2 ウォールトンの虚構論
2.1 フィクションを怖がる
2.2 ごっことしての虚構
2.3 内包オペレーターとしての虚構
2.4 三つの態度
2.5 ウォルトン議論のまとめ
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(C) Satoshi Nakagawa
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異文化の見える時を題材にして、 これまでアスペクト把握にそって 議論を進めてきた。 複相把握こそが異文化を見つける キーモーメントであるのだが、 その複相把握に二種類ある、というのが 前章までに明らかになった。 野矢( [noya-kataru])の言葉を つかえば相貌をもった 複相把握(深い複相把握)と そうではない 複相把握(淺い複相把握)とである。
前章は、二つの複相把握を 区分する鍵となる「相貌」を、 アスペクトのもつ全体性の中から説明した。 すなわち、 あるアスペクトが部分となるような全体性があり、 その全体性を見据えた上での複相把握が 相貌をもった、 すなわち深い複相把握だ、ということを 明らかにしたのだ。
この章では、 深い複相把握のさらに十全な理解へと 進んでいきたい。
そのための対象として ゲームと虚構について見ていく。 この章は三つに分かれる--- 最初の節は「中川のゲーム論」であり、 そこでは わたし(中川)の『言語ゲームが世界を創る』 ( [nakagawa-gengo])で描かれたゲーム論を 修正する作業が行なわれる。 簡単に言うと、 『言語ゲームが・・・』で、 わたしは、まだ複相把握を分けて 考えていなかったのだ。
次の節ではウォルトンの虚構(映画や小説)についての 議論( [walton-mimesis])をとり挙げ、 鑑賞者(観客や読者)の態度とは、 虚構という ゲームに参加するプレーヤーであることを 示す。 プレーヤーの態度を理解する ポイントは、 彼女は、虚構の中と外の二つの視点を 作り出すということである。
ウォルトンの議論を、 さらにベイトソンの「空想とゲームの理論」 ( [bateson-play-j])に重ねあわせるのが、 その次の節である。 ここでは、 ウォルトンの二つの視点というのが、 ある種のパラドックスの上に 成り立っていることを示す。
複相把握、とりわけ深い複相把握とは、 論理的な矛盾をさえ含むような能力なのである。
とりあげるのはケンダル・ウォールトンの虚構論 ( [walton-mimesis]、 [walton-fearing-j])である。 おもに「フィクションを怖がる」 [walton-fearing-j]の議論を紹介したい。
ウォルトンは次のように問題を示す--- 「チャールズは恐怖_MARK(映画)を見ながら _MARK(恐怖)を感じている。 この恐怖はほんものの恐怖なのだろうか?」と。
ウォルトンの議論にならい、 鑑賞者を、そのまま、 _MARK(チャールズ)と呼ぶこととしよう。 ウォルトンはスライムが 出てくる映画を材料としている。 スライムはいささか時代遅れなので、 (またすぐに時代遅れになってしまうかもしれないが) 「_MARK(ジョーズ)」(大鮫)で代替したいと思う。
2.1.1 準恐怖
その「恐怖」は、 チャールズが他の場面で感じるであろう恐怖と 多くの点で_MARK(一致)している。 しかし、 その恐怖は、たとえば、 じっさいに鮫(ジョーズ)がやってくる場面で 感じたであろう恐怖とは、 たとえば恐怖のもっている_MARK(対象)において 決定的に異なっている--- すなわち映画をみての恐怖だと、 その対象は、いわば、「虚構のジョーズ」であるのに対し、 じっさいの場面での恐怖の対象は 「ほんもののジョーズ」である、ということである。
以上を鑑みて、 ウォルトンは、映画の中の恐怖を 「_MARK(準恐怖)」 (quasi fear) と名づける。
2.1.2 ふりをする---作者と俳優
準恐怖と間違えてはいけないのは、 恐怖の_MARK(ふり)である。
たとえば映画の中でジョーズに追いかけられている _MARK(俳優)の「恐怖」を考えよう。 ここで俳優はわたしたちが恐怖と呼ぶような 感情を感じていないことは明瞭であろう。 俳優の感じているものがなんであれ、 それは恐怖ではない。
同じことが(議論に少し変更を加えれば、 mutatis mutandis)、 _MARK(作者)に対しても言える。 _MARK(サール)は、 「虚構的叙述の論理的な地位」 ( [searle-fictional_discourse])の中で 虚構の作者について述べている。 「ジョーズが来た」と書く作者を考えよう。 彼女は「ジョーズが来た」と主張しているのは 確かだが、 それは_MARK(真面目に)主張しているのではない。 彼女は主張している _MARK(ふり)をしているだけなのだ。
サールはこのような主張をすることを、 「不真面目な主張をする」、 あるいは「偽装主張をする」と呼ぶ。 ここでは、ウォルトンの言葉 "Make-believe" を 副詞にした("Make-believedly") 「ごっこで」という語を使いたい。 すなわち、 作家は「ごっこで主張」しているのだ。
2.1.3 まじめに主張する---批評家
ウォルトンは取り上げていないが、 虚構の分析に欠かせない もう一人の人物をとりあげよう--- _MARK(批評家)である。
サールの分析( [searle-fictional_discourse]) によれば、 典型的な批評家の文体は 次のようになるであろう--- 「虚構のなかでジョーズが来た」と。 この主張は、生活世界の中で (サールの言い方を借りれば)
まじめに 行なわれる。「まじめに」を、 「現実に」 [1] と言い換えたい。
注意すべきなのは、 虚構は独立した世界でも 閉じた世界でもないということだ。 虚構と現実の関係は、 二つの世界という関係ではない。 虚構は、現実の中の部分に過ぎないのだ。 ちょうど椅子が現実の部分を成すように、 虚構は現実の部分を成しているのだ。
俳優と批評家の違いを強調しておこう: 俳優は決して「虚構の中でジョーズが来た!」とは 叫ばない。
2.1.4 鑑賞者---虚構にとらわれる
サールは作者と批評家とを対象に 虚構論を展開する。 サールとは異なり、 ウォルトンは虚構を見るのに、 作者だけでなく鑑賞者(「チャールズ」)をも その中に入れて考える。 そして私もこの作戦に賛成する。 虚構の仕組みを見るのに、 鑑賞者を議論の対象として組込むのは 必須である。
準恐怖を対象にして、 わたしたちが行ないたいことを、 ウォルトンの言葉を借りていい直しておこう。 _MARK(鑑賞者)の提起する_MARK(謎)は こうである:
虚構世界は、 われわれがそれは現実でないと 十全に認識しているときでも、 現実世界とほとんど同じくらい 「現実的 (real)」に思われる。 いったいどのようにして このようなことが起こるのか。 [walton-fearing-j: 324]
これが、強いて言い換えれば、 「虚構的現実性」の仕組みを見出すのが、 わたしたちの課題となるのだ。
このような鑑賞者の態度の特徴は、これまで 「不信の宙吊り」(suspension of disbelief) [2] とか 「距離の縮減」と呼ばれてきた。 [3] それらはたいへんに_MARK(印象論)的な表現である。 それをより正確に表していこうとするのが、 ウォルトンの議論である。
「距離の縮減」も 「不信の宙吊り」も適当ではない、と ウォルトンは言う。 われわれは「ハックルベリーフィンが存在したとは 信じていない」 [walton-fearing-j: 324]のである。 不信は宙吊りにはされていないのだ。
ウォルトンは、 チャールズの「準恐怖」を 全く別の仕方で説明する。
ウォルトンの議論を_MARK(二段階)で説明しよう。 ひとつは「ごっこ (Make-believe)」に関する議論、 より具体的に言えば 「虚構を鑑賞するとは、_MARK(ごっこ)に参加することである」 というテーゼと、 そしてもう一つは、 「虚構あるいはごっことは_MARK(内包)オペレーターである」 という 議論である。 [4]
2.2.1 準恐怖の仲間たち
映画『ジョーズ』を見ている チャールズが、 つき進んでくる巨大_MARK(鮫)(「ジョーズ」である)を見て、 思わず「_MARK(おう!)」と声を あげた状況を考えよう。 冒頭の「準恐怖」とまさに同じ状況である。
準恐怖は、恐怖と似ている。 違いは対象が虚構内のものか、 そうでないかというという点である。 その点において、 準恐怖は「不信の宙吊り」ではない。 繰り返すが、 チャールズはジョーズを信じてはいない。 不信はそこにあるのだ。
2.2.2 準恐怖ではないもの
たとえば、チャールズが、 「ジョーズが_MARK(来る)」という発言をしたときを 考えよう。 これは「お!」の発言とは異なっている。 [5] ここでは、 チャールズは、むしろ、_MARK(ふり)をしているのである。 それは、_MARK(俳優)と同じ状況である。 「おう!」と発話するチャールズが 恐怖、すくなくとも準恐怖を感じているのに 対し、 「ジョーズが来る」と発話するチャールズは、 (「ジョーズが来る」と発話する俳優と同じように) 恐怖を、あるいは準恐怖を感じてはいないのだ。
2.2.3 虚構を鑑賞するとはごっこに参加することである
それでは準恐怖を感じているチャールズ、 思わず「お!」と発話するチャールズを どのように捉えればいいのだろうか。
鑑賞者(ここではチャールズとなる)の態度に ついてもっとも重要な点は、 鑑賞者は、ウォルトンの言葉を借りれば、 「外側の_MARK(観察者)ではない」 [walton-fearing-j: 322] という点である。
鑑賞者のもつこの特徴 (「外側の観察者ではない」)を敷衍して、 ウォールトンは小説を読む体験、 映画を観る体験を、 _MARK(ごっこ) (_MARK(Make-believe)) への_MARK(参加)の体験と 重ねる。 すなわち、鑑賞者は虚構に参加 (participate) して いるのだ。 いよいよ、ここにおいて、 虚構論がゲーム論に重なるのだ。
ウォルトンが挙げるごっこは 次のようなごっこである。 父親が恐い顔をして子供を追いかけている、 そして 子供が「きゃーきゃー」言いながら 逃げまわっている。 そのようなごっこである。
映画を見て、 思わず「お!」と叫ぶチャールズは、 きゃーきゃー言いながら逃げる子供と 同じ状況なのだ。
2.2.4 中川ゲーム論との重なり
俳優として虚構に参加する仕方、 すなわち「ふりをする」ことが、 中川のゲーム論の「一抜けた」に、 そして、チャールズのように 「物語にとらわれている」 [walton-fearing-j: 324] 虚構に参加する仕方が、 中川ゲーム論の「遊ぶ」に相当することは 明瞭であろう。 表 (fiction) を見よ。
よろめき 平穏→ 出会い 誘惑 →転落 モーム型 平穏← 興醒め 疑惑 ←熱中 アスペクト 単相 浅い複相 深い複相(相貌) 単相 中川ゲーム論 現実 一抜ける 遊ぶ (石を食べる自閉症児) ウォルトン虚構論 現実 ふりをする(俳 優) 遊ぶ(鑑賞者) (『パタリロ』の宇宙人) 表 ゲームと虚構 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
ウォルトンは作者や俳優の_MARK(ふり) (サール風に言えば「偽装主張」)と、 鑑賞者の態度 (それは準恐怖に端的にあらわれる)を _MARK(論理学)的に_MARK(明瞭)にしていく。 ウォルトン自身は、 明示的に述べていないが、 ここでは三浦の『虚構世界の存在論』 ( [miura-kyokou])に基づいて、 解説していきたい。 その道具立ての 主役は「_MARK(内包)オペレーター」 (intensional operator) である。
そのためには指示の不透明性についての 準備作業が必要である。 なるべく簡単に指示の不透明性の問題を 紹介したい。
2.3.1 外延と内包
まずは、 「外延」と「内包」についての復習から始めよう。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
例えば<人間>という概念の内包は <人間性>、 外延は<人類>となる。 フレーゲでは、 ある概念(=述語の意味)に属する対象の集合(値域)が 当の概念の外延であるが、 また当の述語の意義がほぼ内包に相当する。 カルナップは、 フレーゲ的意味と意義の区別を改変しつつ一般化し、 外延と内包の区別に重ね、名前、述語、 文の各外延(内包)を、 それぞれ、個体(個体概念)、 個体の集合(性質)、真理値(命題)とみなした。 [nomoto-imiron]
2.3.2 外延と文の真理値
命題とその命題を構成する語の外延については、 たいがいの場合、 つぎのことが言える: 命題の中の語を、それと同じ外延を もつ語と入れ替えても 命題の真偽値は変わらないのだ。
・・・・・ 【いくつかの例】 ・・・・・
これを_MARK(外延性)の_MARK(原則)と呼ぼう。 この原則はわたしたちの直観とも 整合的である。
2.3.3 明けの明星のパラドックス
_MARK(明けの明星)のパラドックスと呼ばれるパラドックス がある。
「あけの明星と宵の明星は同一の天体である」(1)は、 この世界で成立する同一性言明である。 「あけの明星が太陽系の内側から二番目の惑星である」という 文が成立するのなら、もちろん、 「宵の明星が太陽系の内側から二番目の惑星である」という 文も成立する。 ところが、 「古代エジプト人はあけの明星が宵の明星であることを 知っていた」 (2)という文を考えてみよう。 この文(2)に、同一性言明の (1) を当てはめると、 「古代エジプト人はあけの明星があけの明星であること を知っていた」(3) という無意味な、 すくなくとも、(2)とはまったく違った意味の文が誕生するのだ。
2.3.4 命題的態度と不透明性
命題を目的語とする動詞、 たとえば「信じる」「思う」「知っている」「発見する」等の 目的語となる文の中では 外延性の原則、すなわち、 _MARK(外延)による同一性言明による入れ替えが成り立たない、 これが「_MARK(命題的態度)文という 文脈の中の_MARKB(不透明性)」の問題と呼ぶ。
2.3.5 デ・レとデ・ディクト
そして、 現実世界に関する読みをデ・レ (事象様相)と、 そして言われたことの読みを デ・ディクト(言表様相)と呼ぶ。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
言い換えれば、 命題的態度を示す動詞は、 導かれた命題を内包的に (あるいはデ・ディクトとして)読むことを 強制するのである。 このように内包的に読むことを強制する文脈を 用意するもの (命題的態度がその主たるものだが)を、 ここで_MARK(内包オペレーター)と読んでおこう。
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ 様相命題---「6+1 が 7 であるのは必然的で ある」←→ 「6+1 が 惑星の数であるのは必然的で ある」
議論を整理するためだけが、 ここで「_MARK(外延)_MARK(オペレーター)」 という語を導入したい。 「つづく命題を外延的に読め」というオペレーター である。 おそらく、このような語を使った哲学者は いないと思う。 ほとんどの文が外延性の原則を満たしているので、 日常会話では「外延的に読め」というマークは 必要ないのだ。 すなわち、日常会話において、 外延オペレーターは、ほとんど、 使われることはない。
2.3.6 スコープ
さて、ここで、 次のような文を考えてみよう: 「野崎は阪大教授はすべて音痴だと信じている」。 「信じている」が命題的態度を導く動詞、 すなわち内包オペレーターであることから、 デ・ディクトの読みをすべきであることは 見当がつくであろう。 しかし、 それでもまだ問題は残るのだ。
この文には、じつは、二つの読みが可能である。 一つは、 野崎が知っているすべての阪大教授を想定して、 その一人一人が音痴だと、野崎が考えている、という読 みである。 もう一つは、 野崎の信念世界において 阪大教授がすべて音痴だ、というのだ。
この違いを生みだすのが命題的態度を指定する 動詞、 あるいは_MARK(内包)オペレーター (ここでは「信じる」)の_MARK(スコープ)である。 下図を見よ。
(a) all (x, F(x) -> B(a) [G(x)]) (de re) (b) B(a) [all(x, F(x) -> G(x))] (de dicto) (a) すべての F であるような X について、 信じている(a) [x は G である] (b) 信じている(a) [ すべての F であるような x について、x は G である]ただし F(x) は、「阪大教授である」、 G(x) は、「音痴である」を意味する。
(a):野崎くんの信念世界において、 阪大教授がすべて (すなわち、これらの世界で阪大教授である個人の全てが) 音痴であることを意味し、 (b)では、野崎くんは一群の命題を信じてい る。すなわち阪大教授の各々(現実世界の阪大教授) に対して、 この個人は音痴であるという命題を 野崎くんは信じているのである。
2.3.7 ウォルトンの議論
以上の道具立ては、 「虚構において」を内包的オペレーターとして 見よう、という意図のもとになされている。 そして、 批評家、俳優、鑑賞者のそれぞれの態度を 内包的オペレーターのスコープの問題として 整理したいのだ。
以下、 三浦の『虚構世界の存在論』 ( [miura-kyokou])のまとめに よって、 ウォルトンの議論をまとめておこう。 なお、わたしは、ここで 三浦の例だけでなく議論そのものも修正している。 これから行なわれる議論が正しければ、 その99%は三浦の手柄であり、 議論が間違っていれば、 その99%はわたしの責任である。
以下の整理において中括弧で くくったものはオペレーターである。 「{ごっこで}」は内包オペレーターである。 「{現実に}」は外延オペレーターであり、 サールのいう「まじめに」に相当するものだ。
2.4.1 虚構オペレーターと現実オペレーター
さて、中川の修正による 三浦によるウォルトンの議論のまとめを 挙げよう。 三浦のオリジナルにはないが、 対照を明瞭にするために、 現実世界のジョーズと、 そのジョーズを見た人間(「野崎」という名前だとしよう)の 発話をかんがえる。
次のようになる。 なお、以下の (A) はオリジナルにはなく、 (A')は、オリジナルにおいては (A)である。
(A) 野崎は{現実に}主張する[{現実に}ジョーズが来た] (A') 批評家は{現実に}主張する[{ごっこで}ジョーズが来た] (B) 俳優は{ごっこで}主張する[{現実に}ジョーズが来た] (B') 読者は{ごっこで}心配する[{現実に}ジョーズが来た]「{}」に囲まれた句はオペレーターである: 「{ごっこで}」は内包オペレーターであり、 「{現実に}」が外延オペレーターである。 内包オペレーターのスコープ(作用域)にある 語句は内包的に読まなければならない。 外延オペレーターは、読み(解釈)において、 省略して問題ない。 オペレーターのスコープ(作用域)は 大括弧(「[]」)で示されている。
さて、それぞれを解釈していこう。
批評家(A')は、あたかも虚構を相手にしているかの ごとくであるが、 すでに述べたように、 じつは野崎くん(A)と同様、 _MARK(現実)だけの世界に生きているのだ。 (A')(批評家)において、 _MARK(虚構)は世界ではなく、 現実世界の_MARK(部分)にしか過ぎないのである。
(B) そして (B') は「ふりをしている」だけである。 この段階での読者は、 俳優と同じであり、 彼の心配や恐怖は決して「準恐怖」ではない。
ごっこに参加するチャールズが感じる「準恐怖」のは、 つぎの (C) の段階である。
(C) {ごっこで}[読者は{現実に}心配する[{現実に}ジョーズが来た]]「{ごっこで}」という内包オペレーターのスコープが 広がるのである。 (B') においては、 それは動詞「心配する」だけを含んでいた。 (C) においては主語である「チャールズ」をも含むのである。 読者、たとえばチャールズは現実の読者ではなく、 虚構のチャールズとなるのである。 チャールズは、言わば、自らを演じるのである。
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2.4.2 虚構世界の拡張
虚構オペレーターのスコープが 読者、鑑賞者、チャールズまでも含むとは、 図式としては分かりやすいが、 その具体的な意味を直感的に理解にしにくい。
ここで論理学をほとんど使わずに議論している ウォルトンのオリジナル論文に戻ろう。
ごっこ上で われわれは、 ハック・フィンがミシシッピ川を下ったということを 信じているし、知っている。 そしてごっこ上でわれわれは、 彼や彼の冒険のついて様々に感じ、 様々な態度をとる。 [walton-fearing-j: 325]
この問題、言ってみれば 「準信念」、「準知識」、「準恐怖」を、 わたしたちは 「オペレーターのスコープの拡大」として 語ったのだが、 同じことを、ウォルトンは次のように言う:
自分をどうにか騙して虚構を現実として 思わせるというよりは、 われわれ自身が虚構的になるのである。 こうしてわれわれは結局、 虚構と「同じレベル」に立つ。 [walton-fearing-j: 325]
すなわち、 虚構を現実にするのではなく、 「われわれが虚構のレベルに降りてゆく」 [walton-fearing-j: 324] ことが、_MARK(虚構の現実感)の答なのである。
この状況は、 石を食べてしまう自閉症児と同じことになる。 融即の状況だ。 ポイントは、その状況全体を 「{虚構で}/{ごっこで}」という 内包オペレーターがとり囲んでいる、という点である。
「{虚構的に}」という内包オペレーターが 文全体をそのスコープに置くとき、 その外側に「{現実に}」の外延オペレーターが ある。 わたしたちは虚構に降りた自分と 現実の自分の二人に分裂するのである。
「わたし」を「視点」と言い換えよう。 視点が二つに分裂するのだ。 そうすると、 この状況こそが、 そもそもの複相把握の原点、 _MARK(視点)の複数化の言い換えであることに気づくだろう。 さらに言えば、 複相把握の議論の際に、わたしが持ち出した ラカンの_MARK(鏡像段階)の議論を思い出してほしい--- あの時に用いた言い回しと別の言い回しで 鏡の中の自身をはじめて見た幼児の状況を あらわしてみよう。 幼児は鏡の中の自分と鏡の外側の自分という 二つの視点を、同時に体験するのだ。 それこそが、「自我」を生む体験なのだ、と。
ヒッチコックの映画『サボタージュ』(1936)に、 それと知らずに時限爆弾をかかえて走る少年がでてくる 場面がある。 せまりくる爆発の時間を知っている観客は 手に汗を握って少年を見守る。 そして・・・なんと時限爆弾が爆発するのだ。 観客はあっけに取られる。 なぜ観客は驚いたのか--- それはこの爆発が映画の文法を無視しているからだ。
この事例がわたしの言いたいことを 見事に説明してくれるだろう。 すなわち、 たしかに、手に汗にぎって少年を 見守っているとき、 わたしたちは虚構に降りていっている(のめりこんでいる)。 しかし、 もう一つの冷静な目、 虚構を虚構として見ている視点が同時に存在したのだ。 その視点は少年が爆死したときに あらわになる--- その視点こそが、 「なぜヒッチコックはこんな映画の文法を無視した 展開をとったのだ」という感想として 浮かび上がってくる視点なのだ。 [6]
きゃーきゃー逃げまわる子供は、 決して一抜けて、ふりをしているわけではない。 だからといって、 父親が噛み付いたら、 途方に暮れるだろう。 もう一つの視点は、これが 虚構だということを認識しているからなのだ。
虚構を楽しむとは、 すなわちゲームを遊ぶとは、 虚構を外から見る(一抜ける)視点と 虚構の中に降りてゆく(融即する)視点の 二つの視点を同時に持つことなのだ。 これこそが深い複相把握なのである。
前節、中川のゲーム論の中での 疑問は次のようなものであった。 人類学者は融即している現地の人でも、 一抜けて、観察している旅人でもない。 それでは人類学者はどのような態度で 異文化に接しているのだろう、と。 答は、 彼女は融即と観察とを同時に行なっているのだ、 ということになる。 まさに融即・観察あるいは参与・観察である
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
わたしたちは絵画鑑賞の際に どのような作業を行なっているだろうか、という 問題に答えよう。
誰でも知っている絵画、 レオナルド・ダ・ヴィンチの『_MARK(モナ・リザ)』を考えよう。 [7] 絵に描かれる女性を、ここではモデルと言われる フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、 すなわち「モナ・リザ」(リザ夫人)を指すとして、 話を進める。
_MARK(ウサギ)・アヒルの図を経由した
わたしたちは、
すぐに絵画の鑑賞の仕方とは、
絵画をモナ・リザ
ウォルハイムは「の中に見ること、として見ること
そして画像的表象」
[wollheim-seeing-in]という論文の中で、
絵画の鑑賞は「として見ること」(_MARK(seeing-as)) ではなく、
「の中に見ること」(_MARK(seeing-in)) だという議論を
展開する。
わたしたちはそのキャンバスに描かれた絵を
「モナ・リザ」
もし「モナ・リザ」として見ているのなら、 ウォルハイムは言う、 わたしたちはそこにモナ・リザしか見ないだろう。 単相の議論を思い出して欲しい--- 単相には認識論はない。 「あれはウサギに見える」のではなく、 「あれは_MARK(ウサギだ)」という _MARK(存在論)の世界なのだ。 「モナ・リザとして」見ている場合、 それは_MARK(本物)のモナ・リザと出会っている場面と 全く異ならないのである--- 「あれはモナ・リザだ」。
しかし、わたしたちは『モナ・リザ』の絵を見るとき、 そのモデルであるモナ・リザを見るだけでなく、 その見事な筆捌き、色の使い方などを 同時に鑑賞しているのだと。
_MARK(字)を例にすると分かりやすいかもしれない。
通常、わたしたちは
字を字として見ている;
「あ」の字を「あ」
・・・・・ 【書取りと書道】 ・・・・・
わたしたちの言い方を使おう。 わたしたちが『モナ・リザ』を見ているとき、 わたしたちはその筆捌きや色の使い方だけを見る こともできよう。 これが_MARK(外在的)態度(一抜ける)である。 可能性として、絵画をモナ・リザ_MARK(として)見ること (_MARK(本物)のモナ・リザに出会っているように見ること)も あるかもしれない。 これが_MARK(内在的)態度(_MARK(融即))である。 そして、 本来の絵画の鑑賞の仕方はその合成にあるのだ。 すなわち、本物のモナ・リザのいる世界を地として、 筆捌きなどの(現実世界)を図として見ているのである。
絵画 | 筆さばき | 本物のモナ・リザ | ||
絵画 | 現実世界 | 外在的態度 | 虚構世界への内在的態度 |
[1] これは三浦( [miura-kyokou])の議論との整 合性のために導入した。 [Back]
[2] 訳注によれば、この語を最初に使ったのは コールリッジだという。 [Back]
[3] 大澤による「アイロニカルな没入」を、 リストに加えることができるだろう。 [Back]
[4] 「内包オペレーター」の語は、 論文の中では使われていない。 それは、 彼の議論の中に暗示されているだけである。 この語を使ってウォルトンの議論を紹介したのは、 翻訳論文集の編者(西村) による解説( [nishimura-kaisetsu])である。 [Back]
[5] ウォルトンは、「おう!」と発言した チャールズと、 「ジョーズが来る」と発言したチャールズを、 同じ状況にいると主張しているとも読める。 わたしは、そうではないと思う。 [Back]
[6] ちなみに、 ヒッチコック自身、この展開は まちがっていたと認めている。 ( [truffaut-hitchcock-j]) [Back]