次の各問題において、文中の番号付きの括弧内に (授業内容に即して)適当な語を 当該の問題の【選択肢】より選び、 そのアルファベットを解答用紙 (別紙)の当該の欄に記入せよ。 なお、同じ番号のついた括弧は同じ語句を指し示しているものとする。 (ただし、違う番号が違う語句を指すとは 限らない。) また、[]内 は選ぶべき語句についての説明である。
なお、問題に明らかな誤りがあると判断した場合、 解答用紙の余白にその旨を記すこと。 質問はいっさい受け付けない。 (気分が悪くなった等の場合は、 もちろん挙手をして知らせるように)。
この授業の講師は (1)[人名]である。 (1)先生の調査のほとんどは、 インドネシアの東部の フローレス島の (2)[民族名] という人々の間で行なわれた。 最近、新しいフィールドとして (3)[国名]にも出かけている。
2016年度のこの授業の目的は 「人類学的美学」の大枠を示すことにある。 そのためには、 2014年度、2015年度の授業 (とりわけ2014年度)の復習をする 必要があり、 最初の講義で、 2014年度の授業の復習を行なった。 その講義のテーマは かつての人類学のセールスポイントであった 文化(4)主義 の可能性についての議論であった。
文化(4)主義が可能になるためには、 まずは「文化」が存在する必要がある。 しかし、文化を素朴な方法で定義すると 「異文化は理解できない」という結論が帰結してしまう ことを示すことが出発点である。 素朴な方法で定義された文化を ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」に 対応するものだと考えれば、 ウィトゲンシュタインの独我論を 文化の理論として考えることができる。 もしこの議論の道筋が正しいならば、 ウィトゲンシュタインの独我論の中で 他者は語り得ぬモノであるように、 文化(4)主義の中で異文化は語り得ぬモノとなる。
続けて、ウィトゲンシュタインの独我論が 自閉症と同型であることを、 主に(5)[人名] (人間科学研究科の教員)の 『自閉症の現象学』に基づいて示した。 ともに、 「(6)の欠如」 という点において共通しているのだ。 こうすることによって、 文化(4)主義を救う道として、 自閉症児に欠如して 定型発達児のもっている能力をさぐる、という (ある意味で)実証的な道が開かれることになる。
着目したのは、
自閉症児の欠く
(5)の言う
「知覚的(7)力」(もともとは
フッサールの言葉)である。
(5)の出すもっとも印象的な例は、
自閉症児が
以上が2014年度の講義のあらましである。 今年度の講義は、 異文化を見つける能力とも言える アスペクト把握、 すなわち(9)把握の分析にあてられた。
【選択肢】 ( A) 中山、 ( B) 東ティモール、 ( C) 複相、 ( D) 中川、 ( E) 否定性、 ( F) 単相、 ( G) フィリピン、 ( H) 絵柄、 ( I) ジグソーパズル、 ( J) 統合失調症、 ( K) ジャワ、 ( L) スンバ、 ( M) エンデ、 ( N) カラム、 ( O) 空想、 ( P) ドブ、 ( Q) 理解、 ( R) 説明、 ( S) 村上、 ( T) 絶対、 ( U) 檜垣、 ( V) 虚構、 ( W) 論理、 ( X) 相対、
続く講義は アスペクト把握の、 とりわけ(9)把握をテーマにした。 そこでは、 ある種の思考実験として (9)の能力の欠けた人々からなる 共同体を考えた。 それは野矢の言うところの 「(10)」(``selflessness'' と訳すことが できるだろう)の共同体である。 外側から見ればすべての人が 規則にしたがっているように見える 共同体である。 内側の視点から見れば、 そこには規則はない。 規則は(11)の法則のようなものであり、 そこに「べき」はないのである。
この共同体にアスペクト把握の能力を 導入することにより、 (8)に裂け目がはいり、 (6)が導入されるのである。 そのときはじめて、 「他者」が、 そして「異文化」が (6)として登場するのである。
わたしたちは、 このような裂け目としてのアスペクト把握から、 そのさらなる深い段階を 考えていった。 野矢が「アスペクト」とほぼ同義語として 使用している「(12)」 という語がその「深い段階」を 理解する鍵となる。
野矢は「(12)」を説明する際に、 あるユーモラスな例を出す。 「(13)とネコとを一つのカテゴリー、 (14)と呼ぶ」文化を考えようというのだ。 われわれは、 このような概念の(12)を捉むことはできない、 と彼は言う。
人類学者である(1)は野矢に対して 反論する。 「それは可能だ」と。 民族誌にはそのような報告が沢山あるのである。 たとえば、 ドブ(南太平洋の島)では (15)と人間は一つのカテゴリーとされる。 あるいは、ニューギニアのカラムでは (16)はトリとは別のカテゴリーとされるのである。 授業ではインドネシアの (17)[民族名]の親族名称の体系を詳しく 見ていった。 その説明の中で分かったことは、 一見野矢の例のように荒唐無稽に見える カテゴリーも、じつは、 その全体の体系を把握すれば 荒唐無稽ではないということである。
アスペクト把握についてまとめれば 次のようになる: (i) (8)、すなわち アスペクト把握の能力のない状況、 (ii) (8)の裂け目としての段階、 そして、 (iii) アスペクトを支える体系の理解を伴う アスペクト把握、すなわち (12)の把握の段階、 という三段階が区別されるのだ。
【選択肢】 ( A) 実践、 ( B) ニワトリ、 ( C) 芋、 ( D) クリーニャ、 ( E) 自動車、 ( F) 則天去私、 ( G) クーラー、 ( H) タガログ、 ( I) アリ・カッエ、 ( J) ニャカ、 ( K) 相貌、 ( L) 掃除機、 ( M) 周辺参加、 ( N) 米、 ( O) エンデ、 ( P) 自然、 ( Q) ジャワ、 ( R) 文化、 ( S) ヒクイドリ、 ( T) カラス、 ( U) 論理空間、 ( V) 想像の、
以上の文化人類学原論とでも 言えるアスペクト把握の議論を終えて、 次の講義(「遊びと科学と芸術と」)からは 人類学的美学論にはいっていった。
「12」とは、 アスペクトを生み出す体系を把握する 中に浮かび上がるものである、と述べた。 ここで「体系」を「世界」と言い換えてみよう。 「12」を見るためには もう一つの世界を把握する必要があるのだ。 「もう一つの世界」という語が前提としているのは、 わたしたちはあらかじめ一つの世界 (「現実世界」)に所属している、という事実である。
「人類学的美学」は、 このような二つの世界に所属するという 体験を生む領域を、その対象とするのである。 授業では、 その対象として 三つの領域を挙げた。 一つは、人類学的美学がいわば 二つの世界に所属する体験の 典型例として考える (18) である。 もう一つは (古典的美学が対象としている) 芸術である。 そして、 三つめの領域として 科学がある。
科学が 人類学的美学の対象となるのだ、 すなわち、二つの世界に関わるのだ、という 点に関しては、 授業では (19)[人名]の科学革命についての 議論を紹介することによって 明らかにした。
科学革命の議論を聞いた後でも、 なお構造としては 科学が(18)と同じである、という 議論は受け入れにくいであろう。 その受け入れにくさを払拭するために 紹介したのが 哲学者(20)[人名] による 「グルー」の議論である。
グルー議論の結論は、 行儀のわるい「グルー」という述語と、 そうではない「グリーン」という述語を、 「科学的」という基準で比較したとき、 形式的には「どちらがより科学的か」は 決定できない、ということである。 この脈絡で(20)が「グリーン」を すくうべく導入するのが 「(21)」 という考え方である。 この概念 ((21))の (20) 自身による説明 (たとえば、「よく擁護されている」等による 説明)はいささか分かりにくい。 授業では、 (21)を、 ジグソーパズルの比喩をつかいながら 説明した。 すなわち、 (21)とは、 パズルの一つのピースのもっている属性だが、 その属性は、パズル全体のもっている (22) との関連でのみ決まるのだ、と。 さらに、 この授業の参考図書として指定した わたしの『言語ゲームが(23)を創る』 の中の「プレイアビリティ」の考え方を (21)そして(22)と重ねながら 説明し直した。 そして、 (12) とは(22)の中で 一つのピースの持つ価値なのだ、と 再定義した。
【選択肢】 ( A) クーン、 ( B) ギアツ、 ( C) 仕事、 ( D) レヴィ=ストロース、 ( E) ポランニー、 ( F) グッドマン、 ( G) 絵柄、 ( H) 遊び、 ( I) 富士山、 ( J) 相貌、 ( K) 投射可能性、 ( L) アスペクト、 ( M) ハルトマン、 ( N) 写像、 ( O) 写像可能性、 ( P) 社会、 ( Q) 社会学、 ( R) ディッキー、 ( S) 世界、 ( T) バウムガルテン、
続く講義 (「芸術が離床する時」)は、 古典的美学の対象とする領域、 すなわち「芸術」、 とりわけ西洋における「芸術」の発生を テーマとした講義であった。
芸術と美学は(24)[数字]世紀において 同時に誕生したというのが通説である。 「美学」という言葉が最初に使われたのは (25)[人名]による『美学』という本の題名として 使われたのが最初だという。 このような芸術(というカテゴリー)の誕生を、 (26)[人名]による (市場)経済 の誕生に重ねながら、 授業では説明した。 (26)によれば、 かつて経済は社会に埋め込まれていたという。 社会に埋めこまれた経済の例として、 授業では(1)の調査地である (27)[民族名]の経済が紹介された。 (26)の細かい議論は省略するが、 大きな流れは次のようになる。 すなわち、 西洋史の中で「囲い込み」という現象が起きる。 そして、それを契機として (28)と(29)の資源化、あるいは 擬制的商品化がおきる。 前者は労働力として、 後者は商品としての土地として表われる。 かくして、経済が社会より (30)した のである。 この状況を、(26)は 「(31)」 と呼ぶ。 ちなみに、『31』は (26)による本の題名でもある。
授業では、 この社会学的な(26)の議論を 言語論的に翻訳して、 それを(32)[人名] の「(33)」論 に重ねた。 (32)が問題にするのは、 とりわけ(34)[人名]による 『泉』から始まるとも言える 現代芸術をどのように捉えるかという 問題である。 『泉』そのものは、 生活空間に置けば単なる (35)でしかない。 しかし、それを支える (33)が(一種の)(22)として 働くとき、 『泉』は芸術作品となるのである。
【選択肢】 ( A) ハルトマン、 ( B) 分水嶺、 ( C) バウムガルテン、 ( D) ギアツ、 ( E) 16、 ( F) 17、 ( G) 18、 ( H) 19、 ( I) ティモール・レステ、 ( J) ジャワ、 ( K) エンデ、 ( L) ポランニー、 ( M) 大転換、 ( N) 展開、 ( O) 自然、 ( P) 偉大なる逆転、 ( Q) 離床、 ( R) ダントー、 ( S) アートワールド、 ( T) デュシャン、 ( U) ベッド、 ( V) 便器、 ( W) 机、 ( X) ディッキー、 ( Y) 人間、
最後の講義では、 人類学的美学が対象とする領域の 特徴、 「二つの世界」を論理的に分析していった。 芸術以上に「二つの世界」がはっきりする 領域として、 (18)についてまず授業ではとり あつかった。
(18)の研究として有名なものに、 (36)[人名]による 『ホモ・ルーデンス』と (37)[人名] による 『(18)と人間』などがある。 授業では(37)による (18)の分類を簡単に紹介した。 彼によると、 (18)は四つに分類できるという。 サッカーやチェスなどのような競争を テーマとしたもの、 これを彼は(38)と呼ぶ。 運や偶然によるもの、 これを(39)と呼ぶ。 さらにごっこや演劇などの 模擬を主体とするもの、 これを(40) と呼ぶ。 そして最後に落下や回転などによる 眩暈がある。 これを彼は(41)と呼んだ。
ここから授業では、 とりわけ(40)に焦点を あてながら、 芸術と(18)を「二つの世界」を 体験する現象として分析してゆく。
芸術において二つの世界を強調した 論者として、 まず(42)[人名] の議論を紹介した。 彼によれば、 芸術を鑑賞する時、 鑑賞者は現実世界と (43)世界 の二つの世界に同時に存在するのである。 (43)世界とは、別の言葉で言えば、 「虚構」である。 その状況を彼は 「(44)の分裂」と呼んだ。 (45)[人名]は、 (42)の議論に対して、 「それでは、鑑賞者は、いわば、 精神分裂病(統合失調症)の状況にあることに なってしまう」と批判した。 授業では、とりあえず、 (42)の言いたいことは、むしろ、 「観点 (perspective) の分裂」なのだと言い換えることによって、 その批判をかわした。 この議論が意味を持つためには、 「観点の分裂」が どのような状態なのかを説明しなくてはならない。 最後の授業(2017年の1月)は、 「観点の分裂」とはどのような状態なのかを 分析していった。
授業では、 この脈絡で、 (46)[人名] による議論を取り上げた。 問題は「なぜわたしたちは虚構としりながら、 虚構を怖がるのだろうか?」という問題である。 この問題を(46)は 「(47)」 という論理学の用語で説明する。 (47)はその(48) を直示し、 「その部分は虚構である」ことを示す 一種のマーカーである。
(46) による芸術論のポイントは、 芸術(たとえば文学)の鑑賞において、 読者が(47)の(48)の中にはいって しまう、という点である。
この分析は秀逸ではあるが、 鑑賞者の不思議な立ち位置をまだ 十分には説明しきれていない。 次に取り上げたのが (49)[人名]による (18)論である。 (49)によれば、 (18)に参加するとは (それは芸術を鑑賞することと 全く同じ構造を持っているのだが)、 「(50)の混同」というパラドックスに巻き込まれること なのだ、というのである。 なぜ、そのようなパラドックスが 生まれるかというと、 (18)において、 あるいは芸術の鑑賞において、 (47)が、 単に読者をその(48)の中に入れるだけではなく、 (47)それ自身が、 それ自身の(48)の中に含まれる、という状況を 生み出すからなのだ。
かくして、 (18)に参加するとは、 あるいは芸術を鑑賞するとは、 無限のパラドックスを生きることとなるのである。 これが「観点の分裂」という言葉が あらわす状況なのである。
【選択肢】 ( A) カイヨワ、 ( B) イリンクス、 ( C) 一階の述語、 ( D) 内包オペレーター、 ( E) ハルトマン、 ( F) バウムガルテン、 ( G) 論理空間、 ( H) ホイジンガ、 ( I) ルードゥス、 ( J) 論理階型、 ( K) パイディア、 ( L) ミミクリ、 ( M) アゴン、 ( N) バタイユ、 ( O) レリス、 ( P) アレア、 ( Q) ダブルバインド、 ( R) 自我、 ( S) 仮象、 ( T) ベイトソン、 ( U) 西村、 ( V) ウォルトン、 ( W) 集合論、 ( X) ラッセル、 ( Y) 外延オペレーター、 ( Z) スコープ、
学部・学年 | 学籍番号 | 名前 |
(1) | (2) | (3) | (4) | (5) |
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(16) | (17) | (18) | (19) | (20) |
(21) | (22) | (23) | (24) | (25) |
(26) | (27) | (28) | (29) | (30) |
(31) | (32) | (33) | (34) | (35) |
(36) | (37) | (38) | (39) | (40) |
(41) | (42) | (43) | (44) | (45) |
(46) | (47) | (48) | (49) | (50) |