Sun May 23 12:24:08 1999
異文化を理解する。一種の哲学である。人間とはなにであるか、を実証的に考える。文化—公共性が人間の必要条件だ、という思い込み。ここが哲学と違う。
ある意味で、「他者」を前提とする想定する学問である、ということもできる。1
その意味でマーケッティングと似ているのかも知れない。「他者としての顧客」(eg. 高齢者)、「顧客を創造する」(P. ドラッカー)
高齢者へのマーケティングをつねに念頭において聞いて頂けると、理解が用意かも知れません。
人類学というのは、自分の専売特許が何なのか、について自信のない学問でもある。しかし、あまりにその非理論性に声高に主張する人はいないが、やはり、「フィールド・ワーク」を挙げるしかないのかもしれない。
たとえば……
「あなたの理論的な傾向は?」(機能主義、構造主義、開発と人類学、観光人類学、その他)
「あなたのフィールドは?」
そのフィールドワークもじつは、人類学の誕生当時はなかった。人類学は、いわば、「文化の考古学」にすぎなかったのだ。そして、生きてはいるが、死んだものとして、西洋以外の文化が標本化されていったのである。
アームチェアー・アンスロポロジー
フレーザー『金枝篇』その他。_EM(進化論・伝播論)にあわせての、 (宣教師、植民地行政官、探検家によって出版された)民族誌のパッチワークとしての人類学。
参与観察(participant observation)・長期滞在・言語の獲得・トレーニング
フィールドワークの意味を明らかにするのは、「人類学者が嫌っている」といわれるアンケート手法との差異によって示すのがてっとりばやいやり方でしょう。
アンケートの場合は、あらかじめ問いがあり、答えは選択肢である。アンケートの方法が、といういみではなく、アンケート自身がめざすものが、という意味で。
人類学者は、「あらかじめ申請した研究題目とちがう成果をもってかえる」ので、基金拠出者の評判がわるい。それはすべてフィールドワークの結果なのだ。
仮説はある。仮説がなければ、モノはみえない。— レントゲン、
続く二つは、マーケティングと一番結びつけにくい部分かもしれません。しかし、このような部分ぬきに、話をすることは、たとえ、異種格闘技の舞台でも、人類学者はできないのです。あしからず。
卒業論文で、ティモール島をした。修士論文でスンバ島をあつかった。それで、博士論文ではフローレス島を扱いたかったから。
なぜ、ティモール島を。オランダ語の200ページの論文を読んでしまい、これを捨てるにしのびがたかったから。
現在の学生は、じっさい行ってから決めて来ることが多い。もしかしたら、理想的な状況かも知れない。(そうでないのかも知れない)。
インドネシアは、(1) ジャワ、(2) その他の大きくて、有力な島 (バリ・スマトラ・スレウェシ)、そして (3) 外島 の区別が大きい。
1979年当時、町と村の格差が大きい、と政府に意識された。たとえば、(当時唯一の)TV局(NHKのような局)の番組で、コマーシャルが禁止された。といっても、村では、少なくともフローレスの村では、テレビはまったくなし(現在でも)。
マレーシアへの出稼ぎ。しかし、そのわりに、市場経済の影響は少ない。出稼ぎの金 –> 婚資経済へ入る。(婚資については後述)
:宗教、神話・儀礼・社会組織(土地の主、愚かさと賢さ、異邦人)・結婚(すでに研究が積み重ねられていた)、象徴的類別(聖・俗、男・女、右・左 等々)
ところが……
交換を知ること。たとえば、…