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環境主義の倫理

中川 敏

1 序

2 環境主義の哲学
2.1 人間中心主義 vs 反人間中心主義
2.2 個体主義者 vs 全体主義者
2.3 哲学者のSF

3 豊かな森、貧しい人々
3.1 人類学者のSF
3.2 環境主義批判
3.3 人間へ
3.4 植民地主義と環境主義
3.5 ピュシスの帰結としての環境主義
3.6 黒い脅威から
3.7 無知な原住民へ

4 まとめと展望
4.1 まとめ
4.2 展望

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(C) Satoshi Nakagawa
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1. 序

2. 環境主義の哲学

ヴァーナー [varner-nature] によれば、 現在の環境の倫理学 (Environmental ethics) には、 「二つのドグマ」があるいという。 ひとつのドグマは「人間中心主義 (anthropocentrism) の否定」そして、 二つ目のドグマは「アニマル・ライト (animal rights) の否定」である、 という。

それでは、この二つのドグマに至るまでを、 アンドリュー・ライトの簡潔なまとめに沿って、 環境の倫理学の現況を概観していこう。

2.1 人間中心主義 vs 反人間中心主義

ライトが最初にとりあげる論争は、 人間中心主義を巡る論争である。 人間中心主義に対する、 この領域(環境の倫理学)のもっとも初期の哲学者の論考にすでに 多くあらわれている。 シンガーの論文のタイトル、 「すべての動物は平等である」 [singer-animals]は この立場を象徴的に表しているだろう。 倫理の体系の中で、人間という種のみを特別に扱う なんら論理的な根拠はない、というのがシンガーらの主張である。 人間を特別扱いする立場、すなわち、 「人間中心主義」を、しばしばシンガーは ``speciesm'' と呼び (``racism'' を非難するのと同じやり方で)非難をする。 もう一人の初期から活躍する環境倫理学者、ラウトリーは、 「人間中心主義」を ``human chauvinism'' と呼び、 (``male chauvinism'' を非難するのと同じやりかたで)非難する。 ``Human chauvinism'' とは 「価値と道徳とは、ひっきょう、 人間というクラスの関心と興味という問題に還元される」 という主張である。 [routley-routley-chauvinism: 36]

言葉狩りの例 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・ ( [dunayer-animal] quoted in [stibbe-moving-away]。)

反人間中心主義は、 いま現在、この領域で、この主張について疑義を呈することは、 ほとんど考えられないほどである、という。 「ドグマ」なのだ。

2.2 個体主義者 vs 全体主義者

環境主義者は、 反人間中心主義を唱える点において アニマル・ライトと共同戦線を張る。 しかし、個体主義を拒否する点で、 アニマル・ライトと袂を分かつのである。

アニマル・ライトの拒否をめぐる論争は、 個体主義者 (Individualists) 対全体主義者 (Holists) の対立として (ライトの論文の中で)語られる。

初期の環境倫理学の哲学者、 とりわけ、シンガーは有名なアニマル・ライトの提唱者である。 彼は、すべて感覚を持つ (sentient) 動物の権利の擁護を、 人間のもつ権利と似たような権利の擁護を訴えた。 もちろん、彼らは、菜食主義を提唱し、 食肉の生産に反対し、また、 動物実験に反対するのである。

全体主義者は、 個体主義ではエコシステムの道徳的評価の道具を提供できないと主張する。 生態学者や保全環境学がエコシステムのレベルで議論をしているかぎり、 倫理学もまたエコシステムのレベルで道徳について議論しなければならない (個体の福祉を考えるのではなく、 種の保全のレベルで考えなければならない) のだ、と彼らは主張するのである。

個体主義者は、 全体の福祉を個体の福祉に優先させる全体主義者は、 いわば、「環境的なファシズム」だと語る。 [regan-case]

個体主義者からの反論にも関わらず、 「個体主義からは、エコシステムの保全を導く議論ができない」ことを 第一の理由として、現在、 全体主義が優勢であるのだ。 これが第二のドグマである。

ライトは、 さらに全体主義者の中での、 客観主義者 vs 主観主義者の対立 1 さらに、説明は単一の原則で行なうべき(単一主義者 Monists)か、 それとも複数の原則を使いまわして行なうべき(複数主義者 Pluralists)か を巡る対立を細かく紹介していく。 それらはここでは扱わない。

2.3 哲学者のSF

アングロフォンの哲学者の擬似SF物語好きは有名だ。 ここに二つの物語を引こう。 ラウトリーはつぎのように背景を設定する。

あなたはこの地球で最後の意識のある生物である。 あなたのあとに意識のある生物がこの地球に住まうことはもはやない。 この地球の素晴しい山や川を経験できる生物は、未来永劫、 地球を訪ずれはしないのだ。 さて、問題は次の通りだ— 「あなたがこの環境を破壊することを選んだとした場合、 あなたの行為は『悪』であるのか?」 [routley-do-we]

まったく似たような状況をロールストン三世も書く。 [rolston-wild] どちらの著者も、そのような状況であっても (観賞する者がいなくても)、 環境破壊は「悪」であると主張するのである。 2 ジャミソンは、この二つの物語を紹介したのちに、 次のように言う—「たいていの環境倫理学者は、 ロールストンの議論に賛成するだろう」と。 [jamieson-nature: 650]

3. 豊かな森、貧しい人々

同じような対立が環境主義の現場の そこここに見られる。

ヘッチヘッチ論争を思い返していただきたい。 ミューアは人間の手を加えぬ自然を 保存 (preserve) することを主張した。 それに対してピンショーは 「喉の渇きを訴える子どもたち」がいることを 強調するが、 論争はミューアの勝利に終わったのだ。

たとえば、 バリの漁民たちが環境保護のNGOに立ち向かう記事が、 最近、インドネシアの新聞に載ったことがある。 NGOは漁民の海亀漁の網をずたずたに引きさいたのである ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・

3.1 人類学者のSF

哲学者に負けずに人類学者も物語で対応しよう。 惜しむらくは、人類学者の紡ぐ物語は、えらく 下賎なものになってしまう。

あなたの目の前に素晴しい景観が広がっている。 緑の森には、何千もの動物や虫、 おそらくはここだけにしか住んでいない動物や虫が生活しているのだ。 この森は生物的多様性の宝庫であり、 また同時に、この森が破壊されれば何千もの種が絶滅するのだ。 哲学者の物語との違いは、あなたは最後の意識する生物などではない、 ということだ。 最後の人間でさえない。 いや、むしろ、人間でいっぱいの世界についてわたしは 語っているのだ。 しかも、彼らはこの森を生存の手段としているのだ。

さて…。

哲学者のあまりの極端さに飽きれて、 わたしもついつい逆の極端のほうに流されてしまったようだ。 上の段落のような問題提起は、 もしそれが「環境倫理学」の脈絡でなされたのではないとしたら、 あまりにナイーブなものだろう。 もちろん、「持続する環境保全」という考えかたに導く ひとつの陳腐なレトリックに過ぎないからだ。 しかし、思いだしていただきたい。 わたしは、いま「環境倫理学」の脈絡でおはなしをしているのだ、と。

3.2 環境主義批判

哲学者のあまりのふてぶてしさに、 わたし自身われを忘れてしまった。 心を落着けるために、 滑稽なほどに「ナウな」環境主義批判を出してみよう。

* * * * *

環境主義に対する人類学的な批判で、 「モダン」なものは、 (『人類学のキーワード』くらいの本で勉強した人にもすぐわかるだろうが) フーコーを持ってくることだ。 それは、「監視」だと告発すれば、それですむ。

どのような環境主義的な運動も 「規律」discipilnary への動きである。 環境主義は空間を監視 (polices) し、 場所 (site) とモノを取り囲み、それらを警護し、 それらをつねに見張っているのだ。 それらを包囲しているといってもいいだろう。 [luke-abuse: 185]

ルークがフーコー語使いとすれば、 ソーヤーとアグラワルはサイード語使いである。 ソーヤーとアグラワルは、 環境保全の運動は、 植民地時代の西洋による「他者」観の残存であるという。 植民地の想像力のなかで (わたしはこういう言いかたが大嫌いだ) 新たに獲得した土地、その自然は(非白人の)女性であった。 植民地に白人の女性が増えるにつれ、 白人の女性が非白人の男性と性的な交渉を持つことは、 清浄さの衰退と考えられた。 このような非白人の男性は、「黒い脅威」(Black Peril)として 捉えられてきたのである。 [sawyer-agrawal-orientalism: 94] 植民地期の「黒い脅威」の考え方と現在の環境主義には 心を痛める類似がある、と彼らは続ける。 今日、その豊穣さとかよわさのなかで「自然」こそは 守られなければならないものである。 そして、その自然に対する脅威こそが、 黒い原住民たちなのだ。 [sawyer-agrawal-orientalism: 94]

3.3 人間へ

ライトの論文は、 じつは、それほど「世間知らず」ではない。 論の後半で、彼は、環境主義の哲学と「世間」とのギャップに言及している。 前節の学説史を紹介したあとに、 彼は、「反人間中心主義」の再考をうながしているのである。

それでは、われわれは (得意の分野であるはずの)「人間」に戻ることとしよう。

3.4 植民地主義と環境主義

この図式は、まさに植民地期に見られる「環境保護」の図式である。 ペルーゾは、 オランダ植民地政府によってジャワの森林が囲いこまれ、 そこで暮していた人々が追い出されるさまを描写する。 [peluso-rich-forests] 彼女のテーマはその本の題名に明らかである… 『富んだ森林、貧しい人々』。 森林を保護することで、 現地の人々は貧しいままに置かれるのだ。

リュークは言う:

どのような環境主義的な運動も 「規律」discipilnary への動きである。 環境主義は空間を監視 (polices) し、 場所 (site) とモノを取り囲み、それらを警護し、 それらをつねに見張っているのだ。 それらを包囲しているといってもいいだろう。 [luke-abuse: 185]

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3.5 ピュシスの帰結としての環境主義

「西洋による非西洋への監視」として糾弾されうる このような環境主義には、 もう一つの、言わば、弱味がある。 それは、 環境主義のもつ「自然観」が決して 普遍的なものではない、という点だ。 ミューアの「人間の手の触れない自然」という考えかた、 非人間中心主義の環境主義の哲学の描く (内在的価値を有する)自然観を思いだそう。 哲学者が「普遍的」と思っていたこの自然はじつは きわめて「西洋的」なものであったのだ、と議論は展開する。

《人為的影響から隔離され、 管理され、そして鑑賞される自然》 という考え方、 ミューアの議論にまざまざと描かれる自然観、 これが、 じつは、17世紀ヨーロッパの「風景画」に起源をもつのだ、 とクランデルは指摘している。 [crandell-nature]

3.6 黒い脅威から

「歴史的に語る」と宣言しておきながら 歴史を遡ってしまった。 17世紀までに話がもどってしまっている。 このまま続けさせてくれ。

ソーヤーとアグルワルは、 植民地期の「自然観」を次のように刔り出す… 彼らによれば、 環境保全の運動は、 植民地時代の西洋による 「他者」観の残存であるという。 植民地の想像力のなかで 新たに獲得した土地、その自然は(非白人の)女性であった。 植民地に白人の女性が増えるにつれ、 白人の女性が非白人の男性と性的な交渉を持つことは、 清浄さの衰退と考えられた。 このような非白人の男性は、 「黒い脅威」(Black Peril)として 捉えられてきたのである。 [sawyer-agrawal-orientalism: 94] 植民地期の「黒い脅威」の考え方と現在の環境主義には 心を痛める類似がある、と彼らは続ける。 今日、その豊穣さとかよわさのなかで「自然」こそは 守られなければならないものである。 そして、その自然に対する脅威こそが、 黒い原住民たちなのだ。 [sawyer-agrawal-orientalism: 94]

3.7 無知な原住民へ

現在 「黒い脅威」として ローカルな人びと 3 が描かれることは滅多にないだろう。 しかし、いまでも「無知」であることは変わらないのだ。 なんといっても、 彼らは「教育の対象」なのである。

しばらく前までテレビによく流れていた 焼き畑撲滅のキャンペーンを見てみよう。 「彼らは焼き畑が環境に悪影響を及ぼすことを知らないのだ」… これが流されるメッセージである。 「彼らには悪意はない。 足りないのは教育だ。 わたしたちは、彼らに焼き畑をやめさせるだけではなく、 新らしい農耕のやり方を教えているのだ」と ナレーションは続く。

4. まとめと展望

4.1 まとめ

環境主義が多様な源泉を持つことは理解されたであろうと 期待する。 問題は、 第一に 源泉同士がたがいに矛盾するような事態に 陥りがちであること、 また、 用語(「生物多様性」)の意味が曖昧であることにある。

4.2 展望

・・・・・ 【C.Taylor の市民運動論、association論】 ・・・・・

・・・・・ 【それは認めるが、現実は直視しよう】 ・・・・・

・・・・・ 【手続き的民主主義論にあうのかしらん】 ・・・・・


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Bibliography

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ENDNOTES

[1] 非人間(動物、環境)に属する「価値」は内在的 (intrinsic) であるか、 それとも価値は人間を通してはじめてそこに存在するのかを巡る対立である。 [Back]

[2] ライトの言うところの客観主義と主観主義の対立に 関わる問題提起である。 [Back]

[3] 「原住民」「先住民」等の政治的な負荷のかかった 言葉を使いたくないときに、 わたしは「彼ら」を「ローカルに人びと」と呼ぶ。 [Back]