believe】 ・・・・・

・・・・・ 【信念学】 ・・・・・

[伊藤 1997]

1234
こっちの世界あっちの世 界
遊び現実世界しらけてのめり こんで虚構世界
鑑賞現実世界外在的内在的虚構世界
自文化旅人人類学異文化
確信まじめふまじめマジメにフマジメまじめ
存在★★★存在
使用言及引用使用
修辞parodyirony
ほんとの世界言及引用嘘の世界
表 存在しないモノ

Bibliography

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ENDNOTES

[1] ただし、 「信頼すればどうなる」という言い方は、 斜めに存在論にも関連にも関連してくることになる。 [Back]

[2] この名付け自身はヘアによるものだそうだ。 [Back]

[3] 過去形で書いたが、まだ逡巡している。 [Back]

[4] 過去形で書いたが、まだ逡巡している。 [Back]