エンデにおける「生命の流れ」の考え方
2025-11-05
比較の領域としての東インドネシア(van Wouden 1935)の最も重要な特徴は、三分法、すなわち、自己のグループ (OG)、およびそのワイフ・ギバー (WG) とワイフ・テイカー (WT) という三分法が社会の基本となっている点である。三分法の根底にあるのは WG/WT 関係である。
フォックス (1980) は、東インドネシアのさまざまな民族誌に基づいて、 WG/WT の関係を「生命の流れ」として捉えなおした。生命が WG から WT へと流れるのである。後の論文で、フォックスは、これまで「ワイフ・ギバー」と訳されていた語を、それぞれの民族誌の中で読み直すことで、 “Progenitor” と訳すことを提案している (Fox 2006)。ある集団にとっての WG (集団)はラインをなしているのだ;そのラインは世代を越えて当該の集団を「生成」しているのである。
以上の背景のもとに、エンデの民族誌を見ていく。エンデにおいてもファン・ワウデンの言う三分法、あるいは基本となる関係、WG/WT 関係が見られる。しかし、いくつかの点で WG に関して、「不自然な」民族誌的事実が存在する。その一つが「男(父)の背中」と呼ばれる WG である。説明しよう。エンデでは自己のグループ(OG)を規定する WG に二種類あるのだ。確かに、ファン・ワウデンも、またフォックスも、東インドネシアに時おり(ロティ、ケマック、マンバイなどに)みられる OG を規定する二種類の WG について述べている。 WG (代表例として MB を挙げられよう)と、 WG の WG (MB の MB、すなわち MMB)である。 MMB が「生命」を MB に与え、その MB が「生命」を「わたしたち」(OG) にあたえるのだ。二つの WG は言わば「生命の路 (the path of life)」 [@fox-80c: 119] をなしているのである。自然な「二つの WG」の選択となっていると言えよう。
ところが、エンデでは二種類の WG は、 MB とMMB ではなく、 MB (「女(母)の背中」と呼ばれる)と FMB (「男(父)の背中」)なのである。この二つの WG の間には「ライン」は存在しない。
エンデで「男の背中」(FMB)という WG が選択されるのは、いったいどのようなロジックに基づいているのか、その答をさぐるのがこの発表の目的である。出発点は、東インドネシアという領域の中での、エンデの持つ特異さからはじまる。それは、エンデには(属性で定義される)集団(たとえば「氏族」、「リネージ」などなど)が存在しないという点である。エンデでは、集団はつねに錯綜する関係の中で、より正確には錯綜する交換の中に、浮かぶ儚(はかな)いものでしかないのだ。そのような交換が、「女の背中」だけでなく「男の背中」をも必要とするという点を論証していきたい。
今回の発表で焦点をあてるのは父の「源」(FMB)、あるいはエンデの言い方を借りれば「男の背後」(rhonggo ata xaki) である。
次の図を見てほしい:
+------+
| |
m f ====== m
| |
| +----+ |
| | | |
m m f == m
| | |
| | |--+
| | | |
m m m f == m
A B C D
D が C の女性と結婚する状況である。 D は婚資(婚資)をつぎの3つのグループに支払う。(1)C、すなわち、女性が属している出自集団である。この集団への支払いをしばしば「イネ・アメ」(母と父の分)と呼ぶ。1 (2)B すなわち、C のグループのワイフ・ギバー (WG) である。花嫁からみれば、母のワイフ・ギバー (WG) である。このグループをしばしば「女(あるいは母)の背後」(rhonggo ata hai) と呼ぶ。そして(3)A すなわち、C のグループの一世代前のワイフ・ギバー (WG)、あるいは花嫁の父のワイフ・ギバー (WG) である。このグループを「男(あるいは父)の背後」(rhonggo ata xaki) と呼ぶ。
| 人 | 嫁から | 名前 | 直訳 |
|---|---|---|---|
| C | 自身のグループ | 「イネ・アメ」 | 母と父 |
| B | ワイフ・ギバー (WG) | 「ゾンゴ・アタ・ハイ」 | 女の背中 |
| A | 父のワイフ・ギバー (WG) | 「ゾンゴ・アタ・アキ」 | 男の背中 |