アイロニーと隠喩

Satoshi Nakagawa

1 はじめに

1.1 これまで

1.2 これから

2 アイロニー

この節では、引用論を修辞 (rhetoric) へと応用していく。とり挙げるのはアイロニー、およびそれに関連する限りでのパロディについて述べたい。

2.1 アイロニーは嘘ではない

アイロニーはしばしば「反語」と訳される。また、アイロニーの通常の辞書的定義は「じっさいに喋ったことの反対を意味すること」((Cooper 1992: Cooper 1992) (239: Cooper 1992))とされる。しかし、このような理解では、アイロニーの真髄はまったくつかめない。たしかに一面的にはアイロニーは「喋ったことの反対を意味して」いるかもしれない。しかし、それでは、嘘と区別がつかなくなってしまうだろう。

そうではなくて、ある種の時間差を置いて、解釈が反転するのがアイロニーである。

2.2 エコーとしてのアイロニー

この時間差をおいての解釈の反転の論理的なメカニズムを分析したのが、菅野((菅野 2003) (菅野 2003))である。

彼は (スペルベル と ウィルソン 1999) (スペルベルとウィルソン 1999)にのっとり、アイロニーを反響(エコー)と捉える。菅野の例を使おう― ひどい雨空を見上げて「いやはやなんていい天気だ」と発話したとしよう(??? 128)。これは明らかにアイロニーである。ここでエコーされているのは、たとえば(昨日の時点で)「明日はいい天気だ」と言った(今その場にいる)友達のかもしれない、あるいはテレビに出てきた天気予報士の声かもしれない。1 菅野は言う:「アイロニーを構成するのは、ある発言をおうむ返しに反復するというタイプの言及、すなわちこの説の命名の由来ともなった『反響言及』(echoic mention) である」 (??? 129)と。

2.2.1 引用としてアイロニー

じっさいのアイロニーを見るとき、それが(過去の発言の)正確なエコーではないことを指摘した上で、菅野はさらに分析を一歩すすめる― 「正確にいうと、発言の反響というより、発言の「意味」もしくはそれが担う「命題」の反響が問題なのである」((??? 129))と。

これは重要な指摘である。そのままのエコーとは、単なる言及であり、意味をエコーするとはその発言に言及すると同時にその発言を使用しているのだ。すなわち、アイロニーとは引用なのである。2 すなわち、本来の引用のように、アイロニーとは言及(反響言及)と使用(意味の把握)を同時に行なうものなのである。

2.2.2 「娘よ」

ここで秀逸なアイロニーとして、秋月による『OL進化論』((秋月 2004) (秋月 2004))の中の「娘よ」と題された4コマ漫画を見てみよう。

父と娘の会話である。父が言う―「子供のころお前はほんとうに手先が不器用だった」。「しかも根気がなくってあきっぽい」「ひとつのことをこつこつ続けるのが苦手」と続けたあと、3コマ目で一転して、父は言う― 「将来が心配だと思ったけど、お前も成長したんだな」と。4コマ目で落ちがつく― 「こんなにたくさん栗をむいて食うとは」。

この漫画を利用して、引用としてのアイロニーを分析してみよう。まず、アイロニー=引用であるので、全体を引用部でくくろう。父の発話全体、「お前も成長したんだな」が引用符で囲まれて、「『お前も成長したんだな』」となる。これを直示理論で書き直すと次のようになる。「お前も成長したんだな。これは嘘である」と。

2.2.3 嘘とアイロニー

これにより、アイロニーととの違いが明瞭になるだろう。嘘は「お前も成長したんだな」がメッセージの内容であり、それが伝われば、嘘は成功したことになる。事実と違うメッセージを伝えたのだ。それに対し、アイロニーのメッセージの理解には時間差がある。前半部分は、もちろん、嘘とおなじである。しかし後半部分があり、それが嘘であることをもメッセージとして伝えているのだ。この二つが(時間差を置いて)ともに理解されてはじめて、アイロニーは成功したと言えるのだ。

嘘は単相であり、アイロニーは複相なのだ。

2.2.4 アスペクト盲とアイロニー

ここで、もしアスペクト盲の人(あるいは自閉症の人)がアイロニーを理解するとは如何なることかと問うてみるのは、面白い思考実験となるだろう。野矢は、「想像しにくいだろうが」としながら、次のように答える。アスペクト把握の能力をもっていれば、アイロニーの理解によってこれまでの過去の出来事のアスペクトが一気に変貌する。アスペクト把握の能力のないアスペクト盲の人にとってのアイロニーは、野矢は言う、過去の出来事そのものが変化するという効果があるのだ、と。 (野矢, 日付なし: 野矢 2011 (1995)) (315: 野矢 2011 (1995))

アスペクト盲とは複相把握の能力がない人のことである。彼女には複相は、浅いものであれ、深いものであれ、存在しない。それゆえ、たしかに想像がむずかしいが、彼女にとって世界はひとつの単相からもうひとつの単相への転換ということになるだろう。

つけ加えるが、この時、異文化の見えるときは存在しない。単相とは否定性欠如した状態のことである。何かが足りない、何か見えないものがある、理解できないものがある、そのような否定性は欠如しているのだ。だから、彼女は世界が変化したことにさえ気づかないことになる。

2.2.5 メタ・コミュニケーションとしてのアイロニー

この章は、ベイトソンによるメタ言語学的レベルとメタ・コミュニケーション的レベルの違いに言及しながら始まった。ここに至り、この区分が皮相的であったことが明らかであろう。たしかに語を引用するとき、それはメタ言語学的と言ってもいいかもしれない。しかし、句や文を引用するとき、引用はメタ・コミュニケーションのレベルで作用しているのである。

「アイロニーの成功」について考えてみよう。しばしばアイロニーはある人びとに対して成功しないことが、その成功の条件となることさえあるからだ。

一部の人にだけアイロニーのメッセージが伝わることにより、ある種の「仲間意識」がそこに生まれることが期待されている、というのは、アイロニーの実例においてしばしば見られる。この陰謀を成功させるためにも、言語外の現象が使用される。典型的なのは「目配せ」であろう。

アイロニーはあるを引用することによって、分かっている解釈者に反対のメッセージを伝える。ままごとにおいて「これはケーキだ」が、一種のであることと呼応する点である。

2.3 イヌイット

3 パロディ

3.1 アイロニーと嘲り

アイロニーの機能として嘲り (riducule) があることはしばしば指摘される(例えば (Cooper 1992: Cooper 1992) (239: Cooper 1992))。さきほど例に挙げたアイロニーもそうである。アイロニーの中でもとりわけて嘲りの要素が強いものには、ある種の特徴がある。たとえば「きみのジャケットはとても趣味がいいね」というアイロニーの嘲りの要素を強めようとするとき、人は引用が引用であることを、とりわけて強調する。すなわちを変えるのだ。

直示理論にしたがって言えば、引用は直示、すなわち言語の事象を巻き込む語用論的現象である。書き言葉であれば、それは引用符である。話し言葉では使えないので、苦し紛れに指で引用符を示す (finger quote) 。まさに直示である。そして、声を変えるもまた言語外の直示である。

これらはアイロニーとは別カテゴリと考えた方がいいだろう。

3.2 言及としてのパロディ

菅野は、アイロニーのもつ嘲りの役割を否定するわけではないが、それはむしろパロディによって担われる、と考える。ともに、エコーとして(あるいは引用として)の言語行為である。パロディに嘲りの効果がいかにして生まれるかについて、あるいは少なくともパロディがアイロニーとどこが違うかについて、菅野は深い洞察を示す。アイロニーがエコーしているのは記号内容(シニフィエ)であり、パロディがエコーしているのは記号表現(シニフィアン)だと言う((菅野 2003: 菅野 2003) (149: 菅野 2003))。

[ under construction つくり声 ]

パロディは外観だけの真似であり、アイロニーは内容を理解した上での真似なのだ。外観だけの真似が人を嘲る最上の方法だということを、子供たちは本能的に知っている ― 大人との論争に負けそうになったときに、彼らはこのパロディ作戦、物真似攻撃を繰り広げるのだ。

そして、アイロニーが使用と言及を伴った引用(アスペクト論でいうところの相貌把握)であり、そしてパロディが言及だけの引用(浅いアスペクト把握)であることは、もはや言うまでもないであろう。

3.3 アエタと褌

アイロニーとパロディの議論は、人類学にすこしでも興味のある人には「文化の客体化理論」を思い出させたかもしれない。「文化の客体化理論」と(これまでわたしが展開してきた)複相の議論あるいは遊びの理論との結合は、後に詳述したい。ここでは、アイロニーとパロディとの区分に焦点をあてて、ひとつの興味深い民族誌的事実を紹介したい。

簡単に客体化理論を紹介しよう。コーンは20世紀前半(1931年)にインドで行なわれた最初の人口調査について述べている。(???) 統治者であるイギリス人は、インド人を助手に使い統計をとった。項目は宗教であり、カーストであり、そして言語などなどだったのだ。コーンは、現地の人にとってこのような統計を作成する手伝いをすることが、彼らに大きな変化をもたらした、というのである。統計作成は、現地の人が自らの文化を「生きる」モノとしてでなく、なにか観察できるモノ(数字にできるモノ、表にできるモノ)として示したのである。 [ under construction ]

アイロニーとパロディと文化の客体化の結合部として紹介する民族誌的事実とはフィリピンのアエタの人々に関する事実である。アエタはフィリピンのルソン島に住む採集狩猟の民族であった。これは過去形で語る必要がある。なぜなら、彼らは1991年6月のピナトゥボの大噴火、 20世紀最大規模の噴火によって、山から出ることを余儀なくされたからだ。清水展は、噴火の前から彼らと暮し、噴火の後も彼らとより沿ってきた人類学者であり、活動家である。

噴火後、彼らは自らの文化を客体化することを余儀なくされた。

:

食糧の分配と労働協力、相互扶助によって緊密に結びつけられた、友愛の共同体として語られるアエタ・コミュニティー。多人数が勢子と射手とに分かれ協力して行い、獲物の肉は狩猟の参加者と、さらにはコミュニティーの成員に等しく分配される弓矢猟は、まさにその共同性を体現する活動である。しかし、七〇年代の森林減退によって鹿や猪が激減して以来、そうした大型獣の弓矢猟は途絶えて久しい。にもかかわらず、アエタ以外の聴衆を意識する時、ほとんど常に狩猟民としての自画像を前面に打ち出すのである。・・・・・

あるいは「ラカス」や「ピナトゥボ」や「アニア開発協会」が、資金や援助を提供してくれるNGOの関係者を現地に迎えるとき、その歓迎のためのアトラクションとして、かならず褌姿に弓矢を携えた男が狩猟のダンスを[170/1]踊るのである。それらは食糧の獲得手段として、あるいは儀礼の装いとして、実際に重要であるからというのではなく、平地民や他の少数民族=先住民(焼畑耕作民と自己規定)との差異化の方法であり、平地民や外国人のエキゾシズム嗜好を意識し、それにおもねりつつ最大の利益をあげようとする、主体的な自己表象の戦略なのである。

しかしながら、たとえば、噴火後の避難センターに救援物資を届けてくれたNGOや善意の人々から、記念写真のため、褌姿に着替え弓矢を持ってポーズを取ることや、その姿で踊ることを要求された時には、きわめて不快であったという。噴火直後の茫然自失の状態のなかで、外部の力ある者たちから、無力で未開の狩猟民として一方的に決め付けられ、そのイメージを押し付けられることは、自己の存在を矮小化され、無力化されるという苦痛の体験にほかならない。そこには、主体性と戦術で自己決定権の有無をめぐって決定的な落差が存在するのである。 (清水 1997: 170171)

4 まとめと展望

4.1 よろめきドラマ

((???)) (_PAGEREF(homology)ページ)を見ていただきたい。

: アスペクト論と引用論の相同性

|よろめき型|平穏|出会い|誘惑|堕落| |モーム型|平穏|興醒め|疑惑|熱中| |アスペクト論|単相|複相(アスペクト)|複相(相貌)|?| |引用論|使用|言及|使用と言及|?| |ゲーム論|のめり込む|いち抜ける|遊ぶ|? |

この表には、いくつかこれまでの議論に出てこない項目がある。説明しよう。

まず「モーム型」の列だ。わたしは、呪術をよろめきドラマになぞらえて「平穏→出会い→誘惑→堕落」の年代記をつくりあげた。しかし、事はこの順に起きるとは限らない。じゅうぶんあり得る逆順の年代記がモーム型と名付けられた列なのだ。よろめき型の列はから右へと読んだが、モーム型の列はから左へと読む― 恋におちいった(熱中)人間が、その恋に疑惑を抱き、興醒めし、さいごに恋のない平穏無事な日常へと戻るモームの小説のような3ストーリーを念頭に置いている。

表には載せられなかったが、これまで時々使ってきた「ためらい」という言葉の位置を確認しておきたい。アスペクト論において「複相」という語が2つの位置をカバーしている様に、ロマンス論(よろめき型とモーム型)において、複相が占めている二つの位置(出会いと誘惑、疑惑と興醒め)を占める語として、この語(「ためらい」)を使用していきたい。

なお、堕落(あるいは熱中)の項は、ここまでの議論では触れていないので、空白となる。

: ゲームとアスペクト把握

アスペクト | 単相 | 複相 | 複相 | 単相 |
| | | (相貌) | |
言明 | ウサギだ | と信じて | アヒル | アヒルだ |
| | いる | に見える | |
よろめき | 平穏 | 出会い | 誘惑 | 転落 |
ゲーム | 生活 | 一抜ける | 遊ぶ | のめりこむ |
| (自文化の | 旅人 | 人類学 | (異文化の) |
| )生活 | | | 生活 |

4.2 展望

Cooper, David E. 1992. 「Irony」. A Companion to Aesthetics, 編集者: David E. Cooper, 23841. Oxford: Blackwell.

スペルベルD., と ウィルソンD. 1999. 関連性理論 伝達と認知. 2nd 版. 研究社.

秋月りす. 2004. OL進化論 (22). 講談社.

菅野盾樹. 2003. 新修辞学―<反哲学的>考察. 世織書房.

清水展. 1997. 「開発の受容と文化の変化」. いま、なぜ「開発と文化」なのか, 編集者: 川田 順造, 岩井 克人, 鴨 武彦, 恒川 恵市and 原 洋之介, と 山内 昌之, 15376. 岩波講座『開発と文化』. 岩波書店.

野矢茂樹. 日付なし. 心と他者. 中公文庫. 中央公論新社.


  1. とくに特定する必要もない、と菅野は言う。

  2. もともと菅野の議論自身、使用と言及の区別から始まっている。ただし、菅野のこの論文での意図は、「使用と言及」などの古い二項対立を打ち砕くことだ(「後書き」)と宣言されている。わたしは、これらはまだまだ使える分析概念だと思っていることを付け加えておこう。

  3. いくつもあったが、よく覚えていない。