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金持ちだからといって差別しないでちょうだい
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クレイグ・ライス『死体は散歩する』
3 責任と告発
3.1 言い訳
3.2 藤木のひきょうを直す会
3.3 性格
東インドネシアのフローレス島、 エンデにおいて、儀礼は禁忌に満ちている --- 家の外に出てはいけない、話をしてはならない、 唾を吐いてはならない、咳をしてはならない、 おならをしてはいけない、 排尿・排便をしてはいけない等々。 これに違反した者は、(1)不慮の死(マタ・リンボ) をとげる、 (2)不治の皮膚病 (ヌカ・ラー)にかかる、 (3)盗みをする(ナカ)、 (4)不倫をする(ペザ)、 (5)呪術師(アタ・マジ)になる。 そして呪術師になることも嫌ならば、 違反者は (6)妖術師(アタ・ポゾ)になる、という。 これら、禁忌の違犯に伴なう結果を、 この論文では「天罰」と呼ぶこととする。
わたしは、禁忌とその違反に対する様々な天罰を ノートにとって満足して、 何も考えずにいた。 そのとき隣にいた調査者は、しかしながら、次のように 疑問を提出する: 「不慮の死や人知を超えた病気と考えられている皮膚の 難病が なぜ「盗みをする」ことや「婚外性交をする」という行為と 一緒にされているのかという問題」 [58: 青木 2006] がある と言うのである。
青木の言う「問題」を整理してみよう。
儀礼の禁忌を破ることへの天罰が、たとえば、 「不慮の死」や 「不治の病」であるのは わたしたちにも理解できる。 しかし、それが「盗み」であったり、 「不倫」であったり、 あるいはまた「妖術師になる」というのは、 「なにかがおかしい」と感ずるのだ。 「不慮の死」は、天罰としてふさわしい(とわたしたちは感じる)。 それは、わたしたちの意図とはかかわらずにふりかかる 災難なのだから。 それに対して 「盗み」や「不倫」は意図的行為である。 意図的行為において、その原因 [1] は飽くまで 行為者にある。 要するに、 みずからが責任のとれない出来事を 「儀礼の違反」に辿ることは、 わたしたちにも理解可能なのだが、 みずからが責任をとるべき出来事(行為その他)の遠因を 「儀礼の違反」に辿るのは、 とてつもなくおかしなこととうつるのだ。 この状況を「(民族誌家の)困惑」と呼んでおこう。
「困惑」を取り除くための 一つの可能な議論の道筋は、 「エンデでは、 わたしたちが意図的であると考える現象 (行為)も非意図的に考えられる。 エンデの人々は『からっぽの人格』 [2] の考えかたをしているのだ」という ものだろう。
この作戦こそ 文化相対主義への批判として しばしば使われる言葉、 すなわち「知的アパルトヘイト」という 用語が最もあてはまるものであろう。
その代わりにわたしがとる作戦は次のようなものである。 第一段階として、 エンデの事例に接して わたしたちの感じる「困惑」をまず分析 する。 そしてそれが「責任」の帰属の仕方によるものだということを 確認する。 そして、 いったいわたしたちはどのような装置をもって、 責任について考えているのかを分析する。 第二段階の手続きは、 エンデの民族誌に沿いながら、 盗み、不倫、妖術師についてのロアがどのような装置によって 不慮の死や 不治の病と ひとまとめにされているのかをさぐることである。 わたしたちの装置と彼らのそれとが(ある意味において) 類似のものであれば、 わたしたちは、 エンデの民族誌を「理解可能」なものとしてとりあつかうことができるであろう。
この論文は、 第一段階、 すなわちわたしたちの側の人格概念の分析、 とりわけ行為と責任という側面からの 人格概念の分析のみ を行なう。 この論文では、 エンデの民族誌は出発点として使われるだけということに なる。 この論文の第一の目的は、それゆえ、 責任(そして意図)に関する問題を 分析できるような 道具立てを整理することにある。 ロールズの政治哲学を、 オースティン、ライル、ファインバーグなどの 日常言語の哲学者たちの 議論に結びつけることができれば、 第一段階としてのこの論文の目的は 果したと考えたい。
エンデの天罰が引き起こす「困惑」とは、 繰り返そう、 意図と責任の問題である。 わたしたちの感覚は、 「不慮の死」は天罰としてふさわしく、 「不倫」はふさわしくない; なぜなら「不倫」は行為者に 責任を帰すべき行為なのだから、というものであった。
この章では、 以上で明るみにでた「わたしたちの感覚」 [3] をより深く分析していきたい。
この章の一つの目標は、 意図を責任へと還元して、 問題を単純化することである。
ロールズの『正義論』 [Rawls 1971] の有名な「無知のベール論」を議論の出発点としたい。 ロールズの議論を追うことによって まず問題の輪郭をはっきりとさせよう。
ロールズの理想とする (そして多くの人びとはそれに同意するだろうが)公正な社会では、 人間の偶有的な性質 --- 「男である」「女である」「肌の色が黒い」等々 --- によって 優遇や差別があってはならないという。 そのような社会をより具体的に思い浮かべるために、 ロールズは原初状態の契約という思考実験を提案する。
原初状態において人びとがあつまり、 公正な社会をつくるべく契約を行うのだ。 その会議において、 もし自分が男であることを知っていれば、 男が有利であるような社会をつくってしまう可能性がある。 もし自分が白人であることを知っていれば、 白人が有利であるような社会をつくってしまう可能性がある。 そういった偶有的な特性による差別をもつ社会をさけるために、 当事者には「無知のベール」がかぶせられる [137: Rawls 1971]。 かくして、誰も自分の性別や肌の色を知らない。 自分が男か女かわからなければ、 どちらかに有利であるような社会の契約はなされないはずだ。 以上がロールズの無知のベール論の骨子である。
ようするに、無知のベールで隠されるものこそが、 「偶有的属性」、 それによって差別をすることは不正であるような属性であるのだ。 そのような状態の中で、 各人が正義感覚に基づいて選ばれるのが 正しき社会である、とロールズは考える。 [4]
この論文の文脈に置いてみれば、 ベールで隠されるものとは、 すなわち、 その「責任」を 問われることのないような属性である。 自分がある特定の肌の色で生まれること、 ある特定の性別で生まれることに対して、 誰も責任は問われない。 この直感が「無知のベール」論を支えている。 そして、 「不治の病」(ヌカ・ラー)は 責任を問われることのない状態であり、 それが天罰となるのは理解できるが、 それに対して「不倫」(ペザ)は責任を問われる類の行為であり、 それが天罰となるのは理解できない、という わたしたちの困惑は、 まさにこの同じ直感によっているのである。
この直感 (これをロールズは「正義の感覚」と呼ぶ)が すべての人に共有されているというのが、 ロールズの基本的立場であり、 この考え方は「道徳感覚 (moral sense)」の 普遍性を唱えるカントやヒュームに通じるものである。 すなわち、エンデの事例は、 いわば、そのような道徳感覚の普遍性に異議を 申し立てるものなのだ。
以上で、 困惑の源泉は責任の考え方の彼我の違いに 由来することを確認した。 つづいて「責任」という考え方そのものについて考えていこう。 [5]
「責任」とは何であろうか? 「責任」という語が わたしたちの会話に出てくる場面を考えてみよう。 たとえば、こんな会話を思い出すだろう: 「これはお前の責任だ」「わたしの責任ではない」 「責任者は誰だ」。 これらの会話状況では、責任は 「果たされなかった責任」という形をとって出現する。 すなわち、「責任」という語はとりわけて 「告発」の脈絡で出てくることばなのだ。
責任の概念を告発および それに対する言い訳の中に分析したのが、 オースティンの 「言い訳への抗弁」 [Austin 1979a]と 「インクの三つのこぼし方」 [Austin 1979b]とで ある。 さらに、 オースティンの盟友ハートの 行為に関する論文 [Hart 1951]、 そしてハートの議論の続編とでも 言うべきファインバーグの論文 [Feinberg 1968]を 辿りながら「責任」の概念を 分析するための道具立てを整えていきたい。
この章の一つの目的は、 責任という観念からできるだけ 「意図」という(取り扱いに困難な)観念を 除去していこう、というものである。 責任という概念を意図のあるなしから見るのではなく、 ある種の記述の特徴として分析していきたいのである。
ハートは1951年の論文「責任の帰属と権利」 ( [hart-78], Hart 1951)において、 すべての行為記述は単に記述的 (descriptive) なのではなく、 そこに記述されている行為の行為者に対して 責任を帰属させる、すなわち「帰属的」 (ascriptive) であると主張した。
このハートの議論を受けてファインバーグは、 記述には責任という面から見て、 二つの種類の行為記述があることを、 法廷用語である「無効化」(defeasibility) という 語を使って、示した。 弁護側がその記述による告発を打倒 (defeat) する、 あるいは無効化することができる(defeasible な)告発記述 と、 打倒あるいは無効化できない (non-defeasible な) 告発との、 二種類である。
弁護しなければならないような 欠陥行為記述として 「彼は窓ガラスを割った」と 「彼は約束を破った」という二つの記述を考えてみよう [99: Feinberg 1968]。 「窓ガラスを割った」行為を弁護するために、 「そうするつもりじゃなかったんだ」という 言い訳があり得る。 しかしながら、そのような言い訳が通ったとしても、 「彼が窓ガラスを割った」という記述自身は とりさげられる(無効化される)ことはない。 理由はともあれ、彼は窓ガラスを割っているのである。 しかし、 「約束を破った」 行為を弁護するための 「彼はそうするつもりではなかった」という 言い訳が通った場合には、 この告発は取り下げられねばならない--- なぜなら「まちがって約束を破る」ことは あり得ないからだ。 もしその言い訳が通れば、 もはや「彼は約束を破った」わけではないのである。 告発は無効化 (defeat) されたのだ。 「窓ガラスを割った」は無効化不可能で、 「約束を破った」は無効化可能な告発/記述なのである。
ファインバーグの理論を冒頭の「困惑」に 繋げるためには、 行為だけでなく、 「不慮の死」や「不治の病」などの、 行為以外をも含めるように 拡大させなければいけない。 手始めに性格にまで議論を拡大していこう。
漫画 『ちびまる子ちゃん』の第14巻 [さくら 2003]に 「藤木のひきょうを直す会」という 物語がある。
物語はまる子ちゃんの小学校のクラスを 舞台に展開される。 藤木くんが、永沢くんに次のように非難されるところから 漫画は始まる── 「きのう小杉君が転んだとき/キミは "先生を呼んでくる"と言って逃げただろ」と。 この告発に対して藤木くんは言う── 「ちがうっ/逃げたわけじゃないよ/ 本当に先生を呼びに行ったんだ」 「だって戻ってこなかったじゃないか / 仕方ないからボクと山根君で 小杉君を運んで保険室まで連れていったんだぞ/ あの重い小杉君を」 「だって・・・先生がなかなか見つからなくて…」 「そんなの言い訳さ/ キミはすぐ言い逃れするところもひきょうだ」 さらに、まるちゃんが追い討ちをかける── 「そうだよ藤木はひきょうだよ」と。 「まえに墓場で肝だめしやったときも私をおいて逃げたじゃん」。
クラスメイトによる藤木くんに対する告発は、 いわば、二段階をなしている。 一つは欠陥行為 (faulty action) である「逃げた」という告発、 そしてもう一つは、 欠陥性格である「ひきょう」という告発である。
物語の中では、 弱気の藤木くんは、強気の永沢くんに言い負けてしまう。 しかしよく考えてみれば、 「先生を呼びにいったんだ」という藤木くんの反論は、 じつは、 立派な言い訳、「そうするつもりじゃなかった」、 である。 「そうか、それなら仕方がないな」と 永沢くんが納得する、という風に物語が続いても おかしなところはどこにもない。 この想像上のバージョンでは、 「逃げた」という告発はとりさげられる (無効化される)。 そして、 藤木くんに対する ひきょう者のラベルもまた とりさげられる(無効化される)ことになるのだ。
すなわち、 性格にも無効化可能なものとそうでないものが あることになる。 「ひきょう」は無効化可能な性格なのだ。
もう少し物語を追ってみよう。 まるちゃんによるさらなる藤木くんへの非難がある: 「墓場でわたじをおいて逃げたじゃん」。 藤木くんはそれに けっきょく何も答えられなかった。 こころみに、藤木くんが「こわかったんだよ」と 言い訳する場面を考えてみよう── 『ちびまる子ちゃん』の中で強調される藤木くんのもう一つの性格は 「小心者」である。 この藤木くんの言い訳は通用する言い訳であろうか? 言い換えれば、ひきょう者は言い訳を必要とするが、 小心者は言い訳を必要としないのだろうか?
この想像上の藤木くんの作戦は、 「小心者」を引き受ける代わりに、 「ひきょう者」を返上しようというのだ。 「不利な状況においてなされる通常の弁解は、 われわれを大難から小難へと救い出すだけである」 [181: Austin 1991]。 これはつらい作戦だが、 言い訳としては筋が通っている。 すなわち、 「ひきょう」という性格づけに基づく告発は言い訳を必要とするが、 「小心者」という性格づけは、 望ましくない性格(欠陥性格)ではあるが、 道徳的にわるい、 すなわち、言い訳を必要とするものではないのである。 「ひきょう」は無効化可能だが、 「小心者」は無効化不可能なのである。 「ひきょう」は告発だが、 「小心者」は悪口に過ぎないのだ。 「小心者」は、たとえば、 「ちび」という悪口に比することができるだろう。
じっさい、ファインバーグもそのように議論をする。 彼が最初に挙げる例は「卵が腐っている」 「タイヤがパンクしている」という記述である。 モノの持つそれらの属性は無効化不可能である、と 彼は言う。 言い訳はあるだろう(「冷蔵庫の外で ながい間放置されていたのだ」)。 しかしその言い訳によって欠陥属性(腐っている)が 取り下げられるわけではないのだ。 同じように、 「障害がある」「病気だ」 「醜い」「愚かな」「無知な」は、無効化不可能な性質 である、と彼はいう。 そしてファインバーグのこのリストに 「小心者」を加えることができるだろう。 それらの告発に対して、 説明・言い訳はできるが、 それによってその記述をなしにする(無効化する)こと はできないのである。 すなわち、これらの告発に対して 無効化するような弁護は成立しないのである。 これらは無効化不可能な性質である。 正確に言えば、 それらは告発ではなく、悪口に過ぎない。 それに対して、 「邪悪な」「残酷な」「怠惰な」 (そして「ひきょうな」)という告発は無効化可能である。 これらの性質をつかった告発に対しては、 説明してそれをなしにする (無効化する)ことが可能なのである [98: Feinberg 1968]。 弁護がじゅうぶん説得的であれば、 「邪悪な」「残酷な」「怠惰な」そして 「ひきょうな」という告発は取り下げなければならない。 これらは無効化可能な性質なのだ。
無効化可能性の語を使って ロールズの議論を表現すれば、 人は無効化不可能な性格・属性をもって 差別してはならない、となろう。 理想の社会において 「ひきょう者」は差別の対象になってもかまわないが、 「小心者」は、「ちび」や「醜い」同様に、 あるいは「女性」や「肌の色の黒い者」同様に、 差別の対象にしてはならないものである。
冒頭の困惑の原因は より明瞭に書くことができる。 すなわち、 困惑は、 わたしたちのもっている 無効化可能とそうでない行為・性格・属性の 境界線と、 エンデの境界線の不一致によっているのだ、と。
最後の章では、 この「境界線」の問題にはいっていきたい。 じつは、 わたしたちの中でも 境界線は一定不変のものではない、ということを 指摘することから論を始めたい。
さきほどのファインバーグの挙げた 例をみて、 社会学者・人類学者は次のように考えるだろう: 「ちょっと待て。 『障害』は社会的に構築されたものだ。 決してタイヤがパンクしている状態や、 卵が腐っている状態といっしょにすべきではない」と。
ひとつの単純きわまりない事実の指摘から始めたい。 もしすべての人が 「『障害』は構築されたものだ」と主張したとたん、 その主張は成立しなくなる、という事実だ。 「障害は構築されている」と外側から言えるのは、 「障害が事実だ」と 内側から主張されている状態があってはじめて可能である。 ようするに社会学者が「あるモノが構築されている」と 言うのは、 内側から「それが事実だ」と 見なされていることと同等であるのだ。 そして、私の分析は内側からの視点に基づくものである。
問題は、 「いったい何の内側なのか」ということだろう。 それを明晰に 示すのが残りの部分を使ってわたしが行ないたい ことである。
『ちびまる子ちゃん』に戻ろう。 まる子ちゃんのクラスメイトに 小杉くんという男の子がいる。 さきほどのエピソードの中のセリフでわかるように、 彼はでぶだ。 「でぶ」というのは (たとえば「ちび」同様に) ある時代までは悪口に過ぎなかった。 無効化不可能な属性だったのである。 じっさい小杉くんは「でぶである」ことを さして気にしている様子はない。 まる子ちゃんもまた「ちびである」ことを 気にしてはいない。
ところが、現在、 「でぶ」は無効化可能な属性となっている。 ある人を「でぶ」と呼ぶのは悪口ではなく、 告発なのである。 「身長は自分ではどうしようもない」が、 「体重は自分でなんとかなる」というわけである。 「でぶの差別」は 「自分の体重さえ自分でコントロールできない人間に、 組織をコントロールする 重要な地位を与えるわけにはいかない」という 基礎づけをもっている。 ロールズ風に言えば、 ちびであることでの差別は許されないが、 でぶであることでの差別は許されるのである。
「謀殺」(murder) は、 無効化可能とそうでない記述を分けるのに 最適な例である。 じっさいファインバーグも謀殺を例にして 説明している。 「謀殺」という告発に対して、 もっともよく採用される弁護は、 「被告は殺すつもりはなかった」という ものである。 その弁護がうまくゆけば、 謀殺の告発は取り下げられる(無効化される)だろう。 「謀殺」は無効化可能な行為なのである。 もちろん、「人を殺した」という 事実(manslaughter)が変わるわけではない。 それは無効化不可能な行為である。
謀殺に対して、オースティンは まったく別の種類の弁護を提案する。 それは「戦争だったのだ」という弁護である [279--280: Austin 1978am4_dnl ]。 このような種類の弁護を、 彼は言い訳 (excuses) とは区別して 「正当化」と呼ぶ。 正当化の別例として、 オースティンはさらに、 嘘の例を挙げる。 嘘を、「その情報が虚偽であることを知らなかった」と 弁ずれば言い訳となり、 「友人を匿うために、殺人者に嘘を言ったのだ」と弁護すれば、 正当化となる、と言うのだ。
正当化と言い訳の区別は、 無効化可能性と不可能性の区別とは違うレベルだという ことを強調しておきたい。 無効化可能性の議論は言い訳の分類だが、 正当化は、言い訳とは違うタイプの弁護なのである。 言い訳は謀殺を無効化しようとする試みだが、 正当化は謀殺という告発/記述を認めるのだ。 弁護者は、その上で、その行為の正当化を行なうことになる。
「謀殺」のこのような正当化は、 「謀殺」を成り立たせる生活世界の外 (戦闘状況)に人がいることを根拠とする。 正当化は、言わば、既存の体制、ゲーム、の 相対化をするものなのだ。 野球にのめりこんでいる人に 野球の外に世界が(生活世界)があることを指摘すること、 野球を相対化することは、 たいしたことではない様に聞こえるかもしれない。 たしかに、「謀殺」の正当化で根拠とされる戦闘状況は、 いわば、野球のようなものだろう。 人は野球をし、 そして野球をやめる。 生活世界に帰っていく。 同じように、 人は戦争に参加し、戦争から出る。 生活世界に帰っていくのである。 これは、おそらく 「たいしたことはない」ことかもしれない。 しかし、「嘘をつく」ことの正当化は、 上記二つの例でわたしたちが最後の基盤としていた、 帰っていく先である生活世界、 それ自身を相対化している。 生活世界の他に別の世界があることを示唆している のである。
正当化に関する上の議論には 二つのポイントがある。 第一のポイントは、 正当化という方法で弁護をしうる告発記述は、 暗黙のうちにゲームを想定している、ということである。 正当化は、「その外」に立つのであるから。 もう一つは、 告発に対する正当化という弁護は、 体制の批判の (われわれがのめりこんでいるゲームの相対化の) 契機を含んでいる、という点である。
ハックルベリーフィンが 「祈りで嘘をついてはいけないんだ」と 悟る、感動的な場面について、 ウインチは次のように言う: 「『嘘のお祈りはできないぞ』と言ったときにハック が見てとったのは分析的な真理であるし、 あるいはそれは、祈祷とは何であるかを教えられた 昔に彼が習っていたものであったかもしれない。 しかし「祈祷」という語をそのように用いる眼目となると、 彼の人生がいまはじめて、 これを彼に理解できるようにしてくれる問題を・・・ 彼に突きつけているのである。」 [ウインチ 1987] 祈りをそのように考えることによって、 言わば、ハックは新しい世界を創造したのである。 同じように「嘘」の正当化は 嘘の新しい意味の発見であり、 弁護者はその意味に基づく新しい世界を作りあげているのである。 言い換えれば、 嘘の正当化は、 そのような 新しい世界の中だけで意味をもつのである。 その正当化を受け入れるとは、 その新しい世界を受け入れることなのである。
ひるがえって「でぶ」について 考えてみよう。 タイムトリップをして現代にやって来た 50年前の人間に、 現在の肥満についての考え方を説明するSF的 状況を考えてみよう。 わたしたちは、 「自己管理」や「リスク」その他のさまざまなことばを 使って、 肥満というものが無効化可能な属性であることを 彼女に説得しようとするだろう。 もし彼女が納得することになったならば、 50年前の世界に帰った彼女は、 その世界が物理的に(タイムトリップの前と) なにも変わっていないにもかかわらず、 その同じ世界を まったく新しい世界として見ることになる。 彼女は、その世界を 「自己管理」などの新しい言葉の 網の目の中で再認識することになるのだ。
「でぶ」や「嘘」の例を通して わたしが言いたいのは、 無効化可能な記述(告発)と そうでない記述の区分は、 ある一つの体系を背景にしている、ということである。 すなわち無効化可能性と不可能性の境界線は、 ある一つの全体論的な体系を背景として、 はじめて理解可能なのだ、ということである。 全体論的な体系をゲームと言おう。 この節の冒頭の疑問、「何の内側なのか?」に 対する答えは明かであろう--- 「ゲームの内側」なのだ。
当論文の出発点である「困惑」に戻ろう。 エンデの天罰にまつわる困惑である。 そこでは「不治の病にかかる」とか 「不慮の死をとげる」という、 いかにも天罰らしい現象と いっしょになって、 「盗みをする」とか「不倫をする」という (天罰にふさわしくない)行為が列挙されていた。 困惑は、 これを「意図」の普遍性にかかわる問題と見たのである。 当論文では、 それが無効化可能性と不可能性の境界線にかかわる 問題であることを示した。 そして、それは (正当化の議論を通して)新しいゲームの問題なのであ ることを示したのである。
いまだ書かれていないこの論文の続編では、 これらの(一見困惑をまねくような)境界線の引き方が、 じつはエンデの文化の中では納得のいくものであることを 示すこととなろう。 それが人類学の使命である可能な世界の提示へと、 そして、 わたしたちの生きている世界の相対化へと 繋がれば、と願っている。
それぞれの研究会においてコメントを していただいた方、 とりわけ2008年の学会で座長をしていただき、 その上にさまざまなコメントをしていただいた 濱本満さんに、感謝したい。
Adultery and Obesity --- An Anthropological Essay on Responsibility
Satoshi Nakagawa
This paper is meant to be a first part of two part essay about the concept of responsibility in relation with that of a person.
Among the Ende, a people in Flores, eastern Indonesia, it is believed that one will suffer various consequences if one transgresses taboos imposed upon participants during certain rituals. The list is long: (1) one will suffer an incurable wound, (2) one will die a bad death, (3) one will steal things, (4) one will have some adulterous relations, and so forth. For us, (1) and (2) as punishments make sense; while it causes some perplexities when we find (3) and (4) are put in the list along with (1) and (2).
The perplexities are due to our concepts of responsibility and willful acts. (3) and (4) are, for us, willful acts and, therefore, the responsibility is upon the actors.
This paper deals with this perplexity of "ours", aiming to analyze "our" ideas of responsibility and actions, based on the arguments by the everyday language philosophers such as Austin, Hart and Feinberg.
The distinction between (1) and (2) on the one hand and (3) and (4) on the other is, I argue, founded on the distinction of descriptions: defeasible ones and non-defeasible ones (Feinberg).
By showing that the distinction is not fixed in our society (using an example of obesity), I conclude that the distinction is meaningful only in so far as we understand the underlying worldview.
[1] 「原因」の語は、ここでは もっとも広い意味で使う。 [Back]
[2] 「からっぽの人格」に関する批判、および その代替案について詳しくは [中川 2002]を参照してほしい。 [Back]
[3] 以下、あきらかなように 「わたしたち」という言葉で、 わたしは日本のみならず、 西洋近代をも指している。 そのような範囲の設定が、 不自然に思えない限り、 この論文では「わたしたち」の範囲を問題には しない。 [Back]
[4] ロールズの議論へのさまざまな批判は、 責任について考える上で重要である。 紙幅の関係でこの論文では触れない。 オリジナルな発表では それらの反論について詳述しているので、 ウェブ (http://www.merapano.net/~satoshi/anthrop/works/paper-2/defeasibility.html) を参照していただきたい。 [Back]
[5] とりあえず「責任」の普遍性を前提として考えてい る。 ただし [146: Rosald 1984]には イロンゴットには「責任」の観念がない、と読める 記述がある。 [Back]