盗む、不倫する、妖術師になる

ベートロモッバの人類学

Satoshi Nakagawa

2019-03-16

0.1 自己紹介

わたしは授業が大好きです 22年間、たのしく授業をさせてもらいましたそんな学生さんへの私からの感謝の気持、最後の贈り物です。

4月から定年退職です。「これから何するんですか?」と良く聞かれます。 “All the Nothing I wanted to do” をしたいと思います。ぼくの大好きな漫画、Calvin and Hobbes でカルヴィンがよく使うことばです。「これまでしたかった役にもたたんこと」をいっぱいやります!

この最終講義に出席されている方はすでにご存知のことですが、かんたんに自己紹介をしたいと思います。名前は中川敏です。阪大に22年間いました・2019年の 3月末に退職します授業や発表と違っていくらでも個人的なことを述べてもいい場ですので・・・。 22年間したくてたまらなかったのだけど、きっかけがなくてできなかったことがあります。それは自慢話です。プログラミングで賞をとったことがあります。 — じつは 1993年くらいにもうすこしで職種の変更(教授からコンピューターの技師)をするところでした。試験に落ちたので、もう暫く大学の先生をつづけることにしました。まんが家になろうとしたことも — 高校3年生のときに諦めました。

1990年代のパソコン雑誌
Text Database Browser!
『インドネシア読本』
その目次
学童保育のお化け屋敷
1992年の家族旅行

いろいろありましたが、けっきょく、わたしは文化人類学者なのだろう、と思うようになりました。わたしの民族誌家としての出発点は・・・ 1979年3月 インドネシア・フローレス島エンデではじまります 2年間エンデの人々の間で調査・ 1981年3月日本に帰国しました 1981年12月オーストラリア国立大学へ留学。東インドネシア研究の泰斗、ジム・フォックスのもとで研究しました

Flores in Indonesia
Ende in Flores

あなたはわたしの弟子です。わたしはジェームズ・J・フォックスの弟子です。ジェームズ・J・フォックスはニーダムの弟子です。ニーダムはエヴァンス=プリチャードの弟子ですすなわち、わたしはEPの曾孫で、あなたはEPのひい曾孫だ、ということになりますね。

さて、次に私の調査地について紹介します。「エンデ」と呼ばれる地域で「エンデ」と呼ばれる人たちを調査しました。「エンデ人」と呼びましょう。エンデ人は、フローレス島に住み、エンデ語をしゃべる民族です。ちなみにフローレス島(四国くらいの大きさ)ではいくつもの言語がしゃべられています。マンガライ、リウン、ンガダ、ナゲ・ケオ、エンデ、リオ、シッカ、ラマホロットすべて方言ではなく、言語です。

こんな景色です

エンデ島が見えます
40年前の村
40年前の村
40年前の・・・

0.2 ベートロモッバ

人類学者はしばしば現地の人から仇名をもらいます。もちろん、「いかに私が人々の間にとけこんでいた」かを示す自慢話です。さてさて私がフィールドでもらった名前で一番気にいっているのは「ベートロモッバ」という名前です。きっかけはこんな問答です。 1979年、フィールドワークの最初の頃です。「どっからきた?」 — 「日本から」 1983年、二度目にフィールドを訪れました。「どっからきた?」 — 「オーストラリアから」 1986年、またフィールドに行きました。「どっからきた?」 — 「ジャカルタからだ」。「ほんとに落ち着かんやつだ。・・・ベートロモッバと呼ぼう」「あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、落ち着きのないやつ」くらいの意味です。

いろんな意味でベートロモッバの名に恥じぬよう生きていきたいと思っています。今回の発表も一種のベートロモッバです。

文化相対主義の人類学です文化相対主義は — ひとつひとつの文化が素晴しい異なった文化に住むひとは違った世界に住んでいる — と考えますそのように異なった世界に住む人々を理解するのが人類学そうするために人類学者は文化の間をいったり来たりするのです人類学は個別にこだわります — それは民族誌の学なのです

もう一つのベートロモッバ的側面が人類学にあります。人類学は地域研究ではありません。人類学は「人類」について語る学問です。一種の哲学・・・と言っていいかもしれません。個別(民族誌)から普遍(人類)へ、そして普遍(人類)から個別(民族誌)へ、いわば・・・あっちへいったりこっちへいったりするのです。

個別の文化をあっちからこっちへときどき普遍へ普遍からまた個別へ人類学は終わりのないベートロモッバなのです

エンデ(儀礼などなど)からはじまり普遍(自由意志などなど)にかかわり日本(ちびまる子ちゃんやあたしンちなどなど)に行きエンデ(贈与交換などなど)にもどり・・・ベートロモッバしますこの講義では完成した作品をお見せするのではなくゆったりきたりする(ベートロモッバする)人類学者の営為をそのまま見せたいのです

0.3 問題の設定

この講義でとりあげるのはエンデの儀礼のなかでわたしの感じたひとつの困惑ですまずは儀礼を見てみましょう

儀礼(東ティモール)
儀礼
儀礼
儀礼の家
屋内での儀礼
儀礼

グァバ泥棒グァバ泥棒

グァバ泥棒

のどが乾いたときに他人の椰子の木に登ってその実でのどをうるおしても、誰も文句はいいませんおなかがすいたときに他人の畑のものを食べても問題はありませんその場で飲んだり食べたりするのは問題ありません家にもってかえったりすれば「どろぼう」ですが

東の方にワトゥシピという村があります村をあげて狩に何週間も狩にでるので有名な村です彼らは野営し、そこにある畑の芋などを食べます誰も文句はいいませんこれは盗みではないのです

狩人

エンデの人たちは盗みについて話すのがとても好きです植民地時代に日本軍をきりきりまいさせたバピトの話などなどたくさんある中からひとつだけ紹介します西の方にンドラという村がありますこの村は盗人の村として有名です彼らは村をあげて盗みにでかけるのです彼らは先祖から伝わる特別な呪術をつかって盗みをしますいくら頑丈な錠も彼らは簡単に開けてしまうそうです盗みには呪術やとくべつな知識が関係する、ということを覚えておいてください

「盗み」(ナカ)と「妖術師」(ポゾ)に比べると「不倫」(ペザ)については、エンデの人はあまり語りません今年の調査でもう少しデータを増やしたいな・・・と思っています以下、半分推測まじりの不倫のロアです日本でいう程の「犯罪」臭はありませんもちろん、正しい贈与交換の裏側でのできごとです悪いことです

悪いことは悪いことだけど(盗みとの連想でいうと)子供ができない限り、それほど問題にはならないんじゃないかな・・・子供ができれば、婚資(財)の贈与交換が行なわれます「女性を魅きつける」ことに呪術的匂いのする物語りがあったことを覚えています

要するに不倫は(とりあえず)盗みといっしょにしちゃいましょう(データが足りない) — ということです盗みも不倫もある範囲を越えれば、それは邪悪なことであるそこにはなんらかの呪術の匂いのする現象だ — ということです

盗みと不倫で示されるように「良いこと」と「悪いこと」のあいだに境界線がありその境界線が文化毎にびみょうにずれている — このことはだいじです。ただ・・・ — 「へー」とは思うけど、「ま・そんな文化もあるのだな」くらいの感想でしょう(お箸とフォーク)

しかし、この講義があつかいたいのはもっと重要な境界線です意図的行為と非意図的行為の境界なのですその境界が他のペア(責任と責任のない行為、無効化できる行為とできない行為)とのずれの問題ですこれは「へー」じゃすまないのです

0.4 エンデ文化の肌理

エンデの盗み・不倫・妖術師の文化の中の位置を見るとは、エンデの文化の全体を見ることである

まずは生業から見えていきましょう焼畑が生業です(1990年代くらいまで)さまざまな動物を飼っている

生業は焼畑です

焼畑

焼畑
焼畑
豚を飼う

いぬもいます
山羊も
鹿じゃなくって牛っす
にわとりも

0.4.1 交換

このようにして収穫した米やとうもろこし牛や豚や鶏もちろん自分で食べることもありますが多くはひとに与えるためのものです

わたしたちの毎日の生活が売り買い(市場交換)であるようにエンデの人の毎日の生活は与え・受け取ること(贈与交換)なのです

女たちがやってくる
贈り物をもって

贈与交換は親族組織と密接にかかわっていますエンデの親族組織には二つの柱があります: (1) 父系制と (2) 循環婚です

世代深度の深い父系集団(大きな中川家)をつくります人々は自分の系譜を十世代くらいまではかるがると暗唱します — エト/バット、バット/ビッサ、ビッサ/クス、クス/レッタ、レッタ/マリ、マリ・・・子供は父から「降りてくる」(ワッウ)(cf: 英語の descent、出自)と言われます

父系集団は一心同体と考えられていますだから集団のメンバー(キョウダイ)間の贈与交換はあり得ませんあるのは共有だけです父系集団(キョウダイたち)は土地を共有します土地は頭としっぽがあり、そこに精霊が住み、その土地独特の儀礼をもっています

子供(男)は父の嫁を与えた集団から嫁をとることを期待されるわたしが中川家で、母(父の嫁)が山中家の出身だとしようわたしも(父同様に)山中家から嫁をとるわたしの息子も山中家から嫁をとる父の姉妹が川本家に嫁にいったとするその息子(川本家のいとこ)はわたしの姉妹(中川家の女性)を嫁にする

Ideal Asymmetric Alliance

二種類の姻族ができる(中川家にとっての)「嫁を与える者」(山中)と「嫁を受け取る者」(川本家)である男は父の「嫁を与える者」から嫁を受けとることが期待されている

エンデの社会の中で父親以上に重要な人物がいるそれは母の兄弟(山中家のおじ)である姉妹の息子は母方のおじの言うことは必ず聞く母方のおじは姉妹の息子を呪う力(殺す力)をもっている姉妹の息子は母方のおじから「やって来る」(マイ)と言われる母方のおじは、姉妹の息子の源(プッウ)なのだ

父系集団のメンバーでは贈与交換は行なわれません姻族間こそが特権的な贈与交換のアリーナですそのうちのひとつに「頭」の贈与があります葬式のときの贈与交換でもっとも重用なのは「頭」と呼ばれる贈り物です

わたしの葬式だとしよう (Funeral.m4v) わたしの家族は「頭」を用意します — 牛や金細工や象牙などなどであるそれらの贈り物をンガヴ(財)と呼びますそれをわたしの「やってきた」家、山中家の代表者、たいていの場合母方のおじに与えるだ

ンガヴ(財)としての牛
ンガヴとしての金細工
ンガヴとしての象牙

わたしは母の生まれた家(山中家)から来て(マイ)死にさいして「頭」は母方のおじへと与えられるのです頭は源(プッウ)(山中家)へ帰ってゆくのですこのような母方のおじ(の家)を中心とする考え方は東インドネシアにはしばしば見られますこの流れをジム・フォックスは「生命の流れ」と呼びました

人々は毎日まいにち与え、受け取っているのです贈与交換は人々を結び付けます

0.5 白と黒と灰色と

エンデの人びとはこのような社会の正しいあり方について考えるだけでなくその逆の状況にたいしても想像をめぐらします正しい社会を体現しているのが母のおじだとすれば、逆の状況を体現しているのは妖術師です

妖術師は人間そっくりです普通の人間のようにして村に住んでいます人間は魂(マエ)をもっているが、妖術師はヴェラをもっている彼らは邪悪な原因(ねたみ、そねみ)から邪悪なことをします(人を病気にする、殺す)人の死はほとんどが妖術師のせいとされます

人が死ぬとエンデのひとびとはたいそうこわがる幽霊を怖れているのではない妖術師を怖れているのだ・・・なぜなら妖術師たちはあつまって犠牲者を食らうのだ「一本角だけの水牛よ、さぁ立ち上がれ」・・・

一本角の水牛と妖術師たち

さて死者を食ったあと、妖術師たちはつぎの宴会の場所を決めます死者の「頭」が競売にかけられますそれを買った妖術師が、次の犠牲者を提供することになります

妖術師はエンデにおいて悪の権化/化身なのですエンデの人は妖術師におびえながら日々を暮していますある人間が妖術師だとわかると、その妖術師は殺されることさえあります(ンゴザ・ポゾ)

裏の社会のヒーロー、妖術師は、いわば、表の社会のヒーロー、母方のおじの逆転したイメージとなっています「頭」が母方のおじに与えられるように、「頭」は妖術師に売られるのです

ここで市場交換(売り買い)について述べておきましょうエンデは贈与交換(与え・受け取る)が主体ですが、市場交換がないわけではありませんじっさいの換金作物栽培も行なわれていますそれは社会の外側で(「他人」と)行なわれます

ココ椰子は換金作物

社会の外側との市場交換とは別に、内側での市場交換もあります「なんちゃって市場交換」と呼びましょうそれについて説明しましょう

姻族同士の交換(贈与交換)には方向性があります豚は嫁を与える者(山中)から嫁を受け取る者(中川)へ象牙や金細工や牛は嫁を受け取る者(中川)から嫁を与える者(山中)へ動きますしばしば曖昧な(とても遠い)関係にあるシンセキが、この交換によって作られることもありますわたしが牛をあなたにあげることにより、わたしは嫁を受け取る者に、あなたは嫁を与える者になることがあるのです

Gift Exchange

するといずれあなたの娘はわたしの息子と結婚することになりますエンデの人も、これはわずらわしいと感じることがありますそういうときのために「なんちゃって市場交換」があるのですわたしが牛を「与える」かわりに「売る」ことにするのです。あなたは牛を「買う」ことになります。エンデ語で「買う」は「ンブタ」といいます — 「切れちゃった」という意味です贈与交換が人と人を結び付けるのとは反対に、市場交換は人と人との関係を切るのです — 当事者は「他人」になるのです

贈与交換(与え受け取る)はひととひとを結び付ける市場交換(売り買い)はひとびとをきりはなす

吉岡(『あたしンち』)の言い分を聞いてみよう(atashinchi.mp4)贈与されるモノには、贈与した人の人格がついてくるのですだからこそ贈与交換はひととひととを結び付けるのです市場交換は人と人との関係を切りますスーパーで買ったマフラーにレジの人の怨念も人格もついてきませんマフラーは100パーセントあなたのものです

表の世界(母方のおじを中心とする世界)は贈与交換を軸とし、人と人とがむすびつく世界です裏の世界(妖術師を中心とする世界)は市場交換を軸とし、人と人とが切り離された世界なのです

0.5.1 知識

『ロード・オブ・ザ・リング』を思い出してください白い魔法使いがいます — (母方のおじ)黒い魔法使いがいます — (妖術師)面白いのはガンダルフ、灰色の魔法使いですエンデにも灰色の魔法使いがいますそれがトゥケルクと呼ばれる存在なのです

さきほどの妖術師の祭宴を思い出してくださいトゥケルクは妖術師の祭宴にもぐりこむのですトゥケルクは人間です。ばれてしまえばその場で殺されてしまいますかれらは妖術師にまぎれこんでも、みやぶられないだけの自信と技量をもっています(コプラ)

トゥケルクはなぜこんな危険なことをするのでしょう?それは恐喝のためです妖術師にとって正体の知れてしまうことほど怖いことはありませんリンチを受けて殺されてしまうからですトゥケルクはその正体をつかんでしまうのです — あとは・・・

トゥケルクは勇気があればいいわけではありません力(オゾ・ヌギ)をもっていなければトゥケルクにはなれませんそして力とは知識(オゾ・ンベッオ)から来るものですエンデにおける知識(オゾ・ンベッオ)について見ていきましょう

父系親族が土地を所有(共有)しその土地には頭としっぽ(そこに宿る精霊)、そして儀礼があるといいました頭としっぽの名前や、儀礼のさいの口上の知識は父系親族の間で共有されていますたとえば:テケディー・パマピー// プッウトゥウ・カムナヴ// トゥンド・トゥンブ// ウォカ・ボッカ//・・・農耕儀礼のとき、儀礼の大枠は年輩の人間ならたいてい知っているしかし、人は儀礼のために、わざわざ呪術師(トゥケルクと重なる)をやとうなぜならトゥケルクたちは秘密の呪文を知っているからだ

tEkE dhii // pama pii 縁をつかみ // 世代をまもる
pu’u tuu // kamu nawu
iro aro // embu kajo
baba inE
mai mbeja // sEa sawE
kaa pe hara // pesa pe imu

もっとも頻繁に語られっる裏の知識は「母の名前」である森羅万象には「母」があるとうもろこしに母があり、米に母があり、はしかに母があり、マラリアに母があるそれら「母」の名前を知ることが重要なのだ

母の名前を知ればとうもろこしや米を支配し、はしかやマラリアを支配する、というのだ裏の知識は効力(オゾ・ビッサ)がある隣の畑のとうもろこしや米を呼ぶことができる(豊作)他人の病気をなおせる他人に病気を起こさせることができるそして他人を殺すことができるのだ裏の知識は個人の力(オゾヌギ)の源泉である

髭は力のあかしです

裏の知識は、知識をもっている人間(もしかしたら妖術師かもしれない)から買わなければならないなぜなら、買わない限りその知識は100パーセントあなたのものにならないからだ「与えたり」したら、その知識には(前の持ち主の)人格がこびりついており、あなたが100パーセントその知識の持ち主とは言えない — そうするとその知識には効力(ヒッサ)がない

知識はモノである人に売ってしまえば、あなたはその知識の所有者ではなくなる(その知識に効力はなくなる)妖術師はこのような裏の知識をたくさん持っている妖術師は強大な力をもっているのである

この脈絡でエンデの人たちは「盗み」について語るもっとも効率のよい知識の獲得法は「盗み」だ、というのであるトゥケ・ルクは知識の受け渡しが行なわれる場所に行き、床下に隠れる

知識の売買が成立し、知識が手渡されるトゥケ・ルクはそれを盗み聞くのだ知識はトゥケ・ルクが持ち、買い手は形だけの知識しか手に入れない(力がない)

盗み・不倫・妖術師の特別な結び付き方をみたそれらすべてがエンデの「裏」と結びつく → エンデの文化を理解する

おわりに

第1部を思い出してみよう三つのペアが重なっている — 責任がある/責任がない意図的な/意図的でない無効化可能である/無効化可能でないエンデの民族誌が語るのは、この三つの対のどれかが(あるいはその重なり方が)普遍的ではない、ということだその「どれ」を特定するためにエンデの「表」と「裏」を抽象化しなければならない

もう一度哲学にもどらなればならない三つのペアについてより深く考える必要があるストローソンという哲学者の有名な論文がある — 「自由と怒り」という題名である

自由意志を考えるに、より具体性をもった責任について考えた責任について考えるのに、より具体性をもった告発を例としながら考えていったこんどは告発を誘発した感情を考えてみようというのだ。それが怒りだ具体的な論文の筋はともかく、ストローソンの議論がわたしたちの考えを整理してくれるだろう、ということはわかってもらえるだろう

人類学者が示すのは、「哲学者はあまりに簡単に普遍を前提とし過ぎている」ということだ「怒り」は普遍的じゃないぞ、と人類学者は語るのだエンデに、たしかに、「怒り」と訳して問題ない(日本語の「怒り」に意味内容が重なる)概念はある — 「グラー」であるンガヴの交換のときに(たとえば「頭」の贈与の際に)、ンガヴがあまりに少なくて顔を真っ赤にしている母方のおじの状態(「怒り」)はグラーではないそれはノッイなのだ

自文化と異文化をベートロモッバしながらある異文化を理解する個別と普遍をベートロモッバしながら人類を説明しようとするそんな学問なんだちょっとあやしいけど、面白い学問なんですよそれがこの講義で言いたかったことです

参考文献