引用と人生
人生そのものが引用である
ホルヘ・ルイス・ボルヘス)
第1部『失われた異文化をもとめて』でわわわれのもっている二重構造の把握 あるいは複相把握(アスペクト把握) の能力を人類学的営為の裏付けとした。 「複相把握」の能力は、べつだん人類学者だけがもっている特別な能力ではない。第2部『はざまを生きる』では、この能力、複相把握の能力が、さまざまな場面で文化を支えていることをしめしていきたい。
残された時間は2コマだけなので、今回の授業は一つの議論を深く掘り下げるのではなく、ガマの油売りのように、「あれにも効く」「これにも効く」と複相把握の効能の大売出しをするのが、きょうの授業である
第1部の出発点は古典的な相対主義の文化観であった。そのような文化観に基づく限り、論理的に「異文化」の存在の余地はない— 「異文化」は語り得ぬものとなる。これがデイヴィドソンが「概念枠組 という考え方そのものについて」で主張したことだった。文化は、いわば、自閉症的様相を呈すのだ。 最終的に、わたしは、共約不可能性の主張と異文化理解が両立することを示した。われわれ人類のもっている生得の能力(それによって、全ての人が自閉症 になるわけではない能力)に訴えかけたのである。 複相把握(アスペクト把握)能力である。複相把握こそが自閉症者に欠けている能力であり、その能力を人類学者に付与するならば、古典的な文化観は、同時に相対主義を可能にする、そのように議論を進めた。
第2部では、複相把握 の能力をもって活躍するのは、人類学者ではなく、現地の人びとである。 すなわち、民族誌の分析にアスペクトの考え方を適用していきたいのだ。(中村さんのいう)人類学の正当化はおいといて、今度こそ(人類学らしく)人間の生活に焦点をあてるのだ。 「複相状況」の言いだしっぺである野矢は、その状況をコミュニケーションの 危機的状況 と言う。わたしが第2部を通じて言いたいのは、複相状況こそが、われわれの本質的なあり方 だ、ということである。 複相状況を生きるとは、すなわち、はざま を生きるということであり、わたしたちは、ほとんどいつも、はざま を生きているのだ。
「はざまを生きる」人々を、これからいろいろな例をつかって説明する。「はざまを生きる人々」は特別な人々ではない。むしろ、人類の生は基本的に「はざまの生」なのだ。イメージを掴んでもらうために、まず呪術論から引用していこう。
白川・関による呪術の心性をあらわす、「・・・と分かっているでもやはり・・・」 (白川 2012)、 (関 2012)のイディオムについて考えていこう。「呪術が癌に効かないのはわかっている、でもやはり(もしかしたら効くかもしれない)」 (Favret-Saada 1980)というためらいの心性である。このためらいの心性の状況こそが、はざまを生きる状況なのだ。
この状況を「地と図」の語をつかって説明しなおしてみよう。現実世界を(かっこつきの)「科学」に全幅の信頼を置く 1世界としよう。とつぜんの病いによってその信頼にひびが入るのだ。そのひびわれを通してあちら側の世界、呪術の世界が垣間見える。科学への信頼を地にして、呪術が図として浮かびあがってくるのだ。次のような図を書くことが可能であろう。
現実世界のひびわれから見れる世界が呪術だ、という例ではどうにも共感がわかないならば、陰謀論をかわりにもってきてみよう。新聞やその他のマスコミに全幅の信頼を置く世界、それが「現実世界」である。しかし、あなたは、それらのニュースが描き出す世界にいささかの不満を感じる。単相状況にひびがわれ、そこに陰謀論が顔を出すのだ。最初はマスコミのニュースを地にした図として陰謀論は浮かんでくるだろう。あるとき、地と図が逆転する。あなたは Q-Anon 信者になったのだ。もしかすると、いつの間にか陰謀論だけの単相状況にあなたは住んでいるかもしれない。あなたは議事堂を攻撃している自分を発見することになる。
さて、最初に行なうことは、複相把握(アスペクト把握)を引用論 と重ね合わせるという作業である。 哲学的な議論の蓄積のある「引用」という概念を経由することにより、複相把握の能力はより精密に定義されるだろう。
引用論の詳細に入る前に、「アスペクト把握」を「引用」と言い換えることの妥当性を示しておこう。 前章でとりあげた自閉症児の例のいくつかを使って説明しよう。
わたしは、いくつかの例をつかって、自閉症児に欠けている能力として複相把握(アスペクト把握)である、と言った。同じ例をつかって、自閉症児に欠けているのが、引用の能力だということを示していこう。
ママゴトの例を出そう。現実世界で「これはケーキです」という場面を考える。もちろん、じっさいケーキが示されるわけだ。ママゴトの中で、だれかが「これはケーキです」という。「これ」で指されているのは石であった。自閉症児はこの石を口に入れてしまうのだ。ママゴトのメッセージには引用があったのだ、引用符を入れて再掲すれば「『これはケーキです』」となる。自閉症児はこの引用を理解せず、「これはケーキです」と理解してしまったのである。
もう一つの例を繰り返したい — 玉井 (玉井 1983)による明治村での京都市電の事例だ。まず最初に考えなくてはいけないのは、現実の世界である。そこで、だれかが「これは京都の市電だ」ということき、字義通りのことを意味している。案内係が「これは京都の市電だ」というとき、この言明は字義通りではない。さきほどの現実世界での言明を引用しているのだ。この言明の周りには引用符がついているのである。引用符つきのメッセージを、自閉症児は引用符ぬきでしか理解できないのだ。その場合、その言明は端的に偽となるだろう。玉井は案内人の発言を「二重の視点」を持つことと呼ぶ。自閉症児はこの引用符を理解する能力を欠くのだ。
あるいは、次のように言い換えることができるだろう。博物館という場こそが引用符だったのだ、と。同じように、ままごとという場は引用符である、と言うことも可能であろう。
それでは哲学の中の引用論を簡単に紹介しておこう。 引用は、まず、言語の特殊な使用法として定義されるのだ。
入門書は、まず、言語一般の話からはじめる。言語には二つの使い方がある、というのだ。使用 (use) と言及 (mention) である。「中川は人類学者である」という文において、ここに登場するすべての言葉は使用されている。これに対して、「中川は漢字で二文字である」という文ではそうではない。後者の文において、「中川」は言及されているのだ。言及の典型的な例こそが引用である。
引用を言及のみに限って、特徴づける理論がある。これを引用の「固有名詞説」と呼ぼう。
クワインは次のように言う:「論理分析の観点から言えば、引用とは一つの単語あるいはサインとして見做されるべきである」 (Quine 1940: Quine 1940) と。あるいはタルスキを引こう:「引用された名前は一つの語としてあつかうことができよう。それゆえ、統語論的には単純な表現なのだ。それらの名前の各構成要素は ・・・単語の中の連続する文字のひとつひとつと同じ機能を果たしている」 (タルスキ 1987) p.159) と。簡単に言えば、引用は、引用された語・句・節(文)に名前(固有名詞)をつけて名詞にしているのだ、ということになる。
たとえば、あなたがこの本を読んで、誰かに「中川が『相対主義は可能だ』と言った」と語ったとしよう。その状況を次のように図式化できるだろう。
☆ 固有名詞説
こちら側 | むこう側 | |
---|---|---|
「中川が…と言った」 | 引用 | 「相対主義は可能だ」 |
使用 | 言及 | 使用 |
この図の真ん中の「複相把握」において、「中川が・・・と言った」が地で「相対主義が可能だ」が図であるということが可能である。
☆ 固有名詞説とアスペクト
こちら側 | むこう側 | |
---|---|---|
あなた | 中川 | |
「中川が…と言った」 | 引用 | 「相対主義は可能だ」 |
使用 | 言及 | 使用 |
単相 | 複相 | 単相 |
「中川が・・・と言った」が 地で「相対主義が可能だ」が 図 であるということが可能である。
引用論には膨大な蓄積があるが、基本的にはクワインのような引用を言及の典型として見る議論が中心的であった。その流れに転機をもたらしたのが、デイヴィドソンによる引用論 (Davidson 1985)である。彼は、引用とは言及と同時に使用でもあることを指摘したのだ。「中川は『相対主義が可能だ』と言った」という文を考えよう。たしかに、第一段階の理解として、引用の部分をモノとして見ること、すなわち「中川は P と言った」と見る段階を想定するのは間違いではない。しかしこの文の十全な理解のためには、引用された内容、すなわち「相対主義が可能だ」の内容の理解が必要である。すなわち、引用とは言及であると同時に使用でもあるのだ。
わたしは、固有名詞説も、またデイヴィドソンの使用・言及説もともに正しいと考える。すなわち、引用には二種類あるのだ。引用内容に頓着しない類の引用(「浅い引用」と呼ぼう)と、内容を理解した上での引用(「深い引用」)があるのだ。
☆ 浅い引用と深い引用とアスペクト
こちら側 | 浅い | 深い | むこう側 |
---|---|---|---|
言明 | 引用 | 引用 | 言明 |
使用 | 言及 | 使用&言及 | 使用 |
中川が…と言った | (外面) | (内面) | 相対主義は可能だ |
単相 | 複相1 | 複相2 | 単相 |
浅い引用はわかりやすいだろうポイントは深い引用(複相2)である。とりあえずの説明をすれば、それ(深い引用)とは、内容を理解しながら(使用)一方で、それと距離をとる(言及)のである、となろう。
深い引用をよりよく理解するために、ゲームをプレイするときの、わたしたちの態度を考えることがよい契機となる。
わたしが2009年の『言語ゲームが世界を創る』 (中川敏 2009)の中で展開したゲームについての議論を紹介しよう。
わたしは当該の著書の冒頭の章で、ゲームに対する二つの態度、「のめりこむ」と「一抜ける」を議論の中に導入した。二つの態度の対照は、ゲームのルールの可視性に関連する。将棋にのめりこめば、ルールは見えなくなる。それは言わば自然法則のようなものとなるのだ。ところが、そこから一抜ければ、ルールがありありと見えてくる。これが当該の本での描写である。これを、まず、単相・複相の言葉で語り直そう。
この記述をアスペクト論で言い直せば、プレイヤーがゲームにのめりこめば、世界は単相状態になる、となろう。言い換えればプレーヤーはアスペクト盲となるのだ。
☆ アスペクト盲としての規則(野矢)
私は、自分が従っている意味や規則といった規範など意識してはいない。なめらかな生活と実践の中にあって、私はまさにアスペクト盲として、盲目的にそうしているのである。」 (野矢 1999: 野矢 1999)
ところが、いったん一抜けると世界は複相状態になる。プレイヤーは、「これは遊びだ」というメタ・メッセージ (ベイトソン 2000)を了解した上でプレイをすることになるのだ。
すなわち、2009年の時点のわたしのゲームの態度の捉え方はつぎのようにまとめることができるだろう:
☆ 中川@2009年のまとめ(単相・複相)
こちら側 | あちら側 | |
---|---|---|
現実世界 | ゲームの世界 | |
(生活する) | いちぬける | のめりこむ |
単相 | 複相 | 単相 |
この段階でのわたしの議論は、言わば固有名詞説と同じ図式を頭に描いていたわけである。
☆ ゲームと引用
こちら側 | あちら側 | |
---|---|---|
現実世界 | ゲームの世界 | |
(生活する) | いちぬける | のめりこむ |
言明 | 引用 | 言明 |
使用 | 言及 | 使用 |
単相 | 複相 | 単相 |
いま考えると、このゲームの描写は過度に単純化されている。 ゲームを遊んでいる人が、ゲームの規則を自然の法則と思う程に のめりこんで じまえば、それはもはや遊びではなくなる。それは 自閉症児 のままごとであり、ケーキと見立てた石を食べてしまうことだ。 かといって、ままごとを「子どもっぽい」と言って、一歩ひいてみる(一抜ける)のもまた、遊びの遊びかたではない。
それでは正しい遊びかたとはどのような遊び方であろうか?それは、のめりこみながらも、一歩ひく、というやり方である。引用の図式と重ねると理解しやすいだろう。遊びとは、いわば、深い引用なのである。深い引用(使用と言及)とは、相手の言明を理解しつつ(使用する)、一歩ひく(言及する)ことだったことを思いだしてほしい。正しい遊び方とは、のめりこみつつも、一歩ひく(一抜ける)のである
☆ 引用(再掲)
こちら側 | 浅い | 深い | むこう側 |
---|---|---|---|
使用 | 言及 | 使用&言及 | 使用 |
中川が…と言った | (外面) | (内面) | 相対主義は可能だ |
単相 | 複相1 | 複相2 | 単相 |
「遊ぶ」の逆は「真面目である」と言った人がいるが、これほど的外れな言い分はない。遊ぶには、かならず真面目でなければいけないのだ。『かいけつゾロリ』ではないが、「まじめに不真面目」であるのが、遊びなのだ。「まじめに」遊んでくれない相手とは、金輪際遊びたくないはずだ。
☆ 引用論
こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|
浅い引用 | 深い引用 | ||
使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
(のめり込む) | いち抜ける | 遊ぶ | のめり込む |
ここで、「やらない」といった人類学の正当化の問題にちょっとだけ触れたい。 扱う問題は、ふとエンデに立ちよった 旅人 の記述とそこに何年も住みこみ、言語を喋り、贈与交換にまきこまれている 民族誌家 の記述に違いがあるか、という問題である。 「違う!」ということを、いまこそ明晰なコトバで語ることができる。
旅人は「エンデでは首狩りをしていたそうだ」 2 と報告するかもしれない。民族誌家の報告も、ほぼ同じものとなるだろう。しかし、民族誌家の場合、この文を理解可能にするための様々な情報が付加されることになる。このような慣習がいかにエンデの生と死の考え方に関連しているかが示されるかもしれない。それは例えば女性による「生を与えるもの」としての農耕と対比されるかもしれない。詳細な情報に囲まれて、エンデの人に共感はしないだろうが、それでも彼らがなぜ首狩りをしたかを理解するだろう。
☆ 異文化の遊び方
こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|
浅い引用 | 深い引用 | ||
使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
(のめり込む) | いち抜ける | 遊ぶ | のめり込む |
自文化 | 旅人 | 民族誌家 | 異文化 |
引用論のイディオムを使えば、旅人は「エンデでは首狩りをする」と報告するが、民族誌家は「わたしたちは首狩りをしない」と報告しているのだ。旅人は仮面ライダーごっこをいちぬけて遊んでいるしらけた子供のように、異文化をとりあつかっている。民族誌家は、異文化を遊んでいるのだ。
この「向こう側」の垣間見える瞬間、「はざまを生きる」時の議論を「よろめき ドラマ」の比喩を使って言い換えておきたい。 そうすることによって「こちら側」と「あちら側」の間の移行を物語 として語ることができるからだ。 「ためらいの心性」の物語とは、平穏無事な生活から、ためらいを経て、堕落していく物語であるのだ、と。
よろめきドラマの構図はこうなる — 冒頭(起)では、こちら側で彼女は平穏にすごしている。つづいて(承)あちら側との出会いがあり、ドラマが始まる。出会いは誘惑へと移り(転)、とうとう最後には彼女はあちら側に移ってしまうのだ(結)。
☆ よろめきドラマ
ラベル | こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|---|
よろめき型 | 平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
前回の講義で触れた人類学者のアスペクト旅行を、この範型にのっとって語り直してみよう。最初(起)彼女は自文化にのめりこんでいる。単相状況である。彼女は「これはウサギだ」の世界を生きている。つづいて(承)彼女はあちら側の世界(「これはアヒルだ」の世界)と出会う。彼女は浅い引用文を駆使することになる — 自文化が地で、異文化が図である。エンデでは「これはアヒルだ」と信じている(信念文)やエンデの人にはこれはアヒルに見えるという報告である。彼女は旅人なのだ。彼女は、出会いにつづいて誘惑の段階に進む(転)。加除は地と図を逆転させることになる(深い引用)。わたしは「これはウサギだ」と信じている、とか、わたしにはこれがウサギに見えるなどである。あちら側が地に、そしてこちら側が図になるのだ。彼女は民族誌家となったのだ。最後に彼女はあちら側に埋没することとなる。彼女はもはやこっち側にもどってくることはないだろう(結)。
☆ 旅人と民族誌家
こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|
平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
自文化 | 旅人 | 民族誌家 | 沈没 |
単相 | 複相1 | 複相2 | 単相 |
使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
最後にゲームの遊び方を語ってみよう。出発点では、彼女は現実世界の世界で生きている。(起)単相状況である。生活を地として、仮面ライダーごっこが図として侵入してくる。彼女はそれをバカバカしいものとして見ているのだ(承)。一抜けた状況である。彼女はそのうちにごっこに熱中する(転)。仮面ライダーが地になり、日常はむしろ図になってしまうのだ。まじめにふまじめ、本気で遊んでいるのだ。さいごに(結)日常生活が消えてしまい、ごっこだけが残る。彼女はごっこの単相状況にはいりこみ、敵をなぎたおすだろう。ほんきで。
☆ 旅人と民族誌家
こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|
平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
自文化 | 旅人 | 民族誌家 | 沈没 |
単相 | 複相1 | 複相2 | 単相 |
使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
日常 | いちぬける | 遊ぶ | 没入 |
引用論の最後に「引用としての芸術」を議論したい。 しかし、「引用としての芸術」は、本来の第2部ではメインのパートとなる部分(3章、4章をかけて述べる部分)である。数日かけて、それを短かくまとめようとしたが無理であった。ここでは、ほんの さわり だけを紹介する。すべてが断片だけとなる。 わたしの「嘘の美学—異文化を理解するとは どういうことか」を読んでください。
(中川敏 2017) (中川敏 2016) (Greenberg 1939)
近代のアートワールドを図と地を使用して、次のように記述することが可能であろう:地は日常であり、そこには日用品(芸術作品ではないモノ)が置かれている。図は美術館である。それは(博物館がそうであったように)引用符として働く。芸術作品は美術館に入れられ、括弧でくくられるのだ。
そのような意味で、アバンギャルドは、いわば、引用符との戦いだ、と言える。デュシャンは作品『泉』において、だれが見ても日用品である便器を引用符で囲んだ(美術館に展示した)。アバンギャルドによる引用符への挑戦である。ただし、これは言わば芸術の枠内での芸術への挑戦であり、ある意味で、この挑戦の敗北は見えていたと言えよう。
(ダントー 2017)
このような鑑賞者の態度の特徴は、これまで「不信の宙吊り」(suspension of disbelief)とか「距離の縮減」と呼ばれてきた。それらはたいへんに印象論的な表現である。それをより正確に表していこうとするのが、ウォルトンの議論である。
☆ 虚構芸術の鑑賞
ラベル | こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|---|
引用論 | 使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
ゲーム | 日常 | いちぬける | 遊ぶ | 没入 |
芸術鑑賞 | 現実世界 | いちぬける | 遊ぶ | 仮想世界 |
最後にレトリックの一種であるアイロニーとパロディを、引用論の枠組で再解釈してみたい。 おまけとして、制度論 についても少し述べよう。制度(たとえば 貨幣 ) もまた複相把握 と深く関連しているのだ。
辞書的に言えば、アイロニーとは「じっさいに喋ったことの反対を意味すること」となる。 しかし、それではアイロニーの意味をまったくとらえていない。この定義では嘘になってしまう。 アイロニーとは嘘ではなく、アイロニーとは引用なのである。
「中川さん、きょうも格好いいですね」 — これはアイロニーなのか、そうでないのかは文脈からしか分からない。どちらになるかは、意味の大きな違いを生み出す。アイロニーの通常の辞書的定義「じっさいに喋ったことの反対を意味すること」 (Cooper 1992: Cooper 1992)では、アイロニーの真髄はまったくつかめない。たしかに一面的にはアイロニーは「喋ったことの反対を意味して」いるかもしれない。それでは、嘘と区別がつかなくなってしまうだろう。そうではなくて、ある種の時間差を置いて、解釈が反転するのがアイロニーである。
アスペクト把握の能力をもっていれば、アイロニーの理解によってこれまでの過去の出来事のアスペクトが一気に変貌する。アスペクト把握の能力のないアスペクト盲の人にとってのアイロニーは、野矢は言う、過去の出来事そのものが変化するという効果があるのだ、と。 (野矢 2012 (1995): 野矢 2011 (1995))
アイロニーは嘘ではない。「中川さん、きょうも格好いいですね」は「中川さん、きょうも格好いいですね」を意味していないが、しかし、「中川さん、きょうも格好わるですね」を意味しているわけでもない。結論から言えば、時間を置いて解釈が反転するのがアイロニーである。
菅野(菅野 2003)は、 (スペルベル and ウィルソン 1999)にのっとり、アイロニーを反響(エコー)と捉える。たとえば、大雨の時に「なんていい天気だ」と発話したとしよう。これは明らかにアイロニーある。ここでエコーされているのは、たとえば「明日はいい天気だ」と言った(その場にいる)友達の声かもしれない、あるいはテレビに出てきた天気予報士の声かもしれない。 3 菅野の議論を、わたしの文脈に置けば、アイロニーは引用であるとなることは自明だろう。 4
アイロニーはある声を引用することによって、分かっている解釈者に反対のメッセージを伝える。ままごとにおいて「これはケーキだ」が、一種の嘘であることと呼応する点である。
ここで秀逸なアイロニーとして、秋月による『OL進化論』 (秋月 2004)の中の「娘よ」と題された4コマ漫画を見てみよう。父と娘の会話である。父が言う—「子供のころお前はほんとうに手先が不器用でだった」。「しかも根気がなくってあきっぽい」「ひとつのことをこつこつ続けるのが苦手」と続けたあと、3コマ目で一転して、父は言う— 「将来が心配だと思ったけど、お前も成長したんだな」と。4コマ目で落ちがつく— 「こんなにたくさん栗をむいて食うとは」。
この漫画を利用して、引用としてのアイロニーを分析してみよう。まず、アイロニー=引用であるので、全体を引用部でくくろう。父の発話全体、「お前も成長したんだな」が引用符で囲まれて、「『お前も成長したんだな』」となる。これを直示理論で書き直すと次のようになる。「お前も成長したんだな。これは嘘である」と。
これにより、アイロニーと嘘との違いが明瞭になるだろう。嘘は「お前も成長したんだな」がメッセージの内容であり、それが伝われば、嘘は成功したことになる。事実と違うメッセージを伝えたのだ。それに対し、アイロニーのメッセージの理解に時間差がある。前半部分は、もちろん、嘘とおなじである。しかし後半部分があり、それが嘘であることをもメッセージとして伝えているのだ。この二つが(時間差を置いて)ともに理解されてはじめて、アイロニーは成功したと言えるのだ。 5 嘘は単相であり、アイロニーは複相なのだ。
アイロニーの機能として嘲り (riducule) があることはしばしば指摘される(例えば (Cooper 1992: Cooper 1992)。さきほど例に挙げたアイロニーもそうである。アイロニーの中でもとりわけて嘲りの要素が強いものには、ある種の特徴がある。たとえば「きみのジャケットはとても趣味がいいね」というアイロニーの嘲りの要素を強めようとするとき、人は引用が引用であることを、とりわけて強調する。すなわち声を変えるのだ。
菅野は、アイロニーのもつ嘲りの役割を否定するわけではないが、それはむしろパロディによって担われる、と考える。ともに、エコーとして(あるいは引用として)の言語行為である。パロディに嘲りの効果がいかにして生まれるかについて、あるいは少なくともパロディがアイロニーとどこが違うかについて、菅野は深い洞察を示す。アイロニーがエコーしているのは記号内容(シニフィエ)であり、パロディがエコーしているのは記号表現(シニフィアン)だと言う (菅野 2003: 菅野 2003)。
パロディは外観だけの真似であり、アイロニーは内容を理解した上での真似なのだ。外観だけの真似が人を嘲る最上の方法だということを、子供たちは本能的に知っている — 大人との論争に負けそうになったときに、彼らはこのパロディ作戦、物真似攻撃を繰り広げるのだ。
そして、アイロニーが使用と言及を伴った引用(アスペクト論でいうところの相貌把握)であり、そしてパロディが言及だけの引用(浅いアスペクト把握)であることは、もはや言うまでもないであろう。
☆ 修辞と引用
こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|
使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
パロディ | アイロニー | 嘘 |
アイロニーとパロディとの相違について光をあたえてくれるある民族誌を紹介しよう。人類学者の清水展による、フィリピンの(もと)採集狩猟民のアエタの民族誌である。
清水は1970年代からフィリピンの採集狩猟民、アエタの人々とつきあっている。 1991年に彼らの住んでいたピナトゥボ山が噴火し、アエタの人々は難民となった。清水は、その後も彼らと親密な関係をつづけており、新しい人類学の一つの姿を提示している。
ここで引用するのは噴火後のアエタの物語だ。噴火の後、彼らは他者に対して自らを提示する必要がある。たとえば、観光客や、彼らに開発援助の資金を提供するNGOなどを迎えるときのことだ。
☆ 褌(ふんどし)の自己主張
「ラカス」や「ピナトゥボ」や「アニア開発協会」が、資金や援助を提供してくれるNGOの関係者を現地に迎えるとき、その歓迎のためのアトラクションとして、かならず褌姿に弓矢を携えた男が狩猟のダンスを踊るのである。 (清水 1997: 170–171)
この装束は、清水によれば、「平地民や外国人のエキゾシズム嗜好を意識し、それにおもねりつつ最大の利益をあげようとする、主体的な自己表象の戦略なのである」 (清水 1997: 171) という。
しかしながら、こういった人たちが、アエタの人々に弓矢をもって褌姿で写真をいっしょに撮ってくれるよう依頼すると、アエタの人びとはとても不快であったという。清水は、アエタの不快感をつぎのように代弁する。
☆ 戦術と力の落差
噴火直後の茫然自失の状態のなかで、外部の力ある者たちから、無力で未開の狩猟民として一方的に決め付けられ、そのイメージを押し付けられることは、自己の存在を矮小化され、無力化されるという苦痛の体験にほかならない。そこには、主体性と戦術で自己決定権の有無をめぐって決定的な落差が存在するのである。
この二つをパロディとアイロニーとして明示することにほって、清水による政治的な分析をさらに明晰にすることができるだろうと希望する。すなわち、戦術としての褌は、あちら側(いまはない噴火の前の状況)への深い引用となっているのだ。褌は嘘かもしれないが、それはアイロニーなのだ。それに対して「力ある者からの要請」による褌は、パロディに過ぎないのだ、それは嘲りを含む噴火の前の状況のパロディなのだ。
☆ アエタ
こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|
使用 | 言及 | 使用と言及 | 使用 |
パロディ | アイロニー | 嘘 | |
噴火の後 | 褌 | 褌 | 噴火の前 |
最後にとり挙げたいのが貨幣の問題である。あるいは制度一般の問題である。 ここでは、よろめきドラマの物語の時間を逆に辿ることになる。
「モーム型」 6 を導入したい。モーム型の主人公はあちら側を出発点としてこちら側にもどってくるのだ。よろめきドラマの筋が逆転するのである。
☆ モーム型
ラベル | こちら側 | あちら側 | ||
---|---|---|---|---|
よろめき型 | 平穏 | 出会い | 誘惑 | 堕落 |
モーム型 | 平穏 | 興醒め | 疑惑 | 熱中 |
よろめき型の列は左から右へと読んだが、モーム型の列は右から左へと読む— 恋におちいった(熱中)人間が、その恋に疑惑を抱き、興醒めし、さいごに恋のない平穏無事な日常へと戻るモームの小説のようなストーリーを念頭に置いている。ポイントは、よろめき物語は右から左だけでなく、左から右へと読むことも可能だ、ということだ。モーム型導入の意義は、制度論(ハイパーインフレ)を読むと理解できるだろう。
早川は『ハイパー・インフレの人類学』 (早川 2015)において、 2007年から2009年までの間、ジンバブエを襲ったハイパー・インフレを詳細に描く。
インフレは時間とともに物価があがる、すなわち貨幣の価値がさがる、そのような現象である。ハイパーインフレでは、貨幣の価値は「見る見る」下がっていく。
☆ ハイパーインフレ
二〇〇八年一二月半ばには、行列に並んでいるあいだにパンの値段が二倍になり、ある店では商品価格の表示を取り替えるために一日に三度もシャッターが閉められた。 (早川 2015: 早川 2015)
この章で取り上げるのはこのハイパーインフレの中の一つの小さなエピソードである。それは日常の中の演技に関するエピソードである。
このような状況でわたしたちが予測する人々の行動は、貨幣を見限って、モノへ執着するという行動であろう。貨幣への信頼は全くなくなっているからだ。都市部であれば、モノは店にしかないのだから、買い占めなどが起きるだろう。もしかしたら、店の主人ははやばやと店を閉めてしまうかもしれない。金の貸し借りなどほとんど意味がなくなり、そんなことは起きないであろう、と。
たしかに上に書いたようなことが全く起きていないわけではない。しかし、早川の本が描写するのは、それと逆行するような、「不合理な」(経済学者の声で発音して欲しい)行動なのである。人は友達からお金を借りて、その同じ金額を数日後に返却するのだ。同じ額面のお金を返してもらって、貸した人は文句も言わないのだ。もちろん、同じ金額の貨幣の価値は数分の一にまで目減りしているにも関わらず、なのだ。
ジンバブエの「危機」の時代、人びとはあたかも貨幣に信頼をよせているかのように、あたかもハイパーインフレなど起きていないかのようにふるまっているのだ。
ひるがえって考えてみれば、貨幣という制度自身がたいへんに不思議なものである。
ルーマンとギデンズによる信頼と信用の議論を思い出してほしい。信頼とは裏切りの可能性を念頭に置きながら、とりあえず信じることである。「信用」は、裏切りの可能性など考えないまったくの信頼を言う。それはわたしたちの自然現象に対する態度である。昨日も日は東から登り、きょうもまた東から登った。明日もまた日が東から登る— このことを誰も疑いはしない。
ルーマンとほぼ同じ区分を採用して、ギデンズは次のように言う。「近代に安心はない。われわれはそれをプレイする余裕はない」と。
わたしが「貨幣は不思議な制度だ」ということで言いたいのは、この脈絡でなのだ。近代における「安心」に基く制度が存在する、それが貨幣制度なのである。わたしたちは、貨幣を全面的に信じて生活をしている。「信じている」ことさえ念頭に浮かばないほどの信じている、すなわち「安心」しているのだ。貨幣に関してだけは、わたしたちは単相状況を生きているのだ
しかしながら、貨幣に限らず、制度が制度として機能するために、それが「約束」のもとづくものだ、ということが念頭に浮かんではならない。飽くまで「自然」なものと見做されるほどに、それは信じられていなければならないのだ。一度それが約束に基く人為的なものだと気づかれれば制度として十全な機能は妨害されることになる。他の言い方をすれば、制度は地である限り安全だが、一度それが図になってしまったと途端に、制度としての機能が不完全になるのだ。
ハイパーインフレはモーム型の物語、すなわちよろめきと逆方向の物語である。みなが熱中している間、制度は安心に基づいて機能している。しかし、その制度が人為的なものと気づかれると一気に破綻するかもしれないのだ。熱中から疑惑へ、そして興醒めに至れば、制度の崩壊が起こるのだ。ジンバブエが直面したのはそのような問題なのである。
意識的ではないにせよ、ジンバブエの人びとはカタストロフを避けるべく自然でなくなってしまった貨幣をあたかもまだ自然であるかのように、あたかもまだ普通に通用しているかのように演じるのだ。
さて、さて、さいごの「まとめ」となりました・・・。
芸術について興味深い議論を展開しているウォルトンは(Walton 1993)、すべての芸術に共通する点として「振りをすること」(“make believe”)を挙げている。あたかも芸術が(人生であるかのように)演ずるのだ。それは、わたしの言葉で言い換えれば、誘惑に身をさらしながら、堕落の一歩手前で踏み止まることである。