出自理論をとるにせよ、縁組理論をとるにせよ、最も大切なのは「結婚」である。
出自理論にとっては「再生産」の理論として、縁組理論においては「交換」の公式化の理論として。
それは生物学的な再生産と社会学的な婚姻とを結び付ける役目もしている。
妊娠してこどもが出来るというプロセスに男女の性的パートナーがどう関与しているのかという点について、様々な部族民が得ることの出来る肉体上の証拠には、それぞれの文化で多分に解釈の余地が残されている。
男性が授精し、月経が止まれば、女性は妊娠したことになる。
精子と卵子が対等に結び付いて妊娠するというのは現代科学の発見なのであって、部族社会の人々には知る由もない。
従って妊娠をどう解釈するかについては、男性が種子を与え、女性がその種子を発芽させる容器または象徴的な意味での「大地」に当たるとみなす文化もあれば、男性が骨(精液のように白っぽい)をつくり、女性が肉(血のように赤い)を作るとする文化もある。(RMK)
すべての文化は親と子の間になんらかの連続性を認めている。形質や気質の遺伝には、特定の物質が関連していると思われていることが多い。
われわれの社会では、「科学」が一種の宗教をなしている。宗教と異なっているのは、ドグマをすべての人が真だと信じている点である。すなわち、ドグマと知識が合一化されているのだ。これは特殊な状況である。人間はふつうもう少し批判的であるものだ。
われわれは生殖のドグマを探していくわけなのだが、そのドグマを当該の社会の人が信じていることは条件ではない。
このドグマと知識の混同は、途方もない危険をもたらす。その例を「父性の無知」議論に求めよう。
祖霊(バロマ)が精霊児(ワイワイア)に生まれ変わって、女性の体内に入り子供に変身すると信じていた。胎児は母胎で月経によって肥育し、出産を迎えるのである。男性の役割は性交によって精霊児が降臨する通路を整えることで、精液は妊娠させる上で何も関係しないという。
母系の祖霊が母の胎内に入らないと懐妊しない。父性は認知しない。性交は「穴を広げるため」
A woman begets children because (a) she has been sitting over the fire on which she has roasted a particular species of black bream, which must have been given to her by the prospective father, (b) she has purposely gon a-hunting and caught a certain kind of bullfrog, (c) some men may have told her to be in an interesting condition, or (d) she may dream of having the child put inside her’ ( Roth, W. E. 1903 p.22)
北西クイーンズランドのアボリジニにおける考え方:
女性は次のうちの一つの理由から子どもを出産することとなる。(a)将来の父親が彼女に与えた黒いブリーム鯉(あるいは鯛)をあぶる火にあたりながらすわっていたから、(b)わざと狩猟に出かけ、ある種のヒキガエルをつかまえたから、(c)誰かが(男性)が彼女に「興味深い」状態にある様に命令したから、あるいは(d)子どもが彼女の胎内に入れられた夢を見たから。(ロス 1903:22)
この事からののみ「性交の生誕に関する関与性」、「生物学的父性」に対する無知が結論付けられはしない。むしろ、同棲だけではなく、公共的な認知があって初めて女性とその子どもの関係が打ち立てられる、ということを言っているのだ。
ドグマに心理学的な対応物があるわけではない。
たとえば、英国教会における結婚式−−−−−夫が少女に指輪を贈る、彼女のヴェイルが剥される、彼女の花がほうり投げられる、牧師が子どもを生むことの大切さを説教する、彼女は頭の上に米を投げかけられる、−−−−−−タリー・リヴァー・ブラックスと似たような儀礼を行なう。−−−−−これから少女が何を信じているかは、まったく言うことはできないんだ。
日本の結婚式の公式的解釈について。
この儀礼が、外側の共同体に「言っている」事は非常に沢山の事である。
「ヒキガエル」をキャンプにつれてきたことが妊娠の「原因」だ、と言っているわけではないのだ。それはサインであって、原因ではない。
妊娠についての情報は、誰が、どこで、いつ、尋ねたかによって違う。儀礼的脈絡においては、霊的存在(グルワリ)について語るであろう、日常の状況では、グルワリと性交の両方を語るであろう。女性は、通常儀礼的態度は強くないので、一般的に性交の役割を強調する。(メギット 1962:273)
The Kimberley natives said that spirit children were created long ago by the Rainbow Serpent and ‘temporarily incarnated in animals, birds, fish, reptiles. Some say the spirit children are like children the size of a walnut; others that they resemble small red frogs. Conception occurs when one of these enters a woman. Its presence in the food given her by her husband makes her voimt, and later he dreams of it or else of some animal which he associates with it. It enters his wife by the foot and she becomes pregnatn. The food which made her ill becomes the djerin, conception totem of her child.’
‘The husband of the woman is the social fahter of the child and as a rule its spiritual genitor, for it sometimes happens that the woman finds the djerin herself or that it is given to her by another man. THe latter however will not dream of the spirit child, nor have access to the woman sexually or exercise any rights over the child, who will take the country and the totems of the woman’s husband. There were also instances where alghough the husband himself had found the djerin he did not afterwards dream of the child. But his wife would then assert that she had done so.’ ‘Questioned on the function of sexual intercourse natives admitted that it prepared the way for the entry of the spirit child. They asserted that a young girl could not bear children.’
「処女懐胎」の神話を我々が信ずれば、それは「敬けん」であり、もし彼らがそれを信じれば、彼らは「馬鹿な」のである。(p.93)
処女懐胎は(おそらく)どこにおいても「ドグマ」であろう、そして、もし民族誌作成者がそのドグマを信ずることがあるとすれば、それは民族誌作成者の持つ個人的なドグマ−−すなわち子供っぽい野蛮人の持つ自然な無知−−と一致したからであろう。(p.94)
ゼウスの息子ディオニススは、処女セメレより生まれた。セメレは彼女の神的息子によって不死になった。神の息子イェススは処女マリアより生まれた。等々。−−− −−
すべての誕生において3人のパートナーがいる。神、父、そして母である。 Talmud, Kiddush 30 b.
して「無知」を表わしてはいないのだ。
進化論の影響も考えにいれなければならないかもしれない。進化論によれば(マクレナン、モルガン)、大古の社会は生物学的父性に無知であり、それ故必然的に「母系」であった。人類学者は、この理論をコンファームするために、非常に「未開な」、「野蛮な」文明(生物学的父性に無知であるほどに)をさがしたのだ−−生きている化石として。p.96
これは君らの最も陥りやすい罠だ、ということも知っておかねばならない。
イェススはヨセフとマリアの子供である。法的に言えば彼はヨセフの系統、即ちダヴィデのリニッジに属する。
聖霊(ホーリー・スピリット)がマリアの胎内に入ることによって、マリアは身ごもった(耳の穴から−−これは別に聖書に書いてあることではないが)。この事がイェススの神的性質の原因である。
トロブリアンドの子どもは、母の胎内に入った聖霊(バロマ)と同じリニッジに属す(法的関係)。しかし、物質とその概観は母の夫のそれを引き継ぐ。
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Trobriand Isaac/John the Baptist Jesus
child normal abnormal abnormal
mother normal normal abnormal
woman long past the
age of child-birth
この後、Leach はとても面白そうな構造的変形の可能性を示唆する。それはここでは関係ない。
親と子、または遠い親戚の間に何か思いがけない共通点を見いだすと、「血はあらそえないもんだね」などと感心する。
結婚によって「悪い血が導入される」−−「血」は母方からも受け継ぐ。
正確に何を指すかははっきりしない。...「種馬」、「種牛」、「種つけ」などの語が、すべて雌をはらますための雄や、雄を主体にした交尾を意味し、雌はいはば、それを受け入れるものととらえられている。−−>「タネ」は、妊娠にあたって、男の側が貢献する何か、であろう。
男の種をやどす、という語はあるが、女の種を宿すという言い方はしない。
落胤、後胤、落し胤といった言葉もすべて父方、あるいは男系の先祖と子孫の関係に言及するものだ。
母親を表わす。
このような[ヌアの亡霊婚のような]婚姻制度を持つ社会では、妻(子どもにとっての母)との性的関係、子どもとの生殖の関係が、社会的父であるための不可欠の条件とはされていないのだ。(清水:51−2)
近代社会においても、身体的な生殖の関係の認識によって、自動的に父子関係が確定するのではない。公的な届出によって、改めて法的に父子関係が認定されるのであるから、父子関係は民俗的文化像に相当する位置にある。しかしながら、だからといって、身体的関係と無関係に、法的な父子関係を設定し得るわけではない。婚姻関係にある間に妻に生まれた子供は、夫の身体的子供と推定するとの前提にたった認知であり、公的認定である。それゆえ、この推定に明らかに反する事例にあっては、生物的父を自認する男が、法的に子供を認知して、社会的父の位置に登ることが出来る。 近代社会は、法的なレベルの父子関係を、身体的な父子関係−−その認識−−を基礎に構成しているのであり、両者が異なる位相の関係であるとしても、前者は可能な限り後者に一致することが求められている。社会が認識する身体的関係に基礎づけて、親族を構成するという意味で、近代社会は自然主義的な親族館に従っているといえよう。それに対し、さきにみた「女性婚」などを行なう社会は、身体的レベルに認識される親族関係と相関させずとも、純粋に文化的レベルで(「文化の自画像」のレベル)で親族を構成し得ることを、みごとに例示している。自然主義を避けているという意味で、このような親族の構成を非自然主義と称することにしよう。(清水:52−3)
ただし、「人工授精」の場合は、近代社会でも「非自然主義」である(中川)
田中真砂子「出自と親族」
精液という性質上、父から子へ、まったく薄められずに受け継がれる。
サニに基づく関係としてみれば父と子は同じアイデンティティーを持つ。母とはまったく関係がない。
チーは両親が各々平等の割合で子どもに供給する。
チーに基づく関係としては子は、両親にそれぞれ50%ずつ関係する。
男のサニが、女の腹に入ってみごもる。この限りで言えば、女の腹は、サニを受け入れ、できた子を生まれるまで保っておく容器に過ぎない。
しかし、それだけでは子は育たない。子として生まれてくるためには両親の「チー」が必要である。
世代をいくら隔てても、父系的につながっている人々はサニに関してはまったく変わらない。
チーを100%共有するのは、キョウダイのみである。
サニによって決定される。
チーによって
親族カテゴリー
Shimanchu(シマ人)--> Tashimanchu(他シマ人)
+--------------------------------------------+
| Tuusan Weeka(遠い親類) |
| +----------------------------------+ |
| | Weeka(親類) | |
| | +------------------------+ | |
| | | Choodeebi | | |
| | | +--------------+ | | |
| | | | Yaa(家) | | | |
| | | | +----+ | | | |
| | | | | Ego| | | | |
| | | | +----+ | | | |
| | | +--------------+ | | |
| | +------------------------+ | |
| +----------------------------------+ |
+--------------------------------------------+
チョーデービ(兄弟)
生殖過程は植物の生長にたとえられ、「種」と「畑」の関係で説明されてきた。男性の種(精液)が女性の畑(子宮)で養分をえて、胎児に成長するという考え方である。生殖に男女双方が関わるというこの見方は、中国、日本だけでなくインドネシア、アフリカ社会にも広くみられる。
中国では、「男骨女血」、「男精女血」という慣用句があり、男側から骨、女側から血を受け継ぐという観念が強い。
骨で父方、肉で母方の親族を表わしている。
リオ族においては、父親から「血と精液」(ラー・ナナ)を継承する、といわれる。「血と精液」を同じくするものが(基本的に)ひとつのクランを形作る。
クラン(あるいはリニッジ)は、外婚単位である。
母親から「肉」(トゥブ)を継承する。これは、集団は形成しない。ある種の食物(でない場合もあるが)禁忌を継承する。トゥブは名付けられている。
結婚の際の第一次的な考慮にはならないが、最終的に考慮しなければならないことである。
また、遠隔地において同じトゥブの人に会う可能性がある。その様なとき、なんらかの友好的なもてなしを期待することができる。クランは自分の村を越えて存在しない。たとえ、同じ名前のクランでも、それはたまたま同じ名前であった、としか考えられることはない。
raa/nana a, b, c, d
tebu 1, 2, 3, 4
a1 b2
m f
|____|
|
--------------------------------
c3 | |a2 d4 |a2 |a2
f m f m m f
|____|a2 |____| | |
| | | |
------- ------- | |
e5 a3| a3| f6 g7 |d2 d2| h8 | |
f m f m f m f m aN X2
|____| |__| |__| |___|
| | | |
a5 f3 d7 h2
父からXあるいはY、母からAあるいはBを受け継ぐとする。各人は、AX,AY,BX,BYのどれかになる。
二つの因子がすべて異なるもののみ婚姻可能とすると、必然的に交差イトコ婚となる。
abusua)「氏族」
ぐ)
統との結婚は自由である。
母のモギャ(「血液」)とントロ(「霊魂」)とで、子どもができる。
tcina-X ^ ======= o tcina-Y
ntoro-X | ntoro-Y
abusua-X | abusua-Y
+---------+
| |
^ o
tcina-X tcina-Y
ntoro-X ntoro-X
abusua-Y abusua-Y
(杉島論文 「親族の個別性と普遍性」)
シアネの個々の胞族(フラトリ)の領地内には、原古の時代に、始祖が地中より、この地上に出現した洞窟が存在する。それ以来子孫たちは、この領地内でを営み続けてきたわけだが、死を継起として、この者たちの霊魂(オイニャ)は、地中に帰還し、祖霊ないし葉祖霊の集合体(コロヴァ)へ転換する。+
+しかしながら、コロヴァは、妊娠と出産を契機として再び物質的形態を獲得し、この地上に再帰する。つまり男性の精液と女性の血にはコロヴァが存在し、性交を介して両者が混合することによって、子が形成されると考えられている。+
+シアネの胞族は外婚的であるので、精液に存在するコロヴァと血に存在するコロヴァは、常に別種のコロヴァである。
コロヴァが体内に取り入れられるのは、成功、妊娠のみに限られてはいない。
授乳(母乳には母方のコロヴァが存在する)、コロヴァが永久に滞留する領地内に育った耕作物や豚(肉)を食べること(これらの食物にもコロヴァが存在し、また耕作物や豚に豊饒を与えるのもコロヴァである)、さらにはコロヴァを象徴する聖なるフルートに、イニシエーションの際接近すること、イニシエーションの際に与えられる食物を食べること、これら多様な媒介によってコロヴァが体内に取り込まれる。
子どもの最初期の段階では、父方母方に種類のコロヴァが子の体内に存在する。(双方向に同等の関係を有する)
男子が、父方集団の完全な成員となるためには母方の霊質は排除されなければならない。
これは、三から六歳に行なわれる初毛切りの儀礼、七から十歳にイニシエーションの際に行なわれる。
母方のコロヴァとみなされる血は、鼻血を出すことによって除去される。子の父たる者は母方のコロヴァの代償として、子の母方親族に豚肉や貝貨による支払いをする。さもなくば、母方のオジは(姉妹の子を)返すよう要求する。
コロヴァの獲得は非男系者にも開かれている。これらの過程を男系者とともに経ることによって、男系者と同様に、祖霊の集合体としてのコロヴァと関係を持ち、くわえて、男系者と共通な身体構成要素を持つことが可能である。
ニューギニア高地のベナベナ、マリング、メルパ、ダリビ、ニューギニア北部低地の山地アラペシュ、平原アラペシュ、アベラム
母が子に身体構成要素としての「血」を与える。これは子に生命を与え、生命を維持するものである。
この血の失われるさまざまな機会に父は、母方親族(妻の兄弟)に支払いをする。その支払いを通じて、父はその子を自分の者とする
父がこの支払いを怠ると、子と同じ血を共有する妻の兄弟(子にとって母方のオジ)は、妻や子に病気や死をもたらす呪阻を行なう。
...身体的関係を言い表す「血」や「肉」は、人格を構成するものとして観念されるさまざまの要素の内の、一要素であるにすぎず、それゆえ、人格全体におよぶ濃厚な関係を喚起する一象徴に、ほかならなかった。 医学的生殖技術は、このような民俗的親族観の枠組み、その制約を、一歩も出るものではない。生殖技術は
人類学』至文堂現代のエスプリ別冊)昭和57年)
myth and other essays Cape Editions: London.
辺繁治(編)1989『人類学的認識の冒険』同文館)
Queens land Ethnographical Bulletin 5 (Brisbane, Baughan). (cited in Leach 1969).
Roberston.