よろめきの美徳

あるいは信念の進化論
(CC-BY-NC-ND 4.0)

Satoshi Nakagawa

2026-05-08

はじめに

この論文の第一の目的は、前回の発表、「いじめの誘惑」 (中川 2025) を私のこれまでの議論の文脈の中に埋め込むことである。 そうすることで、「いじめの誘惑」はあたらしい側面を私たちに示すこととなる。 第二の目的は、「いじめの誘惑」によってこれまでの議論を見なおすことである。 そうすることで、これまでの私の議論は、「信念の進化論」として捉えなおすことができるようになる。 論文自身は、信念の進化論という新しい枠組の中で、(1)私のこれまでの議論を整理し、(2)その最後に「いじめ」を据え置く、という形をとる。

信念の進化論の中で、「いじめ」は信念の反転として捉え直されることとなる。

簡単に前回の発表を思い出そう。その論文で取り扱ったのは、冗談にかこつけたいじめである。題材としたのは 1986年に起きて「いじめ」が注目されるきっかけとなった「鹿川くん事件」 (別役 2005)である。とりわけ別役が注目した「お葬式ごっこ」を、私なりに再解釈した。 ポイントは参加者たち(同級生、鹿川くん、そして先生)にとって、「お葬式ごっこ」が「本気」なのか、それとも「冗談」なのかが分からないという点である。その点で「お葬式ごっこ」はトランプの冗談に通じるものがあることを、指摘しておいた。 この事例を、ある文脈(私のこれまでの議論という文脈)に置くと、「信念の反転」になるのだ、というのが、この論文の結論である。次に、「信念の反転」という言葉で、私がどんな状況をイメージしているかを示しておこう。

信念の反転の良く知られた例は改宗という経験のなかにみられるであろう。改宗の経験者は、これまでの自分の信念(たとえば仏教)から、それとはまったく違った別の信念(たとえばキリスト教)という、信念の反転を経験するのだ。ここでは、より目を引く例を、近年のニュースからとりあげたい — QAnon 現象である。反ワクチン運動や、反 5G ネットワーク運動 1 をとおして、 QAnon を知る人は多いだろう。 ここでは最もおどろおどろしい、彼らの主張を挙げよう — 「世界の裏側にカバル (Cabal) と呼ばれる闇の政府が存在する。そこで、民主党のエリートやハリウッドの役者たちが世界の政治をあやつっているのだ。彼らエリートたちは幼児性愛者であり、悪魔崇拝の儀式を開催し、人を喰う。この堕落した世界を救うのが、われらがヒーロー、トランプだ」というのである。

「いったいどんな正気な人間がこのような陰謀論を信じるだろうか」とあなたは考えるかもしれない。いるとしても、学歴もたかくなく、収入が低い層に、限られた数の支持者がいるだけだと思うかもしれない。クックによるすぐれたルポルタージュ、『静かな損傷』 (Cook 2024) を読んでみよう。 その中には 4人の QAnon 信者の生活が詳細に描かれている。登場人物の一人、エミリは高学歴で、高収入、そして民主党支持の弁護士である。彼女は、夫の死がきっかけに、突然 QAnon の信者となるのだ。社会変革への熱心な支持者であったリベラルな考えをもつアリスが突然 QAnon へとかたむいていくというのだ。

どちらの例(冗談にかこつけたいじめ、そして陰謀論)にもトランプが顔を出している。これは偶然ではないと、私は思う。とは言え、この論文ではトランプ現象の論理的な解明は行なわない。2 冗談そして QAnon は飽くまで例としあつかいながら、「信念の反転」の論理構造について見ていきたいのだ。

最初の2つの章(「これまでのお話」)は、いわば、「10分で分かる中川の10年間」である。時間の制約ゆえ、しかたなく、語り方は天下り的になる。

なお、私は「信念をもつのはヒトだけだ」という前提にはたたない。ネズミやタンポポ、そして冷蔵庫でさえも信念を持つかもしれないと考える地点を出発点として考えてきた。今回の要約では、信念をもつ主語を基本的に人として(限られた文脈でサルも考慮にいれる)話を進めたい。

1 信念がない

この論文で取り組む問題は、人が世界観を変える、すなわち、信念の反転である。作戦として信念の進化論を辿ることで、信念とはどのようなものかを示していこうと思う。この章はその歴史の出発点、信念がない時代について扱う。それでは、信念をもたないシステムがどのようなものかを探っていこう。

1.1 信念のない世界

次の図を見てほしい。この図ではある人が、ある絵を見ながら「これはウサギだ」と言っている。この状況(「これはウサギだ」状況)では、人が信念をもっているとは言えない。「これはウサギだ」状況を「0次の志向性」と呼ぼう。3

0次の志向性

1.2 世界と私は渾然一体である

私はしずかに「これはウサギだ」と言う。「これはウサギだ」と言う時、「世界は自分の皮膚に密着して」 (大森 1994: 32) いる。私は世界の中には存在しない。世界は私であり、私は世界そのものである。野矢 (野矢 1995) はこの完全調和の状況、世界と私が一体となった状況を「単相状態」という。

野矢 (野矢 1995) が詳細に示すように、ウィトゲンシュタイン (Wittgenstein 1961) の展開する独我論は単相の世界である。そして、村上 (村上 2008) が言うように、自閉症は「独我論が経験的に現出」 (p. 159) したものである。さらに、デイヴィドソン (デイヴィドソン 1991) が描く(文化相対主義 の描く)「異文化(他者)があることに気づくことのできない」文化とは、まさに単相状況の一つの例である。4

自閉症を扱いながら、村上はそれを定型発達児の空間把握と比較する。私たちの把握する空間にはそこら中に穴があいている — そこにはあちこちに見えない部分、影の部分があるのだ。村上は書く (村上 2008: 90)

外的地平には「裏側には想像できな部分・下書きできないものが残る」という欠損の意識が伴っている。このわからない部分、欠損が残り続けない限り、裏側は裏側とはいえない。定型発達の空間構想において予測し得ない未来が残るのと同じである・・・。本来的な欠損性、死角が空間の地平性、奥行き感を支えている。裏側という構造の成立とともに、欠損という形で現実を囲い込み、規定することができる。

ところが、村上は言う、自閉症児の把握する空間には欠損の感覚が欠けているのである。そこには影の部分がないのである。そこには欠損(「ないもの」)がないのである。それはあるモノだけで出来ている世界なのだ。ウィトゲンシュタインは言う、「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」 (Wittgenstein 1961: 5.64) と。デイヴィドソンの描く「文化相対主義者」の文化は、その中の人びとが互いに 100 %理解しあう完全調和の世界である。しかし(あるいは「であるが故に」)「隣に異文化のある」ことに気づくことはない。

2 信念が生まれる

この章で、いよいよ信念が登場する。最初の場面はこうだ — 完全調和の状況に他者があらわれる。他者を他者として、すなわち理解できないもの、欠損として認めるとき、すべてが変わるのである。 そして、私が、他者を世界の中に認めたとき、私に信念が誕生するのである。 他者は世界の中に存在しながら、私の理解を越えている。 世界と私とが乖離しはじめるのだ。

私は「信念は他者についての信念から始まる」と主張する。 「我」があるためには、まず、「他者」がいなければいけない。 「他者あり、故に我あり」というわけだ。

さて、もう少し具体的に書いていこう。

2.1 他者があらわれる

S (あるシステム)が「あれはウサギだ」と言うという状況は、 S が信念を持つ状況ではないと言った。「S が信念をもっている」と言えるのは、 S が「私は『あれはウサギだ』と信じている」と発話している時である。これを 1次の志向性と呼ぼう。 1次の志向性の例として出したこの状況は、正直言って、いささかぎこちない。いったいどんな状況で、ある主体 S が「私は『あれはウサギだ』と信じている」という、わざとらしい内的発話を行なうというのだろうか?

1次の志向性

以下、そのシナリオを示そう。 0次の志向性、完全調和世界を復習しよう。 S は世界そのものであり、 S の発話「これはウサギだ」は間違いようのない命題である。

他者のいない世界(0次)

その完全調和の世界に他者があらわれるのだ。彼は「これはアヒルだ」と言う。

他者があらわれる(1次)

S は言う、「彼は『これはアヒルだ』と信じている」と。 S は、 S という世界から他者を括弧にくくった上で追放したのだ。

2次の志向性が生まれる時

自閉症の世界は

私が生まれる

自閉症でない人の世界には影が、見えないところが、わからないものがある。すなわち世界は「ないもの」に溢れているのだ。「分からないもの」の典型が他者であり、そして異文化である。

ないものがある状況こそが複相状況であり、ウィトゲンシュタインがウサギアヒルの図(Philosophical Investigations (wittgenstein-pi?))で示したものだ。

複相状況とは地としての自文化の上に、図としての異文化を見る、そのような状況である(「異文化の見つけ方」(中川 2015))(「引用と人生」(中川 2016)

3 信念が反転する

複相状況にもいろんな程度がある。エンデの人々は妖術を信じている」と報告する宣教師と、エンデの人々は妖術を信じている」と報告する人類学者の複相には差がある筈だ。

デネット (デネット 2015) は人類学を現象学と比較する。現象学者がさまざまなことを棚上げして、現象学は自分に開示されていく世界をあるがままに受け入れ(エポケー)、それを記述する。同じ手続きを他者/異文化相手に行なうのが、人類学者であるとデネットは主張する。

人類学者がいくら「深い深い、まきこまれる異文化理解」とわめいても(Deadly Words: Witchcraft in Bocage (favret-saada-deadly_words?))、彼の複相状況の地は、あくまで、自文化である。けっきょく、節子は土屋とわかれ、倉越家の嫁として生きてゆくのだ(『美徳のよろめき』(三島 2021))。

地が異文化になってしまう状況、地と図が反転する状況とはどんなものなのだろう?反転(あるいは「転向」)のよい例は QAnon への信仰のめざめの中に見られる —

なお、私が描きたいのは、因果関係ではないことを宣言しておきたい。心理学的、社会学的な説明はちまたにあふれているだろう。クックの本がそうだし、秦の『陰謀論』(秦正樹 2022) をはじめ様々な本がこの現象(QAnon への転向)を社会学的に説明している。そうではなくて、私が描きたいのは、「地と図が反転する」というのは論理的にどのようなものかということだ。

4 信念が進化する

前回の発表、「いじめの誘惑: ヒト、空気を読む」 5 (中川 2025) で行なったことは「いじめ」、とりわけ「冗談を武器にした いじめ」(〈いじめ/冗談〉)を、デネットの「心(志向性)の埋め込みのレベル」を背景にして眺めてみることだった。 3次の志向性は霊長類学者が「(サルとヒトの)閾」として考えた「他人の心」である。私は、3次の志向性そのものを対象にする心的態度、すなわち、虚構を楽しむ態度があることを指摘した。6 いじめ/冗談とは、さらに、この「虚構を楽しむこと」自身を対象にした態度なのだ。

5 おわりに

最後に、〈いじめ/冗談〉を可能にした舞台装置こそが、地と図の反転に際の論理装置なのであることを示す。

References

Cook, Jesselyn. 2024. The Quiet Damage: QAnon and the Destruction of the American Family. New York: Crown Publishing. https://www.amazon.com/Quiet-Damage-Destruction-American- Family/dp/059344325X.
デイヴィドソンD. 1991. “概念枠という考えそのものついて.” In 真理と解釈, 192–213. 勁草書房.
デネットD. C. 1996. 「志向姿勢」の哲学. 白揚社.
———. 2015. 思考の技法: 直観ポンプと77の思考術. 青土社.
三島由紀夫. 2021. 美徳のよろめき. 新潮文庫. 新潮社.
中川敏. 2015. “異文化の見つけ方.” 大阪大学人間科学研究科紀要 41 (February): 81–97.
———. 2016. “引用と人生.” 大阪大学人間科学研究科紀要 42 (March): 61–79.
———. 2017. “嘘の美学—異文化を理解するとはどういうことか.” 社会人類学年報 43 (November): 1–22.
———. 2025. “いじめの誘惑: ヒト、空気を読む.” In 第59回日本文化人類学会研究大会. 日本文化人類学会.
別役実. 2005. ベケットと「いじめ」. 白水ブックス. 白水社.
大森荘蔵. 1994. 知の構築とその呪縛. ちくま学芸文庫. 筑摩書房.
村上靖彦. 2008. 自閉症の現象学. 勁草書房.
秦正樹. 2022. 陰謀論. 中公新書. Kindle; 中央公論社.
野矢茂樹. 1995. 心と他者. 勁草書房.