規則と法則
わたしの意図を繰り返しておこう:わたしはデイヴィドソンの議論(概念図式が不可能であるという議論)に反して、概念図式あるいは文化の考え方を、そしてその延長として、文化相対主義を擁護していきたいのである。
この章からいよいよ第2部である。積極的な議論、すなわち文化相対主義の救出の議論となる。これから5つの講義(第6章、7章、8章、9章、10章)は、すべて文化相対主義を救い出すことに費される。
「未知の惑星」を探していきたいのだ。
前章の序で述べたように、科学が危機に対処するには二つの方法がある。一つは古い理論を捨て去ることである。前章ではこの方法をとりあげた。もう一つは古い理論を補完していくという作業である。比喩的に言えば「未知の惑星」を探すという作業である。この章以降では、「未知の惑星」をさがして、相対主義をすくいたい。
第1章の「古き良き人類学」が基づくのはなんちゃって相対主義 である。その力に魅せられてサピア、ウォーフ、クーンそしてファイヤアーベントなどのお調子者たちは、勢いのまま、文化の共約不可能性について語った。彼らの提言を字義通りにうけとった相対主義を、入不二のかっこういいネーミングを借りて相対主義の極北 と呼ぼう。 デイヴィドソンは、だれもがうすうす感じていた彼らの議論の脆弱性をつき、共約不可能性の議論自身の不可能性をあばいた。 直前の章では、文化の共約不可能性議論の基礎をなしている文化観を捨てた人たちの方法論を紹介した。 この章からはデイヴィドソンの議論への反論が始まる。いよいよ未知の惑星をもとめる旅の第1歩である。
わたしは文化という考え方には二つの柱があると主張した、すなわち、暗号帳モデルと水源地モデルである。コミュニケーションは暗号帳をつかってなされる。そこにはデコードとエンコードの仕方が書いてあるのだ(暗号帳モデル)。さらに一つの文化の全ての成員が同じ暗号帳をもっていることが前提とされる(水源地モデル)。この二つのモデルによって支えられているのがピジョンホール相対主義である。文化は、この二つのモデルによって強く囲い込まれることになる。かくして、文化が違えば、暗号帳、すなわち世界をみるためのフィルター(概念枠組)が違っているので、住んでいる世界も違ってくるのである。
第4章ではデイヴィドソンの「概念枠という考え方そのものについて」 (デイヴィドソン,D. 1991) という論文を扱った。簡単に復習しよう — 彼によれば、「概念枠組」すなわち「文化」という考え方を維持するのは不可能だ、というのである。わたしたちの議論の脈絡に合わせて言いかえれば、コードモデルと水源地モデルに従う限り、「異文化は理解できない」という結論が否応なしに導かれる、ということであった。
デイヴィドソンの議論は決定的にみえる。文化相対主義は不可能に見えるのだ。
第5章では、当座理論(推論モデル)あるいは直喩による言語(文化)の揺さぶり、規則の反実在論などによって、この強い囲い込みをゆるめる(そうしてデイヴィドソンの批判をかわす)試みを紹介した。
この章以降では、強い囲い込みを維持したままに、(二つのモデルは維持する当座理論などは導入しない)デイヴィドソンの批判(異文化の存在に気づかない)に反論できるかをためしたい。
この章(第6章 裏デイヴィドソン/ノヤヴィドソンによる 則天去私の共同体 )と次の章(第7章 ウィトゲンシュタインの 独我論 )では、わたしたちは野矢の『語りえぬものを語る』 の戦略を踏襲する — すなわち、デイヴィドソンの「概念枠組」論文をウィトゲンシュタインによる「独我論」に重ねあわせるのだ。 第8章から野矢と袂を分かち、わたし自身の道を歩むことになるが、それはもう少し後のはなしとなる。
わたしたちがピジョンホールのような鳥瞰図 を手にいれることはできないことは明かになった。それでは、じっさいにそこに住まう人の視点から見た世界(虫瞰図)はどのようなものだろうか?この節では、その虫瞰図がどのようなものかを示していきたい。
この小節では、デイヴィドソンの論文の結論で否定される「一つしかない概念枠組をもつ社会」がどのようなものかを追求したい。
第4章で紹介したデイヴィドソンの議論から出発する。デイヴィドソンの結論はこうだ — もし概念枠組同士の共約不可能性がなりたつならば、その文化の住人は異文化(他の概念枠組)があることに気づくことさえないであろう、と。それゆえ、「共約不可能性」という考え方は、いわば、自己論駁的なのである。それ故、それは維持することのできない考え方である、このようにデイヴィドソンは主張する。ここまでの議論を「表デイヴィドソンの議論」と呼ぼう。
野矢は、デイヴィドソンの議論をさらにもう一歩深く読む。彼はこう考える — このようにして否定されるためにもちだされた一種あり得ない社会、〈異文化があることに気がつかないような社会〉とはどのような社会なのだろうか、と。この部分はデイヴィドソンの議論に野矢の議論が重なるので、「裏デイヴィドソンの議論」と呼びたい。 1
裏デイヴィドソン(ノヤヴィドソン)が成し遂げようとすることを理解するためには、「一つしかなければ無いと同様」という戦略を理解する必要がある。裏デイヴィドソンが言っているのは、「一つしか概念枠組がないのなら、概念枠組が無いと同様だ」と言っているのだから。
「概念枠組」論文の末尾近くでデイヴィドソンは次のように言う:
☆ 概念枠組がない社会
すべての人類は — 少なくとも言語の話し手はすべて — 共通の枠組や存在論を共有している、というすばらしいニュースを公表するのも、同様に間違いであろう。なぜなら、枠組が異なることを理解可能な形で言いえないとすれば、それらが同一であるこをもまた理解可能な形では言いえないからである。 (デイヴィドソン,D. 1991: 211–212)
ここで行ないたいのは、ここに描かれている共同体を分析することである。議論のとっかかりとしてこの論文を再録した (メイランド and M 1989 (1982)) の編者のメイランドとクラウスの議論を紹介しよう。
☆ 「椅子」というコトバの使い方
或る人が目の前にある物をはっきり見ているとき、その物が同じ椅子なのか、異なる二つの椅子なのかを、彼が決定できない場合、彼には椅子の個体化のどのような規準もないのである。そしてもし彼に椅子の個体化の規準がないのなら、椅子とは何であるかを知らないのである。つまり彼は椅子の概念をもたないのである」 (メイランド and M 1989 (1982)) と。
言っていることは、ある人が、ある物を「椅子」と呼びながら、もう一つ同じような「椅子」を同定できないならば、その人は「椅子」の概念をもっていない、ということなのだろう。
彼らはデイヴィドソンの戦略、「概念枠組が一つしかないのなら、概念枠組などないと同じだ」という議論を、それなりに巧妙にまとめたつもりかもしれないが、「概念枠組」を「椅子」に取り替えてしまうと、残念ながら、デイヴィドソンの意図はうまく伝わらない。
デイヴィドソンの「概念枠組が一つしかなければ概念枠組はないと同じである」という議論を理解する、よりよい比喩を野矢が提供している。「全てを所有する王」の寓話である。
野矢は言う — すべてを所有していると教育された王がいると考えよ、と。彼は、あれも「わたしのモノ」「これもわたしのモノ」であると教えられるのだ。けっきょく、すべてが「わたしのモノ」になる。所有格は一つ(「わたしの」)しかなくなるのである。さて、そのような教育の結果、「彼は「自分のものではない」ものが何ひとつ想像できず、「これもまた私のものだ」などという庶民的考えをもつこともなかった。「私の」という所有格は、彼にはまったく無用だった」(野矢 2011: 140) ということになろう、と野矢は言う。同じようにして、概念枠組が一つしかなければないのと同じであるというデイヴィドソンの議論が理解できたであろう。
それでは概念枠組が一つしかなくなってしまった共同体とはどのような共同体なのだろうか。この問いはデイヴィドソン自身は問うてはいない。この問いは裏デイヴィドソンの問いである。
この節でわたしが主張したいのは、概念枠組が一つしかない世界とは、あるいはもっと端的に言えば概念枠組がない世界は、野矢が別の著書で述べた「則天去私の共同体」であるということである。 この節では、これ以降重要になるキー概念の一つが導入される — 「否定性」および「否定性の欠如」である。いささか禅問答じみた命名になってしまったが、言いたいことはそれほど難解ではない — 否定性とは「ないこと」であり、否定性の欠如とは「ないことがないこと」である。
則天去私の社会は、実際のわたしたちの社会とは可成り異なっているに違いない。水源地モデルとコードモデルは、もともとわたじたちの生きている世界に基づいて作られたモデルであるから、それに基づく世界を想像することは難しいことではない。人々はルールに従って生きている。わたしたちは、自分がルールに従っていることに気づいている。なぜなら、他の人たちがルールに従っていないからである。「ルールに従っている」という意識は、(だれかが)「ルールに従っていない」という否定性を背景にしてはじめて成立するのである。
ところが、裏デイヴィドソンが描く世界、異文化の見えない世界は違う。それはとても異様な世界である。ここから先、神の視点で書かせてもらう。そこでは、全員が同じルールに従っていながら、自分がルールに従っていると意識していないのである。そのような社会を、野矢は別の本の中で(漱石にちなんで)「則天去私の共同体」と呼ぶ。野矢の詩的な記述を引用してみよう。
☆ 自然と規範は融合する(野矢のおコトバ)
彼らに内在的な観点に立てば、そこでは自然と規範は融合し、むしろ規範は消失していると言うべきだろう。すべてはあるがままに自然にふるまわれる。あるべきようもなく、かくあるべきであったこともない。「かくある」と手を広げておしまいである。 (野矢 2012 (1995): 327)
これこそが、規範に従わないという否定性が欠如している社会である。
則天去私の共同体とは、別の言い方をすれば、見えを共有する共同体である。 この小節では「見え」の共有がどんな状況を社会に齎すのかを見てゆく。
第1章で紹介したウサギ・アヒルの図(ジャストロウ図形)を再掲しよう。見えの問題を議論した脈絡で紹介した図である。
この図にはウサギの見えとアヒルの見えがある。わたしたちの社会では、ある人にはウサギに見え、他の人にはアヒルに見えるのだ。それゆえ、ある人は「これはウサギに見える」と言い、わたしは「これはアヒルに見える」と言うのだ。
「見える」のレトリックは「(そのようには)見えない」という否定性を背景にしてのみ意味がある。そうは見えない人がいる可能性があるからこそ、「ぼくにはそのように見える」と言う必要があるのである。
則天去私の社会では見えが共有されている。共有されている見えを「アヒル」としよう。則天去私の社会では、みながアヒルを見ているのだ。だから、「わたしにはこれはアヒルに見える」とは言わない。だれもがそう見ているのだから。「そうは見えない」という人はいないのだ。ここにもまた否定性が欠如しているのである。表明は端的に「これはアヒルだ」となる。見える世界はわたしたちの世界のように認識論(「アヒルが見える」)の世界ではなく、存在論(「アヒルだ」)の世界なのだ。アヒルはそこに存在しているのである。
いま、ある種の障害がゆえにウサギしか見えない人間を考えてみよう、とウィトゲンシュタインは言う。このような障害をウィトゲンシュタインは「アスペクト盲」 (ウィトゲンシュタイン 1976) 2と呼ぶ。「アスペクト」とは「見え」のことである。アスペクト/見えが一つしかないので、このような状況を野矢は「単相的」 3となづける。則天去私の住人はアスペクト盲であり、彼らは単相的状況を生きているのである。
野矢は則天去私の共同体の起源神話を次のように描く。(なお、「意味盲」は「アスペクト盲」と同じだと考えてよい。)
☆ 則天去私の共同体の起源神話
「幸福な意味盲」なる存在を考えてみよう。彼は生まれつきの本性が十分なものであるため、いっさいの教育を受けることなく社会の慣習に従い、規則に従う。そしてけっしてそれらの諸規範に背くことなく、また、新たな約束事が入りこむこともない。さらに彼を無菌状態におくために、幸福な意味盲たちだけの集落を作ろう。そうして彼らは、他人の誤解や誤ちを糾弾することからも無縁となり、完璧に単相的な世界を実現する。われわれの目からすれば、彼らは完璧に規範に従っている人びとであり、いわば「則天去私」の集団である。 (野矢 2012 (1995): 327–328)
則天去私の共同体とは、すべての人が規則に従い、慣習に従うそのような共同体である。「天に則り、私を去る」、すなわち人びとは規則について考えることなく、行動がそのまま規則に則った行動となるのである。野矢のこのコトバに、わたしはさらに付け加えたい — そこには否定性が欠如しているのだ、と。
この引用に続けて彼は次のように言う:「そしてわれわれはといえば、この楽園からはいつということもなく、おそらくは「ものごころ」ついたときから、はじき出されているのである」 (野矢 2012 (1995): 328) と。この野田のコトバに、わたしは付け加えたい:わたしたちの社会には否定性が溢れているからだ、と。そこにはルールに従わない人、アヒルとは見えない人たちがいるのだ。
デイヴィドソンの議論は次のように言い換えられるだろう。すなわち、文化相対主義の前提は、則天去私の共同体を導くと。それは否定性の欠如した共同体なのだ。しつこいようだが、つけくわえよう、「それは否定性の欠如した共同体なのだ」と。
則天去私の共同体は想像しにくいかもしれない。ここでいくつかの比喩となるような具体例を考えてみよう。キーワードは期待 と裏切りである。裏切りとは期待が成就しないこと、すなわち否定性の謂いである。
『ダンゴムシに心はあるのか』という魅力的なタイトルの本の内容を簡単に紹介したい。
この本(森山 2011) の著者、森山はまず安易な擬人化をすることをいましめる。ジガバチのエサ捕獲行動を見てみよう。ジガバチは「産卵の時期になると地面の適当な場所に縦穴を掘って、土の塊で入り口を閉じ、獲物であるイモムシを探し」に行く。イモムシを毒針で打ち、麻酔して穴の近くまで運ぶ。穴の中にイモムシを入れる前に、ジガバチはかならず穴の内部を点検し、それからあらためてイモムシを中に入れて、卵を産みつけるのである (森山 2011: 166)。
いかにも「心」の働きによるかのように見えるこの点検という行動も、じつは、機械的なものなのだ、と森山は言う。ジガバチが穴の内部を点検している最中にイモムシの位置をずらしてみる。すると、ジガバチはイモムシを穴の入り口まで動かした上で、また穴を点検するのだという。 (森山 2011: 166) すなわち、「捕獲・点検・産卵」は「思考や判断といった知能に基づいて作業しているわけではな」く、「刺激と連鎖の結果にすぎない」のである (森山 2011: 167)。
以上の擬人化への戒めを念頭において、彼はダンゴムシの行動を解明すべく、観察を開始する。
彼はまずダンゴムシの歩行の仕方について観察を続ける。ダンゴムシが続けて障害物に遭遇するとき、ダンゴムシは直前の方向(たとえば右)と違った方向(左)へと曲る。これを交替性転向 (森山 2011: 78))と呼ぶ。森山は交替性転向を左右非対称脚運動というメカニズムを想定して説明する。これは左右の脚(ダンゴムシには7対の脚がある)の活動量を調整する神経機構である。右に曲るとき、ダンゴムシは左側の脚を右側の脚より多く動かすことになる。このようにして生じた活動量の違いをじょじょに小さくする機構、それが左右非対称脚運動である。
次に森山は丸いアリーナ にダンゴムシを置き、その行動パターンを調べる。アリーナの外側は水で満たされている。ダンゴムシは長いあいだ水につかると死んでしまう。それゆえアリーナの縁まで来たダンゴムシはアンテナで水を探知するとそれを避けるように方向転換をする。そして左右非対称脚運動により、ふたたび縁に近づくことになる。
さまざまな実験の中で、森山はダンゴムシの行動を、左右非対称脚運動およびアンテナの走触性から説明していく。そしてそれらの行動が生まれてきた進化の歴史を推測する。
森山とダンゴムシには後でもう一度登場してもらうが、この文脈での登場はここまでとする。
さて、ここで考えてほしい。森山の位置にじぶんを置いてみよう。あなたは障害物にぶつかると直近の曲がりかたの逆をする。さっき左によけたなら、今度は右だ。あなたの隣にいるダンコちゃんも、おなじ規則にのっとって左折、右折をくりかえす。「彼は・・・生まれつきの本性が十分なものであるため、いっさいの教育を受けることなく社会の慣習に従い、規則に従う。そしてけっしてそれらの諸規範に背くことなく、また、新たな約束事が入りこむこともない」(野矢)のである。ダンゴムシたちは則天去私の社会を生きているのである。
湯川秀樹が一般向けの講義をしたあとの質疑応答の記録が残っている。(秀樹 1977) わたしにとってたいへんに興味深いやりとりがそこには記載されている。質問者が言う、「あなたは物理学が終わると思いますか?」と。それは、物理学が世界の全ての謎を解きあかす日のことであろう。湯川秀樹は答える、「はい」と。わたしが言いたいことは、ここに描かれる世界こそ、究極の普遍主義の世界である、ということである。そこは真理のみで出来上がっている世界であり、謎(否定性)はいっさいないのである。相対主義の極北は、なんと、普遍主義の極北と同じ相貌を呈しているようなのだ。
普遍主義と相対主義の関係はこれ以後、この本の中で何度か触れていくことになる。
さらに、ルーマンの信用 (confidence) と「信頼」(trust)の議論、およびギデンズの信頼に関する議論を紹介して、わたしたちの社会と則天去私の社会との対照についての理解を深めよう。
ルーマンによれば、信頼とはあなたが負けるかもしれない賭けであるという。それは常に「リスク」と表一体のものであると (luhman-confidence?)。信頼のゲームでは、常に数えること、記録することが重要になる。なぜなら、信頼には、つねに切りの可能性があるからだ。信用のゲームは対照的である。人は数えることも、記録することもしない。近い将来に、だいたい同じようなものが返却されることが期待されるだけである。そして、あたかも何も起きていなかったかのごとくに人びとは行動する。信用も信頼も期待のゲームの一種である。しかし、信用では期待はいつか裏切られる。信頼のゲームでは裏切りは存在しない。
たとえば、日本における左側通行は規則である。しかし、ときどき規則を無視して、真正面から向かってくる車があるかもしれない。交通信号のサインと指令は規則である。しかし、「GO」のサインがでていても歩行者は右左を見てから一歩踏みだす — 車はとまっている筈である。しかし、その期待を裏切るとんでもないやつはどこにでもいるのだ。
人間のつくった規則はいずれ違反者がいる。わたたちは、規則に対するのとは対照的な態度で自然の法則に接する。ここではわたしたちは、法則に全面の信用を置いているのである。机から落ちる消しゴムが、とつぜん方向を変えて上昇するなどと、わたしたちは一瞬がたりとも考えていない。
ギデンズの嘆き「近代のわれわれは信用をプレイできない」は、じつは、「われわれは則天去私の楽園から、うまれた時から追放されている」という野矢の嘆きそのものなのだ。
それでは、人間のつくった規則はつねに破られるのだろうか。山岸俊男は、信頼についての本『信頼の構造:こころと社会の進化ゲー ム』の中で、信用のゲームを考案する。
山岸はそのゲームを「針千本ゲーム」と呼ぶ。ルールは「嘘ついたら針千本」である。この時、約束が実現されることに裏切りの可能性はない。信用のゲームがプレイされるのだ。
さて、いつものように章の議論をまとめて、これからの展望を述べよう。
デイヴィドソンの「概念枠組」論文の結論近くにでてくる異文化の見えない共同体が、いったいどのようなもののかをこの章で追求した。それはアスペクト(見え)が一つしかない人たちの共同体なのだ。そこにおいて規則は見えるものではない。あるのは法則だけである。その世界には 否定性 がない。
これまでの議論を別の視点からまとめると面白いことが分かってくる。それは、則天去私の共同体とは普遍主義に他ならないのである。わたしはもともと二つのモデル(コードモデルと水源地モデル)を、相対主義の出発点として設定した。それにもかかわらず、帰結したのは普遍主義だったのである。
illegal
本論とは別の形で本論の議論をまとめてみよう。一言で言うと次のようになる:「この章で描かれている独我論こそが、普遍主義の徹底した形である」と。
次章では、デイヴィドソンの、正確には裏デイヴィドソン(ノヤヴィドソン)の描く則天去私の世界が、ウィトゲンシュタインに描く独我論に酷似していることを指摘したい。それは、未知の能力 x へ向けての一歩となる。