よろめきの美徳

あるいは信念の進化論
(CC-BY-NC-ND 4.0)

Satoshi Nakagawa

2026-05-29

この真摯(しんし)、この誠実には
どこかしらに遊びの調子があった。
浅瀬で遊ぶのに飽きた心が、
深みで遊びはじめた趣きがあった。
* * *
『美徳のよろめき』(三島由紀夫)

はじめに

この論文の第一の目的は、前回の発表、「いじめの誘惑」 (中川 2025) を 私のこれまでの議論( (中川 2015)、 (中川 2016)、そして (中川 2017) など)の文脈の中に埋め込むことである。 そうすることで、「いじめの誘惑」論文はあたらしい側面を私たちに示すこととなる。 第二の目的は、今度は「いじめの誘惑」論文によって、私のこれまでの議論を見なおすことである。 そうすることで、これまでの私の議論は、「信念の進化論」として捉えなおすことができるようになる。

この論文は、(1)私のこれまでの議論を(信念の進化論という新しい枠組の中で)整理し、(2)進化の段階の最後に「いじめ」を据え置く、という形をとる。信念の進化論の中で、「いじめ」は信念の反転の一種として捉え直されることとなる。

前回の発表、「いじめの誘惑」は〈遊びに紛らわしたいじめ〉 (菅野 1986: 16)を対象とした。そのようないじめのポイントは、それが冗談なのか、本気なのか、誰にも分からないという点だ。今回の発表でとりあつかう「信念の反転」とは改宗などに見られる、ある人間に起きる世界観の転換のことを指すことばとして使う。この二つの現象(遊びに紛らわしたいじめと世界観の転換)に共通点がある、というのがこの論文の一つの到達点である。

前回の発表「いじめの誘惑」を簡単に復習しておこう。その論文で取り扱ったのは、冗談、あるいは〈遊びに紛らわしたいじめ〉 (菅野 1986: 16) である。題材としたのは「鹿川くん事件」 (別役 2005)である。とりわけ別役が注目した「お葬式ごっこ」を、私なりに再解釈した。 ポイントは参加者たち(同級生、鹿川くん、そして先生)にとって、「お葬式ごっこ」が「本気」なのか、それとも「冗談」なのかが分からないという点である。その点で「お葬式ごっこ」はトランプの冗談に通じるものがあることを、当該の論文で指摘した。とりわけグリーンランドに関する発言は、冗談なのか本気なのかがいまだに取り沙汰されている。トランプの冗談もまた、それが冗談なのか、本気なのかが分からない言明である。

1 信念がない

この論文は信念の進化を辿りながら、最終的に信念の反転、すなわち、人が世界観を変えること、とはどのようなものかという問いに答えることだ。

この章は信念の進化の出発点、信念がない時代について扱う。

この論文では、信念のない世界の具体的事例として自閉症の事例を見ていきたい。なお、この章で、私はウィトゲンシュタイン (Wittgenstein 1961) の「独我論」、とりわけ野矢によるその解説を、あたかも自閉症の解説のようにして引用する。村上 (村上 2008) が言うように、自閉症は「独我論が経験的に現出」 (p. 159) したものであるからだ。1

1.1 信念のない世界

人が信念をもたないとは、具体的にどのような状況なのかを示したい。 ウサギアヒルの図をだそう。 この図を前にして、「これはウサギだ」という発話だけで構成されている世界、 それが信念のない世界である。

「これはウサギだ」と語る話者は、彼にはウサギに見える(他の人にはそうではないかもしれない)という可能性などを考えてもいない。「これはウサギだ」は端的に真理なのである。信念のない世界とは、言い換えれば、真理だけの世界なのである。

これはウサギだ

1.2 世界と私は渾然一体である

このような信念のない世界とは、自閉症児の生きる世界である。 それを示していきたい。

自閉症児の世界は(その名前の示すように)他者がいない世界である。しかし、もっと大事なことは、野矢の言うように、そこには私さえいないということである。世界の中に私がいるのではなく、私こそが世界なのだ。私が世界なのだから、世界には視点は存在しない。私の「見え」(相、アスペクト)は、そのまま、存在にほかならない。 私は「私にはウサギが見える」とは言わない。私は「私は『これはウサギだ』と信じる」とは言わない。私は、「これはウサギだ」と言うだけなのだ。私はしずかに「これはウサギだ」と言う。その時、「世界は自分の皮膚に密着して」 (大森 1994: 32) いる。 私が世界の中にいるのではない。世界は私であり、私は世界そのものである。野矢 (野矢 1995) はこの完全調和の状況、世界と私が一体となった状況を「単相状態」という。見え(アスペクト、相)は一つなのであるから、見えは即真理となる。

村上によれば、私たち(定型発達児)の把握する空間にはそこら中に影がある — 「カーテンの向こう側には、何かモノがあるが、それは見えない」と私たちは考えている。私たちの世界にはあちこちに見えない部分、欠損の部分があるのだ。私たちの世界は多くの見え(視点)を想定している、「私に見えないものも、他者の視点からは見えているだろう」と。

それに対して、自閉症児の把握する空間には欠損の感覚が欠けている。自閉症児の世界には影の部分がないのである。ある自閉症児の手記を引きながら村上は言う、「ガーランド[自閉症児] にとって見えないものは端的に存在しない」と (村上 2008: 88) 。カーテンの向こう側は世界に属していないのである。同じように、幼児もまた隠れたモノには興味を示さないという (ピアジェ 1968: 22)。

もう一つ自閉症児の世界の特徴がある。彼らの世界には虚構(ごっこ、ふり、遊び)の世界が存在しない。彼らは、博物館には(もはや走っていない)京都の市電が「走っている」ことを理解できない (玉井 1983: 111)。博物館は、いわば、現実世界の中にある虚構の世界である。彼らにはその「二重構造」(玉井)が理解できないのだ。 彼らはごっこができない。石をケーキとしているままごと遊びのなかで、彼らは石を食べてしまうのだ (村上 2008: 111)。このような状況から、村上は、自閉症児は「知覚的空想」 (村上 2008: 147) (虚構の世界)を理解しないと結論する。自閉症児の世界には、虚構も、空想も、非現実も存在しない。彼らの世界はのっぺらぼうの純粋な実在論の世界なのである。

以上が「信念のない」世界、自閉症児の世界である。そこには他者がいない、そこには視点が存在しない。その世界の「私」に「信じる」必要はない。「私」にとっての見え(相)は全て真実だからだ。

2 信念が生まれる

この章では信念が生まれる様を記述する。きっかけは他者がそこにいることへの気づきである。 世界の中に(私には理解できない)他者があらわれる。 それはちょうど自閉症児が裏側(欠損)の存在を認めるのと同じである。 私が他者を私の世界の欠損として認めるとき、すべてが変わり、信念が生まれるのだ。

私は「信念は他者についての信念から始まる」と主張しているのだ。「我」があるためには、まず、「信じる他者」がいなければいけないのである。かっこうよく言えば「彼思う、故に我あり」 (Cogitat, ergo sum) というわけだ。

2.1 他者があらわれる

ここからはかっこうわるく、地に足をつけて、議論を辿っていこう。 「他者があらわれる」というのは 具体的には、どういうことを言うのだろうか。 「ウサギ・アヒルの図」を使いながら、他者があらわれる物語を見ていこう。

ウサギ・アヒルの図

人 (S) が「あれはウサギだ」と言うという状況は、 S が信念を持つ状況ではないと言った。「S が信念をもっている」と言えるのは、 S が「私は『あれはウサギだ』と信じている」と発話している時である。この発話はいささかぎこちなく響くかもしれない。いったいどんな状況で、ある主体 S が「私は『あれはウサギだ』と信じている」という、 *- わざとらしい発話を行なうというのだろうか?

以下、そのシナリオを示す。単相状況を復習することから始めたい。単相状態の中では、 S は世界そのものであり、 S の発話「これはウサギだ」は間違いようのない命題、すなわち真理である。単相状態にある話者は、他者がいることに気づかないのだ。

「他者のいない世界」

信念の誕生は、Sが「他者がいる」ことに気づく時はじまる。それは、自閉症であったガーランドがはじめてモノの裏側にも世界があることに気づいたのと同じ驚き (ガーランド 2000) をもたらすであろう。ガーランドは言う、「私は、「向こう側」と「内部」を発見したのだ。それはまさに大発見だった。歓喜と悲嘆が半々、本当に息をのむような驚きだった」 (ガーランド 2000: 106)と。ガーランドが見えない裏側を発見したように、Sは理解できない他者を発見するのだ。

他者があらわれる

ガーランドが裏側を「見えない部分」として自分の世界に組み込んだように、Sは他者を分からないモノとして自分の世界に組み込む。彼は他者を括弧に括るのである。Sは言う、「彼は『これはアヒルだ』と信じている」と。

他者を括弧に括る

S の世界は単相であることを止める。「ウサギ」は存在ではなく、見え(「相」)でしかなったことに、彼は気づく。世界は単相(ひとつだけの見え、存在)ではなく、複相状態(いくつもの見え)からなることに気づくのである。 完璧であった S の世界に他者という形で穴があく、欠損が生まれる。彼は理解できない他者を発見したのだ。「私」と世界の間にひびがはいる。私が世界である状況は終わり、私は、世界の中の私となる。ちょうど他者が世界の中にいるように。

Sの世界は、単相から複相に移る。他者は「これはアヒルだ」と信じている。「他者が信じるのだから、私も信じているのだろう」そして、私は「私は「これはウサギだ」と信じている」と言う。「私」が誕生した瞬間である。 Cogitat, ergo sum

「私」が生まれる

2.2 地と図

この節では、視覚的な譬えで単相から複相への進化を示したい。 地と図である。

単相状態の世界は、いわば、地(自分からの見え)だけの世界であった。それは影のない、のっぺらぼうの世界である。それに対して、複相状態の世界は、地(自分の見え)と図(他者の見え)の世界なのだ。私たちは、常に複相に、すなわち「分からない者」としての他者に囲まれて生きているのだ。

地だけの世界
地と図の世界

この状況は、まさに、民族誌家がフィールドで経験する状況である。彼は地としての自文化の上に、図(影、わからないもの)としての異文化を見るのである。 (中川 2015)、 (中川 2016)。

3 信念が反転する

この章では、信念は反転することとなる。 地と図が反転するのである。 前章で描いたのは、「私」が地で、「他者」が図となる状況であった。 この章で扱うのは地と図が反転する状況、他者が地で「私」が図となるような状況である。

このようにして世界観が変貌するのだ。

私の視点では「私」が地であり、「他者」がその中に浮かび上がる図である。私が「反転」として経験するだろうものとは、「他者」を地として、その中に「私」が浮かびあがる図である。これはまさに、他者の視点に他ならない。 信念が反転するとは、私が他者の視点に囚われる状況のことである。濱本ならば、この状況を私が他者の信念に呪縛されたと呼ぶであろう (浜本 2014)。

3.1 民族誌家の見果てぬ夢

「信念の反転」は、民族誌家がフィールドワークで経験するものかもしれない。 フィールドワークを開始した時は、自文化が地であり、異文化が図であるという状況であろう。 もしかしたら、私たち(民族誌家)は、異文化を地にするほどに、フィールドに埋没しているのではないだろうか? 少なくとも、民族誌家である私たち人類学者はそうであるのではと期待している。

果たしてそうなのだろうか?

「文化」について語る前に、「ゲーム」について語ろう。かつて私は『言語ゲームが世界を創る』 (中川 2009) において、ゲーム(例えば野球)への二つの構え(スタンス)を対照させたことがある。二つの構えとは「一抜ける」と「のめりこむ」である。 一抜ける構えとは、野球の外側から、冷静に野球の規則の不自然さを指摘するような構えである。のめりこむとは、野球の内側から、規則をあたかも自然の規則のように感じる構えである。「一抜ける」構えにおいて、生活世界が地であり、ゲームは図である。それに対して「のめりこむ」の図式においては、ゲームそのものが地になっている。そんな風に書いた。これが反転のイメージである。この議論によれば、私たちはいとも簡単に反転を経験することになる。

私は、今では、以上の「一抜ける」と「のめりこむ」の議論は間違っていたと思っている。いくらゲームにのめりこんでも、私たちはゲームをそのものを自然の規則のようには感じてはいない。そこまでのめりこんでいる様に見えるのは、飽くまでプレーヤー側のふり (pretence)なのだ。私は、今、そのように考えている。これは、もちろん、理論的な話ではない。私の経験に基づいた議論をしているのだ。 いくらゲームにのめりこんでも信念の反転は起きない。飽くまで地は生活世界であり、ゲーム世界は図にとどまる。それでは、民族誌家によるフィールドワークはどうなのだろうか?

私の最初の東インドネシアのエンデでのフィールドワークは1979年から1981年までの2年間であった。慣れない山道をたどって町と村を往復し、焼畑に通い、農耕儀礼に参加した。誕生の場にも立ち会い、また死の場面にも立ちあった。そうして、エンデ(異文化)にはいって 1年が経った。 私が、日本(自文化)について考えなくなったわけではない。ただ、日本について考えるたびに不思議な感覚を覚えるようになったのだ。なぜか、「日本の日常」を考えるといつも、新宿東口の紀伊國屋書店に向かう横断歩道を渡る自分が出て来るのだ。そして、その日本で日常であった事が、とてつもなく非現実的なてざわりを持つのに、自分でびっくりした。 思い出がテレビの画面のようなのだ。あと1年もすれば、その場所に自分がいる筈なのだが、それでも新宿三丁目は夢物語のように見えるのだ。果たして、わたしは地と図の反転を経験したのだろうか?

フィールドワークでは地(自文化)と図(異文化)が反転する、民族誌家は異文化をわがものとして生きる、という物語はとてもロマンチックであり、私たち人類学者はついついその考え方に魅きつけられてしまう。エヴァンス=プリチャードはその様な考え方をいましめる。彼の 10ページほどのエッセイ、「フィールドワークについての回想と反省」 (Evans-Pritchard 1973) を見てみよう。 彼はフィールドにおいて、現地の人のやっている事、たとえば牛を飼うこと、小屋をたてること、土器をつくること、猟にいくことなどを、彼らといっしょに行なった。

しかし、たとえ彼が神託を仰ぎ、そのとおりにしても、現地の人にはそれが「みせかけ (pretence) 」だということが分かるのだ、と彼は言う (p. 4)。 エヴァンス=プリチャードは断言する、「人は真の意味でザンデ族やヌエル族、あるいはベドウィン・アラブ人になることはできない」 (p. 4)と。民族誌家が「原住民になる」 (“go native”) ことはない。フィールドワークで地と図が反転することはないのである。民族誌家がたとえ「妖術に捉まえられ」 (Favret-Saada 1980) ようとも、ファヴレ・サーダに反転は起きていない。彼女の複相状況の地は、あくまで、自文化のままであるのだ。

以上、「のめりこむ」ことが「(地と図の)反転」と同じではないことを強調してきた。それでは、「のめりこむ」ことは、けっきょく「一抜ける」ことと同じなのであろうか?この二つには大きな違いがあると私は考える。 ファヴレ・サーダは、自分の民族誌と対比させる意味で、彼女のフィールド(ボカージュ)で以前おこなわれたジャーナリストの「調査」に触れている。ジャーナリストは面白おかしく、ボカージュの「ウィッチ信仰」について語る。

「軽信的」で「後進的」であり、「原因と結果」の概念に無頓着な農民たちは、自分たちの不運を、呪いをかけた隣人の嫉妬のせいだと責める。 彼らは「妖術師祓い師」(unwitcher) ・・・のもとを訪れ、その人物は「でたらめな」「別の時代から伝わった」とされる「秘密の」儀式を行うことで、想像上の敵から彼らを守ってくれる。 (Favret-Saada 1980: 3)

ファヴレ・サーダの民族誌は、あくまで「のめりこみ」(複相把握)であり、普通の民族誌家の構えと質的な違いはないと、私は言った。それでは、彼女の民族誌家としての構えは、彼女が馬鹿にするジャーナリストの構えと同じなのだろうか?後者は、あきらかに、「一抜けた」状況である。「のめりこむ」と「いちぬける」の決定的違いはあるのだろうか?

二つの違いは、「わからないもの」/影に対する構えにあると私は考える。ファヴレ・サーダは妖術をわかりたいと思って調査をしている。妖術信仰の断片、たとえば、妖術師は「力(フォース)」を持ち、それは握手によって伝染する、という民族誌的事実があったとしよう。彼女は何とかその断片を意味あるものにするべく努力する。 彼女は、たとえば、その断片の廻りをさまざまな文脈的情報で埋めていく。あるいは、言語学的な理論の中に断片を埋めこもうとする。いわば、無意味な断片から意味のある結晶を作り上げていくのだ。 それに対して、ジャーナリストにとっての妖術は「わからないもの」であるが、けっして「わかりたい」ものではないのだ。ジャーナリストは断片を断片のまま、聞き手に提示する。 ジャーナリストにとって、妖術は図にさえなっていないのである。ジャーナリストは複相状況にはいない。ジャーナリストの構えは「複相もどき」だが、実のところは単相のままなのだ。ファヴレ・サーダにとって妖術は図なのだが、ジャーナリストにとっての妖術は図もどきにすぎないのだ。

のめりこみといちぬける

3.2 「いじめの誘惑」

さて、私のこれまでの議論と「いじめの誘惑」 を結合させる時がきた。 「いじめの誘惑」論考で言うところの「いじめ」は冗談あるいは〈遊びに紛らわしたいじめ〉である。 「ポカリと殴っておいて 「冗談、冗談」」 (別役 2005 (1987): 70) といった類のいじめである。 鹿川くんが遭遇した(そして彼の自死のきっかけとなったと考えられている)「お葬式ごっこ」がまさにそれである。

鹿川くんは怪我をして、暫く学校を休んでいたという。数日ぶりに鹿川くんが登校する日に、鹿川くんの「お葬式」が行なわれたのである (別役 2005 (1987): 40)。 彼の机は教室の前に出され、彼の写真がそこに置かれていた。黒板にはさまざまな模様が描かれて、葬式の雰囲気をだしていた。さらに色紙が用意され、その真ん中に「さようなら鹿川くん」と書かれていた。まわりには「安らかに眠ってください」などの寄せ書きがあったという。その寄せ書きの中には先生によるものもあったという。 登校した鹿川くんは、この様子を見て、次のように言ったという。「何だ、これ!」「オレが来たら、こんなの飾ってやんの!」そして、数日後に鹿川くんは自殺をすることとなる。

この事件で一つスキャンダラスだったのは、この「お葬式ごっこ」に先生も参加した、という点だった。先生たちは言う:「『いじめ』ではなく、『いじりあい』だと思っていた」、「『じゃれあい』だと思っていた」と。「いじめ」(現実)ではなく、冗談(虚構)だと思っていたというのだ。 トランプの冗談もそのような構造をもっている。彼は言う、「カナダはアメリカの 51番目の州だ」と。「ベネズエラに手をだすなら、それは『侵攻』と呼ばれるだろうね」とか。もし、それを聞いて相手が怒りだしたならば、トランプは言うだろう、「冗談だよ」と。そして、しばしばその「冗談」は本気である。

「お葬式ごっこ」も「侵略ごっこ」も、冗談のように見えて、けっきょくは本気であったのだ。「いじめの誘惑」論文で、私は次のような「志向性の進化論」を提唱した。 コミュニケーションは実を実として伝える。嘘は虚を実として伝える。演劇は虚を虚として伝える。そうして、冗談は実を虚として伝える。

虚実
コミュニケーション 実を実として伝える
虚を実として伝える
演劇 虚を虚として伝える
冗談 実を虚として伝える

この表がある真実を伝えているのは確かだ。「お葬式ごっこ」は、〈いじめ〉という実を、〈ごっこ〉という虚の見掛けで伝えている。「ベネズエラ侵攻のおどし」は〈おどし〉という実を、〈冗談〉という虚の見掛けで伝えている。 問題は、それらは結果だけを示しているという点である。結果以上に重要なのは、プロセス、すなわち、観客たちが〈メッセージが虚なのか実なのか〉が分からないという点である。先生たちは、お葬式ごっこが〈いじめ〉であるのか、冗談なのか分からなかったのだ。〈お葬式ごっこ〉はある時は〈いじめ〉、ある時は冗談に見えるのだ。「いじめの誘惑」論文の最後に、私は次のように書いた:

ある出来事が、ある時は虚(虚構の中の出来事)と見え、一瞬の後には実(現実世界の中の出来事)と見える。 ・・・ いじめとは、このような虚実皮膜の往復運動なのである。いじめの中で、意味は常に反転しているのだ。

この結論は、さらに次のように言い替えことができる。いじめ(冗談)とは、図と地の往復運動なのだ、と。

虚実皮膜の往復運動

フィールドワークが反転には至らないまでも、それにきわめて近い状況にあることを示した。もう一度エヴァンス=プリチャードの論文 (1973)に戻ろう。「人類学者が “go native” になることはない」と断言したあと、彼はつぎのように言う、

おそらく、人 [民族誌家] は同時に二つの異なる思考の・・・世界に生きている、 と言う方が適切だろう。 人は、少なくとも一時的には、両方の世界から疎外された、 一種の二重の周縁人 {{(double marginal man)}} となるのである。 (Evans-Pritchard 1973: 3–4)

メルロ=ポンティ が言うように、「人はけっして同時に二つの世界に属するわけにはいかない」(1967: 219) 。私たちは、エヴァンス=プリチャードの言葉を次のように改変する必要がある。「人は二つの異なる思考の世界に生きて」いるのだ、と。「同時」ではない。 民族誌家は、ある時は自文化の世界に、そしてまたある時は異文化の世界に生きているのだ。そして、どちらからも疎外されているのである。

なぜ民族誌家は「両方の世界から疎外」されてしまうのか?なぜ、自文化あるいは異文化に安住できないのか、なぜなら、そのような状況(信念の反転)は不可能事だからなのだ。 信念の反転とは(落語の)「頭山(あたまやま)」状況であることを確認しておきたい。頭山の主人公(地)は、頭に池(図)が出来たことを悲観して、その池に身投げをして自殺してしまう。地の一部であった図が大元の地をのみこんでしまうのだ。信念の反転とは、同じように、図が地をのみこんでしまう状況である。頭山がナンセンスな不可能事であるように、信念の反転もまた、ほんらい、不可能事なのだ。

おわりに

この論文で目的としたのは信念の反転だった。 それもできれば QAnon を題材にして、分析を進めたかった。 残念ながら、どちらも中途半端に終わってしまった。

小学生を遠足に引率して道に迷った藤原先生(いしいひさいち)の名言がある、 「目的地に着くのではありません、 着いたところが目的地なのです」

私たちの着いた所、すなわち目的地は 信念の反転(図と地の反転)の一歩手前であった。 それは、冗談に紛らわしたいじめや、フィールドワークにあらわれる、 実(地)と虚(図)の間の往復運動なのだ。

それではまた来年
ウェブ原稿はここ (http です)

引用文献

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