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わたしは、東インドネシアのフローレス島の中央部に住むエンデという人のもとで四半世紀にわたるフィールドワークを行なってきました。1980年代の後半から、マレーシアへの出稼ぎがたいへんに目立ってきました。この発表は、2004年の9月に行なったボルネオへの出稼ぎ調査旅行の報告です。
2004.09.07 KK (サバ) 2004.09.10 KK — サンダカン 2004.09.12 サンダカン — スカウ 2004.09.13 スカウ — センポルナ 2004.09.15 センポルナ — タワウ 2004.09.17 タワウ — KK 2004.09.20 KK — ミリ(サバ — サラワク) 2004.09.22 ミリ — クチン 2004.09.24 クチン — KL — 日本
1980年代に私が調査をしたころ—「東のほうに女だけの島がある」1980年代も後半になると、エンデでさえ、村には「女だけ」の状態になった
東の地域(ソロール、レンバータ、アドナラ)—サバ(ボルネオ)西の地域(エンデ)—半島部
南海岸(ズパドリ村周辺)— 1980年代から、多数北海岸(ラテスバ、ムクサキ)—遅れているし、少人数だ(肥沃だからか)(ブトン人が多い、パルエの人もいる)
30人から40人をリクルート国境まで(スラバヤ・ジャカルタ)海のテッコン(インドネシア人)陸のテッコン(マレーシア人)
名前 | 年齢 | 期間 | 給料 | 換算レート |
---|---|---|---|---|
ソンド | 55 | 1989–93 | 12 | Rp 700 |
レッエ | 45 | 1986–96 | N/A | ? |
ミケル | 45 | 1991–93 | 12 | Rp 600 |
ブブ | 40 | 1989– 91 | 12–13 | |
アドベ | 40 | 1993–95 | 25–28 |
年 | 円 | ルピア |
---|---|---|
1979 | 1 | 3 |
1988 | 1 | 12 |
1992 | 1 | 16 |
1996 | 1 | 21 |
1997-08 | 1 | 20.05 |
1998-07 | 1 | 100 (?) |
1998-12 | 1 | 64.5 |
1999-12 | 1 | 66.9 |
2001-08 | 1 | 76.5 |
2002-03 | 1 | 75.5 |
一年前 | 現在 | |
---|---|---|
豚 | 300 | 400–500 |
水牛 | 700–800 | 1000–15000 |
馬 | 250–300 | 600 |
鶏 | 5–10 | 10–25 |
米 | 1 | 2–3 |
コーヒー | 2.5–5 | 20 |
エンデには、16世紀、カトリックとイスラムとが
ほぼ同時に渡来しました。
今は、海岸部のムスリム(イスラム教徒)と
高台のキリスト教徒という図式があります。
1998年1月に中国人相手の暴動が起きました。
1511 マラッカ陥落(〜ブルネイ) 18c末から19c始め イギリスの海峡植民地開拓 1824 英蘭条約:英領(シンガポールとマレー半島)と蘭領が分割 1841 イギリス人、ジェームズ・ブルックによるブルック王国の設立 1881 北ボルネオ特許会社の設立
1948 マラヤ連邦(イギリス領マラヤ、ペナン、マラッカ)の成立 1957 マラヤ連邦の独立 1963 マラヤ連邦、シンガポール、サバ、サラワク〓マレーシア 1963(?) コンフロンタシ 1965 シンガポールの分離独立 1971 ブルネイの完全自治(1984 独立) 1981 マハティール首相就任
マレー人〜半分以上インド人〜1割弱(シークも、スリランカ系の仏教徒もいる)華人〜4分の1(福建 40%、広東 20%、客家 20%、潮州 10% その他)
サバ・サラワク〜純粋なマレーはほとんどいない(サバのカダザン・サラワクのイバン)
(以上『地球の歩き方』より)
1998年に半島に出掛けた。半島にいるエンデ人たちをさがすためだ。
パミット・クルジャ(就業許可書)は半年くらいしてトケが
ウルスしてくれた。500ドルだ。パスポートは自分で処理で
きる。モセス「むかしは、アゲンに頼んでたりしたが、必要な
金額の2倍くらいとられることもあった。1000ドルで済むはず
が、2000ドル払ったこともある。」バグン(建築)のパミット・
クルジャは、クブン(プランテーション)やラダン(畑)のよ
りも高いそうだ。
RM 1はいまシティアワンで3400ルピアだ[ほんとかな]。
クアラルンプールまで行けば5000ルピアになる[うそ!?]。
モーセスに、彼の来たばっかりのころ、1991年頃のレートを聞
いたら、RM 1 が 800 ルピアくらいだという。[ルピアのレー
トをわすれてしまったけど、むかし1円20ルピアだったから、
仮に1円50ルピアだとしよう。1リンギットは35円くらい
だから、1750ルピアくらいでしょうね。でも、もし RM 1
= Rp 5000 がほんとだとしたら、1円が150ルピアくらいに
なっている、ってことだよね。でもありうるのかもしれない・・]
[ラウスとベネ]マレーシアに入ってからは、ローリ(輸送
車)に乗せられて、まっすぐこのクブン(プランテーション)
に来たんだ。ローリの中には何十人もいたよ。上から覆いをか
ぶせられた。ポリシー(警察)に見つからないようにだ。食事
は差入れられた。タッイ・シンギ(大便小便)は我慢した。ま
る一日24時間くらい[?]我慢し続けさ。
ジャワ人とはつき合わない。性があまりあわないからだ。べ
つに喧嘩をするわけではない。KLでは、そんなことがあった
ようだ。とくにマドゥーラとらしい。バグン(建築)の現場な
どで人が多いとそんなことが起きるんだろう。ここでは、見た
通り4人しかいないからそんなことは起きない。聞いた話では、
いつもフローレスが勝っているという。殺されたフローレス人
は一人だけいる。
さいしょは、同じ村の友達が誘ってくれた。ガラップ(人集め仲介人)という分けではない。彼について来たんだ。彼は1989年にもういっていたんだ。私が出発したのはたぶん1991年だと思う。同じ地域から15人くらいやってきた。エンデの町について、船に乗った。そのとき、もう50人くらいだったと思う。
スマトラまでいった。そこから小さなボートに乗るんだ。
12人乗りだ。7時頃出発して、夜中の3時頃ついた。ほんと
なら2時間くらいで着くんだが、エンジンが壊れて、こいでた
から遅くなった。こいでいたのは、ボートの持ち主だと思う。
「ボートの持ち主にもお金を払うのか」「いや、テッコン(仲
介人)にだけだ」「テッコンにいくら払ったのか?」「じつは、
おれは払わなかったんだ。さっき言った友達が払ったらしい。
あとで聞いたら何百リブだとかいう話だ」
テッコン・ラウト(「海の仲介人」)のつぎは、マレイ
シアについて、テッコン・ダラット(「陸の仲介人」)だ。私
の場合は、タクシーとトケ(「雇主」)のもっている車とでいっ
た。(Hendeたちのローリとは大違いだった)。
一回インド人のトケと働いたことがある。5ヵ月まではよかっ
たんだけど、6ヵ月目になって、トケがちっとも顔を見せない
んだ。コタ(トルック・インタン T. Intan)に住んでいるの
はみんな知っているのだけど、家までは知らないんだ。けっきょ
く一ヵ月分の給料を踏み倒されてしまった。
最後にバングン(建築)の仕事にありついた。一日32
ドルだった。最初は20数ドルだったんだけど、だんだんあがっ
て、32ドルまでになったんだ。「なにか特別な名前がついて
る?」[サレ先生の論文によれば、tukang になると、給料が
高くなると書いてあったので。]いや、ない。ほんとにトケか
ら信頼されるようになったら「スーブ」になれるんだ。
[sub-contractor だろう — これもサレ先生の論文から]
エ
ンデからの人間でスーブになったのもいる。ふたりかな。一年
くらいでなれてしまうものもいる。要するに、トケから信頼さ
れることが第一なんだ。そうすると、pemborong みたいにでき
るんだ。彼が、たとえば、いくつかのビリックをうけもって、
その分のお金をトケからもらうんだ。そして、それを給料とし
て、自分の部下にわけるんだ。「彼は働かないのかい」「いや、
もちろん、自分でも働くさ」
このトケのときに始めて書類(パミット・クルジャとパスポー
ル)を手にいれたんだ。
今は、ハラム(非合法)のインドネシア人を雇っている
と、マジカン(雇主)までも罰金を払わなくてはいけなくなる
[ここで罰金の金額を言ったけど、よく覚えていない。あんま
り高くなかったような400ドルくらいかな]。そのうえ、2年
間のプンジャラ(牢獄)だ。
フローレス人はラジン(勤勉)でいい。それにクリスチャ
ンで、私と同じだしね。私はあんまりイスラムは好きではない
んだ。フローレス人は、私に対するときもホルマット(尊敬)
してくれる。
バングラデッシュにハラム(「非合法」)はいない。国
が遠いから。みんなバングラデッシュ国家がやる。
タイ・ミャンマーもいる。たいていハラムではないけど、とき
どきハラムのもいる。
二つクブンをもっている。一つは父の代からのだ。そこ
にはバングラデシュの人間が4人働いている。フローレスの人
間が働いているクブンはわたしが買ったものだ。8年前に始め
た。広さは10エーカーある。バングラデッシュの人が働いてい
る場所もおなじくらいの広さだ。
むかしえびの養殖 (ternak udang harimau) をやってい
たことがある。パンコルじゃない、この近くの海岸でだ。日本
への輸出用だ。私が直接売るのは中国人のエージェントだ。
その場所を買った中国人は、日本人にセワ(「賃貸」)
しているそうだ。その日本人はシティアワンに住んでいる。4
0か50くらいだろう。私は会ったことはない。その日本人の
おとうさんもえびの養殖をしていたことがあるそうだ。シティ
アワンに住んでいる日本人は彼だけだろう。
シティアワンは10年、15年前はたいしたところでは
なかった。車もこんなになかった。シンガポールにHQを置いて
いたネーヴィーが移って来たんだ。いまではシティアワンにH
Qがある。それ以来、賑やかになった。[子どもと奥さんの行っ
ているスィミングのレッスンもネービーの中だそうです。コー
チをしてくれるのは兵隊だそうです。なんとのどかな・・・]
クブンは、花や観葉植物、家のヒアサンになるようなものを栽
培している。シティアワンの他のクブンではクラパ・サウィ
(Kelapa Sawit, Oil Palm) が多いかもしれない。
ここの中国人はおおくアメリカやオーストラリアの大学で勉強
している。
妹二人はアメリカで勉強した。まだ結婚していない。
私は長男で、弟二人、妹が二人いる。すぐ下の弟は、いっしょ
にケブンをやっていて、いちばん小さいのがローリを運転して
いる。客の所まで植物を運ぶときなんかだ。
一番小さい弟はまだ結婚していない。すぐ下の弟はタイ
人(中国系)と結婚した。アメリカで知り合ったんだ。彼女は、
英語の他はタイ語しか喋べれない。マスターを持っているが、
Duduk di rumah saja(「なにもしないで、家のなかにいるだ
けだ」)。子どもはまだいない。でも教会にいくので、そこで
友達が出来た。喋っているのは英語だ。(結婚してからクリス
チャンになった。)
マレイシアには仕事がない。ここの中国人はおおく日本に行っ
ている。なぜか知らないが中国人だけだ。観光ビサで入国して、
そのままいすわるのさ。もちろん帰って来たら、パスポートを
とりあげられて、二度とマレーシアから出れないけど。それで
満足しているみたいだ。
さて、いよいよ2004年のボルネオ紀行だ。
2004.09.07 KK (サバ) 2004.09.10 KK — サンダカン 2004.09.12 サンダカン — スカウ 2004.09.13 スカウ — センポルナ 2004.09.15 センポルナ — タワウ 2004.09.17 タワウ — KK 2004.09.20 KK — ミリ(サバ — サラワク) 2004.09.22 ミリ — クチン 2004.09.24 クチン — KL — 日本
ひょんなことから KK ででくわした山下・清水組としばらく行動をともにするはめに。サバで調査をしていた阪大の上田くんもこの不思議なチームに参加する。
山下さんたちがクロッカー・レンジという場所でエコツーリズムを検討している日本人グループの調査をするという。なりゆきのままお伴する。
山下チームと別れて、いよいよ一人旅だ。目的地はタワウなのだが、ついでのことにサバの各都市を回っていくこととする。
最初はサンダカンへ行く。まぁまぁのホテルに泊まる。
サンダカンと言えば、「八番娼館」だ。「からゆきさん」の墓地に御参りする。観光ついでに、『地球の歩き方』に載っていた「カンポン・アエール」にも行ってみる。
スカウへ。山下さんのエコツアーに影響されて、わたしもエコツアーを試してみた。
場所は、サンダカンとラハド・ダトゥの間にある
スカウだ。
シノ・カダザンのハディさんの運転する四輪駆動に乗って、スカウへ向かう。借り上げなので、途上より道をいくつか。
ラガさんは、1962年にマレーシアにやってきた(コンフロンタシの前だ!)アドナラからタラカン、そしてヌヌカンへ(移民局)ヌヌカンからタワウに入り、タワウからサンダカンへ来た
最初にマレーシアにやってきたのは、1962年のことだ。たぶん 25 歳くらいだったと思う。一人で来たわけではない。いっしょに沢山の人間がアドナラからやってきた。 Lembata の人間の船 (perahu) に乗る。帆 (layar) を使ってはしる船だ。大きい船で、中には多分 300 人ほどが乗りこんでいただろう。 19 夜かけてタワウ (Tawau) まで来た。 (そのころはまだマレーシアではなく、英国支配下にあった。) オーセーペーデ (OSPD? OCPD?) に行く。(ラガさんはここで「コグレッセン」という言葉を使っていた)。
タワウに着いてから仕事をさがすのだ。みなが、rumah putih に入れられた。そこに中国人がきて、数人を連れていくのだ。その中国人が責任をもって、パスポートを作成するのだ。最初に働いたのは、ゴム (getah) のクブンだ。白人が所有者だった。Orang putih punya.その辺のプランテーションはすべて白人のもちものだった。場所はタワウだ。
70 年代にエンデ・リオ・マンガライはほとんどいなかった。そのころいたのは、アドナラ、ララントゥカ、ソロール、レンバタだ。ブギスはいた。ジャワ人もいた。でもジャワ人はみな大人だ。若い男は来なかった。
スカウからセンポルナーへ向かう。
9月13日(月)ハディさんの自動車で、スカウからセンポルナーへ向かう。
山下さん御推薦のエコツアーの村、ミソワライに着く。
さらに行くと、ブギスだけの住んでいる街に着く。
ここはバジャウの街だ。
インドネシア人が、それも「とっても黒い」インドネシア人がいっぱいいると評判の街タワウだ。今回の旅行の第一の目的地である。
午後から早速カトリックの教会へ出掛ける。コスマス・リー神父とのインタビュー。
タワウの教会の出来たのは 1922年だサバには三つの Keuskupan (KK、ケニンガウ、タワウ)があるタワウには 30 の stasi がある。そのうち 25 がインドネシア人だ。よく教会に来るインドネシア人は5000人ほどだろう(全部で2万人くらいではないか)
信者の三分の一がインドネシア人三分の一がフィリピン人三分の一が地元民(中国人とカダザン)
その日、教会でタワウの KPI (Komiti Pastoran Indonesia) の pengurus のガブリエルさん(レンバート人)とインタビューをすることができた。
エンデ人は KPI には入っていないエンデ人とソロール人は、tidak mau melibatkan diri dengan kita
レンバタ (Lembata) で生まれた。
1977 年にマウメレの Sekolah Pelayaran (setingkat SMA) を卒業した。
1979 年に船に乗りこんだ。Pembantu Kapal
である。船の航路は、ララントゥカ、パレパレ、ヌヌカンである。基地はパレパレである。同じ
1979
年に、ヌヌカンからタワウに入った。女性をつれていた。結婚はまだしていなかった。タワウに入ったのは一人でだ。ヌヌカンとタワウを行ったり来たりする友だちがいたので簡単に入れた。
ここに来てから 3年間でこどもが4人生まれた。4 人目が生まれたときにインドネシアに帰った。Kunjungan keluarga だ。「エンデの人は、マレーシアから帰るとしばしば家を建てるのだが、あなたの場合はどうだ?」「家を建てることはしなかった。父親の墓をきれいにした。」一番目のこどもはすでにマレーシア国籍を獲得した。わたしたち(親)はまだだ。彼は、クリニクで働いている。名前は Nursia という。
ここではみなアドナラ語を使っている。アドナラというより、ラマホロット (Lamaholot) と言うべきだろう。アドナラとララントゥカのことばは近い。わたしの妻(ララントゥカ人)はアドナラをすぐに理解できる。なお、ララントゥカの町のあたりで使われているの(Bahasa Pasaran Larantuka)は、バハサ・ナギ (Bahasa Nagi) という。アドナラの人たちは、数は多いのだが、つきあいはない。ソロールもそうだ。
わたしはコンパニから仕事(プロジェク)をとってくる。建築 (bangunan) だ。コンパニの名前は、Hapsen だ。 Pekerja は 6人いる。彼らは階下に住んでいる。みな、レンバタの出身で、みな、コミティのメンバーである。
わたしのところの pekerja がもらっている給料は一日 10 リンギットだ。クダイ(店)で働いているのは女性が多い。彼女らがもらうのは、一日に 5 リンギットくらいだろう。ラダン(プランテーション)で働くと、一日に 7 から 8 リンギットだ。月に換算すると、250 くらいになると思う。ココ (cacao) のプランテーションは一日に 7 から 8 だ。油椰子 (kelapa sawit) の場合、重労働なので、もう少し高い〜おそらく 10 あるいは 12 から 13 くらいだろう。
ラダンの場合、なかなか給料をもらえないことが多い。2ヶ月、3ヶ月たって、やっと給料がもらえる。ときどき、給料を踏み倒されることさえある。その点、わたしのところはいいと思う。一ヶ月たてば、たいていの場合、給料は手に入る。
ロフィヌス (Rofinus) さんは36歳だ。マレーシアに入ったのは、24歳のときだという。1992年のことだ。仲間はいなかった。一人で入国した。レンバタから、まずホッケンにいったのだ。仕事をさがしていた。ホッケンの畑で仕事をした。一年ほどだ。ホッケンから、ヌヌカンに行き、そこからタワウに入ったのだ。レンバタのどこの出身だ。ガブリエルと同じところだ。彼とはキョウダイ (saudara) なのだ。
1999年にレンバタに帰った。持ってかえったお金でなにかしたか?たとえば家を建てたとか?ホッケンに土地を買った。その時にお金を持っていったのか?「その前には、送金はしなかったのか?」送金はしていた。銀行を使うこともあるが、コンスルを通すこともある。
KPI のメンバーの 1/4 がパスポートを所有している。問題は Pamit Kerja だ。 1 年間有効なパミットクルジャを持っているのは、25 パーセントくらいだろう。期限が切れたら、ヌヌカンに行くのだ。20 リンギットだ。一月有効なのはみな持っている。50 パーセントは持っている。これでは、ほんらいは、仕事をしてはいけないのだ。
この組織は、1992 年にインドネシアからウスクップが来たときにできた。彼の名前は、Antonius Pani Ratu だ〜アドナラ人だ。コミティは、サンダカンやラハッド・ダトゥにもあるはずだ。彼らは、KKKI という名前を使っていると思う。KKI は Kumpulan Kebajikan Katolik Indonesia の省略形だ。
タワウも最初は、KKKI だった。KKKI は menolong orang だけが目的だった。宗教活動も含めたかったので KKKI から、最終的に KPI に変えたのだ。1992年のことだ。 1992年3月12日に、KKSTI (Kumpulan Kebajikan Sosial Warganegara Masyarakat NTT Indonesia) が設立された。 2001年9月23日に、KKKI (Kumpulan Kebajikan Katolik Indonesia) に変更され、2003年3月3日に、KKI (Komiti Katolik Indonesia)、そして同年5月19日に KPI (Komiti Pastoran Indonesia) になった。
Name | Year |
---|---|
KKSTI (Kempulan Kebajikan Sosial | 1992.03.12 |
Warganegara Masyarakat NTT Indonesia) | |
KKKI (Kumpulan Kebajikan Katolik Indonesia) | 2001.09.23 |
KKI (Komiti Katolik Indonesia) | 2003.03.03 |
KPI (Komiti Pastoran Indonesia) | 2003.05.19 |
わたしは、KPI の役員だが、同時に、Komiti Tanah Perkeburan の役員もしている。墓に関するコミティだ。インドネシア人だけでなく全ての人が関連している。フィリピン人、カダザン、チナもみな入っている。わたしの場合だと、大人二人分で、年に 24 リンギットをおさめている。もし、亡くなった場合、コミティは大人であれば 200 リンギット、子どもであれば 100 リンギットをメンバーに与える。たとえ、コミティに入ってすぐであってもこの金額は変わらない。
この他に、教会に年に 10 リンギットを払わなくてはいけない。そうすると、教会が墓地を提供してくれる。墓地にはクラスがある。バトゥ 11 (Mile 11) にあるのは安い。ただだ。もしメンバーでなければ 200 払わなくてはいきない。もっと高いところもある。墓地の扱いは、migran gelap でも同じだ。
タワウからもう1度 KK に帰ってきた。こんどは山下さんたちもいないので、エトツアーの調査はしない。「東インドネシア」 ``Orang Timur’’ たちの調査だ。さっそく教会に出掛ける。
ソロール (Solor) の出身である。ソロールの海岸だ。西部ソロールだ。村の名前は、カラ・ワトゥ (Kara Watu) という。そこで大きくなった。マレーシアに入ったのは、9 Feb 1981 だ。友だちといっしょに出発したのだ。ぜんぶで 10 人いた。マレーシアについては、perantau (先にマレーシアに行ったことのある人)が教えてくれた。さいしょに、きちんと、村長 (Kepala Desa) と警察 (kepolisian) とで手続きをした。通行証明書を取得した。
小さなボート (perahu kecil) で出発した。乗っていたのは 30 人だ。その中にわたしたち 10 人がいた。その他の人はべつに出稼ぎに行くわけではない。そのボートでララントゥカ (Larantuka) に着いた。ララントゥカからベモに乗ってマウメレ (Maumere) に着いた。ここで、一人が病気になったので、彼を村に返した。これで、わたしたちは 8 人になったわけだ。年齢はさまざまだ。30 代もいれば、40 代もいた。結婚している男もいた。全員が男だ。女はいなかった。わたしはまだ結婚していなかった。テッコン (tekong) はいなかった。
マウメレからムルパティ(飛行機)に乗ってウジュンパンダン (Ujung Pandang) に着いた。ウジュンパンダンからさらに 8 時間ベモに乗って、パレパレ (Parepare) に着いた。ウジュンパンダンを出たのが朝の 8 時で、パレパレに着いたのは、夕方の 6 時だ。交通費は、ひとりひとりが払った。テコンはいなかったけど、ketua はいた。でも、彼がお金を管理していたわけではない。そこから彼らは船を用意して、わたしたちをある島にまで案内した。その島はすぐ近くで、岸から見えるくらい近くにある。「『彼ら』というのは誰のことだ?」「ブギスだ」。
そこでヌヌカン (Nunukan) に行くカパル・カユ (Kapal kayu) が来るのを待った。彼ら(ブギス)は可哀想に思ったのだろう、わたしたちに nasih kuning を配った。島で一晩過ごした。ここからボートで運ばれた。沖合で危い目に逢った。もう少しで大きな事故になるところだった。大きな波だった。途中で警察につかまった。べつに何をするわけでもない。お金が欲しかったのだろう。5000 ルピアを彼らに払った。「ひとり 5000 ずつ払ったのか?」「いや、全体で 5000 を払っただけだ」。
パレパレに着いたのは 12時半だ。(?)そこから小さな船(カパル・クチル)で出発する。大きな波、強い風が吹いた。操縦していたのはブギスだ。四日四晩その船に乗っていた。「いくら払ったのだ?」「ひとりあたり 20、000 ルピアだ。Makan minum はついている」
ヌヌカン (Nunukan) で一晩過ごした。ルカス (Lukas) という男の家だ。ソロールの出身の男だ。カリ・ワトゥ (Kariwatu) 村の出身だ。彼は、Lamakera timur でイスラムである。翌朝、ヌヌカンからタラカン (Tarakan) へフェリーに乗って行った。タラカンでは、ペトゥルス (Petrus) という男の家に泊まった。彼はソロールの出身で、移民局 (Imigrasi) で働いている。ここでパスポートの手続きをした。
一週間タラカンにいた。パスポートの手続きの料金は、一人あたり 25、000ルピアだ。ヌヌカンに行った。パスポートにチョク (Cok — cap didlm bahasa Indonesia) を押してもらった。ヌヌカンからフェリに乗り、タワウ (Tawau) に入った。1981年 2 月 9日のことだ。タワウからサンダカンに渡った。
タワウからサンダカン (Sandakan) へ入った。カカオ・プランテーション (kebun koko) のエステー (estate) だ。スピロック (Sepilok) の近くである。場所の名前は、Sekilandesa という。泊まっていたのは、ソロール出身の男、Andreas の家だ。ソロールから一緒に来た 9 人はこの時点でまだ一緒にいた。一週間ここにいたあと、別れ別れになった。
わたしを含めた 4 人は、コタキナバル (Kota Kinabalu) にやって来た。わたしの「兄」 (abang sepupu) が KK にいたからだ。サンダカンでの給料は、一日 5 リンギットだった。コタキナバルでは、一日 10 リンギットもらえた。両方とも中国人だ。コタキナバルでの仕事は、野菜 (sayur) だ。「兄」についていっただけだ (ikut dia)。野菜畑の場所は、KK から 10 バトゥ (10 miles) はなれたところだ。場所は、ムングタル (Menggetal) という。畑は、ムングタルからさらに 2 km 離れたところにある。ここにいたのは一年間だ。
Cari pengalaman だったので、仕事を変わった。次に板を作る工場 (Kilang papan) に勤めた。14 マイルのところにある。会社の名前は、Syarikat Kiong Tun Terading という。一日 25 リンギットの給料をとっていた。工場には多くのソロール人がいた。野菜畑→板工場→ココのプランテーション (kebun koko)→そして、welding で働いた。 Weldingというのは自動車の扉や窓を作る仕事だ。3 年間そこで働いた。給料をもらっていたのだ。一日 40 リンギットだ。会社の名前は、Benkel Terus Jadi という場所だ。Pasang pintu などをしていた。
1985 年から 86 年は、仕事をさがしていもなかった。この教会 (gereja) の仕事を始めたのは、1988 年 3 月 19 日からだ。仕事は、pekerja の supervisor だ。最初は、一月に 300 リンギット だった。いまは、一月に 700 リンギットもらっている。
彼女の夫は Orang Timur だ。彼は1955年以来マレーシアに来ている。(ソロールだったかな?)(今迄聞いたなかの記録だ!)彼女はジャカルタ育ちのジャワ人で、1974年の結婚以来マレーシアで暮している。
エンデもここにいるという。
メンバーはぜんぶで 819 人だ。トラジャ (Toraja) が半分、オラン・ティムールが半分の割合だと思う。トラジャは、女が多い。男は賭博 (judi) でもしているのだろう。オラン・ティムールで一番多いのは、(1) Adonara、(2) Larantuka, (3) Lembata and Solor である。レンバタとソロールはことばも同じである。ふたつの違いは、logat だけである。信者の総数 (umat paroki) は 2445 人だ。``Umat paroki’’ とは、kartu umat を持っている人間のことだ。
わたしはアドナラ出身だ。マレーシアに始めて来たのは 1976年だ。ヌヌカン (Nunukan) からタワウ (Tawau) に入った。最初は Pas Lintas Batas を使い、その後にパスポートに変更した。タワウに暫くいたが、後にサンダカン (Sandakan) に入った。しかし、わたしが自分の村(ソロールの村)出たのはもっと前だ。その話を聞かせてやろう。
わたしが自分の村を出たのは 1971 年のことだ。そのころわたしは Kapal
Tongkol
に乗っていた。Kapal Tongkol'' と言ってもべつだん
tongkol’’
を取る船ではない。そういう名前なのだ。チャーターの船に乗り、スラウェシ
(Sulawesi) 島のウジュンパンダン (Ujung Pandang)
に来た。仕事を探していたのだ (cari kerja)。年は 23
歳くらいだったろう。ウジュンパンダンにシンセキがあったのだ。ウジュンパンダンで仕事を探したが見つからなかった。その時わたしは、mama
kecil (小母さん)を連れていた。(長いはなしが続くが、省略)
コタ・キナバルからサラワクのミリに飛んだ。飛行場でイミグレーションの手続きをしなければならない。
Samling Company Shin Yang Company
この工場で働いている人数:インドネシア人の男: 405、女: 168 ローカルの男: 45、女: 4
国籍 | 男 | 女 |
---|---|---|
ローカルの給料 | 11 | 10 |
インドネシア人 | 8 | 7 |
昇給もある。5年までここにいられるので、かなり高い給料もとっているのもいる。一日 35 リンギットをとっているの人間もいる。(中島談)労働日を 26日とすると、一ヶ月の給料は 35 x 26 で 910 リンギットとなる。 食事も住居も支給されているので、これがまるまる手取りとなるわけだ。2万7千円、おそらく二百万ルピアくらいだろう。すべて貯金すればそれなりの稼ぎである。(中川)
リクルートは、agent 経由で行なう。インドネシア人は一人で来る。エージェントはクチン (Kuching) にある。エージェントがそのインドネシア人を3ヶ月保証するのだ。なにかあったときに、エジェントが責任をとるのだ。「なにか問題がおきたことはあるか?」「ない。むかしは、いなくなったりしたこともあるが…。」
ここで働いているインドネシア人は、ほとんどがポンティアナック (Pontianak) から来ている。サンバス (Sambas) という所だ。ジャワ (Jawa) 人も何人かいる。東インドネシアの人はいない。おそらく東インドネシアの人たちは、油椰子のプランテーションで働いているのではないか。
名前は Liana だ。21歳である。2001年 7月25日にここに来た。 Agent を通じてここに入ったのだ。会社である。P.T. なんとかと言う。サンバスの出身だ。村の名前は、Taman Saga という。 30人くらいいっしょにやって来た。 6人キョウダイがいる。わたしは 5番目だ。
サムリン (Samling) の持主は福州 (フッチャオ) の出身である。ここに福州はたくさんいる。福建の一部なのだが、ことばがまったく違う。サラワクの有力中国人系企業は、次の通りだ。 (1) WTK(シブ)、(2) RH (シブ)、(3) KTS (Kuching), (4) Samling, (5) Shin Yang, (6) Taa Aa. WTK は、ワン・トン・ケーとかいう名前だ。RH はマレー語の省略だった。
みな、Tibmer の集積地であるシブで(木材を)きっかけに財をなした。サムリンは 40年以上続く財閥だ。シンヤンはもともとサムリンの□□□に過ぎなかった。それが、この10年から15年のあいだにのしてきたのだ。サムリンとしては面白くはない。サムリンを除くとみなフッチャオだ。サムリンはハッカ (客家)だ。
「あんなに広大な土地を使う油椰子ってもうかるんですかね?」「もうかる、もうかる。だって、生産コストは 1トンで 850 リンギット、売値が、2100 リンギットだからな。値段は、マレーシア政府がいろいろ調整しているようだ。
昔の油椰子は、7年たたないと実をつけなかった。また、木の高さが 7メートルにもなった。新種の油椰子は、3年で実をつけ、高さも 3メートルにとどまる。油椰子の廃材はいまのところ何にも使えない。いろいろと実験をしていると聞いている。
サラワクには三つのディオシス (diosis) があり、三人のウスクップ (usukup) がいる。 (1) Kuching, (2) Sibu, (3) Miri だ。ここサラサクでは、歴史的に、オランダ人の神父が多かった。英国人もいた。フランス人の神父は半島にしかいない。