よろめきの美徳

存在論と環世界

Satoshi Nakagawa

2026-01-11

1 要旨(1500字)

節子は倉越の家に嫁ぎながら、土屋との密会を重ねる。三島由紀夫はこの状況を「よろめき」と呼んだ(『美徳のよろめき』)。今回の発表で焦点をあてたい現象はこの「よろめき」である。それは「ためらい」から始まり「のめりこみ」に至るプロセスである。不治の病をなおすという宗教へのちょっとだけの参加、これが「ためらい」である。たいていの人々はこれらの「ためらい」の状況から、またもとの状況へと戻るだろう。しかし「ためらい」から「のめりこみ」/「狂信」の間は思った以上にせまい。「ちょっとだけ」がいつの間にか「狂信」へと変わっていくこともあるのだ。(『信念の呪縛』(浜本 2014))聴くだに馬鹿ばかしい QAnon の物語(世界を支配するペドフィルたちによる闇の世界政府、そしてその地獄からわれわれを救う救世主トランプ)を、高学歴の、根っからの民主党支持者が信じこむことも (The Quiet Damage (Cook 2024) ) ある。この論考は、よろめき(「ためらい」と「のめりこみ」の間の運動)、とりわけ QAnon を筆頭とする陰謀論を信じるに至るメカニズムを探る。(前回の「いじめ」発表でも述べたように、わたしが探るのは論理的な説明であり、社会学的あるいは心理学的な説明ではないことを強調しておきたい。)さて、ひるがえって、我が身を見よう。じつは人類学者の置かれた状況こそがよろめきなのである。倉越家に相当するのが「自文化」であり、土屋に相当するのが「異文化」である。人類学者は節子のごとく自文化と異文化の間をよろめくのだ。私自身これまで人類学のもつ、この特異な立ち位置、そしてそれを支える「複相把握」について議論を重ねてきた。この発表では、「複相把握」議論からいったん離れ、「よろめき」に関連する限りでの哲学者デネットによる議論を紹介したい。議論に導入するのはデネットの存在論(「日常的イメージ」)と、彼の人類学観(「ヘテロ現象学」)である。

デネットの存在論の核となるのはセラーズによる「日常的イメージ」(manifest image) という考え方である。デネットは「日常的イメージ」を「日常生活において私たちに見えるがままの世界」と説明する。それは「ドアやカップ」「ホームラン」や「約束」などである。彼は「それはユクスキュルの『環世界』 Umwelt とほぼ同じである」と宣言する。エンデ人の日常的イメージには、贈与交換にもとづいた母方交叉イトコ婚とか、「ニトゥ」(精霊)、「アタ・ポゾ」(妖術師)などが属することとなろう。デネットによる、より直接的に人類学(人類学者の営み)に焦点をあてた議論は、「ヘテロ現象学」をめぐる彼の議論である。デネットの言う「現象学」とは、一人称視点からの「自分」の心の中の記述、そして分析である。それを三人視点から行なうのが「ヘテロ現象学」である。そして、「ヘテロ現象学」こそが人類学者の行なっていることである、とデネットは宣言する。人類学者は、判断を控え、たんたんと現地の人々の記述(「妖術師が人を殺した」「精霊の怒りが不作をもたらした」等々)を記述していくのだ。それはフィクションの読者のやっていることと同様だと彼はいう。人類学者のやっていることは、シャーロキアンのやっていることと同じなのである。以上のデネットの記述を読む時、人はいくつもの疑問にとらわれるだろう。ここでは、一つだけとりあげる。デネットの描くような外から安全な距離をおいて、たんたんと(「いちぬけた」状態で)「現地の人」の「オート現象学」を三人称の視点から記述するのが、ほんとうに人類学者のやっていることなのだろうか?人類学からの一つの答えは、ファヴレ・サーダの描くような (Deadly Words) 「捕えれられている」(caught/pris) 、「実存の危機」とも呼ぶべき状況(「のめりこみ」)を呼びだすことである。デネットの描く人類学者も、ファヴレ・サーダの描く人類学者もともに「よろめき」を経験している。しかし、二つは対照的な姿勢である。さらに、その二つと QAnon 信者による「オート現象学」の間にも食い違いがある。これらの問題に対処すべく、もう一度「複相把握」の議論を(デネットの議論を踏まえて)復活させて、「よろめき」の全体像を描いていきたい。