2 他者がわたしを生む
2.1 鏡像段階---心
2.2 模型の視点
3 自閉症児がもっていないもの
3.1 二重構造の把握
3.2 知覚的空想
3.3 視点の二重化
3.4 独我論と則天去私の視点
3.5 まとめ
4 アスペクト
4.1 ウサギ・アヒルの図
4.2 存在論の世界
4.3 見えの発生
4.4 民族誌家の発生
4.5 視点の二重化
4.6 アスペクト盲
4.7 則天去私の共同体
5 まとめと展望
5.1 まとめ
5.2 おまけ
5.3 展望
Draft only ($Revision$ ($Date$)).
(C) Satoshi Nakagawa
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コードモデルと水源地モデルに基づく ピジョンホール相対主義が、 独我論あるいは則天去私の共同体を導くことが、 第□講義までで示された。 独我論および則天去私の共同体と同じく、 ピジョンホール相対主義に他者はおらず、 そして異文化はないのだ。
前章で示したのは、 自閉症が、 独我論・則天去私の共同体と同一の 構造を示す、ということだ。 共通するのは、 どれも否定性が欠如している (「ないことが分からない」)という点である。
われわれが持っているが 自閉症児に欠けている能力、 とりわけ他者に関する能力を x と呼ぼう。 その能力 x を見つけることが、 この章の目的である。
濱本の相対主義擁護のレトリックは次のようになる--- 「もし相対主義があやまっているのなら 詩人など存在しないはずだ。 詩人がいるということは、 相対主義が正しい、ということだ」と。
わたしが展開する相対主義擁護のレトリックは 次のようになる--- 「もし相対主義があやまっているのなら、 わたしたち全員が自閉症となる。 そうではないということは 相対主義が正しい、ということだ」と。
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自閉症児の欠ける能力 x の 分析にはいる前に、 自閉症ではない人について考えてみたい。 この節では、 自閉症児の「いないことが分からない」の イメージを確たるものとしたいのだ。
ラカンの鏡像段階説を紹介しよう。
幼児は、ある段階までは、 各感覚(手があること、足があること)を ばらばらにしか経験できない。 しかし、 鏡の中に自分を見て (とくに母親といっしょにいる自分を見て)、 その鏡像こそが自分であると認識する段階が来る (6ヶ月から1才半だという)。 そのとき、すべての感覚を統覚する「自分」が 生まれるのだ、というのだ。
ここでのポイントは、 幼児が「自分」を発見するのは、 飽くまで、 彼女が自分を他人(母親)に見られたものとして 発見するのだ、ということである。
「私」の発見に、 「他者」の発見は先行している。 「他者」の存在があって始めて 「私」が発見されるのである。 [lacan-mirror-j] [mp-youji]
鏡像段階を経てなにが変わったのか、 それは
幼児に鏡像段階について聞くわけにも いかない。 わたしたちの中には同じような 経験をした人もいる。 矯正歯科でしばしば使われる歯の模型である。
石膏でかたどった自分自身の 歯の模型を見せられるとき、 私たちは不思議な感覚に襲われる。 その不思議な感覚を説明してみよう。
人間は「自分の歯」が、 もっともプリミティブな意味で典型的な 自分だと思っているだろう。 それは「自分の内側」にあり、 他の人に見えない、内奥の自分なのである。 そして舌を通じていつもそれを実感できる、 触覚それも舌による触覚は、 視覚の持つある種ぽ公共性を欠く、 もっとも私秘的な感覚だろう。 そのような具体的な内奥の自分なのだ。 (じっさい、筋肉の発達が充分でない 幼児でも舌で自分の口腔内をさぐることは できるだろう)。 言い換えれば、それは 心のようなものなのだ。 心も歯も、 自分には最も親密で、 そして他人には見えないもの、 そのようなものとして「典型的な自分」を 表すものなのです。
さて、 歯の模型を見て感じる不思議な感覚とは、 一つしかないと思っていた 「自分の歯」を見る視点が、 じつはもう一つあること (歯医者さんの視点である)に気づき、 たじろぐ (disorineted)、 そのような感覚なのだ。
鏡像段階そして歯科医の模型を 通してわたしが 言いたいことは、 他者と「私」(自己)の関連において、 他者こそが自己という考え方を生み出すのだ、という ことである。
それでは、 われわれが持っていて自閉症児に欠けているものは 何だろうか。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
玉井 [tamai-jiheisho]は 次のような事例を挙げる:
ある日彼 [自閉症児]は、 明治村にいった。ここには昔、京都市内を走っていた電車が ある。展示品であると同時に、広い構内の交通機関の役も果たしている。 昔通りの服を着た車掌さんがいて、 観光写真に収まってくれる。 彼はその車掌さんに、「京都の市電は廃止になった?」ときいた。
「廃止になったよ」
同じ質問は7、8回つづいた。 彼はいまここで乗ってきたではないかといいたかったの であろう。 そういういいかえができないのが、自閉症児の特徴のひとつでもある。 [tamai-jiheisho: 110--111]
玉井はここに欠けている能力を 「ここは博物館である。したがってここで動い ているにしてもそれは社会に通用するものではない」 [tamai-jiheisho: 111]という「二重構造」 [tamai-jiheisho: 111]を 把握する能力と呼ぶ。
同じ現象を村上は 「知覚的空想」(の欠如) [murakami-2008-autism: 111] と呼ぶ。 1 自閉症児を観察する中で、 村上は ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・自閉症児は、 単に知覚と空想を区別していないのではない。 自閉症児の問題は、 むしろ知覚的空想と呼ばれる現象が 成立していないことである。 知覚的空想とは、 ままごとやごっこ遊びで作動する働きである (Hua XXII, S. 514--515)。 石を知覚しながらケーキと思い見なし、 自分自身でありながら、 同時にママの役を演じる、 という知覚と空想が重なり合う現象である。 知覚的空想はごっこ遊びの構造の本質である。 ++
要点の一つは、 知覚的空想において、 人は自分が演じていることを 意識しているということで ある。 あくまで知覚と空想の区別はついている。 石は石であって 空想のなかでケーキと思い見なしているわけであるから、 食べるまねはしても実際にべてしまうことはない。 (逆に、多くの自閉症児は 食べ物のおもちゃを口に入れてしまう)。 ・・・・・ [111/2]++
自閉症児の常同行動、 そして次に論じるものまねは、 観察者からは「ごっこ」 すなわち知覚的空想に見えることがあるとしても、 実際には彼らは演じているわけではない。 アニメのキャラクターと一体化していても それは意識的に演じているわけではない。 「知覚と空想の区別がない」とは 「知覚と空想は差異化しつつ複合し、 それに気づく」仕組みがないことを意味している。 [murakami-2008-autism: 111-112]
玉井は自閉症児には「二重構造の把握」の
能力が欠如していると言い、
村上は「知覚的空想」の力が欠如していると言う。
この二つが同じことを言っていることは、
直感的に明らかであろう。
それをより直截に示してみよう。
そのために導入したい考え方が
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
独我論や則天去私の共同体も、 視点という言葉で語り直すことが可能だろう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
[husserl-phantasy] [brough-intro]
この「視点の二重化」こそが、 自閉症児の持っていないもの 2 であり、 また独我論からは帰結しないものである。
この節では、 「視点の二重化」こそが他者を見出す能力なのだ、 ということを示していきたい。
そのために、 「視点の二重化」をさらに高い抽象度の 分析概念の中にくるんで再提示したい。 それこそがウィトゲンシュタインが作りだし、 野矢によって洗練された「アスペクト」議論である。
以降、「アスペクト」と「見え」は 相互互換的な語として扱う。 また「単相」「複相」という用語における 「相」は「アスペクト」の翻訳である。
ウィトゲンシュタインの アスペクトの議論から始める。 おなじみのウサギアヒルの図だ。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
君はいまウサギ・アヒルの図を見ているとしよう。 君はそこにウサギだけを見る。 その時、 それはウサギ・アヒルの図ではなく、 ウサギの図である。 「これはウサギに見える」のではない。 君の発話は、 「これはウサギだ」となろう。
ここでは、「見え」は一つである。 野矢はこのような状況を「単相状況」と呼ぶ。
大事なことは、見えが一つであるがゆえに、 「見え」は問題にならないことだ。 3 ちょうど、独我論において視点が一つしかない、 あるいは則天去私の共同体において 概念図式が一つしかないがゆえに、 視点という考え方、 あるいは概念図式という考え方自身が 問題にならないのと、正確に同じ意味においてだ。
あくまで「これはウサギだ」であり、
そこにウサギが存在しているのだ。
言い方を代えれば、
この場面では存在論が展開されており、
認識論は顔を出していないのだ。
その場に別の人が来た。 彼女をBと呼ぼう。 それに応じて図の中の君をAとする。 彼女は「これはアヒルだ」と言う。
さて、 君と彼女は話を始める。 君は言う、「これはウサギだ」と。 彼女は言う、「これはアヒルだ」と。 君は言うだろう、 「これはウサギだ。 アヒルじゃない」と。 同じように彼女は言う、 「これはアヒルよ。 ウサギじゃないわ」と。 しばらく二人は途方に暮れるだろう。 彼女は君にとって 論理空間の外側にいるのだ。 語り得ぬ他者である。 まだ他者にさえなっていないのだ。
この状況は、 またお互い 単相状況にいる。
しばらくすると、
君は次のように妥協するだろう、
「ぼくには、これはウサギに見える。
君にはアヒルに見えるのかい」と
もの分かりのいい彼女は答えるだろう、
「そう、わたしにはアヒルに見えます。
あなたにはウサギに見えるのね」と。
この時はじめて「見え」が登場するのだ。 それは同時に私の視点の発見でもある。 君はいま言うことができる、「わたしにはこれがウサギ に見える」と。 同じように、Bも言うだろう、 「わたしにはこれがアヒルに見える」と。
この時はじめて「見え」について語ることが 可能なのだ。 このような状況を、 野矢は「複相状況」と呼ぶ。
かくして理解可能な者として 他者が登場するのだ。 それは分けの分からない欲望の対象ではない。 それは欲求の対象である。
続けよう。
いま君は、
君の共同体に戻る。
それは則天去私の共同体である。
すべての人は、あの図を「ウサギである」として
見ている。
そこにウサギがいるのだ。
存在論の世界なのだ。
この不思議な出来事を、
君は共同体のメンバーに語ろうとする。
もちろん「見え」の語を使うことも
可能だ。
「Bにはあれがアヒルに見える」と。
同様に「信念」の用語を使うこともできる
だろう。
すなわち、
「Bはあれがアヒルだと信じている」と。
信念文とはこのようにして 「複相状況」と「単相状況」の葛藤の中で 生まれてくるのである。 4
そして、 民族誌家 5 が誕生したのだ。 不思議な人間Bについて、 君は自分の共同体で報告しているのである。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
「アスペクト」と (能力 x)としての「視点の二重化」が 重なることは自明であると思うが、 まとめておこう。
君は人類学者になる。
すなわち、
単にBの不思議な見えを報告するだけではなく、
読者(共同体のメンバー)に
その見えを見てもらいたい
のだ。
この時、君がやることは
「あれをアヒル
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ [wittgenstein-pi] [wittgenstein-pi-j]
注意すべきは、アスペクト盲にできないと規定されてい ることは、「あひる<に>見える」という見方の自覚、 あるいは「積み木を自動車<として>見る」といった見 立てであり、「あひる<が>見える」や「自動車<を> 見る」といった通常の知覚にはなんの支障もない、とい うことである。つまり、われわれの用語で言うならば、 彼は単相状態に安住し、けっして複相状態に出会うこと がない。その意味で彼はまた<他者>に出会うこともな い。いわば、アスペクト盲とは「意味の独我論者」なの である。 [noya-mind-bunko: 282]
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
野矢が則天去私の共同体という仮想の共同体を 想定したのは、 ウィトゲンシュタインによる アスペクト盲の議論 [wittgenstein-pi] を追う流れの中である。 アスペクト盲 とは、 ある図形を一つのアスペクトのもとでしか見れない そのような(想像上の)疾患である。
アスペクト盲議論の一つの重要な事実は、 アスペクト盲の人間にとって 彼の見ているアスペクトは、じつは、 アスペクト(見え)ではない、ということである。 あるモノがアスペクトになるのは、 他のアスペクト(他者の視点)がある時だけである。 アスペクト盲の人には、 他のアスペクトはないのであるから、 それは単純に存在である。
相対主義 | 普遍主義 | |
---|---|---|
心 | アスペクトを見る人 | アスペクト盲 |
文化 | 文化相対主義者 | 則天去私 |
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
純粋な実在論を導く独我論、 則天去私の共同体、 そして自閉症が構造的に重なること、 そしてそれから逃れて文化相対主義を 確立することが、 この講義全体の目的であることは、 講義の流れの途中から何度か述べた。
講義の冒頭に戻ろう。 文化相対主義が対比された立場がある。 すなわち、普遍主義(あるいは絶対主義)である。 講義の流れを遡って、わたしが言いたいことは、 普遍主義とは、 純粋実在論としての独我論、 則天去私の共同体、そして自閉症に重なる、という ことである。
etic と emic の話 (マービン・ハリス via 小泉)
まだ「レトリックだけではないか」という 感想を持つ読者もいよう。 半分はあたっていると思う。 この不満を解消するために、 わたしは アスペクト論をさらに拡張していきたい。 それは二つのステップを踏むことになる。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
[1] 「知覚的想像」(conceptual phantasy) は フッサールの言葉である。 [husserl-phantasy] [brough-intro] [Back]
[2] この能力の欠如のさらなる 因果関係を探ることは、 現在の文脈では意味がない。
・・・・・ 【ミラーニューロン】 ・・・・・
ちなみに村上は ・・・・・ 【視線触発】 ・・・・・ [Back]
[3] 野矢が「単相」「複相」を言い出した著作 [noya-mind-bunko] において、 まだ独我論は問題になっていなかった。 独我論を問題にして、 純粋存在論について述べているのは 後期の著作 [noya-kataru]である。 [Back]
濱本は 「他者の信念を記述すること」 [hamamoto-belief]の中で、 「信念」を捉える二つの仕方を示す。 それらは、彼の中では、一つのコインの 裏表であると考えられている (なぜなら、二つ目は「補足」として 書かれているからだ)。 一つは、 概略わたしがここで論じている 複相状況議論に重なるものである。 もう一つはその論文の本文において、 もう一つは当該の論文の最後の 「補足」という形で示される。 後者はその発展形が 同じ雑誌の次号に [hamamoto-wager] 「信念と賭け」として発表されている。
この流れから、 濱本自身は二つの方法を、 「同じようなもの」 [hamamoto-belief: 67]と 捉えているように見える。 私自身は、 この二つを全く違ったものと捉える。 [Back]
[5] この章では、便宜的に「民族誌家」と 「人類学者」を別のものとして語る。 後の章であきらかになるように、 わたしは二つの役割はコインの裏表、 分離しがたいものだと思っている。 [Back]