5 ジルのマンガライ
5.1 背景
5.2 環境主義者と原住民の幸せな関係
5.3 伝統的な首長
5.4 ジルの物語
6 アーブのマンガライ
6.1 オランダ時代の森林統治
6.2 「ローカルな人びと」の問題
6.3 アーブの物語
7 ホッブズのパラワン
7.1 パラワン概観
7.2 パラワンの環境問題
7.3 パラワン熱帯森林保護プログラム
7.4 行政の役人
7.5 ホッブズの物語
8 ノヴェリーノのパラワン
8.1 押し付けられた「伝統」
8.2 バタクの人びとは自分自身の土地で周辺化される
8.3 異質なものの強制的な使用
8.4 土地は意味を剥奪される
8.5 ノヴェリーノの物語
Draft only ($Revision: 1.3 $ ($Date: 2011-12-05 07:27:25 $)).
(C) Satoshi Nakagawa
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この章の一つの目的は、環境主義に関する論考の分類である。 かなり道具だてがそろってきた。
登場人物は、4種類に分類される。 (1)原住民(「伝統」にそって環境を活用 (exploit) する人びと)、 (2)環境主義者たち(たとえば、NGO)、 (3)政府、 (4)私企業(「経済」によって環境を搾取 (exploit) する人びと)である。
わたしが原住民を女性にみたてているのは、 もしかしたら、 原住民を男にみたてる「環境主義」 [sawyer-agrawal-orientalism] への反発にもとづいているのかもしれない。 わたしの意図は、 「いまどきの」環境主義は、むしろ、「原住民」を女性に みたてていると思われるような語りかたをしている、という点を 強調することにあるのだが…ま・なにはともあれ…。
政府と環境主義者の役割分担はしばしば入れかわる。 「よき」政府が、「環境主義者」の役割をになうこともあろうし、 「あしき」環境主義者が、「政府」の役割をになうこともあろう。
最初の悪役に登場してもらおう。 「政府」である。
登場人物のタイプがもっとも少ない (登場人物の数は非常に多いのだが)ひとつの物語として、 ジャワの森林保全の物語を紹介しよう。 『豊かな森、貧しい人々』と題された本だ。 [peluso-rich-forests]。
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ここでは明らさまに悪役としての政府が強調されている。 ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
登場人物が増える。 「原住民」と「政府」に加えて、 環境主義者たちが舞台にあがるのだ。
二つの舞台を紹介する。 一つは、東部インドネシアのフローレス島の 西部にあるマンガライであり、 もうひとつは、 フィリピンの南の端、パラワン島である。
まず、西部フローレス島のマンガライから始めることとする。 事件は国立公園の設立をめぐって起こる。
国連は 1993年を「先住民の年」とした。 インドネシア政府は、UN のこの宣言に公式的には関心を払わなかった。 インドネシア政府の公式見解によれば、 インドネシアには「先住民」は存在しない。 ( [li-locating]を見よ。) あるいはもっと分かりやすく言えば、 インドネシアに住むのすべての民族は「先住民」なのである。 (公式に「masyarakat terasing」とされた)クブ人であろうと、 (政治の中枢を握る)ジャワ人であろうと、 すべての人びとは「先住民」なのである。 1993年は、インドネシア政府によって他のテーマにふりあてられた— 「環境」である。 [persoon-et-al-peoples: 30]
ADB(アジア開発銀行)は、40,000,000USドル (そのうちの一部はローンである)を生物多様性保護 (Biodiversity conservation)プロジェクトに割当てた。 ひとつは、フローレスのマンガライであり、 もうひとつはシベルートである。
ジルは、国立公園が森林を保護することにより、 地元のマンガライの人びとが水を確保できることを述べる。 [gill-loggers: 1] 環境主義者と地元民は、幸福な関係を築いているのだ。 悪党は、よそからやってきた盗伐者たちである。 [gill-loggers: 3--4] 彼ら盗伐者にも言い分があることをジルは認めるが、 大事なことは、地元の人びと、マンガライの人びとが、 この伐採で困っていることなのだ。 ジルは、マンガライの代表の次のような語りを引用し、 自分があくまで原住民、マンガライの人びとの側に立っていることを 強調するのである。
「伝統的衣裳に身をつつんだ首長、サレスマグルは 私に語った—われわれはここで 一所懸命に、そして正直に働いている。 かせぎは少ない。 盗伐者たちはここにやってきて、法を犯し、 われわれの生活を脅かしているのだ。 政府は彼らは違法だとは言うものの、 なにも対策をとろうとしないのだ」。 [gill-loggers: 4]
サレスマグルこそ、ツィンの言う「部族の首長」 (``tribal elders'') 、すなわち、 「部族という幻想を保守する人間」 [tsing-elder: 162] なのである。
邪悪な盗伐者、無能な政府に囲まれた 正直な(その上、伝統的な衣裳まできている)先住民を 助けるのが、 「われらのウルトラマン」ならぬ「われらの環境主義者」であるのだ。
ジルの牧歌的な物語に比べ、 マリベス・アーブの語る物語はずっと辛 [から]いものである。 [erb-ecotourism]
アーブは、国立公園の境界設定に際しての根拠となった(自然保護よりは、 資源保護の色合いの濃い)オランダ時代の保護林について述べることから始め る。
From 1933 to 1979 the area was called `hutan tutupan' (closed forests), from 1979 to 1993 it was called `kawasan hutan' (forest area), and in 1993 it was renamed `Taman Wisata Alam' (Natural Recreation Park), when the present TWA started to take shape in Ruteng. [erb-ecotourism: 76-77] ・・・・・ 【工事中】 ・・・・・
アーブはジャワ人たちから構成される政府の邪悪さを 暴きだし、 そして他所者から成る環境主義者の無能を糾弾する。 問題は、アーブは主張する、 スポンサーである(アジア開発銀行の)外国人にとっては、 ジャワ人であろうと その他のインドネシア人であろうと、 すべてが「ローカルな人びと」であることなのだ。 一方、 真に「ローカルな人びと」にとっては、 以上のどの人びとも (フローレス人でさえも)他所者であることなのだ。
ジルは、良き環境主義者と良き原住民と 無能の政府と邪悪な盗伐者との対立を描き、 アーブは、邪悪な政府、無能な環境主義者と 良き原住民の対立を描くのだ。
東部インドネシアからフィリピンの南部へと舞台を移そう。 パラワンの環境保全の物語である。 ここにおいても、二つの物語を紹介する。
牧歌的なタイプの典型として、 ホッブズによる(フィリピン)パラワン島の環境保全の物語を辿ってみよう。
パラワン島は、しばしば、 フィリピンの 「最後の生態学のフロンティア」(the last ecological frontier)と 呼ばれてきた。 珊瑚礁、森、そのた豊かな自然がいまでも保たれている。
1903年には3万5千人ほどであった人口が、 移民の増大で、急激に増えてきている。 1948年に10万人、 1960年に16万程度であったのが、 1994年には60万が記録されている。 それにつれて「先住民」の割合も 1948年の20%から、 1990年の10%へと降下している。 [hobbes-palawan: 46]
ホッブズは次のようにパラワンの 環境問題を導入する--- 「パラワンにおける森林破壊の 主たる原因は、 商業的で非合法な伐採、 森林に対する農業用地としての、 そして住宅用地としての需要を拡大した人口増大、 そして焼畑農耕である」 [hobbes-palawan: 46] 同じように非森林の環境にもさまざまな破壊の手が 延びているとホッブズは言う--- 「ダイナマイトや青酸カリによる漁業、 魚の取り過ぎ、 マングローブの開拓などが、 同じように、 海岸部と、海の環境の破壊に繋がっている」 [hobbes-palawan: 47]。
物語は、1995年にパラワン熱帯森林保護プログラムが発足する ところから始まる。 舞台は、バタラザ行政区 (Bataraza municipality) にある イノグボング・バランガイ(barangay Inogbong)の マンタリンガハン山の東側のパラワン人の共同体、サライ (Saray) である。
登場人物は、悪役、政府の行政の役人である。 彼らは、「原住民」と環境について次のように語るというのだ --- 「部族社会の人々こそが森林破壊の唯一の原因なのである。 そしてこのプログラムのおかげで、 彼らは森林を焼くのではなく、 森林を保護しなくてはならないことを 学習をし、意識的になったのだ」と。 [hobbes-palawan: 47]
行政府のもつ「無知な野蛮人」観を否定しながら、 プログラムの実行者たちは、果敢に「原住民」の共同体の中に分けいる。 彼らが最初にコンタクトをするのはパンリマ panglima と呼ばれる 共同体のリーダーたちである。 プログラムは、リーダーたちと密接に接触し、 リーダーたちは、共同体にその理念を植えつける。
パラワン人および彼(女)らの共同体はつぎのように 描写される。
たしかに彼女らは生存のぎりぎりに生きているかもしれない。 しかし彼女らは高地パラワンの自給農民であることに 誇りを持っている。 じっさい彼女らはいつも仕事で忙しいのだ。 環境に依存した上でよりよい生活を彼女らは望んでいる。 たとえ金持ちになるよい機会があったとしても、 誰も低地 (lowland) に行こうとなどは 誰も考えもしない。 ・・・・・ 高地で仲間のパラワンといっしょに過すことこそが 彼女らが望むことなのだ。 パラワンにとっての理想の生活とは、 かつてそうであったような生活 ---米の収穫は豊富で、森には果物や獲物があふれているような 生活をおくることなのだ。 [hobbes-palawan: 52]
平等主義のこの共同体の中で、 パンリマはみなの尊敬を集めて、 パンリマとして選出されたのだ。 パンリマの言うことにみなが従い、 森林保全はたいへんにうまくいった、という話である。
じっさい、 (もちろん例外はあるのだが)ほとんどの村人が 環境保全について熱心に語ったと、ホッブズは報告する。
原住民は、あくまで「高貴な野蛮人」である。 彼らは、伝統を維持する共同体の中で生活する。 徹底的な悪人(たとえば「私企業」)は登場しないが、 「政府」の役人が狂言回しとして 「原住民」の無知をなじる場面が挿入される。 プログラムのメンバーが「環境主義者」である。 プログラムのメンバーと原住民の共同作業の中で、 環境は保全され、原住民の生活は向上するのだ。
より単純な形態、悪役は存在せず、 環境主義者と原住民が協力しあいながら、 環境の保全(海亀の保護)につとめる姿が、 たとえば、メキシコのマピムについて書かれている。 [kaus-mapim]
パラワンの環境主義について書かれたもうひとつの 論文 [novellino-sacrificing] の描く状況は 全く違ったトーンを帯びている。
ノヴェリーノは、まず環境主義者たちのナイーブな 「高貴な野蛮人」観を指摘することから始める。 環境主義者たちは次のようにバタクの人びとを 規定する——
バタク族 (Batak tribe) は パラワンの原始的な先住民のひとつであり、 遊牧を行なっている。 彼らは、生物学的欲求を満たすために一つの場所から もう一つの場所へと移動する。 今日に至るまで彼らの宗教は (岩や木に宿ると信じられている) 自然のなかの精霊に基づているのだ
じっさいの環境保全のプログラム、 聖ポール公園の中で起こっていることは、 バタクの人びとが、自分自身の環境の中に住むことを (環境主義者の慈善によって) 「許されている」ということなのだ。 バタクの人びとは「環境と調和するような暮しをする 限りにおいて、公園の中に住むことを許されている。 いわば、 彼らは、自分自身の土地の中で「周辺化」されているのだ。 [novellino-sacrificing: 5]
そしてバタクの人びとが周辺化と戦うとき、 (そしてその戦いを、たしかに、環境主義者たちは 支援するのだが) 彼らが使用しなければならないのは、 土地の権利書であるとか、 写真であるとか、 地図であるとか、 あるいは図表であるとかの、 彼らにとっての異質な
かつて、バタクの人びとにとって、 土地は意味に満ち溢れていた。 人々はそれぞれの木の用途を知り、 どの洞窟に燕が巣をつくるのかを知っていた。 山や川にはそれぞれにまつわる神話があった。 環境は、過去と現在をつなぐ安定したリンクであったのだ。 現在、環境は、 プロジェクトによって(環境保全の必要度に応じた)三つのゾーンに 分けられる。 バタクの人にとって、環境はもはや somewhere ではなく、 nowhere なのである。 [novellino-sacrificing: 10]
環境保全のプログラムの中で、 環境保全に積極的に協力する「原住民」の姿はここにはない。 彼らは、意味を奪われてしまった人びとなのである。 「悪人」は善意の「環境主義者たち」なのだ。
・・・・・ 【ゲームによる取りこみ(両さん)】 ・・・・・
・・・・・ 【place vs non-place】 ・・・・・