エンデにおける「生命の流れ」の考え方
2025-12-05
東インドネシアではワイフ・ギバーとワイフ・テイカーの関係が、社会の基礎をなす (van Wouden 1935)。 J.J. フォックスはそれを「生命の流れ」という考え方で読み解いた (Fox (ed) 1980)。 いくつかの社会では、エゴにたいして二種類のワイフ・ギバーがあり、それもまた「生命の流れ」で説明しうる。
今回の発表は、東インドネシア、フローレス島に住むエンデの人々のワイフ・ギバー/ワイフ・テイカー関係に焦点をあてる。 エンデにもまた二種類のワイフ・ギバーがあるのだが、それは「生命の流れ」では説明することは難しい。この特異なワイフ・ギバー(「男の背中」と呼ばれる)が選ばれるロジックを解明するのが、この論文の目的である。
「はじめに」からも明らかな様に、この論文が扱う問題は地域(東インドネシア)限定で、かつすこぶるテクニカルなもの(ワイフ・ギバー)である。 この章では、この問題の人類学的な重要性を理解してもらうために、東インドネシアという地域のもつ意義、そしてその中でのワイフ・ギバー問題の占める位置を紹介したい。
ここではオランダ構造主義者、ファン・ワウデンによる東インドネシア研究 (van Wouden 1935) から、レヴィ=ストロースの構造主義宣言の書ともいえる『親族の基本構造』 (Lévi-Strauss 1949) へ至る路をたどる。
1935年に出版されたファン・ワウデンによる『東インドネシアにおける社会構造のタイプ』 (van Wouden 1935) は、オランダ構造主義の嚆矢となる著作である。彼は、東インドネシアの諸社会の重要な特徴として、社会の特別な種類の三分法を挙げる。すなわち、自己のグループ (OG)、およびそのワイフ・ギバー (WG) とワイフ・テイカー (WT) である。この三分法を可能にしているのが母方交叉イトコ婚である。
なお、この図から明らかな様に、重要なのは妻の与え手(ワイフ・ギバー)ではなく、母の与え手(マザー・ギバー)である。この事実は東インドネシア一般にいえる。1 この問題に限らず「ワイフ・ギバー」という語には、他にも問題があるが、2 長い学問的な積み重ねのある語を変換することは、それ自身一つの論考を必要とする事件である。この論文では「ワイフ・ギバー」という語を、そのまま使用することとする。
レヴィ=ストロースはファン・ワウデンを受けて親族の構造主義的議論を発展させた。彼は婚姻の目的をコミュニケーションととらえた。彼は、結婚をグループ間のコミュニケーションとした上で、交換の一般理論を展開した。レヴィ=ストロースによれば、交換には二つのグループが直接にモノを交換しあう限定交換(あるいは直接交換)と、モノが一方向に進む一般交換とがある。そして母方交叉イトコ婚は「一般交換」なのである。
この節 2.2 では、レヴィ=ストロースを受けて英国の構造主義を率いたニーダムの議論、そしてニーダムを継承しつつ、議論に大きな転換を導入したフォックスについて述べたい。
ニーダムは交叉イトコ婚と報告されている諸社会の民族誌を広汎に読み( (Needham 1958) 、 (Needham 1966) など)、つぎのことに気がついた。すなわち、(彼によれば)ある社会ではイトコ婚が「したがったほうがいい規則」として考えられており、他の社会ではそれが「したがわなくてはいけない規則」として考えられている、というのだ。ニーダムは前者の規則の形態を「選好」(preference) と、後者を「規定」 (prescription) と呼んだ (Needham 1973)。そして、彼は、規定としての交叉イトコ婚のみを探求の対象とすると宣言した。
この規定と選好の区別は、思った以上に問題をはらんだ区別であった。試みに、エンデの「母方交叉イトコ婚」の規則をみてみよう。それはほとんど誰も従っていない規則である。それは選好でさえないのだ。それにも拘わらず、その規則は重く人々の日々の生活を規定する。(エンデの母方交叉イトコ婚については後に詳述する。)エンデの規則は、選好なのだろうか、規定なのだろうか?
ニーダムは、選好と規定の曖昧さ 3 から派生する諸々(もろもろ)の問題を避けるために、現実の縁組からじょじょに名称体系 (kinship teriminology) に焦点をずらしていくことになる。彼の立ち位置は著作毎に微妙に揺れているが、彼が名称体系から描きだす母方交叉イトコ婚の理念的モデルは以下の図にあらわすことができよう。
フォックスは、ニーダムの指導のもと、東インドネシアのロティ島でフィールドワークを開始した。そこに「規定 (prescription)」としての交叉イトコ婚はなかった。フォックスがあらためて注目したのは、ファン・ワウデンに戻って、ワイフ・ギバーとワイフ・テイカーの関係である。
彼の探求の特徴は、性急に理論的なモデルを追わないことである。その代わりに、彼は民俗モデルを重視する。人類学的な営みの出発点として「民俗モデル」の探求をする、というフォックスの選択は東インドネシア研究に大きな転換点をもたらした、と私は思う。私がここで行なうのもエンデの民俗モデル(「アキカエシの原理」)の追求である。
フォックスが東インドネシアの民族誌を読み込む中で発見したのが、人々のもっている共通した「生命観」である。彼らは、生命がワイフ・ギバーからワイフ・テイカーへと流れる考えているのだ。すなわち、生命は女性とともに移動するのである。これを「生命の流れ原理」と呼ぼう。
エンデにおいても生命の流れ原理は重要である。エンデにおいて、母の兄弟 (MB) は「根幹のワイフ・ギバー」 (ka’é embu pu’u) と呼ばれ、他のワイフ・ギバーとは区別される。母の兄弟 (MB) は幹と根(pu’u kamu) としてあなた(姉妹の息子)を支えるのだ。母の兄弟 (MB) のいない人間というのは、「奴隷 (ata xo’o) か妖術師 (ata porho) みたいだ」と言われる。 母の兄弟 (MB) は、あなたに対して大きな力をもっている。母の兄弟 (MB) はあなたを支えるだけでなく、呪い殺すだけの霊的な力をもっているとされる。
フォックスは、続けて、東インドネシアに時おりみられる自己 (OG)を規定する二種類のワイフ・ギバー について述べている。4 どの社会でも第一のワイフ・ギバーは母の兄弟(MB)(そしてその集団)である。いくつかの社会では(ロティ、ケマック、マンバイなどにでは)、それに加えて、ワイフ・ギバーのワイフ・ギバー(MB の MB、すなわち MMB)もまた重要とされている。 この二つ目のワイフ・ギバー を理解するのは難しくはない。ここでは、生命の流れ原理が二回適用されているのだ。すなわち、 MMB (MB の MB) が「生命」を MB に与え、 MB 自身は彼が受けとった「生命」を「わたしたち」(OG) へと伝えるのである。二つのワイフ・ギバーは言わば「生命の通り路」 (“Path of Life”) (Fox 1980c: 119) を構成している。
以上の学説史的文脈の中で、エンデの民族誌を見ると、その特異性がうかびあがってくる。 この節で、その特異性を簡単に紹介しよう。
エンデにも自分のグループ(OG)を規定する二つのワイフ・ギバーがある。一つは母の兄弟 (MB)に代表されるワイフ・ギバーである。彼らは「根幹のワイフ・ギバー」あるいは「女の背中」と呼ばれる。二つ目のワイフ・ギバーはMMB ではない。二つ目のワイフ・ギバーは FMB (「枯れ落ちた枝」あるいは「男の背中」と呼ばれる)である。 二つのワイフ・ギバーのあいだに「生命の通り路」はない(次の図を見よ)。なぜ、エンデはこの不思議な二つ目のワイフ・ギバーを選んだのだろうか?この選択の背後にあるロジックはどのようなものなのか、それを探るのが、この論文の目的である。
次章では、この問題(男の背中の謎)を解くためのもうひとつの背景、エンデの親族体系を、ワイフ・ギバーに焦点をあてながら紹介する。
エンデの親族体系には「生命の流れ原理」の他に、二つの原理が働いている。 その第一の原理は、親族関係がつねに交換と表裏一体だということ、あるいは交換が関係を生み出すということ (中川 1992) である。 これを、この原理の発見者であるモース (Mauss 1990 (1950)) にちなんで「モースの原理」と呼ぼう。 二つ目の原理は、恩義/負債は紐帯を生み出すという事である。 これを「アキカエシの原理」と呼ぶ。
モースの原理のエンデでの顕れについては『交換の民族誌』 (中川 1992) で詳細に説明しているので、 この節ではアキカエシ原理がどのようなものかを解説したい。
「アキカエシの原理」(恩義/負債と紐帯の原理)を解説するために、わたしの三つの論文、アキカエシ三部作の内容を超特急でまとめることとしよう。次の三つの論文である — 「象牙をたどる: エンデで従われない規則を守る仕方」 (中川 2020)、「トウモロコシを搗く: エンデで従われない規則を破る仕方」、 (中川 2022) 、そして「頭をつかまえる: エンデで歴史を書き換える仕方」、 (中川 2023) である。 「アキカエシ」の語は折口信夫の『古代人の思考の基礎』 (折口 2006 (1929)) から採用したものである。古代の日本で、「負債が紐帯を作り、そして負債がなくなれば紐帯もなくなる」という考えがあった。これを折口にならい「アキカエシ」の原理と呼ぶこととする。そして、エンデではこの原理が、交換を通して社会を支配しているのである。
すべてはエンデの特別な「母方交叉イトコ婚」から始まる。「ンブズ・ンドゥー // ヴェサ・スンダ」 (mburhu nduu//wesa senda) 婚と呼ばれる結婚の仕方である。5 この制度にはモースの原理(「交換が関係を生む」)とアキカエシの原理(「恩義/負債が紐帯をつくる」)が交錯して顕れている。
わたしの妹が結婚したとしよう。わたしの親族は、彼女の婚資(牛や象牙)を手にいれることになる。わたしが結婚するときに、その全てをつかったとしよう。このときのわたしと妹の関係を「婚資で結ばれたキョウダイ」と呼ぼう。6 私と婚資で結ばれたキョウダイである妹は、わたし(兄)に対して私の娘を嫁としてもらう権利があるとされる。わたしは彼女に恩義/負債を負うているのだ。二人の間には、アキカエシに基づく強い紐帯があることとなる。
婚資で結ばれたキョウダイの子供同士での結婚が行なわれる時、それは「母方交叉イトコ婚」、すなわち「ンブズ・ンドゥー // ヴェサ・スンダ」婚となる。その結果として(1)灰色グループにとってのワイフ・ギバーが2世代にわたって固定される。そして、(2)わたしの子孫と妹の子孫の間の特殊な関係はなくなる。恩義/負債が清算されたので、紐帯も消えたのだ。
エンデでは、しかしながら、そのような結婚(「母方交叉イトコ婚」)は稀である。結婚が行なわれない事によって、わたしの子孫と妹の子孫は、恩義/負債を通じて、つよい紐帯が残るのだ。これが〈守られないにも拘わらず、人々を強く拘束する〉エンデの「母方交叉イトコ婚」なのである。以上が第一論文の骨子である。
二番目の論文は「トウモロコシを搗く」支払いをめぐる論考である。「トウモロコシを搗く(ジャワ・トサ)」支払いは、「母方交叉イトコ婚」をしない場合の支払いである。既に述べたように、母方交叉イトコ婚をしないという事は、次世代にも恩義/負債が続くことを意味する。「トウモロコシを搗く」支払いはその恩義/負債を清算する。そして、それに伴なった紐帯もなくなる。
じつは、その紐帯をとりもどす方法もまた存在する。「ジャワ・トサ」に対して、カウンターギフトを贈ればいいのである。そうすることにより、負債は甦る。そして紐帯も続くのだ。
三番目の論文は、「頭をつかむ」(トッウ・ジョプ)という制度をめぐる論考である。「頭をつかまえる」には二種類ある。一つは「婚資で結ばれたキョウダイ」がある場合と、そのような関係がない場合である。 前者の場合は、期待される結婚(母方交叉イトコ婚)が行われなかったときの支払いである。後者は、「頭をつかむ」を行なうことにより、そのような関係(婚資で結ばれたキョウダイ関係)が生成されることになる。後者は、モースの原理の典型的なあらわれであると言える。「頭をつかむ」(トッウ・ジョプ)の詳細については、後にもう一度あつかう。
エンデの社会は生命の流れ原理に基づいた上で、モースの原理とアキカエシの原理によって調整されているのである。社会のさまざまな場所で様々な交換が行なわれるが、根本的な目的は、交換によって負債を作り(モースの原理)、そうして紐帯をつくること(アキカエシの原理)なのである。
エンデにおいて(ワイフ・ギバーからワイフ・テイカーへの)生命の流れは、 その逆方向(ワイフ・テイカーからワイフ・ギバーへ)の婚資の流れによって可視化される。 「男の背中」と呼ばれるワイフ・ギバーが顕れるのは、その婚資交換の流れの中でのことである。
ここでは、花婿側が婚資をあつめ、それを花嫁側にもっていく次第を、 そして、婚資の交渉の後に、婚資を受け取った花嫁側が、それを自身のワイフ・ギバーへと渡す過程を記述する。
エンデの男が結婚をするには婚資/財(象牙や牛や金細工)が必要である。婚資は花婿側 のグループだけではあつめられない程に高額である。花婿側のグループ は婚資を集めるべく集会(ボウ)の準備をして、メッセンジャーを自分のワイフ・テイカーたちに送る。
しらせを受け取ったワイフ・テイカーは出来るかぎりの財をもって、ボウにかけつける。ある者は象牙をもってくるかもしれない。牛や山羊をもってくる者もいるだろう。最近は現金を持ってくるものも多くなった。
当日、ホスト(婿側)はご馳走をもって客たち(ワイフ・テイカーたち)をうけいれる。というわけでホスト側の出費も相当なものとなる。客たち(ワイフ・テイカーたち)は婚資をワイフ・ギバーであるホスト(花婿のグループ)に渡し、食事を食べて帰る。これが ボウ である。
ボウを通じて集めた婚資をもって、婿のグループ(ワイフ・テイカー)は花嫁のグループ(ワイフ・ギバー)の村へと出発する。花嫁の村で行なわれる婚資の引き渡しとその翌日の結婚式のためである。7 花婿のグループは、花嫁(ワイフ・ギバー)の村に客として迎えいれられ、食事をふるまわれる。
夜、婚資の受け渡しが行なわれる。ンバッボと呼ばれる交渉が花婿側と花嫁側との間でとり行なわれるのである。ンバッボでワイフ・ギバーから要求される婚資がすべて支払わることはない。ワイフ・テイカーは負け(負債)を認め、「(私たちの家の)扉は閉まっていない//梯子はひきあげられていない」 (péré iwa rhé’u//tanga iwa rha’i) という決まり文句で交渉を終える。「(ワイフ・ギバーたちよ、後日君らが)困窮したら、いつでも来い」という宣言である。恩義/負債は続くのである。そうして、紐帯もつづくのである。
かくして、花婿側が集めた婚資が花嫁側に与えられる。しかし、ンバッボはこの段階で終わったわけではない。花嫁のグループは、いま受け取ったばかりの婚資を彼らのワイフ・ギバーたちに分け与える必要があるのである。すなわち、ボウ以来の婚資の流れは以下の図のようになる。
婚資を受け取る花嫁側のワイフ・ギバーは二種類ある。母の兄弟 (MB) と父の母の兄弟 (FMB) である。母の兄弟 (MB) は「女の背中」(rhonggo ata hai) と、父の母の兄弟 (FMB) は「男の背中」 (rhonggo ata xaki) と呼ばれる。
彼らの呼び名は詩的な呼び名(ンブク)と一般的な呼び名がある。8 ンブクの中では、MB は「ウェカ・テッエ//ソロ・ザニ」(weka té’é // soro rhani) (ゴザを広げ、枕をととのえる)と、 FMB は「クマ・ンベキ // ロナ・ソジャ」(kema mbéki // rona soja) (寝室を作り//部屋をこさえる)と呼ばれる。
MB のグループは「女の背中」の他に、「カッエ・ウンブ・プッウ」(根幹のワイフ・ギバー)あるいは「プッウ・カム」 (pu’u kamu) (幹と根)と呼ばれ、 FMB のグループは「トゥブ・トゥッウ // ハタ・ムヴ」tubu tu’u // hata mewu (乾いた切り株、ぼろぼになった枯れ枝)9 と呼ばれる。
| 代表 | 名前 | 直訳 | 別名 |
|---|---|---|---|
| MB | ゾンゴ・アタ・ハイ | 女の背中 | 根と幹 |
| FMB | ゾンゴ・アタ・アキ | 男の背中 | 切り株と枯れ枝 |
もし、婚資が生命の流れを逆に辿るのなら、婚資は生命の通り路を辿って MB と MMB に至る筈である。 ところが、エンデでは、婚資は MB (女の背中)と FMB(男の背中) に流れる。 この流れは生命の流れ原理だけでは説明がつかない。 次章は、この「男の背中の謎」ともいうべきアノマリーに迫っていきたい。
この「まとめ」の節では、「男の背中」についてのメモ的なものを書きつけておきたい。
「ゾンゴ・アタ・アキ」(「男の背中」)という語がいつから使われはじめたのかは不明だが、 1980年代、90年代には使われていなかったと思う。古いフィールドノーツを見る限り、 FMB は「ハタ・ムヴ」(枯れた枝)として、それなりの婚資を受け取っていたようである。 2000年代、もしかしたら2010年代に入ってからのことだと思うが、「ゾンゴ・アタ・アキ」(男の背中)という語が頻繁に使われはじめた。少なくとも私が「ゾンゴ・アタ・アキ」について居心地の悪さを感じはじめたのはその頃だった。
2011年に男の背中の重要性を示す興味深い出来事があった。ある日、いくつかの谷を越えた、とある村の男(ラサ)が、私の住んでいた村まで来た。彼は自分の妹の結婚に際して、妹の「男の背中」(ゾンゴ・アタ・アキ)(もちろん、自分の「男の背中」でもある)を探しに来たのだ。最終的に、ラサの探していた「男の背中」は、ハニ(私がお世話になっている男性)であることがわかった。ハニは、ラサの妹の結婚式で馬を贈られた。 「根幹のワイフ・ギバー」(女の背中、母の兄弟 (MB))がいなければ「妖術師も同様だ」という語りは聞いていたが、男の背中がこれほど重要だということを聞いて、わたしは少なからず驚いた。いよいよ謎は深まった。
いよいよこの論文の本論にはいることになる。 エンデで「男の背中」(FMB)というワイフ・ギバーが選択されるのは、いったいどのようなロジックに基づいているのか、その答をさぐっていこう。
この節では、男の背中ワイフ・ギバーと「頭をつかむ」(トッウ・ジョプ)制度の関連について述べたい。
その関連に気づいたのは、村で最近おきたある不思議な出来事がきっかけである。まず、その出来事から物語を始めよう。
ハニの馬の事件につづけて、最近(2024年)、男の背中の重要性を示すもう一つの出来事があった。ある非典型的な結婚に関係する出来事である。イェナとビクトールの結婚である。イェナは、母がマレーシアへの出稼ぎ先で生んだ娘である。父親はマンガライ人(フローレス島の西端に住む民族)である。「男の背中」とは父のワイフ・ギバーのことであるので、父が誰かも分からないイェナには「男の背中」をさがしようもなかった。
イェナ側が選んだのは、驚いたことに、ビクトール(花婿)側のシンセキであった。ビクトールの MB、「根幹のワイフ・ギバー」(「女の背中」)をイェナ自身の「男の背中」として選んだのである。
いささか納得のいかない選択ではあったが、このカップル(イェナとビクトール)の次世代を考えてみると、それなりに意味をなす選択であることが分かる。次の図を見よ。
彼女らの娘 (c3) の結婚を考えてみよう。この女性の結婚において、「女の背中」は「(花嫁の)母の兄弟 (MB)」、すなわち、イェナ (M) の親族である(みどり色のグループ)。そして「男の背中」は、父(ビクトール)の「母の兄弟 (MB)」であり、それこそが、イェナの結婚の際に急拵えでつくりあげられた「男の背中」なのだ。
もちろん、以上の議論は「男の背中の謎」、すなわち「どのようなロジックが FMB を特別なワイフ・ギバーとしているのだろうか?」に答えるものではない。ただ、この発見はその答への端緒をあたえることになる。「この発見」を言い換えると次のようになる —
「男の背中」を一世代巻き戻すと、それは花婿(未来の「父」)の「根幹のワイフ・ギバー」(「女の背中」)になるのだ、という点である。そして、この関連で想起されるのが、「頭をつかまえる」(トッウ・ジョプ)の制度なのである。
「頭をつかまえる」と呼ばれる支払いについては、「アキカエシ三部作」の復習の項で述べたがもう少し詳細に紹介しよう。二種類の「頭をつかまえる」支払いがあると述べた。「婚資で結ばれたキョウダイ」関係がある場合とない場合である。ここで「男の背中」との関連があるのは後者の種類である。それはボウ(婚資を集めるための会合)をきっかけに顕われる。
婚資の流れを示した図から、そしてボウの目的から明らかな様に、ボウに集まるのは花婿のワイフ・テイカーだけである。しかし、ときおり、ここに花婿のワイフ・ギバーが出席することがあるのだ。場違いとも見える彼らワイフ・ギバーは、結婚がうまくいくように、彼らのワイフ・テイカー(すなわち花婿)の「頭をつかまえ」て、精神的に援助するといわれる。 ここで次世代を考えてみよう。当該のカップルから生まれた娘だ。彼女が結婚するときに出現する男の背中は、この場違いなワイフ・ギバーなのだ。
「頭をつかまえる」(トッウ・ジョプ)支払いを扱った論文において、私は「頭をつかまえる」支払いの意味を「前の世代における『婚資でむすばれたキョウダイ』を作り出す」と結論した。花婿の母 (M) とその「頭をつかまえる」ワイフ・ギバー(MB)の間に、「婚資でむすばれたキョウダイ」関係はないのだが、「頭をつかまえる」により、あたかも、それが存在したかのような状況になるのである。
そして、次世代のごく普通の結婚が、あたかも「母方交叉イトコ婚」(ンブズ・ンドゥー//ヴェサ・スンダ)の規則に違犯した結婚であるかの如くに演出されるのである。どうして、このようなことが可能かは、じつは、(これまで述べてこなかった)「頭をつかまえる」の第一の用法に拘わることなのである。
第二の種類の「頭をつかまえる」(ボウの中のワイフ・ギバー)が「婚資で結ばれたキョウダイ」を作り出すメカニズムを説明したい。まず、これまで触れていなかった、第一の種類を見ていこう。根底にあるのはエンデの「母方交叉イトコ婚」(ンブズーンドゥー・ヴェサスンダ婚)である。「頭をつかまえる」の第一の用法は、このような「婚資で結ばれたキョウダイ」関係を前提にして、出現する支払いである。
B/Z が婚資で結びついたキョウダイでありながら、 ZS が BD と結婚せずに他の女性と結婚したとする。そのような場合、妹(Z)側が「頭を越える」(ゼゾ・ウズ)という支払いを兄(B)のグループに行なえば、 B/Z の間に恩義/負債はなくなる。 しかし、B が Z にたいして、カウンターギフト、「頭をつかまえる」を支払うと、再び B/Z は「婚資でむすばれたキョウダイ」となる。これが「頭をつかまえる」の第一の種類なのである。
以上の第一の用法に照らしあわせながら、「頭をつかまえる」の第二の用法(ボウの中のワイフ・ギバー)をあらためて説明したい。婚資でむすばれたわけではない B/Z が主人公となる。二人の間に 負債 の関係はない。
この状況でワイフ・ギバーによるボウへの出席が出現する。10 MB (嫁を与える者)が ZS のボウに出席じて、「頭をつかまえる」のだ。この状況は、いわば (1)(第一の種類における)ZS がすでに「頭をとびこえる」を支払った状況と同様である。すなわち (2) ZS が BD と母方交叉イトコ婚をしなかった状況だ、ということである。かくして、B/Z の間に(これまでなかった)恩義/負債が出現する。以上が(二番目の)「頭をつかまえる」の論理である。 ワイフ・ギバーがワイフ・テイカーの「頭をつかまえる」と、ワイフ・ギバーとワイフ・テイカーの間に空想上の(行われなかった)母方交叉イトコ婚があらわれるのだ。
この二つの「頭をつかまえる」を並べることによって、第二の「頭をつかまえる」にはモースの原理が働いていることが分かるであろう。第一の「頭をつかまえる」では、ある特別な関係(「婚資で結びついたキョウダイ」)にある者が、ある特別な交換(「頭をつかまえる」)を行なう様子が描かれる。第二の「頭をつかまえる」では、ある特別な交換(「頭をつかまえる」)が、その交換を行なう者たちの間に特別な関係(婚資で結びついたキョウダイ)を生成するのである。
以上説明した二種類の「頭をつかまえる」のロジックを踏まえて、 「男の背中の謎」、 すなわち、なぜ(不自然な)「男の背中」(FMB) が二番目のワイフ・ギバーとして選ばれるのかを、解明していきいたい。
二番目の種類の「頭をつかまえる」(ボウのワイフ・ギバー)と男の背中の関連を思い出してほしい。 ZS のボウに「頭をつかまえる」ために出席するワイフ・ギバー (MB) の位置が、次世代、すなわち ZS の結婚から生まれた娘 (c3) の「男の背中」であるという点だ。ボウでワイフ・テイカーの「頭をつかまえ」たワイフ・ギバーは、自分(花婿の MB)と妹(花婿の M)の間に「婚資で結びついたキョウダイ」関係を作る働きをした。
この働きをそのまま(次世代の)男の背中に重ねあわせてみよう。娘 (c3 あるいは息子 C3) からの視点でかたる。
「頭をつかまえる」(ボウ版)と同じことが起きるとは、すなわち、 2世代前の兄妹(B1 と b1)が「婚資で結びついたキョウダイ」となる、という事である。そして、それゆえ、b1 の息子である父 (C2) は、本来、 B1 (彼女の男の背中)の娘と結婚しなければいけなかったのだ。それは、常に「なされなかった母方交叉イトコ婚」として空想される、ということである。ポイントはその結婚は空想ではあるが、本来なされるべきものだったということである。
私がこの図で示したいのは、この空想の状況では、あるいは本来の状況では、すなわち(c3 の)父が母方交叉イトコ婚をした状況であれば、 c3 の結婚に際して、 FMB (男の背中)が、MB(女の背中)の次に、婚資を受け取るワイフ・ギバーとなることに、不思議はなくなる、という事である。 何故なら、彼女の FMB は同時に彼女の MF (根幹のワイフ・ギバー)でもあるからだ。「生命の流れ」原理が作動するのだ。彼は「枯れた枝」であるだけでなく、同時に、「幹と根」でもあるからだ。
一番目の「頭をつかまえる」は関係に基づく交換であった。それに対して、二番目の「頭をつかまえる」においては、交換が関係をつくっている(モースの原理)。二番目の「頭をつかまえる」交換は、一番目の「頭をつかまえる」が基づいている関係を生成しているのだ。 同じように、「男の背中」に婚資をあたえるという交換は、〈彼 (FMB) が婚資をうけとるべきである関係〉を生み出すのである。
エンデにおける第一のワイフ・ギバー、母の兄弟(MB)(およびその親族)は、生命の流れ原理によって説明された。 しかし、第二のワイフ・ギバーである「男の背中」というワイフ・ギバーの存在は、生命の流れ原理だけでは説明できない。 それは、エンデの親族体系を構成するあと二つの原理、すなわち、 「モースの原理」と「アキカエシの原理」によって説明されたのである。
ニーダムはレヴィ=ストロースの議論を発展させることを企てた。そのためには実際に母方交叉イトコ婚(不均衡同盟)を見る必要があった。彼は「規定」(prescription)と「選好」(preference) という区別をもちだし、なんとかそのような社会を探しだそうとした。それが不可能である事に気づいたニーダムは、親族名称 (kinship terminology) の中だけに、理想の母方交叉イトコ婚の楽園を見出した。
今回の発表を含む一連の論考から明かになったのは、エンデの社会は、ほとんど母方交叉イトコ婚を行なわないにも関わらず、彼らはつねに母方交叉イトコ婚によって成り立っている社会を想像している、ということだ。エンデの人びとは母方交叉イトコ婚の夢を生きているのである。