『文化人類学キーワード(改訂版)』(山下晋司編)(有斐閣双書)『文化人類学15の理論』(綾部(編))中公新書 —- 『文化人類学を学ぶ人のために』米山・谷(編)世界思想社『現代人類学を学ぶ人のために』米山(編)
『人類学のコモンセンス—文化人類学入門』(濱本(編))(学術図書出版)『メイキング文化人類学』(太田・濱本(編))世界思想社
『交換の民族誌—あるいは犬好きのための人類学入門』中川敏、世界思想社『異文化の語り方—あるいは猫好きのための人類学入門』中川敏、世界思想社
この章は寄り道だ。
議論を整理しよう。文化相対主義とは、テーゼ (1)、すなわち「異なる文化に住む人びとは異る世界に住む」を主張する立場である。そして相対主義への批判は、テーゼ (1) が必然的にテーゼ (2)、すなわち「われわれは、異なる文化を理解できない」を導くと主張するのだ。
わたしが展開したい議論は、 (1) を認めた上で、それが必ずしも (2) を導かない、すなわち「異文化理解は可能である」とする議論である。それこそが正しく「文化相対主義」を名乗ることができる立場であろう。わたしは飽くまでテーゼ (1) を認めた上での議論をしたいのである。
この章は、そのような大きな流れの中では、迂回をする章である。しかし、必要な章である。テーゼ (1) に固執するわたしの立場を紹介する前に、テーゼ (1) を捨ててしまった人びとの立場を紹介したい。
テーゼ (1) を認めないとは概念枠組の存在を、すなわち文化の存在を否定する議論である。文化を捨てようとした人々である。 1
寄り道だわたしとは違う形で文化相対主義のジレンマに相対した人々→文化を捨てる
このような迂回を経ることによって、わたしが自らに課したタスクの困難さを理解してもらえると期待する。
「文化を捨てる」方法について述べる、と書いた。じっさい人類学で、「文化を捨てる」のは一つの流行のようになっている。この章はそのような人びとを糾弾することを目的としていない。じっさい、そのような立場は論理的に可能である。 2 わたしがこの本全体で行ないたいのは、「文化」を捨てないでも、人類学は論理的に可能だということを証明することである。 3
[ under construction 本質主義 ] [ under construction つまらん! ]
本質主義一枚岩じゃないっしょ —- つまらん!
ここではおもに哲学者による重要な議論を紹介していきたい。一つはデイヴィドソン自身による議論(「墓碑銘のすてきな乱れ」) (Davidson 1986)、ここで参考にした唯一の人類学的議論である濱本の議論「文化相対主義の代価」 (浜本 1985)、および野矢による議論(『語りえぬものを語る』(野矢 2011))の三つを紹介していきたい。
デイヴィドソンの「概念図式」論文 (Davidson 1984 (1974)) の水源地モデルバージョンの結論は次の通りとなる:(1)コードモデルと水源地モデルを採用する限り相対主義は成立しない、(2)そこに現れる共同体は則天去私の共同体である。
この結論、とりわけ(2)の結論は、われわれの知っている人類の共同体と大きく異なっている。すなわち、この議論はどこかで間違っているのだ。
この結論、とりわけ(2)(則天去私の共同体)という結論はわれわれの持っている人類の共同体の実情と大きく異なっているこの議論はどこかで間違っているのだ
すぐ目につく方法は水源地モデルを否定するやり方である。人類学者たちはテーゼ(1)を捨てるにいたるのだ。
コードモデル・水源地モデルを否定する文化を捨てる
ここではそのような議論を2つ紹介したい:デイヴィドソン自身による議論と濱本の議論(浜本 1985)、そして、野矢による議論である。
デイヴィドソン:「言語というものは存在しない」浜本:「ズレ」野矢:「規則論」
デイヴィドソンは「概念枠組」論文 (Davidson 1984 (1974)) (Davidson 1984 (1974))で決して独我論を主張したわけではないことを繰り返しておきたい。デイヴィドソンはテーゼ (1) (あるいは「概念枠組」)を認めると、おかしな結論になる(テーゼ (2))、 4 だから概念枠組という考え方は間違っている、と主張しているのだ。それでは、デイヴィドソンは、言語をどのようなものと考えているのだろうか。
背理法を用い、 (1) を認めるとおかしい結論になるそれゆえ (1) は間違っている
テーゼ (1) (ピジョンホール相対主義)を支えているのが、二つのモデル(コードモデルと水源地モデル)すなわち、デイヴィドソンは二つのモデルを否定するそれでは、彼はどのようなコミュニケーションのモデルをもっているのだろうか?
彼の言語観を表わしているのが「墓碑銘のすてきな乱れ」という論文 (デイヴィドソン,D. 2010a) (デイヴィドソン 2010) である。この論文は、その過激な宣言、「言語などというものは存在しない」 (デイヴィドソン,D. 2010a: デイヴィドソン 2010) (170: デイヴィドソン 2010)で有名である。言語と文化を同一視しているこの論文の脈絡で言えば、デイヴィドソンは「文化などというものは存在しない」と宣言していることになる。
「言語などというものは存在しない」
[ under construction マラロップ夫人 ]
言い間違いの例を挙げる(マラロップ夫人)それでも、けっきょくはコミュニケーションが行なわれる
簡単にデイヴィドソンの議論の筋をまとめると次のようになる。まず、ある特定の言語に対する理論(規則)を彼は二つに分ける:事前理論と当座理論である。言語がじっさいに発話される以前から話し手・聞き手が持っているのが事前理論であり、じっさいに発話される、すなわちコミュニケーションの場で発動する理論(その場で作り上げられている理論)を当座理論 5 である。ちなみに、これまで言語に関して議論されていた水源地モデルは、事前理論に関してであった。
事前理論:あらかじめ(共有されている)理論当座理論:その場で、コミュニケーションが成立するために作られる理論
彼の導き出す結論は、「言語というものは存在しない」という挑戦的な言い方であらわされる。すなわち、事前理論はない。すべて当座理論だけで会話は達成されていくのだ、ということである。
この二種類の理論は、 D・スペルベルとD・ウィルソン (スペルベル と ウィルソン 1999) (スペルベル、ウィルソン 1999)の言う「コードモデル」と「推論モデル」に相当すると考えていいだろう。コードモデルは、わたしの言うところの「コードモデル」に正確に対応する。共有された暗号手帳によるメッセージのエンコード・デコードとしてコミュニケーションを見る見方である。推論モデルは、彼らが H・P・グライスから取り入れた考えであり、会話の際にコードモデルを補う役割をするモデルである。例えば、「この部屋は息苦しいね」という発話を、「窓を開けて欲しい」という要望と解釈する際に援用されるモデルである。 6
事前理論:コードモデル当座理論:推論モデル
コミュニケーションは、コードモデルと推論モデルとによって行われるコードモデル:わたしの「コードモデル」推論モデル:その場でコードモデルを補う役割をする
「この部屋は息苦しいね」→「窓を開けて欲しい」「またテストを落ちたのか。お前はほんとうに天才だ」→「天才じゃない。ばかだ」
たしかに、事前理論があるかのような状況がほとんどだが、それはたまたまであり、論理的には当座理論だけでじゅうぶんだ、これが彼の結論である。 7
「言語というものは存在しない」事前理論はないすべて当座理論のみがある
デイヴィドソンは(当該の論文で彼自身が引用しているが)次のハンプティ・ダンプティと同じことを主張しているようである。
‘But “glory” doesn’t mean “a nice knock-down argument,”’ Alice objected. ‘When I use a word,’ Humpty Dumpty said in rather a scornful tone, ‘it means just what I choose it to mean – neither more nor less.’
☆
「だけど “glory” は「とても素敵な決定的な議論」って意味じゃないわ」とアリスが言った。ハンプティ・ダンプティは怒ったように言った。「わたしが言葉を使うとき、その言葉は私が思うとおりの意味をもつのだ。それ以上でも以下でもない」と。 (Through the Looking Glass by Lewis Carroll)
濱本の「代価」論文(浜本 1985) (濱本 1985)は、テーゼ (1) を認めない立場である。それでは、「文化相対主義の代価」の議論をなぞろう。
ブロックは、相対主義では社会の変化が説明できないという。なぜなら、(濱本の引用を引用するが)「あらゆる認識が、異義をとなえるべき対象にあらかじめ適合的に形づくられている以上、新たな見なおしなどというものは不可能だから」 (浜本 1985: 111) ((Bloch 1977: 281))だ。
社会は変化する、そのことを説明できないなぜなら(相対主義によれば)異義を唱えるべき社会に言語が適合的だからだ
濱本は、ここに現れている言語観を「奇妙な」(浜本 1985: 111)ものであると言う。そして、それこそがブロックの議論の弱点となるのである。その奇妙な言語観とは、「現実についてある特定の仕方以外で語ることを許さず、現実をある唯一のしかたでしか提示できないような概念なり言語」(浜本 1985: 111)があるという考え方である。
ブロックの言語観がおかしい現実をある一つの仕方でしか提示できないような言語はない
すなわち、濱本は、現実をある一つの仕方でしか提示できないような言語はない、と主張するのである。
濱本の言語観を表わすキーワードは「ズレ」である。彼は言う:「言語が自らのうちに自分自身との「ズレ」を含み、また不断にそうした「ズレ」を生みだすことによって特徴付けられる体系である、という言語に関するきわめて基本的な事実」 (浜本 1985: 112)があるというのだ。
言語はつねに自分自身とのズレをもっているわたしには「自分自身とのズレ」はよく分からない
正直な話、「何ものかが自分自身とズレがある」という言い方はわたしには理解できない。あるものが自分自身から「ズレ」てしまったら自分自身ではあり得ないだろう。その理解への一つの鍵が、濱本の次のことばである:「言葉の『本来の用法』だとか『文字どおりの意味』だとかを仮定したり確定しようとする努力がつねに困難に陥るという事実」 (浜本 1985: 112)が、ズレの存在の一つの証拠だと彼は言う。ここでは、とりあえず、言葉の意味は(「意味」がなにであれ)その場その場で違ってくる、といった曖昧な捉え方をしておこう。
毎回、意味が違う「本来の用法」とか「字義通りの意味」は無意味である
濱本の「代価」(浜本 1985)に戻ろう。彼は言語はつねに自分自身とのズレを内包していると主張した。この主張はあいまいだが、デイヴィドソンと重ねあわせて理解することはそれほど濱本の意図と違ってはいないだろう。まずはデイヴィドソンの極端な議論を薄めて、みよう。事前理論もあるが、だいじなのは当座理論である、と。そのようにデイヴィドソンの議論を飼い馴らした上で、濱本の議論をつぎのようにまとめることができる— すなわち「ずれ」とは事前理論と当座理論のずれなのである。 8
事前理論は重要ではない、当座理論だけが重要だ濱本の「ズレ」とは事前理論と当座理論のズレのことを言う
濱本は、このズレを、経験論的に詩人を持ち出して説明する。もし、ブロックの言うように一つの事象に対して一つの言いまわししかないような言語だけわれわれが持っているのならば、この世に詩人などいなくなってしまうだろう、と。すなわち、彼によれば、詩人の存在こそがこのズレの証拠なのである。 9
詩人(濱本)マラロップ夫人(デイヴィドソン)「わたしは子育てのベランダだ。すでにエクスパンダーの域にたっしている。きみらとはラベルがちがう。いわば、スペアタイヤと言ってもよいだろう」(『パタリロ』)
野矢は、わたしの辿っている道、すなわち、独我論を認めた上で「語りえぬ他者」を語ろうとする道を辿る先人である。独我論の導く結論から脱出しようとするための彼の戦略は多岐に渡る。 10
経験の一部は言語化されない→これが独我論から他者/異文化を導く鍵となるむむむ?
現在の文脈でとりあげるべき野矢の戦略は、彼の水源地モデルの批判である。
「規則が共有される」ことのノンセンスさ
彼はコードモデルそして水源地モデルが前提とする規則観を、ウィトゲンシュタインの規則論を引きながら批判するのである。コードモデルそして水源地モデルが前提とする規則観とはつぎのようなものであるー「ある規則がある、そしてある実践がある。その実践がその規則にのっとったものであるかどうかを、実践と規則を照らしあわせてわたしたちは判断する」。ある実践が規則にのっとった実践である、という判断を語る仕方、言わば「規則の実在論」が間違っていると、野矢は言うのだ。
規則があり、規則にのっとった実践がある実践が規則にのっとったものかどうか判断できる —- この考え方が間違っている
[ under construction ウィトゲンシュタイン ]
「1,2,3,」と数字を挙げていけ「以下同様」とは何か「(人間や共同体を離れて)規則がどこかに存在する」という考え方のおかしさ「規則に従う」とはどのようなことか
野矢の議論は説得的である。じっさい、野矢の議論を踏まえてはじめてわたしは、デイヴィドソンの「墓碑銘のすてきな乱れ」の議論を、それなりに理解できたような気がしたのである。
さまざまな対応を挙げたが、三つの議論(デイヴィドソン、濱本そして野矢の議論)に共通することは、テーゼ (1) を否定する、すなわち、二つのモデル(コードモデルと水源地モデルと)を否定する、という点である。
テーゼ (1) を否定する、すなわちコードモデルと水源地モデルとを否定する
タンバイア (Tambiah 1985) 「東南アジアにおける銀河政体」という論文の中で、東南アジアにおける(伝統的な)国家は西洋近代のように国境によって明確に区分されるような構造をとっていないと主張した。東南アジアの国家は、中央に光源(たとえば王宮)があり、その光の届く範囲を国家とする、そのような国家像を呈しているのだという。光は光源から離れればじょじょに衰える。それと同じように東南アジアの国家には明確な境界は存在しないのだ、と主張した。
近代西洋の国家:明確な国境をもつ東南アジアの伝統的国家:明確な国境をもたない(光源と光の届く範囲)
[ under construction ]
・・・書いててあまりいい比喩ではないような気もしてきたが・・・
あまり踏ん切りがよくない。わたしはピジョンホールホールが好きなのだ。
いさぎよくない相対主義はピジョンホールホールであるべきだ
以上の濱本・デイヴィドソン・野矢の議論を紹介してわたしが行ないたかったのは、「相対主義の代価」議論の大勢はテーゼ (1)、すなわちコードモデルと水源地モデルの否定にあるということを示すことである。すなわち、それらの議論は文化というものの存在を否定するのである。
わたしは人類学者として、「文化」あるいは「概念枠組」という考え方を固持したいのだ。それゆえ、テーゼ (1) を否定しない。すなわちピジョンホール相対主義の立場をとる。そして、その立場を取ることが、決してテーゼ (2)、すなわち異文化理解の不可能性を導かないことを示すことなのだ。わたしは、それゆえ、この論文でテーゼ (1)の正しさを積極的に証明しているわけではない。そうではなく、テーゼ (1) を正しいと仮定しても(文化相対主義の立場をとっても)異文化理解が可能であることを証明したいのである。