ピジョンホール文化相対主義(文化相対主義 Ver 1.0) に、複相の把握の能力をくわえ、さらにその能力の全体論的性格を指摘することで、文化相対主義 Ver 2.0 は完成した。
Ver 1.0: (1) コードモデル、(2) 水源地モデル Ver 2.0: (3) 複相の把握、およびその全体論的性格
この章では、一応の完成を見た文化相対主義 Ver 2.0 をチューンアップしたい。そのための作業は、この複相の議論を「引用」の議論に重ねることである。こうすることにより、比喩を続ければ、 Ver 2.1 が完成することになる。
Ver 2.0: 全体論と複相 Ver 2.1: 引用
複相の把握を、レトリックの一種である引用に結びつけて文化相対主義のバージョンアップをしよう、というのが本章の目的である、と述べた。あなたは、もしかしたら、「引用」がこの脈絡で登場することが、いささか突然で、意外なものであると感じるかもしれない。ここでは、これまで述べてきた議論の一つを取り出し、「引用」が密接に関連していることを示したい。
以外な組み合わせかもしれない説明しよう
自閉症児のできないもの、すなわち複相把握の能力(能力 x)に依存する行動の一種として「ごっこ遊び」を挙げたことを思い出してほしい。
自閉症児は「ごっこ遊び」ができない「ごっこ遊び」は複相把握能力が必要なのだこれが引用であることを、印象主義的に述べてみたい
ママゴトの中で、あなたは言う:「さぁ、朝ご飯ですよ」と。そして、石の上に雑草ののせて、友だちに差し出す。あなたの発言、「さぁ、朝ご飯ですよ」を考えてみて欲しい。あなたはできるだけお母さんの声色を真似ようとするだろう。この発言において、あなたはあなたのお母さんの言葉を引用しているのである。
あなた:「さぁ、朝ご飯ですよ」石の上に雑草をのせて友だちに差し出す
さらに言えば、石もそして草もまた引用なのである。それは皿を、そしてサラダを引用したものである、そのようにわたしは言いたいのだ。
「さぁ、朝ご飯ですよ」→ 母親の引用石 → 皿の引用草 → サラダの引用
複相把握と引用が関連していることを認めていただけただろうか。この章では、この二つを重ねることにより、お互いをより強固な分析概念としていくことを目的としているのである。
複相把握と引用を重ねることによりお互いをより強固な分析概念としたい
引用について考えよう。
哲学の中で、言葉の使いかたには二種類が、すなわち、「使用」 (use) と「言及」 (mention) があると言われる。たとえば、「中川は阪大の教員だ」という文で、「中川」という語は使用されている、という。それに対して、「『中川』は全部で二文字だ」という(引用をつかった)文では同じ言葉(「中川」)は言及されている、と言う。
使用 (use):「中川は阪大の教員だ」言及 (mention):「『中川』は二文字である」
引用とは言及の典型的な例である。引用される時、すなわち言及される時、言葉はモノのように扱われる。
引用されるとき(言及されるとき)言葉はモノのように扱われる(「名である」)
『言語ゲームが世界を創る』 (中川敏 2009) で使った言葉、「のめり込む」と「一抜ける」が、使用と言及とに対応する。引用するとは(すなわち、言及するとは)それから一抜けることなのである。「中川」という言葉を、その意味(それが中川を指していること)はしばらく忘れて、一抜けて見る、モノとして見る— そのような視点を獲得するのが、引用の効用なのでである。
使用:語の意味にのめり込む言及:語の意味から一抜ける
引用が言及であること(一抜けることであること)は大事なことであるが、もう一つ大事なことがある。それは引用された語は使用されて(のめりこんで)いないわけではない、ということでである。
「中川が『明日学会で発表するつもりだ』と言った」という文を考えてみよう。「明日学会で発表するつもりだ」は、たしかに、引用である。中川の発言は、ここで、言及されている。しかし、その意味を忘れてモノのように見る(一抜けて見る)という今迄の「言及」の説明はあてはまらない。引用は言及であるけれど、同時に(間接的にせよ)使用されてもいるのある。(これがデイヴィドソンが「引用」 (Davidson 1985)の論文の中で冒頭で指摘したことである)。
中川が「明日学会で発表するつもりだ」と言った引用の意味を考える必要がある
引用とは使用(のめり込むこと)と言及(一抜けること)とを同時に行なう作業なのである。
言及しながら使用すること一抜けながらも、のめり込むこと、なのである
それでは相対主義について「引用」という言葉で(そして「一抜ける」という言葉で)説明してみよう。
生活するとは、自文化を生きている状況である。それはのめり込んでいる状況である。そのような人が、異文化に出会ったとしよう。そこで引用がされる。「エンデでは母方交差イトコ婚をしている」という報告は一種の引用である。ただし、それは言及のみであり、エンデの人の慣習をモノのように語っているだけなのだ。
「エンデでは母方交差イトコ婚をしている」慣習をモノのように語る
これはまだ相対主義ではない。
相対主義は、自分の文化をも引用できたときに成立するのである。外側の視点、すなわち、エンデの人の視点から「日本では母方交差イトコ婚をしていない」という「珍しい」慣習を報告できたとき、その報告者は相対主義を身につけたと言えるのである。彼は、自分の文化を生きてきたのだが、その文化が引用の対象になる時、その引用の内容が単に言及されるモノ(珍しい慣習)ではなく、生きられるモノであることを知っている。それゆえ、遡って、「エンデでは母方交差イトコ婚をする」という報告をも、単なる言及として、すなわち珍しい慣習としてではなく、生きられていることを知ることができるのだ。
「日本では母方交差イトコ婚をしていない」自分の文化を(外側の視点から)引用する
自分の文化は生きられる得るものであるそれゆえエンデの文化も生きられ得るものである
すなわち、引用の内容が生きられた体験であることをも知ること、すなわち使用と言及を同時にするとき、彼は相対主義を体得したと言えるのである。
さて、これまでは相対主義の原理を説明するための議論であった。いわば「人類学原論」である。これからは「人類学各論」となる —
じつは「視点の二重化」や「引用」の議論は、さまざまな民族誌を読みとくのに役立つのだ、ということを示していきたい。ここでは、特別な社会だけに見られる民族誌ではなく、日本という社会にも見られる引用の議論をしていこう。
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When a play is not a play? When it’s serious. (Schwartzman 1976)
すぐ考えつくのは「遊び」です。『言語ゲームが・・・』でも「遊び」を例に出しましたが、「遊び」は「のめり込む」「一抜ける」という言葉を使うのに最適の文脈です。あるいはベイトソンの「遊び」論 (Bateson 2000 (1972))のメタメッセージ論も、引用として解釈し直せます。子犬が遊んでいる(お互いに噛んでいる)状況です。子犬たちは、ここで「これは遊びである」というメタメッセージを発している、とベイトソンは言います。ぼくの言葉で言い換えれば、子犬は噛むことを引用符に入れているのです。
子犬は「これは遊びだ」というメタ・メッセージを発している「噛みあい」は引用符に入れられる
(菅野 2003)
菅野はアイロニーについていくつかの説を検討した後、スペルベルとウィルソン (スペルベル と ウィルソン 1999)による「反響説」がアイロニーを説明する最もよい方法であると結論づける。彼の説明をしばらく追っていこう。
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アイロニーの行為を呼ぶのに、ブレヒトから「異化」 (Verfremdung)の名を借りたのは十分な理由に立ってのことである。演技を字義的な本物の行為へ転身せしめる魔法などを、演劇は求めるべきではない、と彼はいう。彼はその代わりに、演技の原理として異化を主張して倦まなかった。異化とは何か。簡単にいって、それは出来事や性格から当然なもの、既知なもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心を作り出すことだ。 [footonote omitted] では、どうしたらそういう効果を生むことができるのか、演技を模倣ないし直接引用ではなく、実地教示 (Denmonstration) として構成することによってである。演技者は、出来事を間接的に引用し、反復するとこに努めなくてはならない。演技が「繰り返し」だからこそ、観客は感情同化に流されずに、自己の能動性を保ちつつ、それを観察し、認識し、研究することができるのだ。 (菅野 2003: 197)
できごとから既知なの、明白なものを取り払いそれに対して驚きや好奇心を作り出すこと
演技を直接引用として構成しない演技を間接引用とする観客は感情同化せず、能動性を保てる