いないことが分からない—自閉症と独我論

Satoshi Nakagawa

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1.1 これまで

わたしの目的は文化相対主義の再興である。文化相対主義のテーゼは以下の通りである:「異なった文化に属する人は異なった世界に住んでいる」と。これをテーゼ (1) と呼ぶ。

異なった文化に属する人びとは異なった世界に住んでいる

そのような文化相対主義は二つのモデルを前提とする。一つはコードモデルであり、もう一つは水源地モデルである。出発点として選んだこの文化相対主義を「ピジョンホール相対主義」とわたしは呼んだ。この本の目的は、すなわち、ピジョンホール相対主義バージョン2を作ることである。

前提として2つのモデル:コード理論と水源地モデルこの本の目的:ピジョンホール相対主義 Ver 2.0 を作ることだ

第3講義のデイヴィドソンの議論は次の通りである:相対主義の言う「他の概念図式」は、相対主義の前提に立つ限り意味をなさない。だから「概念図式」議論はまちがっている。

相対主義の前提に立てば「他の概念図式」が存在し得ない「概念図式」概念自身がないとしか言い様がない

裏デイヴィドソンの議論は次の通りである。相対主義の前提、すなわちコードモデルと水源地モデルに立つ限り、概念図式は一つしか認識しえない。相対主義者の議論は、それゆえ、一つの概念図式を共有する共同体、すなわち則天去私の共同体に辿り着くことになる。 1

相対主義の前提に立てば(コードモードと水源地モデル)できあがる共同体は則天去私の共同体である

わたしは言う、それはウィトゲンシュタインの言う独我論に重なるのだ、と。それはウィトゲンシュタインの独我論の共同体バージョンなのだ、と。

則天去私の共同体とはウィトゲンシュタインの独我論の共同体バージョンに他ならない

ウィトゲンシュタインの独我論も裏デイヴィドソンの言う「則天去私」の共同体も(ほぼ)正しい(見逃している部分がある)

1.2 これから

この章から、他者を探す旅に出ることになる。その旅は、概ね、次のような議論となる。まず、(1) 独我論と自閉症が構造的に同じものであることを論証する、そして (2) われわれが持っていて自閉症児に欠けている能力(他者を見つけるきっかけとなる能力)をさがしだす。この能力を「能力 x」と呼ぼう。わたしたちは「能力 x」をピジョンホール相対主義に導入したいのだ。私の相対主義、独我論に能力 x を足した相対主義(それを「ピジョンホール相対主義改」と呼ぼう)は、他者を見つけることのできる相対主義となるのである。

独我論/則天去私の共同体プラス能力 x

独我論は自閉症に重ね得る(構造的に同一である)われわれは自閉症ではないわれわれと自閉症児とどこが違っているのか(能力 x がある)

この章では以上の作戦のうち、 (2)、すなわち自閉症と独我論・則天去私が同一の構造をもっていることを目標にして、議論を進める。

なお私の視点には医療者、治療者の視点はないことを断わっておきたい。ちょうどヤコブソンが「失語症」の症状から言語の特徴を示したように(jacobson-j-1977?)、わたしは自閉症の症状から心の特徴を示したいのだ。

ヤコブソンが「失語症」から言語の特徴を見ていったようにわたしは「自閉症」から心の特徴を見ていきたい

2 独我論と自閉症

それでは第一のタスク、ウィトゲンシュタインの独我論、あるいは裏デイヴィドソンの議論から導かれる則天去私の共同体と、自閉症の構造的同一性について示してみよう。

(理論的に)ウィトゲンシュタインの言語論的独我論(経験的に)自閉症

結論を先に述べておこう。独我論を自閉症に重ねることの二つに共通する特徴、「否定性の欠如」にあるのだ。

「否定性の欠如」という共通点

この節は「否定性の欠如」という新しい語を、独我論と自閉症に沿って説明していくという構成をとる。

2.1 他者の不在

現象的に独我論と自閉症の共通点はすぐ見えるだろう。それは他者の不在である。

他者の不在

自閉症児には他者がいないだけではない。そこには「私」すらいないのである。クレーン現象をその典型例として挙げることができるだろう。クレーン現象とは[ under construction ]

村上は言う:

クレーン現象を行う自閉症児の場合には、非人称的欲求はあるけれども、行為主体あるいいは行為の統覚はない、と先にまとめた。これは、言いかえると、超越論的主観性はあるけれども、行為主体にも想定されるはずの純粋自我はない状態である。欲求を含む体験の統一、束は成立しているが、そこに能動性の極はない。それゆえ、あたかも自我が傍観しているかのような一見矛盾した状態が生起している。 (村上 2008: 159)

自閉症児には、独我論者がそうであるように、「他者」のみならず、「私」もまたいないのである。 2

他者がいないわたしもいない

2.2 否定性

村上はこのような人格不在の原因を、自閉症児特有の「否定性の欠如」に求める。

人格の不在は自閉症児の「否定性の欠如」に起因する

村上の議論のキーワードであるこの「否定性欠如」という言葉を確認しておきたい。なお、村上は「否定性」と「欠損」の感覚を別々に論じているが、(村上 2008: 90) ここでは、二つを特に区別をしないで使用していきたい。

「否定性の欠如」あるいは「欠損感覚の不在」ともに否定が重なっているので、誤解されやすい考え方である。ゆっくりと説明したい。

まず、第一段階の否定、すなわち「否定性」そのもの、あるいは「欠損の感覚」について説明しよう。強調しておきたいのは、これらは定型発達児(あるいはわたしたち)において見られる、言わば「正常」な状態である、ということである。

2.2.1 裏側

わたしたちが最も慣れ親しんでいる否定性は風景の中の否定性である。わたしたちが見ている風景は(いささかパラドキシカルな言い方となるが)否定性に満ち溢れているのだ。ここにペットボトルがある。裏側は見えない。でも裏側があることは知っている。散歩をする。曲がり角が見えてきた。曲がり角の先がどうなっているかは見えない。しかし、曲がり角の先があることは、わたしたちは知っている。「裏側」「曲がり角の先」、これらを否定性と呼ぶのだ。

外的地平には「裏側には想像できな部分・下書きできないものが残る」という欠損の意識が伴っている。このわからない部分、欠損が残り続けない限り、裏側は裏側とはいえない。定型発達の空間構想において予測し得ない未来が残るのと同じである(・・・・・)。本来的な欠損性、死角が空間の地平性、奥行き感を支えている。裏側という構造の成立とともに、欠損という形で現実を囲い込み、規定することができる。 (村上 2008: 90)

2.2.2 人格

否定性の例として「人格」を挙げることができる。人格は、否定性を契機に生まれるのである。村上の言葉を引用しよう:

対人関係においても「他者の心は知り得ない」という否定性が、「私」と「あなた」という奥行きを可能にしている。他者の体において、図式化不可能な余剰あるいは欠如を「人格」によってふたをするのである。 (murakami-autism? 171)

人格は、あるいは他者は、「分からない」者として、すなわち否定性として現れるのである。

他者は、否定性として生まれるというこの議論は、第1部で言及したダンゴムシとその研究者(森山)の関係に当て嵌めることができるだろう。最初、森山はダンゴムシのすべての行動を因果論的に説明できた。この時点ではダンゴムシに心は、あるいは人格はない。しばらくして、ダンゴムシが予想し得ない行動を取りはじめた。この時、森山はダンゴムシに人格を付与したのだ。

他者とは「分からない」者、否定性なのである。

2.3 否定性の欠如

わたしたちの世界に否定性が満ち溢れている、という言い方は理解してもらっただろう。見えない裏側、分からない他者、そのような否定性をになった存在者がわたしたちの世界には多く住みついているのだ。

そして、村上は言う、そのような否定性が欠如しているのが、自閉症児の世界なのだ、と。

2.3.1 裏側の欠如

見えない裏側」(わたしたちならば「見えない」というだろう裏側)は、自閉症児にとっては、端的に存在しないのだ。裏側発見する必要がある。

わたしたち:見えない(否定性が存在している)自閉症児:存在しない(否定性が欠如している)

ガーランドにとって、見えないものは端的に存在しない。奥行きと裏側が存在しない。・・・物がタンスの下に入ってしまったときには、端的に消え去った・存在しなくなったということになる。 (村上 2008: 村上 2008) (88: 村上 2008)

フッサールははっきと示していないようだが、定型発達の場合、「裏側に移動して奥行きを確認する可能性」は実際に試してみなくても良い。つまり空想において体が作動する可能性を持っていれば、それでいつのまにか奥行きを構成できるのである。自閉症児の場合は、実際に裏側に移動しなくてはならない。つまり空想身体の作動がうまくいっていないことがわかる。 (村上 2008: 86)

こう述べた後、村上は印象的なもと自閉症児の記述を引用する。

私は、「向こう側」と「内部」を発見したのだ。それはまさに大発見だった。歓喜と悲嘆が半々、本当に息をのむような驚きだった。(. . .)私は [隣家の庭にいた猫の]ヒギンズを抱き上げようと思った。そのためには、枝や葉をかき分けて生け垣の下に入らなければならなかった。眼を上げると、私の家の庭と隣家の庭を分けている生け垣が見えた。そしえそのエリア全体を見渡した。(. . .)すべてのものの裏側には何かがあるんだ!(Gerland 1997. 邦訳一〇五〜一〇六頁。一部改訳) (村上 2008: 86)

自閉症、あるいはアスペルガー障害の人たちは、否定性が欠如しているのである、と村上は言う。

否定性こそが奥行きを可能にする否定性こそが「人格」(見えない心)を可能にする自閉症には否定性が欠如している → のっぺらぼうの、影のない風景が広がる

2.3.2 独我論の風景

村上の描く自閉症児の裏側のない風景が、ウィトゲンシュタインの独我論の導く純粋な実在論と重なることは贅言を要しないだろう。純粋な実在論には否定性が欠如しているのである。

独我論においては他者の視点はない。他者の視点がなくなれば、「自分の視点」さえもなくなる。視点がないのだから、「見える」という語には意味がなくなる。そして「見えない」という語にも意味がないのだ。「見えない」のではなく、端的に「存在しない」のである。独我論者の前に広がる世界は、純粋実在論となるのである。

純粋な実在論影がない、のっぺらぼう「見える」のではなく、「ある」のだ「見えない」部分はない —- 自閉症にも同じことが言える

自閉症、あるいはアスペルガー障害の人たちは、否定性が欠如している、と村上は言う。 [ under construction ]

否定性こそが奥行きを可能にする否定性こそが「人格」(見えない心)を可能にする自閉症には否定性が欠如している → のっぺらぼうの、影のない風景が広がる

これは野矢による独我論の描写ではない。村上による自閉症児の前に広がる純粋実在論の風景の描写である。

2.3.3 人格の欠如

人格は否定性を契機に発生するその否定性こそが自閉症児に欠けているのだ

(定型発達において)他者の心の役割「他者の心は知り得ない」という否定性図式化不可能な欠如を「人格」によって蓋をしている

そして、村上は言う、自閉症児にはこのような意味での否定性が欠如しているのだ、と。繰り返そう、わたしたちが「他者は理解できない」と言う時、他者は否定性として存在しているのだ。自閉症児にはそのような他者がいないのである。

自閉症:否定性が欠如している独我論:否定性が欠如している

[ under construction ]

2.4 否定性の欠如としての独我論

これまでのウィトゲンシュタインの独我論の議論を、村上の言葉を使って説明したい。

独我論ではない立場として、ふたたび四畳半独我論を考えてみよう。 3 そこには他者存在する。他者は「分からない者」として存在するのだ。

他者は「分からない者」として存在する他者は「否定性」であり、「否定性」は存在するのだ

この他者こそが、村上の言う「否定性」である。四畳半独我論者は言う、「見えない」と。その言明には、他者の視点が含意されている。「モノの裏側は見えない。しかし、他の視点からは見えているのだろう」と。

「裏側が見えない」とは他の視点からは見えるだろう、ということだ

四畳半独我論に「否定性」は「他者」として存在しているのである。「他者」は「わたしの知り得ない人」、「わたしの持っていない視点を持っている人」なのだ。

否定性は、他者として存在しているそれは「わたしの知り得ない人」「わたしの知り得ない視点を持つ人」

ウィトゲンシュタインの独我論には、否定性担う他者は存在しない。彼の独我論を説明する際に、他者とは論理空間の外部であると言った。他者が論理空間の外部に位置するのではない。それでは否定性としての他者が存在することになる。ウィトゲンシュタインの独我論の中では、他者はいないのである。それが、「他者とは論理空間の外側そのものだ」という命題の意味である。論理空間の外側とは「語りえない」ものである。論理空間の中にいるわたしたちが論理空間の外を見ているという構図を描いてはいけないのだ。それでは、否定性としての他者が存在することになる。

他者は論理空間の外側(語りえないもの)そのものである —- 「他者が論理空間の外側にいる」のではない→ 否定性としての他者がいることになるわたしたちが空間の内側にいて、外側の「分からない」他者を見ている、という構図は間違っている

デイヴィドソンの「概念図式」の議論を思い出してほしい。概念図式の内側にいる人間には、概念図式の外側、すなわち相対主義者の言う「他の概念図式」を「概念図式」として理解できないのだ。概念図式は一つしかないのだ。その外側は知り得ないのだ。

自分の概念図式の外側に他の概念図式がある、わけではない自分の概念図式しか分からない —- 相対主義者:否定性は異文化として存在している裏デイヴィドソン(則天去私の共同体):否定性(異文化)は存在しない

通常の相対主義においては否定性は異文化として存在している。デイヴィドソンの議論によれば、(相対主義の前提を引き受ければ)否定性は存在し得ないのだ。なお、

2.5 まとめ

脱線がはいってしまったので、この節の結論を繰り返しておきたい。

村上は「否定性の欠如」を、しばしば「欠損感覚不在(あるいは「欠如」)」という言葉でも表わしている。「否定性」の方が論理的なにおいがして私は好きだが、「欠損の感覚」は説明的で、この言い回しも捨て難い。定型発達の人にとって「欠損の感覚」は必須のものである。彼らは「なにかが欠けている」という感じているのである。独我論のパラダイム、あるいは自閉症児の風景の中では、「欠けているものは存在しない」のだ。

否定性の欠如:「ない」がない欠損の感覚の不在:「なにかが欠けている」という感覚がない

3 語りえないものに向けて

この節は、いささか大きな回りみちである。この節で、わたしは「欠損の感覚の欠如」に訴えて、野矢の相対主義への議論、独我論打破する議論を紹介したい。 [ under construction ]

「欠損の感覚の欠如」に基づいて、野矢の独我論打破の道筋を追う —- 「独我論を打破する」ということがどのようなものかを把握して欲しいのだただし、わたしは野矢の議論には従わない

3.1 欲求と欲望

野矢の議論をまとめよう。意味の他者は論理空間の外側として、あるいは「謎」として、あるいは「欲望」の対象として存在する。

野矢は「欲求」と「欲望」の差について語る。欲求とは欠乏(あるいは欠損)の対象を知っているときに、抱く感情である。それに対して、欲望を抱く人は、欠乏(あるいは欠損)の対象を知らないのである。

欲求:欠乏の対象を知っている→欠損の感覚がある→否定性が存在している欲望:欠乏の対象は未知である→欠損の感覚がない→否定性が欠如している

そして、独我論において、「他者は欲望の対象である」と野矢は言う(野矢 1995: 108)4 それは「欲求」ではない。「欲求」ならば、われわれは何を欲求しているのかをあらかじめ知っている。それは手持ちの論理空間の中に位置づけられているのだ。「欲望」はそうではない。「欲望が欲望として私を襲うかぎり、それは私の思考を、すなわち私の手持ちの論理空間を越えているのである」(野矢 1995: 108)

他者は欲望の対象であるそれは欲求の対象ではない

意味の他者は数学の謎と同型である。それが解かれたとき、手持ちの論理空間は変質することになるのだ。

意味の他者は数学の謎と同型であるそれが解かれた時、手持ちの論理空間は変質する

野矢は飽くまで個人を考えている中川はゲームを、文化を考えているのだ

[ under construction ]

3.2 数学の問題

他者は「語り得ない」者である。それはとしてわたしたちに立ち現われる、と野矢は言う。それは、(野矢は続ける)数学の問題のように立ち現われるのだ、と。

数学の問題は事実調査の問題と異なるきわだった特徴をもっている。事実調査の問題とは、論理空間に用意された可能な命題の真偽を確定することにほかならない。たとえば、「このキノコは食べても死なないだろうか」と問う。可能性としてはどちらの可能性もある。・・・ ++

事実調査の問題とは違う事実調査とは論理空間の中の命題の真偽を決定することだ「このキノコは食べても死なないだろうか」はそれである。真か偽かどちらかであることを知っている。どちらであるかを知らないだけだ。

事実の問題:キノコに毒があるかどうか数学の問題:論理空間の外側

[ under construction 教科書の問題 ]

論理空間の内側:教科書の問題、新しい素数(これまでに見いだされたなかで最大の素数を作る)[コンピュータをうごかしっぱなしにすればいい] 論理空間の外側:新しい超越数の発見(パイや e の他に超越数を発見する)

[ under construction ゴールドバッハの予想 ]

++ 他方数学の問題は論理空間の設定そのものに関わっている。数学において、可能であることと真であるころは等しい。それゆえ、ある定理の真理性が証明されるということが、たんなる計算問題とは異なり、ある意味で知の拡大と呼びうるものであるならば、それは、論理空間そのものが拡大されたことを意味する。数学の問題は手持ちの論理空間のもとでは謎でしかない。それは証明されるまで意味不明だである。たとえばゴールドバッハの予想 ・・・ [103/4] を位置づける論理空間をわれわれはもち合わせておらず、それゆえいまの段階ではゴールドバッハの予想は意味不明なのである。++

なお、ゴールドバッハの予想とは、いかなる 0 以外の整数 x y z n に対しても n > 2 ならば、等式 x^n + y^n = z^n は成立しないというものである。

論理空間の中ではなく論理空間そのものの拡大にかかわるのだ

++ 事実調査の場合には、意味の確定した命題の真偽が問われたが、ここでは意味そのものが問われる。それゆえ、数学の問題のひとつの形式は「私に意味を与えてみよ」というものとなる。その挑戦、その誘惑の声に引きずられて、数学者は論理空間そのものと格闘する。

「私に意味を与えてみよ」というものである

私は、意味の他者のあり方において、数学の問題のこうしたあり方はたんなる比喩以上の同型性をもっていると考える。他者もまた、謎として、挑戦として、そして誘惑として、私の前に現れるのである。(野矢 1995: 103–104)

数学の問題のあり方と同型である他者もまた、謎として、挑戦として、そして誘惑として現れるのだ

3.3 新しい隠喩

野矢の比喩はさらに続く。 [ under construction あたらしい隠喩 ]

古い隠喩:論理空間の中での営為新しい隠喩:論理空間の拡大

野矢のこの議論が浜本の「詩人」議論を思い起こさせることは、意味があるだろう。 [ under construction ]

新しい翻訳

明治期の翻訳:「社会」その他

3.4 野矢の議論への批判とわたしのやり方

[ under construction ]

欲求と欲望まではよい:「他者という謎は欲望の対象である」数学の例:そうかもしれない比喩や翻訳:むむむ —- 「他者」は数学の問題である、比喩の創造である数学の問題は解かれてきた、比喩は作られてきただから他者も解かれる

マンデルバウムが指摘しているようにクーンは「革命」を改宗 (conversion) の比喩でしか説明できていない。

けっきょく「他者は解き得ない謎だ」しかし「他者は解き得てきた」「どのように!?」「何が原因なのか」については述べていない「言語は論理的に不可能だが、じっさいに言語はある」という議論「相対主義は論理的に不可能だが、じっさいわたしたちはそうしている」という議論に過ぎないけっきょく —- そのために「独我論」と「自閉症」を重ねたのだ能力 x を求めようもちろん、それは「他者を理解できる」という能力であってはならないそうではなく、「他者を理解できる」能力を導きだすような能力である

[ under construction 能力 xを求めて ]

4 まとめと展望

4.1 まとめ

回りみちが多かったので、もう一度これまでの道程をまとめておこう。

ウィトゲンシュタインの独我論裏デイヴィドソンの「則天去私」の共同体ともに、議論は正しい(ただし、見逃されてきたことがある)

独我論と自閉症は構造的に同一である← 「否定性の欠如」「欠損感覚の不在」

4.2 展望

[ under construction 能力 x ]

  1. と (2) が正しければわたしたちは全員が自閉症となろうなにか見逃されてきたことがあるのだそれは自閉症児に欠けている能力 (x) である

References

村上靖彦. 2008. 自閉症の現象学. 勁草書房.
酒井保. 2001. 自閉症の子供たち—心は本当に閉ざされているのか. PHP選書 164. PHP研究所.
野矢茂樹. 1995. 心と他者. 勁草書房.