先行と階層

フローレス島エンデにおける母系性

Satoshi Nakagawa

1

エンデにおける母系性の機能のしかたを記述し分析することエンデは「母系制の社会」ではない母系性をささえるイデオロギーはない

エンデにおいて母系性が父系制と母方交差イトコ婚のふたつのイデオロギーの交錯の中でうまれることを示したいこの作業の中で先行(フォックス)とヒエラルキー(デュモン)の分析概念を使用する

エンデの民族誌にはいる前にこの二つの分析概念を紹介しよう

2 先行と階層

「先行」(precedence) は 1989年のジェームズ・フォックスが論文「カテゴリーと補完 (Category and Complement)」の中で提唱した分析概念であるとりわけ東インドネシアという「民族学的研究領域」 (ethnological study field) (ethnographische studiefeld)

(Fox 1989) (Vischer (ed) 2009) (Fox 1980)

先行という分析概念は役にたった (Fox 1989) オーストロネジアンの社会、とりわけ東インドネシアの社会を分析するに際して。たとえば (Vischer (ed) 2009) を見よ。

(Fox 1989)

「先行」という概念はとても成功したので、フィールドワーカーは(東インドネシアでの)フィールドでみつけた順序概念をすべて「先行」として考えがちであるわたし自身もそうする誘惑にかられたしかし、じっさいにそうするとある居心地のわるさを感じた。たしかに、種々雑多な民族誌のラベルが一つの分析概念におさまることによる快感はある。さらに、それらを他の地域の雑多な民族誌的概念と比較ができることは素晴しいことだ。しかし、それらの概念には重要な相違があるのに、その相違が(「先行」として把握されることによって)無視されてしまうからだ

わたしが思うにそろそろ「先行」概念はひきこもりをやめて、世界と向き合うべきだとりわけ「階層」(デュモン)との相違について明確にしなければならない

2.1 「先行」と「階層」についてのアチアイオリの解説

(Dumont 1970) (Acciaioli 2009)

ここではデュモンの「階層」という分析概念をとりあげ、それを「先行」と比較するこの節の議論はアチアイオリ (Acciaioli 2009) にもとづく。

出発点としてアチアイオリによる「階層」の要約をひこう。階層は1つの価値 (unitary value) からなっている、そして、その価値における単一の差異化を再帰的に適応することによって、システムが生成されるのである浄と不浄 (purity and pollution) は1つの価値 (purity) に対して差異化 (pure and not pure) が適応されるそしてそれは再帰的にされるのだ

インドのカーストシステム(「階層」の生まれた土地)において一つのカーストが浄とされ、もう一つが不浄とされるなぜなら、前者にはより多くの「浄」があるからだ。単一の価値(浄)の差異化(おおい/少ない)階層のシステムで問題となるのは「量」あるいは「程度」であることを確認しておきたい階層システムの根本的な原理 (rationale) は継続的な 排除 (exclusion)である、と。

Recursive bipartition

この点において、わたしはグレッグとたもとを分かつこのシステムは排除 (exclusion) にも使えるし、また 包含 (inclusion) にも使える、私がこの発表で強調したいのはこの点である

(Acciaioli 2009, 58: 58)

つづいてグレッグは先行について述べるグレッグは先行における対立(あるいは価値)の多様性を強調するこの点において、先行は階層とは異なる(とグレッグは主張する)わたしは、むしろ、先行における価値の非在を強調したい先行のシステムにおいて、二つのものが区別されるのは、二つに強調するものがないからである。先行のシステムは質の違いが重要なのだ

階層 先行
対立 量的 質的
目的 排除 包含
階層 先行
対立 量的 質的
目的 排除/包含 排除/包含

2.2 「同じ」と「違う」

同じ 違う
階層 与件
先行 与件
階層
先行

(Fox 2009)

ヒエラルキーおよび先行に共通して大事なことは1つの項目がもう1つの項目よりも価値づけがされている、ということである(Fox 2009)。二つのシステムともに価値の体系なのである。

ヒエラルキー体系における価値づけは次のとおりである。 ab に優越している、なぜならば a のほうが価値をもっているからである。先行の体系においては以下のようになる。 ab と違う。説明おわり。「違い」についての更なる説明は存在しない。

3 エンデにおける親族体系

冒頭で述べたように、この論文の目的はエンデの親族体系を(先行と階層の概念をつかって)記述・分析することである。

エンデの人々は東インドネシア、フローレス島中部に住むオーストロネジアン系の言語を喋る人々である。

エンデの親族体系は2つの原理からなる — 1つは父系制であり、もう1つは母方交叉イトコ婚である。。議論を単純にするために以降の親族の議論は(そうでないと言わない限り)男性の視点からなされる。

母方交叉イトコ婚自身はめったに行われないにも関わらず、それを支えるイデオロギーはエンデの社会的世界を整理するための原理として機能している。この整理の結果として、姻戚が二種類に分かれることになる。ワイフ・ギバー(妻・嫁の与え手)とワイフ・テイカー(妻・嫁の受け手)とである。ワイフ・ギバー・ワイフ・テイカーの関係(以後 WG/WT とあらわす)は世代をこえて維持される。

3.1 包含としての父系

父系的に関係している人間が1つのグループに属す、と考えられている点において、エンデは父系社会であると言える。父系集団の成員は、同じ祖先から「降りている」(ワッウ)と言われる。父系集団を貫く原理は「ス・アテ」 se atE 「1つの心」である父系集団の成員同士の関係は「同じ」である。すなわち「包含」 (inclusion) がこの集団の原理なのである。

父系集団は「1つの心」なのであるから、成員同士 (AG/AG) で交換すること/結婚することは考えられないことである。なにかが成員の一人からもう一人へと渡るとき、それは「与える/もらう」(pati/simo) として語られることはない。それは「分かつ」 (bagi) なのである。

繰り返そう — 父系的に関係する人間は1つの集団に属するとみなされている。彼らは出自を共有しているのだ。それにたいして母系性を支える明示的なイデオロギーは、エンデには、ない。【蛇】リオでは「体」(テブ)(鰻の体、ネコの体、その他)が母系をつうじて伝えられる。それでもエンデにおいて母系性はさまざまな場面において顔をだす。イデオロギーに支えられた母系を「母系制」と、そうではない母系を「母系性」と呼ぶ。

3.2 排除としての父系性

(先行にもとづく)集団の内部において、階層が垣間見える。その階層は系譜の考え方によって生成されたものである。ただしここで問題になる系譜は年齢・世代にもとづくものである。もっともすなわち、弟と兄 (「アリ」と「カッエ」)の間の関係である。兄は弟にたいしていろいろな意味で優越している。このヒエラルキー(年齢)にもとづいて、エンデの父系集団は分節化の傾向をもつ。年上の祖先からの子孫が年下の祖先からの子孫より優越するのである。かくして年齢という原理によって、体系は排除の原理として機能するのである。

父系集団の重要な点は(排除としてはたらく階層にかかわる区分はあるが、)もっとも重要な点は成員同士で一つの(理想的には)調和した全体を構成するということである。なぜなら、彼らは「1つの心」(ス・アテ)だからだ。父系親族の間の関係は「アリ・カッエ」と呼ばれる。階層としての父系の原理は包含なのである。

3.3 インセキ関係

自分の父系親族(アリ・カッエ)の外側では、どの人間とも出自を共有しない。彼らは違った人なのだ。 かくして、この父系という説明システムでは、「同じ」が与えられており、「違う」が推論すべきものなのである。

ab とは違う。なぜならば、 aA という集団に属しており、 b はそうではないからだ。

シンセキ関係(AG/AG)に並んで、エンデで重要な親族関係がある。ワイフ・ギバー(カッエ・ウンブ)とワイフ・テイカー(ウェタ・アネ)の関係(WG/WT)である。アリ・カッエとアリ・カッエの関係(AG/AT)が基本的に平等主義的であるのに対し、カッエ・ウンブ(WG)とウェタ・アネ (WT) の関係はそうではない。 WG は圧倒的に WT に対して優越しているのである。

カッエウンブ (WG) のウェタ・アネ (WT) に対する優越は様々な場面であきらかになる。 WG が WT に何かを要求したとしよう。 WT はあらゆる手段を講じてその要求に答えることが期待される。そうしなければ、WG は WT を呪うからだ。

ある人間にとってもっとも重要なカッエウンブ (WG) は母の兄弟 (MB) である。ある人間に「おまえのカッエウンブ (WG) は誰だ」と聞くと、たいていの場合、彼は彼の母の兄弟 (MB) の名を答える。母の兄弟 (MB) は、彼の母親の生家の代表者なのであるから。

母の生家(母が属していた父系集団)を、エンデ語で「カッエ・ウンブ・プッウ」、「根幹のカッエ・ウンブ」と呼ぶ。母の兄弟 (MB) がプッウ(根幹)であり、姉妹の息子 (ZS) がゾンボ(若芽)なのである。

(Fox 1971) (Fox 1994)

カッエウンブ (WG) とウェタ・アネ (WT) とは属性(出自)を共有していない。その意味で、この関係は先行(precedence)の関係と呼ぶべきだろう。エンデの文化において、カッエウンブ (WG) とウェタ・アネ (WT) は、それぞれにとっての他者の典型的なあらわれなのだ。この関係を貫く倫理は「おたがいに協調する」(パパ・パウェ)である。パパという語は「側」を意味する。

ス・アテにおいては(「ス」の語が示すように)一つの項が強調される。それにたいしてパパ・パウェでは、二つの項があることが重要なのだ。また、二つの項があるということは、「協調」の努力がなければ、つねに二つが断絶する(パパ・ロッイ、義絶の)危険があるということでもある。義絶の修復(パパ・ワゼ)には儀礼的手続きが決められており、その手続き(贈り物交換をふくむ)を経て、はじめて、二つの「側」は「協調」の関係に戻れるのである。この修復儀礼がなされるまではウェタ・アネ (WT) はカッエウンブ (WG) なしの状況にいることとなる。カッエウンブ (WG) がいないというのは、エンデの人々はいう、「まるで妖術師(アタ・ポゾ)になったようなものだ」と。

WG/WT の関係は、とりわけ、交換が行なわれる関係であるその交換は「与える」(パティ)と「受け取る」(シモ)という語で表現される。先行としての WG/WT の関係とは排除の関係なのである。

3.3.1 包含

(フォックスもアチアイオリも主張するように)(Fox 1994) (Acciaioli 2009, 59: 59) 先行の目的 は同化 (assimilation) とグループの編入 (incorporating groups) である。

エンデにおいて WG/WT は基本的に排除のメカニズムである。不連続であるがゆえに交換が可能なのだ。ところが、エンデにおいて WG/WT が包含のメカニズムとして作動することがある。ここはいらないんじゃないかな問題となる場面は婚資交渉の場面である。交渉の場面はエンデ人による記述「待つ人々 (ata napa) vs 来る人々 (ata mai)」をつかうと分かり易い。交渉の前日、花嫁側の村で物語ははじまる。当日、嫁のグループが唯一の「待つ」人々であり、彼らのウェタ・アネ (WT) を待っている。 WT が来ると、彼らは「待つ」人々に同化される。その日がおわる頃にはすべてのカッエウンブ (WG) たちは同化され、一つの大きな「待つ人」になる。そして、彼らは最後の「来る人」、すなわち花婿のグループを待つのである。このグループ(花婿のグループ)は、花婿のグループおよび(それまでにそのグループに同化された)彼ら自身のウェタ・アネ (WT) が含まれている。

待つ人、来る人

(Fox 1994) (Acciaioli 2009)

かくして、先行としての WG/WT 関係は包含の原理として働く。ただし最後の対立(花嫁側と花婿側)は一つになることはなく、同化は起きない。それでも次回、たとえば、花婿側の女性が結婚するとき、花嫁側の人間たちは、花婿側にとっての「来る人」になり、交渉の場面において、いずれ「待つ人」へと同化される。

先行は基本的に排除のメカニズムとして働くのだが、場面にほっては包含のメカニズムともなる。

4 先行と階層の相互作用

これまでの所、もし、インセキ関係 (WG/WT) を先行と捉えている限り、わたしはフォックスおよびアチアイオリの議論から大きくは逸脱していない。この脈絡で言えば、階層としての *父系制はまったく独立した別の原理と見えるだろう。父系制はインセキ関係とはまったく別のフィールドでまったく別の方法で作動している原理のように見えるだろう。

実のところ、この二つは密接に絡みあっていることを、この章では示していきたい。

4.1 偽装した父系性としての母系性

インセキ関係 (WG/WT) の重要な用語、「カッエ・ウンブ」について見てみよう。ワイフ・ギバーをあらわすエンデ語は「カッエ・ウンブ」であることは既に書いた。一語一語の意味をかんがえると、じつは、いささか不自然な言葉づかいであることがわかる。「カッエ」 (ka’E) は同性の年上のキョウダイ(ここでは「兄」を典型例とする)である。「アンブ」 (embu) は祖父母をあらわす。この言葉づかいでは先行のなかの卓越性が階層のなかの卓越性(年齢と世代)の中で表現されている。

「カッエ」(および「アリ」)についてさらに考察してみよう。(以下、親族名称の説明の中の話者は男性とする ms)「カッエ」の典型的例は、たしかに、「兄」(eB ms) が適当であろう。「カッエ」はさらに、同性の父方並行イトコ (FBeS ms) を指す。もうひとつ重大なことは、母方並行イトコ (MZeS ms) も指す、ということだ。

父方並行イトコ FBS/FBS
母方並行イトコ MZS/MZS

もしそれが単に親族用語の問題であるのならば、わたしたちはそれを歴史的な偶然として無視すればいいだろう。しかし、エンデの人々はあたかも母方並行イトコ (MZS/MZS) がシンセキ(父系の親族)であるかのように行動するのである。じっさい、母系的に関係しているアリ・カッエ (ari ka’E) が、父系的なアリ・カッエ同様に前面にでてくる場面が多々あるのである。

父系的に関係している人びとは一体であると考えられている。なぜなら彼らは出自を享有しているからである。彼らは同じ祖先から出自 (descent) している(ワッウ — 「降りている」)からである。父系的に関係している人は「同じところから降りている」 (wa’u bou) のだ。

いっしょに降りる(wa’u bou*)

エンデでは、ある人にとってその人の母の兄弟 (MB) は最も重要な他者、ワイフ・ギバーである。あなたの母の兄弟は「あなたの根幹」(プッウ)である。あなたは、あなたの母の兄弟から由来する (come from) (マイ — 「来る」)のである。あなたが死んだとき、あなたの「頭」(ウズ)(じっさいは贈り物)があなたの母の兄弟へと渡される。 MZS/MZS は同じ「重要な他者」を共有しているのだ。エンデの人はこれを「いっしょに来る」(mai bou)と表現する。かくして、MZS/MZS は「アリ・カッエ」なのである。

いっしょに来る

父系複合のなかであなたとあなたの父系親族は同じ人間から出自している(降りている)(ワッウ)。それがゆえにあなたとあなたの父系親族は一体(「同じ」)なのである。 (1) あなたとあなたの(たとえば)FFF (ある祖先)との包含の関係(「同じ関係」)と (2) あなたの FBS にとっての FFF (同じ人間)との包含の関係(「同じ関係」)とが (3) あなたとあなたの FBS との包含の関係(「同じ関係」)が導かれることになる。

包含&包含⇒包含

結論として次のように言えよう:母系は父系に偽装して同じ類のレトリックに基づいて(wa’u bou/mai bou)顕れるのである。もっとも根底に横たわる論理が異なっている:父系的包含は包含の累積によって生まれているのに対し、母系的包含は排除の累積によって生まれているのだ。

4.2 偽装したインセキ関係としての母系

他の場合、母系的に関係した人間 (MZS/MZS) がインセキ関係にあると、すなわち WG/WT 関係にあると看做されることがある。

この看做しは、とりわけ二人ともに MB を欠くときに起こりやすい。このやり方に従えば、姉 (eZ) の(父系)子孫は、妹 (yZ) の(父系)子孫に対してワイフ・ギバーとして振る舞うことになる。

「なぜなら」、と人々は言う。「姉 (eZ) は妹 (yZ) にとって母 (M) のようなものだから」と。これは兄 (eB) と弟 (yB) の間にも行なわれる作業だ。「兄と弟は父と息子のようなものだ」と。どちらも年齢差を世代差にうつしかえて1つの項の優越性を強調する作業だ。この作業が姉妹に適応された場合、(兄弟の時とは違い)より重大な結果を引き起こすことになる。この変換により、関係は量的にだけではなく、質的にも変化するのだ。姉と妹は、この変換により、ワイフ・ギバーとワイフ・テイカーになってしまうのだ。

姉と妹

以上が、年齢がいかにして女性のアリ・カッエを WG/WT 関係にする(先行の関係にする)方法である。年齢による変換は当該の関係を決定的に変質させるのである。

5 結論

この章では、これまでの議論と結論をまとめよう。

まず先行を階層と並列して論じた。強調したのは:階層には共通する質があるのに対し、先行にはそれがないことである。フォックスおよびアチアイオリが先行は排除としてはたらくと主張したが、わたしは、先行は包含としても働くことを示した。

エンデの民族誌にはいる。 AG/AG 関係(父系性)が階層(包含のシステム)が排除としても働くことを、そして WG/WT 関係(排除のシステム)が包含としても働くことを示した。

最終章で、エンデではイデオロギー的には存在しない、母系性が、あるときは父系性(階層)もどきのものとして顕れ、またあるときは WG/WT (先行性)もどきのものとして顕れる。

6 参考文献