多声と多視点
この章と次の章(第4章)で、「古き良き人類学」批判を紹介する。 この章では人類学内部からの、とりわけ「ポストモダン人類学」からの批判をとりあげたい。
第1章までは「古き良き」時代のなんちゃって相対主義を紹介した。チャンブリでは女性が支配的であり、サモアでは人びとの性にたいする態度はおおらかである。エンデでは人は利益を追って行動しない。わたしたちがいま生きている社会のありようだけが、可能な世界ではないことを人類学は教えていたのだ。 第2章ではそれらの人類学が暗黙の前提としていた文化相対主義を、ピジョンホール人類学として明示的に提示した。すなわち、 (1) 暗号帳モデルと(2) 水源地モデルの合成である。
この章と次の章(「異文化理解は不可能なのだろうか?」)において、ピジョンホール人類学として定式化された文化相対主義を批判することになる。この章では、とくに人類学内部からの批判に焦点をあてる。ポストモダン人類学と呼ばれる新しい人類学の潮流を紹介する。
ポストモダンの人類学者たちはさまざまなやり方で古い人類学を攻撃した。この章ではその内の一つ、「民族誌家の権威」問題をとりあげる。 わたしのやりたい事は、第一に、この問題に対する彼らの解答、多声の民族誌が間違っていることを示すということである。さらに、その代わりとして、いささか印象主義的にだが多視点の民族誌という考え方を提示したい。
1986年に『文化を書く』という本(論文集)が出版された— この本に代表される人類学の潮流をポストモダンの人類学と呼ぶ。 この本は、簡単に言うと、「古き良き人類学」への宣戦布告なのであった。彼らは「古き良き人類学」は間違った方法に基づいていると指摘する。そして、古い方法論にかわって新しい方法論を提唱したのである。
『文化を書く』(Clifford and Marcus 1986)は論文集であり、それぞれの著者がさまざまな形で批判を展開しているが、ここでは話を単純化する。
ポストモダンの人類学者たちが指摘した問題点はさまざまであるが、ここではその内のひとつ、書き手 (民族誌家)という問題をとりあげる。民族誌の書き手を問題とするとは、有名な論文のタイトルを借りて言えば、「民族誌家の権威」を問題にする、ということである。 民族誌家の権威を問うという作業は、じつは、二つの側面をもっている。政治的な側面と認識論的な側面である。 この本/授業の中では政治的な側面はとりあげない。認識論的な側面に集中する。この側面こそが相対主義に直接的に関わるからだ。
わたしという民族誌家は、東インドネシアのエンデという人々についての民族誌を書いている。ポストモダンの人類学者は次のように問うのだ (Clifford 1988 (1981)) — 「おまえはエンデで生まれたわけでも、エンデで育ったわけでもない。おまえはいったいどういう資格でエンデの民族誌を描いているのだ?」
問いの「政治的な側面」とは、いわば、「倫理的な」側面である。ポストモダンの人類学者が強調したのはこの側面である。しかしながら、この側面を重視するとけっきょく、「悪者は誰か?」という議論に終始することなる。 ある医療人類学の入門書に書いてあったのだが、著者は、このような傾向を「ダースベイダー探し」と名付けている。わたしも、この路線は不毛だと思う。
問いの政治的な側面を理解するために、批判の槍玉にもあがったマリノフスキーの「日記」 (マリノフスキー 1987)の中の記述を見てみよう。近代的民族誌の創始者とも言うべきマリノフスキーは、自らが民族誌家として権威 を持っていると、ほのめかす。
☆ わたしが島を所有している (1/2)
[この島を]所有しているような感じを抱く。それらを記述し創造するのは、この私なのだ。(マリノフスキー 1987: 213)
☆ わたしが島を所有している (2/2)
確かに、この島を「発見」したのは私ではない。だが、その美しさを体験し、その真価を知的に体得したのは、この私が初めてなのだ。 (マリノフスキー 1987: 348)
自分がトロブリアンドの人だと思ってこの文章を読み返してみよう。「何言うてるねん」と腹が立ってくるだろう。1
これが問いの「政治的な意味」なのだ。
「民族誌家の権威」という問いの政治的な側面は、この本ではあつかわない。政治的な側面とは、いわば、倫理的なとも言える側面である。(第3世界の住民である)トロブリアンドの人々に比べて、さまざまな意味で優位に立っていた(第1世界の住人)マリノフスキーがその優位さに無自覚に、彼らの民族誌を書いている、これが批判の要旨である。議論の行き先の見えている(不毛な)批判である(と私はかんがえる)。いささか文脈は違うが、ローティは、「わたしは北米に住む、白人の中流階級の男性だ。このことをわたしは変えることはできない」と書いていた — ポストモダンの批判には「わたしは自覚的だ」と答えるしかないだろう。
わたしが取り扱いたいのはもう一つの側面である。
それでは、わたしが焦点をあてたい問いの認識論的側面とは何なのか、そしてそれがいかに相対主義の核心をつく批判となるか、説明しよう。
「認識論」は、英語 Epistemology の訳語である。「エピステモロジー」は、ギリシャ語のエピステーメー(知識)と「学」をあらわすロゴス(理論)とからなる。すなわち、認識論とは知識の理論なのである。「いかにして人は知る」のかを問う学問である。
「民族誌家の権威」の問いの認識論的側面とは、すなわち、民族誌家はいかにして知るのか、という問いである。
ミードは言う、「男が女より上位である」という主張の正しさは相対的である、と。主張を単純化しておこう — 相対主義の主張は、「どのような主張の正しさも相対的である」という主張である。反相対主義者は言う。「このように単純化すれば相対主義が自己論駁的であることは明らかであろう」と。
「自己論駁的」という言葉について説明しておこう — 主張の内容が、その主張自身を否定している(論駁している)ことを言う。たとえば、「例外のない規則はない」という主張を考えてみよう。この主張が正しければ、この主張(これも規則である)に例外がないことになる。しかし主張しているのは、この規則にも例外があることだ。ポイントは、これは、規則についての言明だが、それ自身も規則であることを忘れているということだ。
「あなたの主張の真理も相対的なのか?」、は相対主義の根底を揺るがす問いである。そしてこの同じ質問が、形をかえて、相対主義者に対して何度も繰り返されてきたのである。その中でも、パットナムの引くある教授の言い回しはウィッティなものであろう— 「君らの出身はぼくのとは違うかもしれないけ、ぼくの出身地では相対主義は間違っているんだよ」と。 (Putnam 1981: 119)
「民族誌家の権威」の問いの認識論的側面が、ある意味で意表をついていたのは、文化相対主義が民族誌家を問題にしていなかったからである。これを「透明な民族誌家」と表現しよう。あるいは別の言い方をすると、文化相対主義の主張、「すべての主張は相対的である」という主張が、自分自身を含んでいることに、文化相対主義者が気づいていなかったからなのだ。
この節では、民族誌家の権威(認識論的地位)を問う作業が、人文科学の中のある「禁じられた遊び」の系譜につながるものであること、言わば、パンドラの箱を開けることであったことを明かにしたい。それは人類学に認識論的な窮状をもたらしたのだ。
民族誌家の権威を認識論的に問うとはどのようなことなのか、それを先ず明かにしたい。歴史的に語ろう。 第一ステップはマルクスによるイデオロギー批判である。
「存在が意識を規定する」という有名なマルクスの言葉がある(『経済学批判』(Marx 1973 (1939))。「おまえが持っている考え方はおまえの階級や立場や利害関係に決定されているのだ」という虚偽意識 告発である。
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マルクスを民族誌家に、同時に「おまえたち」を原住民に重ねてみよう。民族誌家は、いわばマルクスのような作業をしているのである— 「おまえたちのもっている考え方はおまえたちの文化や制度に影響されているんだ」と。
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マルクスの告発の中で不問に付されている対象がある— それは書き手であるマルクス自身である。書き手(マルクス)が透明なのだ。 人類学的状況に重ねてみれば、民族誌家自身が透明だ、ということである。 第二のステップはこうだ— 「そう告発するお前は何者なのだ」と。
この第二のステップを取るということは、言わば、パンドラの箱をのぞくような作業である。第二のステップとった途端に、すなわち、「そう言うお前は何者だ」と問うた途端に、目の前に無限が広がるのだ— 「「そう言うお前は何者だ」と言うお前は何者だ」と言う問いが待っていることに人は気づくだろう。そしてその背後には、「「「そう言うお前は何者だ」と言うお前は何者だ」と言うお前は何者だ」という問いが控えている。無限の問いが待っているのである。すなわち、最初の「存在が意識を決定する」という相対主義的言明が無意味だったのだ
書き手自身の立ち位置を問うことは、それ自身無限退行に陥ってしまう、そのような営為である。それは書くことに対する確たる基盤をなくしてしまう問いなのである。 2
マンハイムは『イデオロギーとユートピア』 (mannheim-ideology?)の中でそのような一歩を大胆に取る。
マンハイムは、マルクスのイデオロギーを発展させる中、この無限退行の問いに気がついた。 彼は『イデオロギーとユートピア』の中で無限退行を避けるために、書き手である自らを「浮動する知識人」として、一切の立場や利害関係から自由な者としたのだ。いわば彼は、自らに神の視点を与えたのである。
(mannheim-ideology?)
これが納得のいかない答えだ、ということは誰でも考えたことだと思う。わたしも、学部時代に「社会学概論」でこの議論を聞いたとき、「なんといい加減な」と思ったことを覚えている。ただし、こうしないことには泥沼が待っているこは、院生時代になって納得した。
さきほどの「例外のない規則はない」という規則をめぐるパラドックスを思い出してみよう。パラドックスは「そうならば、この規則にも例外があるんだね」という問いによって始動した。マンハイムの解決は、この問いに「いや、この規則だけには例外がない」と答えた、ということである。確認しておきたいが、マンハイムのつかったこの手口はかっこうはわるいけど、矛盾はない、規則違反ではないことは言っておきたい。
確認しておきたいが、マンハイムのつかったこの手口はかっこうはわるいけど、矛盾はない、規則違反ではないことは言っておきたい。マンハイムのやり方は論理的には問題はないのだ。
ポストモダンの人類学者たちはパンドラの箱を再び開ける。かれらはマンハイムの不細工な解決(「おれは正しい!」)を良しとはしなかった。彼らが解決策として示したのは、著者(民族誌家)を不透明にすると同時に、多くの原住民をも著者として採用するという、「多声的民族誌」であった。 この節では、それがどんなものであるかを紹介し、それは不可能であることを示す。 そして、わたし自身の代替案、「多視点的民族誌」のスケッチを示す。
マンハイムによって閉められたパンドラの箱をポストモダンの人類学は自信満々に再び開ける。彼らはそれを閉める護符、「浮動する知識人」を捨てた。そのような神の視点は存在しない、と一蹴したのだ。 その代わりに彼らは、一人称単数「わたし」をも民族誌にいれることを要求した。すなわち、著者を不透明なものとしたのだ。さらに、多くの原住民の声をそこに入れるべきだと主張した。「多声的民族誌」アイデアの誕生である。
この様な立場にたった上で、「民族誌は文学のようなものだ」とポストモダンの人類学者は言う。民族誌家自身の立ち位置を問うポストモダンの人類学は民族誌家自身による内省的な傾向を強める。
内省的な「実験的民族誌」として P・ラビノーの『異文化の理解』 (Rabinow 2007 (1977))を、その典型例として挙げることができるだろう。民族誌家がインフォーマントたちと共同して相互理解をつくりあげていくそのような過程としてフィールドワークを書きあげた実験的な作品(「実験的民族誌」)である。
民族誌家の権威を認めず、民族誌家とインフォーマントの相互理解に焦点を置こうとする『異文化の理解』という実験的民族誌の試みと似た構図をエッシャーの『描く手』に見ることができることを指摘することから議論を始めたい。
エッシャーの『描く手』を見てみよう。
この絵は、じっさい、ポストモダンの人類学の理想とする姿のようにうつる筈だ。一本の手がもう一本の手を描いている、そして同時にその手自身がもう一本の手によって描かれているのだ。まるで、ラビノーの描く民族誌家とインフォーマントの間の相互理解の構造をエッシャーが予感していたかの如くである。
ポイントは、この絵はジョークであるということである。決定的な落ちがある— 『描く手』を「描いている手」が描かれていないのだ。たしかに二本の手が描かれている。そして二本は互いを描きあっている。私が言っているのは、この絵をじっさいに描いたエッシャーの手のことだ。その欠点を埋めるべく、もう一つの「じっさいに描いている手」を描いてみよう。そうしたところで、その手を描くエッシャーの手は、やはり描くことはできない。じっさいの描き手を描くことは不可能なのだ。民族誌家がいかに多くの声民族誌の中に書き込もうと、その取捨選択をしたのは、けっきょく、民族誌家なのである。
「パンドラの箱」を出た妖魔は言う— 「それを書いているお前は何者だ?!」と。
しかし、よく考えてみれば、絵画はその中にこれみよがしに描く手があろうがなかろうが、描き手を示すあるヒントが埋め込まれているのだ。 絵画は、暗示的に視点の存在を示しているのである。ある絵画から、それを描いた画家(描き手)がどこに立っているのかが分かる。
絵画に視点が表われていることを見る人の意識にのぼらせたのがピカソの『アヴィニョンの娘』である。この絵を見てわたしたちが感じる不安は、「視点の不安定さ」である— そこに一つだけの視点がないのだ。
小山 (koyama-genei?) はキリコの絵、『街の神秘と憂鬱』の中の多視点を浮かびあがらせる。この絵の中には、じつに三つもの視点が暗示的に示されていたのである。 (koyama-genei?) (小山のページ をみよ)
古典的民族誌は、いわば、一視点の絵である。ピカソやキリコのような多視点の絵に比することのできるような民族誌は可能だろうか、論の残りの部分はその挑戦に答えようとする試みである。
最後に、この章をまとめ、次の章との関連をのべたい。
この章では、前章でつくりあげた文化相対主義的人類学、ピジョンホール人類学への批判のうち、人類学内部からの批判をとりあげた。それはポストモダン人類学からの批判である。 彼らが相対主義に替えて主張するのが「多声的民族誌」であった。わたしはそれが不可能であることを示した。 さいごに、わたしは、「多声的民族誌」ではなく、「多視点的民族誌」に可能性を賭けるべきではないかと、示唆した。この章で示したのは飽くまでそのスケッチだけである。
次章では、哲学からの、とりわけデイヴィドソンによる、ピジョンホール人類学への批判批判をとりあげる。 彼の議論を紹介するその章はきわめて短かいが、彼の批判は的確であり、その議論により、ピジョンホール相対主義はあたかも息の根をとめられたかの様相を呈することになる。