第6章 世界は舞台か?―ふりをすること

Satoshi Nakagawa

All the world's a Stage,---,As You Like It --- by Shakespeare
An actress is not a machine,,but they treat you like a machine.,---,Marilyn Monroe

1 はじめに

1.1 これから

この章では、「ふりをする」ことをテーマに議論を展開していきたい。

西村が『遊びの現象学』(西村 1989)で展開した「ふりをする」ことに関する2つの問題である。

第一は西村の仮象世界論への反論に答えることである。

第二は生活世界に「ふりをする」、あるいは少なくとも「演じる」ことを持ち込むサルトルやゴフマンの議論への西村の反論を受けて、より詳細に生活世界についての議論を深めることである。

2 仮象世界論

虚構論/ゲーム論において、わたしは基本的にウォルトンの議論に基いて議論をした。

「フィクションを怖がる」 (ウォルトン 2015)」の載った論文集の巻末の西村の解説によれば、この論文におけるウォルトンの議論は「装いをあらたにしただけの古い仮象世界論だ」【正確な引用】(西村 2015) というのである。西村の議論は、ウォルトンの議論が古い議論の蒸し返しだ、というだけではなく、それは間違っているという。

2.1 仮象世界論とは何か

『遊びの現象学』の中で、西村はかなりの紙数をさいて仮象世界論を紹介している。

2.2 準恐怖は恐怖とは関係しない

それでは西村自身の議論はどのようなものか。「準恐怖」を例にとろう。ウォルトンは、そしてウォルトンにならってわたしたちは、「準恐怖」ととりあえず名付けた感情を、ほんものの恐怖との関連で、なんとか説明しようとした。それが(この名前が適当かどうかはともかく)西村の言うところの仮象世界論として結実したのである。

西村はいう― 「準恐怖」は(西村はこの語を使用していないが)、恐怖の変形ではない。それは純粋にそれ自身として成立する一つのカテゴリーなのだ、と。

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厳密にいえば、それは恐怖ではない。すでに述べたように、それは、たとえば「スリル」とか「サスペンス」とかいうべき感情や経験として、それ自体、ひとつの快なのである。現実の受難ではなく、悲劇がわれわれに喚起する感情とは、おそらく、悲劇に固有の「描写」がわれわれに喚起する、まさに「悲愴」とか「崇高」とか「けだかさ」とでもいうほかないようなかたちで純化された、独特の感情効果であるだろう。グロースも正しく見きわめていたように、厳密にいえば、それは現実生活ではけっして経験されず、ただ悲劇を見るばあいにのみえられる、独特の感情効果であり、美的な快なのである。 (西村 1989: 217218)

西村の仮象世界論の批判がそれなりに説得力を持つものと言えるが、代替物として提出された「準恐怖」や悲劇の

3 生活世界の役割

西村はサルトルの『存在と無』の中の、「キャフェのボーイ」がまるでボーイを演じているようだ、という一節に注目する。果たしてわたしたちは生活世界の中で「役割を演じて」いるのだろうか、と。この疑問は、すなわち、ゴフマンの自己呈示の議論に対する疑問ともなりうる。

4 日常生活で「演技をする」

4.1 ルック

4.2 レッダ

4.3 ハイパーインフレ

5 ミメーシス

6 視点

認知心理学から

ウォルトンK. 2015. 「フィクションを怖がる」. 分析美学基本論文集, 編集者: 西村清和, 30134. 勁草書房.

西村清和. 1989. 遊びの現象学. 勁草書房.

―――. 2015. 「解説(『分析美学基本論文集』)」. 分析美学基本論文集, 編集者: 西村清和, 41133. 勁草書房.