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1-2 不倫の二つの描きかた

エージェンシーと決定論

2013-09-16 21:57

中川 敏

1 序
1.1 前回まで---民族誌家の権威
1.2 ポイントとキーワード

2 エージェンシー
2.1 二つの古典的民族誌
2.2 おもしろい不倫
2.3 つまらない不倫
2.4 自由と決定論
2.5 固い決定論

3 説明と理解
3.1 非両立論としての説明
3.2 両立論としての理解
3.3 論争
3.4 ラドクリフ=ブラウンへの弁明

4 まとめと展望
4.1 展望

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

1.1 前回まで---民族誌家の権威

前章の議論をまとめておこう。 ポストモダンの人類学の主張する 実験的民族誌の一つの提唱、 書く者の権威を問う作業は、けっきょく、 エッシャーの『描く手』の状況を 作り出したのだ。 そこに描かれている一人称単数、 書く者は、偽物であり、 じっさいに 書く者はやはり隠されたままなのである。

実験的民族誌、 一人称単数の出現する 民族誌について、 一つの可能性、 ローティによる 反・反相対主義による 一人称民族誌を指摘した。 要するに、 「いままで通り 民族誌を描いていなさい。 文句を言われれば ローティを出せばいいんだよ」という 結論である--- いささか面映 [おもはゆ]い。

・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

1.2 ポイントとキーワード

1.2.1 ポイント

第二章で取り上げるのは、 既に予告したように、 ポストモダンの人類学で問題にされた 書かれる側の問題である。 キーワードは、 書かれる側、 原住民の エージェンシーの問題である。

・・・・・ 【同じく否定的な結論となる】 ・・・・・

1.2.2 キーワード

2. エージェンシー

ポストモダンの人類学の もうひとつのセールストークである 「エージェンシー」を考えることの中に、 「実験的民族誌」に対する より積極的な解答を 見出せると、私は考える。

とりわけて ポストモダンの人類学に限らずとも、 よくある人類学への批判に 次のようなものがある--- 「人類学の文献の中で、 未開社会の人々は慣習に しばられて行動するかの 如くに書かれている」という批判である。 そうではなく、 原住民の創造性を強調すべきだとして 「エージェンシー」概念が ポストモダンの人類学において 強く主張されたのだ。

人類学で使用される 「エージェンシー」概念は それほど厳密に定義がされている わけではない。 さきほどの批判に対応する形で 提唱されており、 「未開社会の人びとは 慣習に従ってのみ 行動しているわけではない。 彼らもまた [私たちのように] 自由に行動しているのだ」 --- そのように 「エージェンシー」概念の提唱者は主張している のである。

2.1 二つの古典的民族誌

この節では 二つの古典的民族誌の中に エージェンシーがいかに 欠如しているか/いないのかについて 述べていく。 一つの目的は ポストモダンの人類学が いかに敵を矮小化しているか (すなわち、 古典的民族誌において エージェンシーが取り上げられなかった わけではないこと)を示すことである。 もう一つの目的は、 たしかにポストモダンの批判が あてはまるような民族誌もある (原住民の創造性が 描かれないような民族誌がある)ことを 示し、 そのような民族誌の特徴を調べることである。

出発点として取り上げるのは 近代的な民族誌の二人の「父親」、 マリノフスキーと ラドクリフ・ブラウンによる民族誌である。

人類学の文献の中で、 しばしば、1922年は 近代人類学誕生の年として描かれる。 それは マリノフスキーの 『西太平洋の遠洋航海者』 [ malinowski-argonauts-j ]そして ラドクリフ・ブラウンの 『アンダマン諸島民』 [ rb-andaman ]の 刊行された年である。

雑駁な形で 二人を比較しておこう。 マリノフスキーは説明に 心理学的な傾向を・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ そして ラドクリフ=ブラウンは 厳密な科学、自然科学を範例として、 人類学を 「社会の自然科学」とすること を目指している。

2.2 おもしろい不倫

『西太平洋の遠洋航海者』は たいへんに面白い本である。 それはフィールドワークの中の エピソードの多さによるものだろう。 『遠洋航海者』に個人名はそれほど 多くでてこなかった。 1929年の 『未開人の性生活』 [ malinowski-sexual-life-j ] ( [ malinowski-sexual-life ])になると、 個人名が頻出し、 民族誌は厚みを増す。

『未開人の性生活』の 115ページにはこんなエピソードが載っている。 以下は引用ではなく、まとめである。

トロブリアンド諸島において 不貞に関する法は厳しいものである。 もちろん、 さまざまな例外措置が取られる。

1915年10月のことであった。 首長が島の外にでかけていた。 その数日間、村はとっても静かだった。 友達もめったに私の家を 訪ねてくることはなかった。


ある朝、私(マリノフスキー)は 騒然とした物音で 目が覚めた。 音のする方へ行ってみると人だかりが している。 たまたま 知り合いがいたので騒ぎのわけを聞 いてみると、次のような話だった--- 首長、トッウルワ、の息子、 トクワイラビガ が 旅から帰ると 妻であるディギヤガヤ(Digiyagaya)が トッウルワのもう一人の息子、 ムワイダイレ と 不貞をはたらいていたというのだ。


その日の朝も 水筒をもっていくという口実をもうけて 彼女はムワイダイレの畑に出掛けたという。 帰ってきたトクワイラビガが畑へ行くと、 噂によれば、 言い訳のできないような状況に二人がいた というのだ。


元来残忍というわけではない トクワイラビガは自分の怒りのはけ口として、 妻をその水筒で叩いただけであった。 群集は当事者たちが村に帰ったことを 受けてあつまったのである。 (首長がいない間にまもるべき性的) タブーが破られたのである。 すべての村人はどちらかの側に立って 大声で話し合っていた。

その夕方のことである。 私は、 妻とその怒った夫とが 隣あって静かに座っているのを見かけた。 [ malinowski-22: 115--116 ]


トクワイラビガが 妻を許す描写の中に 「エージェンシーが描かれていない」という 批判はあたらないだろう。 ここに描かれているのは、 彼の内面が、 判断が、 すなわちエージェンシーが描かれているのだ。 彼は慣習に従ったやりかたをすることもできたの だが、 そうはしなかった。 自由意志が行使されたのだ。

2.3 つまらない不倫

エージェンシーの欠如として、 慣習に縛られた原住民を描いたとして 批判される民族誌を 紹介しよう。 ラドクリフ=ブラウンの 『アンダマン島民』 [ rb-andaman ]である。

同じテーマ、不倫を扱った箇所を 『アンダマン諸島民』から見てみよう。 70ページに概略次のような 記述がある。

現在のところ かつてアンダマン諸島民が夫婦間の 不貞についてどのようにみなしていたかを 知るすべはない。 大アンダマンにおいては現在 この点にかんして かなりの放縦がある。 夫が妻の密通を発見した時、 口論が起こることがある。 たいていの場合、 夫は妻の不貞を許しているようである。 [ rb-andaman: 70--71 ]


これで終わりである。

ラドクリフ=ブラウンが 探しているのは、 第一に 規則である。 規則が見つからない場合(たとえば ここに挙げた不貞の場合など)では、 彼は一般的な傾向性について描く。

『アンダマン諸島民』は、 規則・慣習に縛られて行動する、 さもなくば統計の一要素としての エージェンシーの欠如した原住民を 描きだしているのである。

2.4 自由と決定論

エージェンシーが どのようなものであり、 それが民族誌批判とどのように関連しているのか について 理解してもらったと期待する。

* * * * *

この節では エージェンシーをより深く理解していくことを 目的とする。 そのためには、 エージェンシーの相補物、 「決定論」を知る必要があるのだ。 決定論との対立で語られるとき エージェンシーは「自由意志」 「行為の自由」と呼ばれる。 以下、なるべくエージェンシーの語を 使用していきたい。

まずエージェンシーすなわち 自由意志と決定論の 対立とはどのようなものかを 説明することから始めよう。 「ラプラスの悪魔」を紹介するのが 分かりやすいだろう。 ラプラスは次のように言う---

もしもある瞬間における全ての物質の力学 的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらの データを解析できるだけの能力の知性が存在すると すれば、この知性にとっては、不確実なことは何も なくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見 えているであろう。ラプラス 1812年 『確率の解析的理論』

これが決定論である。 もし決定論が正しいならば、 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

決定論○決定論×
自由○両立論(楽観論)(柔 らかい決定論)非 両立論(リバタリアン)
自由×非両立論(悲観論)(固 い決定論)
表 決定論と自由意志

表「決定論と自由意志」 freedomを見てほしい。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

この講義はは哲学のそれではない。 人類学のそれである。 この講義では「両立論」「楽観論」 あるいは「柔らかい決定論」と名付けられた 考え方のみを見ていく。 ラプラスの悪魔を認めながら、 いかにして意志の自由をそこに 挿入することができるのか、 それが課題となる。

しかし、 「柔らかい決定論」にわれわれの焦点を 絞る前に、 他の立場、 とりわけ「固い決定論」について 見ておく必要がある。

2.5 固い決定論

固い決定論、非両立論、が 自然科学のレトリックだ、という点に 注意を払ってほしい。 物理や化学の観察の中では 自由意志の登場する 余地はない。 落下する物体が 「きょうはスピードちょっと 緩めとこ」と考えることはないのだ。 あるいは 酸性の物質が 「リトマスをいつも赤にするのは 飽きた。 きょうは黄色にしてみよ」と行動することは ない。 物理および化学、 とりわけ物理の世界では、 われわれはラプラスの悪魔の存在を 信じているのである。

すべてが法則に従っているのである。 このようなレトリックを 「説明」と呼ぶ。 [ hempel-philosophy ]

3. 説明と理解

固い決定論と柔らかい決定論の対立、 あるいは非両立論と両立論の 対立は、 人文科学の方法論をめぐる対立、 説明と理解(了解)、 エルクレーレン (erkl\"aren)と フェアシュテーエン (verstehen) との 対立に重なるものである。 19世紀に端を発する論戦であるが、 私たちの講義の脈絡で 重要となるので、 概略だけを紹介しておきたい。

3.1 非両立論としての説明

自然科学における 説明とは 個別の出来事を、 一般的な包摂的法則によって説明することである [ hempel-philosophy ]。 人文科学(歴史学や人類学)では、 このような一般法則がめったにでてこない。 ある自然科学者たちは この点において人文科学を責める--- 「なんと幼稚な科学だろうか」と。

3.2 両立論としての理解

これに対し、 19世紀の歴史学者 ドロイゼンは、 人文科学(とりわけ歴史学)は 自然科学的な方法、説明とは 全く違う方法を取ると主張した。 彼は「法則定立的」な自然科学の方法に対し、 歴史科学の方法を「個性記述的」と名づける。 自然科学が説明(エルクレーレン (erkl\"aren)) を道具とするのに対し、 人文科学は 理解(フェアシュテーエン (verstehen))を 道具とするのだ、と主張した。 彼によれば、 その違いはそれぞれの科学の対象とする現象の 性質の違いに由来するのである。 自然科学は、 実験室での実験に代表されるような 繰り返し可能な現象を対象とする。 それに対し、 歴史学の対象は、 たとえばナポレオンのロシア侵攻といった 一回限りの現象を対象とするのである。 われわれは、とドロイゼンは言う、 その時のナポレオンに 感情移入 (empathic understanding) をしながら、 なぜ 彼がロシアに侵攻しようとしたのかを理解するのだ。 このようにして、彼は 二つの科学の間に方法論的な 絶対的区別を申し立てたのである。

3.3 論争

一方に科学の方法論は、 自然科学であろうと人文科学であろうと 一つ(「説明」であると主張する立場 (「説明派」と呼ぼう)があり、 もう一方にドロイゼンのように、 人文科学の特殊性を訴える立場 (「理解派」)がある。

説明派と理解派の対立が、 自由意志をめぐる対立、 すなわち非両立論と非両立論 の対立に相当することは明かであろう。 説明派が、人間もまた自然科学的決定論のもとに 見るべきだという非両立論であり、 理解派が自然科学の研究領域に決定論を認めつつ、 人間の自由意志を強調する両立論である。

説明派と理解派の対立に 一冊の本をあてて光を照らしたのは フォン・ウリクト (von Wright)である。 『説明と理解』 [ vonwright-j-1984 ]において 丹念に論争を追った後、 彼の最後に下す結論は、 この論争には決着点などない、 どちらが正しいかということを 言うことは出きない、というものであった。 その選択は科学者の実存的な選択なのだと、 半ば諦めて、言う。

この対立は、和解も論駁も不可能で あり、ある意味では、真理からもかけはなれている。 この対立にもとづいて、根源語の選択、つまり立論 全体の基礎概念の選択がなされる。この選択は、お そらく「実存的」選択であろう。すなわちそれは、 もはやそれ以上根拠づけ得ない、観点の選択なので ある。 [ wonwright-j-1984: 40--41 ]

3.4 ラドクリフ=ブラウンへの弁明

「つまらない民族誌」として 取り上げたラドクリフ=ブラウンへの 弁明をするべきタイミングである。

ラドクリフ=ブラウンは 人類学を「社会の自然科学」と位置づける [ rb-method: 141 ]。 「文化の科学のすべきことは、 その扱う複雑なデータを一般的な 法則あるいは原理へとまとめていくことなのだ」 [ rb-method: 122 ]

ラドクリフ=ブラウンは 説明派なのだ、 非両立論の信奉者なのである。 彼にエージェンシーは不要である。 それは彼の実存的選択なのだ。 マリノフスキーが理解を、 エージェンシーを重んじたのも また実存的選択であり、 ラドクリフ=ブラウンとマリノフスキーの どちらが正しいかという問題ではないのである。

4. まとめと展望

まとめよう。

ポストモダンの人類学が問題にする 第二の点、 書かれる側の問題が扱われた。 原住民のエージェンシー、あるいは心の問題だ。

この問題をより広い背景のもとに 見ていくのが、 この講義の目的だった。 まずわれわれは、エージェンシーを、 決定論をめぐる問題、 すなわち両立論と非両立論の対立の中に 置いた。 世界があらかじめ決定されているのならば、 エージェンシーの入る場所がどこにあるのか、 これが非両立論からの反論となる。 エージェンシーを擁護するためには、 われわれは両立論を取らざるを得ない。

非両立論と両立論の対立は、 科学の方法論のなかでは 「説明」と「理解」の対立に重なることを 示した。 すなわち、 エージェンシーの擁護のためには、 「理解」派を擁護する必要があるのだ。

理解派が「説明」独裁(非両立論)と 戦う唯一の武器が、 共感である。

簡単に言おう、 これでは、 あまりに弱いのだ。

とりあえずの結論は、 エージェンシーを支えるだけの 理論的な武器を私たちは いまだ持っていない、となる。

4.1 展望

次の章では戦略を変える。 われわれは学説史を離れ、 説明と理解を日常の実践の中に 探っていく。

・・・・・ 【結論は】 ・・・・・


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Bibliography

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ENDNOTES