第09章 再び見出された異文化

ウサギとアヒル

Satoshi Nakagawa

1

サピアやクーンやファイヤアーベントの共約不可能性を相対主義の極北と呼ぼう。ノヤヴィドソンにより、相対主義の極北とは則天去私の共同体であり、そこは異文化など存在しないことが示された。わたしは、この相対主義の極北が自閉症児の世界に重なるということを示した。 自閉症とは障害である。わたしたち(非自閉症児)は自閉症から脱する能力をもっているのだ。この能力を考慮にいれれば相対主義の極北(共約不可能性)の世界は、決して則天去私の共同体に重なるものではないことになる筈である。 人類学が、共約不可能性に基づきながらも異文化を理解すると標榜する人類学が可能になるのである。

1.1 これまで

前章で示したのは、自閉症が、独我論・則天去私の共同体と同一の構造を示す、ということだ。共通するのは、どれも否定性が欠如している(「ないことが分からない」)という点である。 われわれの世界において他者こそがもっとも典型的な否定性である。自閉症児の世界は、則天去私の共同体および言語論的独我論の世界同様に、他者が欠如しているのである。 前章では強調していなかたったが、則天去私の共同体と言語論的独我論を論ずる際に強調したのは、他者がいなければ「私」もいない、ということである。

以上がこれまで辿ってきた道程だ。

1.2 これから

ウィトゲンシュタインの独我論とほぼ同じ構造をもつ自閉症をわざわざ1章をさいて取り上げたのは、自閉症が障害であり、同時に経験科学の対象であるからだ。

それが障害である、ということはわたしたちは自閉症児の陥った罠から脱出するある特殊な能力をもっているということを示している。それを発見することが、文化の共約不可能性をうたう人類学を可能にする道なのである。 それが経験科学の対象であるということは、その未知の能力 x を実証的に探すことができるようになったということである。 その能力がどのようなものであるかを理解すれば、わたしたちは強く囲まれた文化観をもったまま、文句を言われることなく異文化について語ることができるようになる筈なのだ。

濱本の相対主義擁護のレトリックは次のようになる— 「もし相対主義があやまっているのなら詩人など存在しないはずだ。詩人がいるということは、相対主義が正しい、ということだ」と。

わたしが展開する相対主義擁護のレトリックは次のようになる— 「もし相対主義があやまっているのなら、わたしたち全員が自閉症となる。そうではないということは相対主義が正しい、ということだ」と。

2 他者がわたしを生む

自閉症児と非自閉症児の間の決定的な差異は、否定性、とりわけ否定性としての他者の認知にある。 簡単に言えば、わたしたち非自閉症児がもつ能力 x とは、他者を他者として(モノとしてではなく)認知する能力ということになる。わたしたちはいかにして他人を認知するにいたったのだろうか? この問いは個体発生の問い(「わたしは如何にした・・・」)であると同時に、系統発生の問い(「人類は如何にして・・・」)でもある。何人もの人がこの問いを、あるときは思考実験を通じて、ある時は実証的に調査してきた。

この節では、それらの調査を紹介してゆく。

2.1 鏡のなかの私

生れたばかりの赤ん坊が自我(「わたし」)をもっている、あるいは他者を他者として人間を持っているとは考えられない。赤ん坊はいかにして自我を、そして他者像を獲得するのだろうか? この小節では、心理学者(哲学者)ラカンによる鏡像段階説を紹介したい。

鏡像段階?

幼児は、ある段階までは、各感覚(手があること、足があること)をばらばらにしか経験できない。

しかし、鏡の中に自分を見て(とくに母親といっしょにいる自分を見て)、その鏡像こそが自分であると認識する段階が来る(6ヶ月から1才半だという)。そのとき、すべての感覚を統覚する「自分」が生まれるのだ、というのだ。

ここでのポイントは、幼児が「自分」を発見するのは、飽くまで、彼女が自分を他人(母親)に見られたものとして発見するのだ、ということである。そして、他者は、まず、視線として意識されるのである。視線が、赤ん坊の独我論的状況を打破する一撃となるのである。村上は、このような視線触発が自閉症児に欠けていることを著書の中で何度も強調している

「私」の発見に、「他者」の発見は先行している。「他者」の存在があって始めて「私」が発見されるのである。 (lacan-mirror-j?) (幼児の対人関係 2001)

矯正歯科でしばしば使われる歯の模型である。

石膏でかたどった自分自身の歯の模型を見せられるとき、私たちは不思議な感覚に襲われる。その不思議な感覚を説明してみよう。

人間は「自分の歯」が、もっともプリミティブな意味で典型的な自分だと思っているだろう。それは「自分の内側」にあり、他の人に見えない、内奥の自分なのである。そして舌を通じていつもそれを実感できる、触覚それも舌による触覚は、視覚の持つある種ぽ公共性を欠く、もっとも私秘的な感覚だろう。そのような具体的な内奥の自分なのだ。(じっさい、筋肉の発達が充分でない幼児でも舌で自分の口腔内をさぐることはできるだろう)。言い換えれば、それは心のようなものなのだ。心も歯も、自分には最も親密で、そして他人には見えないもの、そのようなものとして「典型的な自分」を表すものなのです。

歯の模型を見てもらいたい。

歯の模型

さて、歯の模型を見て感じる不思議な感覚とは、一つしかないと思っていた「自分の歯」を見る視点が、じつはもう一つあること(歯医者さんの視点である)に気づき、たじろぐ (disorineted)、そのような感覚なのだ。

鏡像段階そして歯科医の模型を通してわたしが言いたいことは、他者と「私」(自己)の関連において、他者こそが自己という考え方を生み出すのだ、ということである。

恐竜
理科室の・・・

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2.2 ある覗き見屋の発見

たしかにわたしたちは赤ん坊の時に、他者を、そして「私」を発見したのだろう。しかし、ときおり、わたしたちはそれらを忘れて、独我論的な状況に陥ることがある。 サルトルが、そのような状況を覗き見屋を思考実験の材料にして生き生きと描き出す。 覗き見屋の独我論的状況の中にとつぜん他者が侵入する。覗き見屋は、他者を、そして同時に「わたし」を発見していくのである。

覗き見屋

彼はアパートの他人の部屋をのぞきみしている。その時、彼はいってみれば凝視そのものである、とサルトルは言う。

☆ 『存在と無』の覗き見屋のエピソード

【抄訳】(即自から対自への変化を)サルトルは覗き見やの例で説明する。最初、彼は凝視そのものである。 足音がする。 自分が見られていることに覗き屋は気づく。 この時はじめて自分が(他者にとって)覗き見やであるというアイデンティティが生まれるのだ。

サルトルの描写は、わたしが一度引用したウィトゲンシュタインのあのことばと正確に重なる — The I in solipsism shrinks to an extensionless point and there remains the reality co-ordinated with it. 彼は、彼の視線ともどもなくなってしまうのだそして、その純粋実在論の世界に、とつぜん他者が侵入する。ここでも視線触発 が独我論的状況を打破する一撃となるのである。

サルトルのこのよく引用される部分にたいして、芸術の哲学者アーサー・ダントーは次のように言う。

☆ 他者と自己の発見

【抄訳】自分が客体であることに気づくのは他者が主体であるのに気づくのと同時である。他者が内面をもっているという発見は、自分が外面をもっていると発見とは論理的にいっしょなのだ。 (Danto 1983: 10)

「自分が外面をもっていることの認識と他者が内面をもっていることは論理的に不可分である」というダントーの結論は注目に値する。この点を、ジョーンズ革命、心の理論を通じて、より詳細に説明していきたい。

2.3 ジョーンズ革命

これ以降は系統発生の物語だ。 (哲学者)ウィルフリッド・セラーズは、人類の歴史のなかでの架空の人物ジョーンズの起こした大革命というジャスト・ソー・ストーリーズ (Just So Stories) を楽しそうに描きだす。 ジョーンズこそが(後に有名になる)「心の理論」の創設者なのだ、と。

はるか昔のホモサピエンスの祖先たちを考えようとセラーズはいう。 (Sellars 1997:) 彼らは群をなしており、群の仲間にとりわけ注意をはらう必要があったのだ(と考えよう)。さいしょ、彼らは仲間のそれぞれに行動の傾向性を付与する、ということからはじめた。すぐに喧嘩をはじめるやつ、我慢づよいやつ等々。群の仲間の一人一人にたいするそのような知識が群の中で生き抜く知恵となるのだ。これがジョーンズが舞台に登場したときの状態だ。革命は「思考」の発明である。ジョーンズは、相手が内的な発話(「思考」)をおこなっていると考えたのだ。情動とか、意図とか、信念とか、欲求とか(見えないもの)を群の仲間に付与して、彼らの行動を予測した。おどろいたことに、これがたいへんに当たるのだ。ホモサピエンスの語彙に「他者」が誕生したのである

間髪をいれずにジョーンズ革命の第2弾が発動した。それは心の三人称を一人称に変換するのだ。かくして、「わたし」が誕生したのだ。

これは1950年代に哲学者セラーズが思い描いた夢物語だが、ほぼ同じアイデアが進化心理学者たちによって実証的に研究されている。

2.4 心の理論

分野は進化心理学である。領域は閾問題(いきもんだいと呼ばれる問題領域である。ホモサピエンスとそのほかの霊長類間にある「閾」は何なのか?という問題である。 決定的な答があるわけではないが、一つの有力な説が「心の理論」説である。ホモサピエンスは、他者の内面()を発明することによって、大きな進化を遂げたのだ、と。

サンプルしか読んだことのない本を引用するのも気がひけるのだが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は印象的な時間の分類から始まる。

時間のスケールが遷移するたびに、変化の度合いのスケールが激変するのだ。この構図を借りて、閾問題を言い換えるとこうなる:なにが人類を「歴史の時間」へと移行させたのだ、と。他の霊長類は生物学の時間を、すなわち進化の時間を生きている。人類だけが歴史の時間ゾーンへと乗り換えたのだ。どうしてそれが可能になったか?これが閾問題である。そして、閾問題への一つの答が「人類は心の理論をつくったからだ」となるわけである

3 ごっこ遊び

自閉症児に欠けていて、わたしたち(非自閉症児)がもっている能力 x 、それがあるが故に他者を認識できる能力は何か?に対する答が「他者を認識する能力」だ、というのは、いささか「大山鳴動・・・」だというのは認める。しかし、話は続くのだ。 なぜなら、わたしたちがホントウに求めているのは、「異文化を理解できる能力」とはどのようなものなのか?であるからだ。それは「他者を理解できる能力」と関係してはいるだろうが、それ自身ではない。 わたしの結論は、「異文化を理解できる能力」とは「二重構造 を把握できる能力」であり、そのひとつの現れが「他者を理解できる能力」だ、となる。 この節では、もちろん、の「二重構造」が何を指しているのかを説明していくことになる。

3.1 二重構造の把握

教育心理学者の玉井収介は『自閉症』という本のなかで、自閉症の子供達を 明治村 に連れていったときに遭遇した興味深い状況を描写する。その描写の中で、玉井は「二重構造」というコトバを使用するのだ。

玉井 (玉井 1983)は次のような事例を挙げる:

☆ 明治村での自閉症児

ある日彼 [自閉症児]は、明治村にいった。ここには昔、京都市内を走っていた電車がある。展示品であると同時に、広い構内の交通機関の役も果たしている。昔通りの服を着た車掌さんがいて、観光写真に収まってくれる。彼はその車掌さんに、  「京都の市電は廃止になった?」ときいた。 「廃止になったよ」 同じ質問は7、8回つづいた。 彼はいまここで乗ってきたではないかといいたかったのであろう。そういういいかえができないのが、自閉症児の特徴のひとつでもある。 (玉井 1983: 110–111)

明治村の電車

玉井はここに欠けている能力を「ここは博物館である。したがってここで動いているにしてもそれは社会に通用するものではない」 (玉井 1983: 111)という「二重構造」 (玉井 1983: 111)を把握する能力と呼ぶ。

現実世界と仮想世界(自閉症児)

3.2 知覚的空想

哲学者村上は、よく似た現象を観察し、それを(フッサールにならい)「知覚的空想の欠如」と呼ぶ。

わたしたちがもっている知覚的空想の能力は、とりわけごっこ遊びの中で発揮される。なお、「知覚的想像」(conceptual phantasy) はフッサールの言葉である。 (Husserl 2005) (Brough 2005)

☆ ごっこ遊びができない

・・・・・自閉症児は、単に知覚と空想を区別していないのではない。自閉症児の問題は、むしろ知覚的空想と呼ばれる現象が成立していないことである。知覚的空想とは、ままごとやごっこ遊びで作動する働きである (Hua XXII, S. 514–515)。石を知覚しながらケーキと思い見なし、自分自身でありながら、同時にママの役を演じる、という知覚と空想が重なり合う現象である。知覚的空想はごっこ遊びの構造の本質である。 (村上 2008: 111)

ごっこ遊びの要諦は役を演じることである。役を演じるとは、「お客さん」のふりをしながら、それでも自分は「お客さん」でないことを知っている必要がある。非自閉症児は役をらくらくとこなすが、自閉症児にはそれができないのだ、と村上は言う。

☆ 演じることができない

要点の一つは、知覚的空想において、人は自分が演じていることを意識しているということである。あくまで知覚と空想の区別はついている。石は石であって空想のなかでケーキと思い見なしているわけであるから、食べるまねはしても実際にべてしまうことはない。(逆に、多くの自閉症児は食べ物のおもちゃを口に入れてしまう)。 (村上 2008: 111)

言い替えれば、知覚的空想の能力とは、現実世界と仮想世界という2つの世界を、区別して意識した上で、行き来する能力のことである。

☆ 知覚と空想の区別がない

自閉症児の常同行動、そして次に論じるものまねは、観察者からは「ごっこ」すなわち知覚的空想に見えることがあるとしても、実際には彼らは演じているわけではない。アニメのキャラクターと一体化していてもそれは意識的に演じているわけではない。「知覚と空想の区別がない」とは「知覚と空想は差異化しつつ複合し、それに気づく」仕組みがないことを意味している。 (村上 2008: 112)

玉井は自閉症児には「二重構造の把握」の能力が欠如していると言い、村上は「知覚的空想」の力が欠如していると言う。この二つが同じことを言っていることは、直感的に明らかであろう。それをより直截に示してみよう。そのために導入したい考え方が 視点 である。

現実世界と仮想世界(非自閉症児)

3.3 民族誌家の誕生

かくして、民族誌家が論理的に誕生することとなる。 サピア、クーン、ファイヤアーベントなどの提唱する「共約不可能性」は、ノヤヴィドソンの言うように則天去私の共同体を導かない。なぜならば、そのメンバーはすべて 二重構造 を把握できる能力すなわち、知覚的空想力 をもっているからだ。 わたしたちは異文化の視線触発 されて、二つの視線/視点を獲得するのである。 かくして人類学者はフィールドに旅立ち、異文化を理解し、そしてそれを報告するのだ。 その民族誌は必然的に多視点的なものとなる。

4 シャク革命

ジョーンズ革命を通して、民族誌家が誕生したわけである。 キー概念である「視点の二重化」あるいは知覚的空想 をさらに抽象度の高い分析概念の枠組の中にくるんで再提示することによって、第1部を終えたい。 その枠組とは、ウィトゲンシュタインが作りだし、野矢によって洗練されたアスペクト 議論である。 ここに、またもう一つのジャスト・ソー・ストーリーズを御届けしたい。中島敦 にちなんでそれを「シャク革命」(「狐憑」)と呼ぼう。

以降、「アスペクト」と「見え」は相互互換的な語として扱う。また「単相」「複相」という用語における「相」は「アスペクト」の翻訳である。

4.1 存在論の世界

ウィトゲンシュタインのアスペクトの議論から始める。おなじみのウサギアヒルの図だ。 最初にあつかう状況はこの図を見る人が一人きりの状況だ。

うさぎ・あひるの図

君はいまウサギ・アヒルの図を見ているとしよう。君はそこにウサギだけを見る。その時、それはウサギ・アヒルの図ではなく、ウサギの図である。「これはウサギに見える」のではない。あなたの発話は、「これはウサギだ」となろう。

ここでは、「見え」は一つである。野矢はこのような状況を「単相状況」と呼ぶ。

大事なことは、見えが一つであるがゆえに、見えは問題にならないことだ。ちょうど、独我論において視点が一つしかない、あるいは則天去私の共同体において概念図式が一つしかないがゆえに、視点という考え方、あるいは概念図式という考え方自身が問題にならないのと、正確に同じ意味においてだ。

あくまで「これはウサギだ」であり、そこにウサギが存在しているのだ。言い方を代えれば、この場面では存在論が展開されており、認識論は顔を出していないのだ。

存在論

4.2 見えの発生

その場に別の人、ネウリ部落のシャクが乱入する。状況は激変する。視線触発 が起こるのだ。

きみは「これはウサギだ」と言い、シャクは「これはアヒルだ」と言う。

衝突

さて、君とシャクは話を始める。君は言う、「これはウサギだ」と。シャクは言う、「これはアヒルだ」と。君は言うだろう、「これはウサギだ。アヒルじゃない」と。同じようにシャクは言う、「これはアヒルよ。ウサギじゃないわ」と。しばらく二人は途方に暮れるだろう。シャクは君にとって論理空間の外側にいるのだ。語り得ぬ他者である。まだ他者にさえなっていないのだ。この状況は、またお互い単相状況 にいる。

しばらくすると、君は次のように妥協するだろう、「ぼくには、これはウサギに見える。君にはアヒルに見えるのかい」ともの分かりのいい彼女は答えるだろう、「そう、わたしにはアヒルに見えます。あなたにはウサギに見えるのね」と。

認識論

この時はじめて「見え」が登場するのだ。それは同時に私の視点の発見でもある。君はいま言うことができる、「わたしにはこれがウサギに見える」と。同じように、Bも言うだろう、「わたしにはこれがアヒルに見える」と。

この時はじめて「見え」について語ることが可能なのだ。このような状況を、野矢は「複相状況」と呼ぶ。

かくして理解可能な者として他者が登場するのだ。それは分けの分からない欲望の対象ではない。それは欲求の対象である。

4.3 シャクが帰る

シャク革命の物語を 続けよう。 いまやシャクは、シャクの共同体、ネウリの部落に戻る。それは則天去私 の共同体である。 すべての人は、あの図を「アヒルである」として見ている。そこにアヒルがいるのだ。それは存在論の世界なのだ。 さて、さきほどの不思議な出来事を、シャクは共同体のメンバーに語ろうとする。もちろん「見え」の語を使うこととなる。「あの人にはあれがアヒルに見えるのだ」と。同様に 「信念」 の用語を使うこともできるだろう。すなわち、「あの人はあれがアヒルだと 信じている 」と。

信念文

信念文とはこのようにして「複相状況」と「単相状況」の葛藤の中で生まれてくるのである。 1

かくして、民族誌家、 2 シャクが誕生したのだ。不思議な人間について、シャクは自分の共同体で報告しているのである。

4.4 視点の二重化

「アスペクト」と(能力 x)としての「視点の二重化」が重なることは自明であると思うが、まとめておこう。

illegal

シャクは人類学者になる。すなわち、単に異郷の不思議な見えを報告するだけではなく、読者(共同体のメンバー)にその見えを見てもらいたいのだ。この時、シャクがしたことは、「あれをアヒルとして 見てくれ」ということである。あるいは彼らが、あれをアヒルとして見るように努力することである。さらには、自分たちが「あれをウサギとして見ていた」ことに気づいてもらうこと、これが君が人類学者としてすべきことなのだ。「として見る」ことが「視点の二重化」のキーワードであることを繰り返しておく。

5 まとめと展望

さて、第1部『失われた異文化を求めて』が無事終了した。人類学が「強く囲まれた文化観」のもとに再生されたのである。第1部のまとめと、残った問題について述べよう。

5.1 まとめ

次の図を見ながら説明したい。先日示した図の修正版となる。

第1部 全体の流れ

5.2 展望

浜本は「人類学は(失敗しているかどうかはともかく)詩人だ」と言う。 中川は「人類学は非自閉症児だ」と言う。

それでは人類学者の記録、民族誌、と、たとえば旅人の記録、紀行文、とはどうちがうのだろうか?どちらも複相状態の文に満ちている — 「Bはあれがアヒルだと信じている」と。 浜本ならば民族誌と紀行文の違いは量的な違いだと言うだろう。わたしは、2つは質的に違っていると考える。

複相には2つの種類があると、わたしは考えるのだ。

というわけで、第2部をお楽しみに

References

Brough, John B. 2005. “Translator’s Introduction.” In Phantasy, Image Consciousness, and Memory (1898-1925) (Husserliana: Edmund Husserl – Collected Works), xxix–lxviii. Springer.
Danto, Arthur C. 1983. The Transfiguration of the Commonplace: A Philosophy of Art. Reprint. Harvard University Press.
Husserl, Edmund. 2005. Phantasy, Image Consciousness, and Memory (1898-1925) (Husserliana: Edmund Husserl – Collected Works). Springer.
Sellars, Wilfrid. 1997. Empiricism and the Philosophy of Mind. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.
幼児の対人関係. 2001. みすず書房.
村上靖彦. 2008. 自閉症の現象学. 勁草書房.
浜本満. 2007a. “他者の信念を記述すること—人類学における一つの擬似問題とその解消試案.” 九州大学大学院教育学研究紀要 9: 53–70.
———. 2007b. “信念と賭け:パスカルとジェームズ.” 九州大学大学院教育学研究紀要 10: 23–41.
玉井収介. 1983. 自閉症. 講談社.