2 相対主義と独我論
2.1 ピジョンホールとしての文化
2.2 語り得ぬものとしての異文化
2.3 独我論と自閉症
3 能力 x を求めて
3.1 後半の戦略
3.2 知覚的空想
3.3 アスペクト把握
3.4 この講義
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(C) Satoshi Nakagawa
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古き良き文化人類学の相対主義の 歴史について簡単に触れた。 それは人類学の魅力だったのだ。 ・・・・・ 【ミードなど】 ・・・・・
「概念枠組」あるいは 「概念図式」という語が、 この立場を代表する用語であろう。 ・・・・・ 【レンズなど】 ・・・・・
ところが、 その相対主義がピンチにたっているのだ。 もはやほとんどの(文化)人類学者は 「文化」という語を使わないですませるようにしている。 それは「文化相対主義」の苦境をじぶんで 背負い込まないためだ。 ・・・・・ 【】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
わたしは「文化」という言葉を使いたい。 戦略はこうだ: まず最も直感的な(それゆえ最も脆弱な)文化の モデルから出発する。 そこからできるだけ精緻に議論をたてて、 そのモデルを、不可能性にまで追い込む。 その議論によって立った上で、 あらたな相対主義の可能性を打ち立てるのだ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
講義の前半は文化相対主義を 不可能性にまで追い込むことに費やされる。
・・・・・ 【ピジョンホール】 ・・・・・
・・・・・ 【デイヴィドソン】 ・・・・・
・・・・・ 【ウィトゲンシュタインの独我論】 ・・・・・