第4章 「人生そのものが引用だ」—引用とアイロニー

Satoshi Nakagawa

1 はじめに

わたしのこの本での目的は、異文化の見える時を同定し、それを論理的に分析することである。

異文化の見える時とはためらいの時である。それは、たとえば、科学的思考から呪術的思考へと踏み出そうとするときなのだ(第1章)。

わたしはそれをアスペクト把握と結びつけ、異文化の見える時とは、すなわち、複相状況であると(野矢にならって)言った。

平穏 → ためらい(複相) → 転落

さらに野矢のキーワードである「相貌」を考える中、複相把握を二つに分けるに至った— 淺い複相把握と深い複相把握(相貌をもった複相把握)である。

単相と複相全体論(そして相貌) — 二つの複相平穏 → 出会い → 誘惑 → 転落

1.1 これまで

複相把握を二つに分けることの妥当さは、前章の虚構とゲームへのわたしたちのもつ態度の分析を通じて明らかとなったであろう。[ under construction ] さらにベイトソンを経由してラッセルのパラドックスを虚構への態度と重ねるなかに、二つの複相把握の論理的メカニズムを探ったのだ。 [ under construction ]


(A) 野崎は{現実に}主張する[{現実に}ジョーズが来た]
(A') 批評家は{現実に}主張する[{ごっこで}ジョーズが来た]
(B) 俳優は{ごっこで}主張する[{現実に}ジョーズが来た]
(B') 読者は{ごっこで}心配する[{現実に}ジョーズが来た]

次の枠組みの中は嘘である

+----------------------+
|                      |
| これはケーキです      |
+----------------------+

「虚構で」が外側にある:俳優(一抜けている)「これはゲームです」が外側にある:一抜ける

[ under construction ]

[ under construction 「これはゲームです」がゲームの中にある。 ]


(C) {ごっこで}[読者は{現実に}心配する
  [{現実に}ジョーズが来た]]

(C) {現実に}[{ごっこで}
       [読者は{現実に}心配する
          [{現実に}ジョーズが来た]]]

+----------------------+
| この枠の中は嘘である  |
|                      |
|  これはケーキです
+----------------------+

[ under construction ]

二つの視点の謎(鏡像段階)「虚構で」オペレーターが全体を包む「これはゲームです」が枠の中にある → 矛盾(論理階型の混同)行儀のわるい(「浅い」は行儀のいい)

1.2 これから

この章では、これまでの議論、ためらい(異文化の見えるとき)、アスペクト、虚構論を、引用論に重ねる作業を行ないたい。

ためらい・アスペクト・虚構論を引用に重ねる

メタ・言語学的レベル一つの言い方:メタ・メッセージの可視化

この章の目的の一つの言い方は、次のようになるだろう。

ベイトソンは前の章で言及した論文の中で、言語あるいはコミュニケーション一般の進化について、つぎのように述べている:

まず単純に事実を表わす、指示的 denotative レベルがあるが、そこを起点として、二つの異なった方向に、抽象の階梯が積み上がっていっている。一方の抽象段階の変域(レベルの集合)を「メタ言語的」 meta-linguistic と呼ぶ。(例— 「『ネコ』なる言語的音声は、これこれの事物集合のすべてのメンバーを表わす」、「『ネコ』なる語は、毛を持たず、引っ掻くこともしない」等。)もう一方の抽象段階の変域を「メタコミュニケーション的」 meta-communicative と呼ぶ。(例—「あなたにネコの居場所を教えてあげたのは、友好の気持ちからだ」、「これは遊び play だ」等。) (ベイトソン 2000: 259)

事実を表わす指示的 denotative レベルから二つの方向へ進化する (1) メタ言語的:「『ネコ』は引っ掻かない」 (2) メタ・コミュニケーション的:「あの発言は好意だ」「これは遊びだ」

ベイトソンのこの分類によれば、前章でとり挙げたのはメタ・コミュニケーション的なレベルであり、この章でとり挙げたいのはメタ言語的なレベルである、と言えよう。

前章:メタ・コミュニケーション的レベルこの章:メタ言語的レベル

この章の目的のもう一つの言い方は、(そしてこちらがより重要なのだが)前章でスポットライトのあてられた、メタ・メッセージ(「これはゲームだ」)、あるいは内包オペレーター(「虚構で」)は、いわば、不可視のものである。

内包オペレーター(虚構で)メタ・メッセージ(「これはゲームだ」)これらは不可視である(アンダマン)

それを論理階型の混同として直接のメッセージの上位の階型に存在するのだ。 [ under construction ダブル・バインド ]

「あなたが好き」「あなたがとっても好き」全体として「あなたが嫌い」

同時に、しばしば意図したコミュニケーションが失敗することがある。 1 たとえば、( (ベイトソン 2000), (Radcliffe-Brwon 1964 (1922)) [ under construction アンダマン ])

和解の儀礼は模擬戦争しばしばほんとうの戦争になってしまう

コミュニケーションがうまくいくためには、これらのマーカーを可視にすべきだろう。これから扱う引用は、その可視化を担うものである。 [ under construction ]

引用も同じ構造をとるのだが、引用においては、マーカーは可視化されている(引用符)

2 引用

2.1 使用と言及

引用について、入門書的に説明すれば、次のようになる。言葉には二つの使い方がある。使用 (use) と言及 (mention) である。「ネコはひっかくことがある」あるいは「中川は大学の教員である」という文において、ここに登場するすべての言葉は使用されている。これに対して、「『ネコ』はひっかかない」あるいは「中川は漢字で二文字である」という文ではそうではない。後者の文において、「中川」は言及されているのだ。言及の典型的な例こそが引用である。

use: ネコはひっかく、中川は大学の教員である mention: 「ネコ」は引っ掻かない、「中川」は漢字で二文字である

2.2 固有名詞説

引用を言及のみに限って、特徴づける理論がある。クワインは次のように言う:「論理分析の観点から言えば、引用とは一つの単語あるいはサインとして見做されるべきである」 ( (26: Quine 1940)) と。タルスキは言う:「引用された名前は一つの語としてあつかうことができよう。それゆえ、統語論的には単純な表現なのだ。それらの名前の各構成要素は ・・・単語の中の連続する文字のひとつひとつと同じ機能を果たしている」( (タルスキ 1987: 159))と。簡単に言えば、引用は、引用された・句・節(文)に名前(固有名詞)をつけて名詞にしているのだ、ということになる。

引用された部分は一つの語(名詞)である引用された部分は構造化されていない引用されたモノは意味がない — それ自身に言及する

この説を、デイヴィドソンにならい、「固有名詞説」と呼ぶ。この説に従えば、引用された部分は、あたかもモノであるかのように扱われてしかるべきなのだ。

2.3 直示理論

基本的にはクワインのように引用を言及の典型として見る議論が主流であった。その流れに転機をもたらしたのが、デイヴィドソンによる引用論 (Davidson 1985)である。彼は、引用とは言及と同時に使用でもあることを指摘したのだ。「中川は『相対主義が可能だ』と言った」という文を考えよう。たしかに、第一段階の理解として、引用の部分をモノとして見ること、すなわち「中川は P と言った」と見る段階を想定するのは間違いではない。しかしこの文の十全な理解のためには、引用された内容、すなわち「相対主義が可能だ」の内容の理解が必要である。すなわち、引用とは言及であると同時に使用でもあるのだ。

言及:中川は P と言った使用:「相対主義は可能だ」の理解がなければならない言及であり同時に使用である

2.3.1 引用を遊ぶ

デイヴィドソンのこの指摘、引用には言及のみならず、使用もある、というのは、前章での虚構ゲーム論に重ねあわせると分かりやすいだろう。

ゲームの外側の単相状況とゲームに融即してしまった(石を食べてしまう)もう一つの単相状況は、ゲームに関わっているとは言えない。ひとつのゲームへの関わり方はゲームから一抜けて観察することだ。そして、ゲームと虚構のほんとうの遊び方は、一抜ける立場(淺い複相把握)と融即の立場(単相)の立場を往復することである、と前章で指摘した。

ゲームの外側の現実(単相)、ゲームへの融即(もうひとつの単相)一抜けての観察(淺い複相)ほんとうの遊びかた:単相(融即)と淺い複相(観察)の往復運動

デイヴィドソンの引用論が示していることは、引用の本質は使用(単相)だけでもなく、言及(淺い複相)だけでもなく、その統合にある、ということである。

使用:単相言及:モノとして見る(意味を見ない)使用と言及:これが引用の本質である

2.3.2 言及だけの引用

[ under construction ]

引用論の紹介を思い出していただきたい。固有名詞理論と直示理論を紹介したのだが、固有名詞理論だけで説明できる引用もあるのだ、ということである。固有名詞理論で説明できる、すなわち言及しかしていない引用がある、ということを指摘しておきたい。「『XXX』は日本語にない」などが典型的な例となろう。ここでは、引用はまさに固有名詞、非構造化された記号としてのみ出現している。引用されているモノ理解はできないのである。

  1. 固有名詞説だけで説明できるモノ「XxX」は日本語にはない言及しかしていない使用は関与しない

この指摘は、引用の種類、すなわち言及だけの引用と言及と使用の両方を行なっている引用とがあることを示している。それを指摘してわたしが言いたいことは、この二つの種類の引用が、冒頭で示した「出会い」(アスペクト)と「誘惑」(相貌)に相当するのだ、ということである。すなわち、引用のない文は「平穏」の文であり、引用を使う文のうち、その引用が言及だけの文は「出会い」に、そして言及も使用も使用している文は「誘惑」に相当するのだ、ということである。

平穏:引用のない文(単相)出会い:言及だけの引用(複相—アスペクト)誘惑:言及と使用の引用(複相—相貌)

かくして、アスペクト論を引用論が、比喩的に言えば、相同であり、2つを重ねあわせて議論することの妥当性・重要性は理解されたであろう。

2.3.3 直示理論

デイヴィドソンは自身の引用に対する理論を「直示理論」 (Demonstrative theory of quotation) と呼ぶ。直示する (to demonstrate) とは、指差しなどの(言語外の)現象にたよって、世界のモノを指すやりかたである。 2

それを「直示理論」 (demonstrative theory) と呼ぶ

彼の直示理論によると、引用を含む文はつぎのような引用を含まない文に翻訳できる。

「中川」は漢字二文字である → 中川。これがトークンであるような表現 (expression) は漢字二文字である

「中川」は漢字二文字である → 中川。これがトークンであるような表現 (expression) は漢字二文字である

厳密さを犠牲にし、わかり易さを強調した「簡易直示理論」を示し、この簡易バージョンを説明していきたい。

デイヴィドソンの理論の簡易バージョンだけ示す—「簡易直示理論」と呼ぶこの簡易バージョンを説明する

簡易直示理論による分析は次のようになる。「『中川』は漢字二文字である」は、「中川。これは漢字二文字である」となる。あるいは「中川は『相対主義は可能である』と言った」は、「相対主義は可能である。これを、中川は言った」と。言い換えの際の「これ」を発話するとき、なんらかの直示(たとえば指差し)があるものと考えてほしい。

「中川」は漢字二文字である → 中川。これは漢字二文字である中川は「相対主義は可能である」と言った → 相対主義は可能である。これを、中川は言った。

2.3.4 往復運動としての引用

虚構やゲームの遊び方と同じく、引用もまた無限の往復と解釈すべきであろう。「中川は『相対主義は可能だ』と語った」を十全に理解するためには、「相対主義は可能だ」そして「中川はこれを語った」という二つを順番に理解するだけでは終わらない。「中川はこれを語った」の理解の際に、ふたたび「相対主義は可能だ」の命題に、人は戻らなければならないのだ。そして、それを理解して、再び「中川はこれを語った」に向かうのである。

  1. 相対主義は可能だ
  2. 中川はこれを語った
  3. 相対主義は可能だ以下同様

デイヴィドソンの直示理論の形式が、この無限の往復運動をもたらすような形式となっているか、わたしには自信がない。直感としては、直示理論は行儀のいい、一抜けた状況にも読める。 3

2.4 引用と虚構とアスペクト

もう一度だけ、アスペクト論にまで遡って、この三つの議論(アスペクト、虚構/ゲームそして引用)の相同性を示しておきたい。

2.4.1 引用と虚構

アスペクト論と遊びと引用の相同性が引用の直示理論による言い換えから見てとれる。ベイトソンの議論を思い出してほしい。ままごとの例を、この文脈にあうように言い直してみよう。「これはケーキです」は、ベイトソンによればつぎのように言い換えられる: (1) これはケーキです、 (2) これは遊びだ、と。

これはケーキですいまは遊びです

[ under construction ]

引用を理解することは、虚構を遊ぶことと同じ構造をもっているのである。

2.4.2 引用としてのアスペクト

わたしは自閉症児に欠けている能力としてアスペクト把握がある、と言った。すなわち自閉症児に欠けているのは引用の能力だということになる。

同じままごとの例を出そう。だれかが「これはケーキです」という。「これ」で指されているのは石であった。自閉症児はこの石を口に入れてしまうのだ。最初のメッセージには引用があったのだ、引用符を入れて再掲すれば「『これはケーキです』」となる。自閉症児はこの引用を理解せず、「これはケーキです」とそのまま理解してしまったのである。

セリフ:「これはケーキです」ままごと:「『これはケーキです』」(これは引用です/遊びです)自閉症児:「これはケーキです」(引用符を見つけられない)→ 口に入れる

2.4.3 引用と複相

もう一つの例を出したい。玉井 ( (玉井 1983))によるものだ。

ある日彼 [自閉症児]は、明治村にいった。ここには昔、京都市内を走っていた電車がある。展示品であると同時に、広い構内の交通機関の役も果たしている。昔通りの服を着た車掌さんがいて、観光写真に収まってくれる。彼はその車掌さんに、

「京都の市電は廃止になった?」ときいた。

「廃止になったよ」

同じ質問は7、8回つづいた。彼はいまここで乗ってきたではないかといいたかったのであろう。

(110–111: 玉井 1983)

「これは『京都の市電』だ」(ほんとは違うけどね)という引用符つきのメッセージを、自閉症児は引用符ぬきでしか理解できないのだ。すなわち「これは京都の市電だ」と。その場合、その言明は端的に偽となるだろう。玉井は案内人の発言を「二重の視点」を持つことと呼ぶ。自閉症児はこの能力を欠くのだ。もちろん、これはアスペクト把握の能力である。

案内人:「これは『京都の市電』だ」(ほんとはもうないんだけどね)自閉症児:「これは京都の市電だ」→嘘だ「二重の視点」をもつ能力(アスペクト把握)博物館という場は引用符である

この時点で言語的事象としての引用という足枷をはずして、次のように言い換えることができるだろう。博物館という場こそが引用符だったのだ、と。同じように、ままごとという場は引用符である、と言うことも可能であろう。

ままごとという場が引用符である博物館という場が引用符である

3 図と地

ここは、引用の後(アイロニーの前)に置く。そして、引用と図と地を独立させ、後半のアイロニーとパロディ(もしかしたら隠喩)を独立させる。

引用文を紹介するというよいタイミングなので、ここでもう一つの新しい用語のペアを導入しよう。「図」と「地」である。まず、もっとも直感的に納得できる引用に関してこの語を導入する。これ以降引用している文を「」と、そして材料を「」と呼ぶことにする。すなわち、「相対主義は可能だ」の部分が図であり、「中川は・・・と言った」の部分が地だ、と語り直したいのだ。

図 (figure):相対主義は可能だ地 (ground):中川は・・・と言った

ここまでは問題はないはずだ。ふだん、わたしたちは「会話と地の文」といった言い回しを使用しているのだから。

引用論を通して導入したこの新しい用語は、新しい理解を引き寄せることになる。なぜなら、これまで、四つ状態(単相/浅い複相把握/深い複相把握/単相)を説明するのに、「単相」と「複相」の他に、「浅い」と「深い」の概念、すなわち二つペア、四つの概念を使わざるを得なかった。図と地は、それだけでこの四つを説明し切れるのである。

四つの状態:単相/浅い複相把握/深い複相把握/単相これまで:単相/複相、浅い/深いのふたつのペア、四つの概念をつかってきたこれから:図と地だけで説明し切る

さらに、このペアの導入により、四つの状況の対称性が明白となる。結論を先取りした表となるが、次の表を見よ。

1 2 3 4
単相 浅い複相 深い複相 単相
図を描く 地と図 図→地/地→図 図→地

3.1 単相と地

上の表で、 (1) と (4) に現れる単相状態を、とりあえず」と呼んでいる。これには留保が必要である。

その留保は大事な留保である。地は図がないかぎり地としては認識されない、という点である。それは、ほんらい、地でさえないのだ。単相と名はつけたが、それは相(アスペクト)ではないという議論を思い出しほしい。複数の相(アスペクト)があって始めて相が理解されるのだ。「ウサギに見える」は「アヒルに見える」があって始めて出現する言明である。単相状態での言明は「ウサギに見える」ではなく、「ウサギだ」なのである。一つである場合、それは見えではなく、存在となる。同じように、図があって始めて、その図を成り立たせている地が浮かび上がるのだ。図と地から図が消えてしまえば、地であった部分は地としてさえ認識されなくなる

相(アスペクト、見え)は複数あってはじめて相として認識される。「ウサギに見える」単相においては、相はない。アスペクトはない。見えはない。「ウサギだ」単相において、すべては存在なのだ

地は図があってはじめて地と認識される地と図から図がなくなれば、地だった部分は地とさえ認識されない地だけの場合、地は存在しない

とは否定性のことなのだ。

否定性のことなのだ

地は図(否定性)の中にはじめて認識される。図のない地は地ではない。相のない状態(すべてが存在であるような状態)を、とりあえず単相状態と呼んだ(それは本来ではない)のと同じ意味合いでのみ、わたしたちは単相状態を地だけの状態と呼ぶのだ。

単相状態と呼んだ状態には、じつは、相(見え)はない=すべては存在である(否定性の欠如)単相状態を地と呼ぶが、じつは、そこには地はない=否定性(図)が欠如しているからだある意味、神の目の視点からの名付けだが、しようがない

以上の留保をつけたうえで、図と地という語の有用性を確かめておこう。

3.2 引用

「言及」は (2)の状態である。言及とは、地の文をとして引用された部分をとして見るそのような見方である。図としての引用部分(「相対主義は可能だ」)は浮き上がり、それへの理解はとくに問題とされない。この部分を P と置いて、「中川は P と言った」とする置き換えが、言及状態の理解を示しているだろう。引用部分は、いわば、ブラックボックスであると言えよう。この状態が、別の言い方をすれば、外在的態度である。

「中川は P と言った」地の文を「地」として、引用部分を「図」として見る引用部分は、いわば、ブラックボックスである別の言い方をすれば、外在的態度である

この P の部分、引用された部分の理解にとりかかり、それに没入すれば、あなたは、言わば、中川(引用部分の話者)世界に引き込まれる。これが使用の状態、(4) である。あるいは内在的態度(融即)であるのだ。

「相対主義は可能だ」を理解する没入する(発話者である)中川の世界にとりこまれるこれが使用の状態だ((4))(修正した意味での)内在的態度である

引用を十全に理解する((3))とは、引用部分を理解しながら(それを地として)、なおかつ全体が引用であること(その事実を図とする)という態度なのである。これが「往復運動」あるいは「(内在的態度と外在的態度)の合成」という、いささか、神秘的な言い回しが指し示している状況なのである。

引用を十全に理解する((3))とは、中川世界(P の世界)を地としてそれが引用部分であるということを図として見る使用と言及を同時に行なう「外在的態度と内在的態度の合成」

3.3 異文化理解

独我論的状態、ピジョンホール相対主義が (1) の状況だ。ここから異文化(2)を見つけるために、わたしたちは複相状態((3)と(4))を経ることとなる。複相状態の最初((2))では、自文化((1))を地として、異文化((4))を図として見ることとなる。あくまで観察しているわけだ。異文化((4))の程度が増していくとしよう。途中を省略して、そのようなプロセスのなかで、あるとき地と図が反転するのだ。すなわち深い複相状態((3))、異文化の相貌を捉えた上での複相状態となるのである。このとき、地となるのは異文化で、自文化はその地の上の図となる。そしてとうとう異文化に没入(融即)してしまうことになるかもしれない。その時、異文化は地であること(図をともなうものであること)さえやめる。否定性の欠如である。もう一つの独我論的状態に陥ったのだ。

単相:ピジョンホール相対主義→独我論:異文化は見えない(見えないことにさえ気づかない=否定性の欠如)浅い複相:自文化を地とすると、異文化が図として見える(見えることに気づく)(観察)異文化のわりあいが増えていく→あるとき地と図が逆転するのだ=「異文化理解」(人類学)深い複相:異文化が地となる。自文化が図として見えてくる(もうひとつの)単相:異文化に融即する

3.4 よろめきドラマ

3.4.1 よろめきドラマ—転落バージョン

よろめきドラマのシナリオで語ってみよう。 (4) を「他者」と呼ぼう。平穏状態は単相である。他者は見えない。見えないことさえ分からない(否定性の欠如した)状態である。そして出会いが訪れる。出会いにおいて、平穏状態を地にして、他者を図にする状態となる。深入りするについて、図である他者の割合が増えていく。そして、あるとき、図と地が反転するのである— 「誘惑」へ、深い複相状態に達したのだ。そのとき、これまで図であった他者が地になり、かつての平穏状態が図となる。そして、転落に至ると、他者が地になり、図がなくなる。すなわち、それは地でさえもなくなるのだ。

平穏:他者はいない(それが地であることにさえ気づかない→否定性の欠如)出会い:平穏の生活を地にして、他者が図となる(観察、外在的態度)他者の割合が増し、あるとき地と図が逆転する誘惑:他者を地として、かつての平穏生活が図となってしまう転落:他者がすべてを占め、地となる(地となったことさえ気づかない→否定性の欠如)(融即、内在的態度)

3.4.2 モーム型—興醒めバージョン

モーム型をここで導入する。

いささか退屈かもしれないが、モーム型のシナリオについても述べておきたい。ここでは重要な点が述べられるので、我慢して聞いてほしい。

復習しよう。それは恋が醒める物語だ。物語は熱中から始まる。そこに「疑惑」が生じる。さらに「興醒め」へと至り、さいごにもとの鞘に戻る(「平穏」)という物語だ。

熱中→疑惑→興醒め→平穏

疑惑の状態とは、忘れていた平穏な状態が図として浮かぶそのような状態である。言い換えれば、熱中が地であったことに気づく段階である。彼女は忘れていた平穏に(再び)気づいてはいるが、それをあくまで観察しているのである。外在的態度をとっているのだ。興醒めを経て、平穏にもどってしまえば、それは(かつての)生活に融即している、内在的態度をとっている、という言い方が可能であろう。興醒めの段階とは、かつての平穏の世界の割合がどんどん増えていき、地と図が逆転するそのような状態である。

疑惑:(かつての)平穏が図として浮かびあがる(観察、外在的態度)平穏:かつての平穏に再びとりこまれる(融即、内在的態度)(中間)興醒め:平穏が地であり、熱中が図になる

退屈さを覚悟で二つの型を語り直したのは、物語の対称性に気づいて欲しいからだ。次の図を見てほしい。

1 2 3 4
よろめき 外在的態度 内在的態度
モーム 内在的態度 外在的態度

3.5 虚構とゲーム

さらに虚構とゲームの理論に当て嵌めよう。

虚構を楽しむ、あるいはゲームを遊ぶとは、内在的態度(融即)と外在的態度(一抜ける)の合成だと言った。これを図と地の後で言い替えるべき探求をすすめてみよう。

まず足はあくまで現実世界において、そこから虚構を眺める外在的態度(一抜けている態度)について考えよう。外在的態度に図と地の用語はもっとも適当である。虚構を楽しむ外在的態度とは、地としての現実世界の中に、図としての虚構世界を浮かび上がらせる作業である。

地としての現実世界の中に図としての虚構世界を浮かび上がらせる作業である

すでに述べたことだが、外在的態度とは、ゲームから一抜けた子供、園児の芝居を見る親や先生、そして下手な俳優がその例となる。彼らはあくまで現実世界の中の図として虚構/ゲームを見ているのだ。

ゲームから一抜けた子供園児の芝居を見る親や先生下手な俳優 —- 現実世界の中から図としての虚構を見ている

内在的態度(融即)とは「虚構世界を地とする」態度である。

「地だけの場合、本来、地はない」という留保のもとに内在的態度とは「虚構世界を地とする」態度であると言うこととする

同じように、現実世界だけで生きている時、虚構世界を図として見ていない時もまた、「現実世界をとする」という内在的態度と言える。

虚構世界を地とする現実世界を地とする

虚構を例にする限り、虚構への内在的態度(融即)の実例は考えにくい。ままごとの中でを食べてしまう自閉症児をその例として挙げることができよう。憑依がそのような例として挙げることができるかどうか、わたしには断言できない。

現実世界:とくに挙げる必要もない虚構世界:石を食べてしまう、憑依(?)

図と地の語を導入して、もっとも興味深いのは、「虚構世界を遊ぶ」仕方の言い換えである。それは、「虚構世界を地として現実世界を図とする」作業なのだ。

地と図 地と図
虚構 現実という地 虚構を図
現実 現実を図 虚構という地

3.6 レトリック

引用アイロニーそしてパロディを地と図で言い換える作業は、読者にゆだねよう。ほぼ同じ作業なのだが、隠喩の効果を図と地の語を使って言い換えてみよう。

アイロニーとパロディは各自おこなえここでは、隠喩について述べる

「彼女は薔薇だ」という隠喩の内在的態度とは、彼女が薔薇であるような世界からの視点を持つことである。この世界を「薔薇世界」と名づけよう。「彼女は薔薇のようだ」という直喩は、現実世界を地として、薔薇世界を図とするそのような構図となる。そして、「彼女は薔薇だ」という隠喩を鑑賞するとは、薔薇世界を図として現実世界を地とする、そのような構図を遊ぶことなのである。

薔薇世界:彼女がじっさいに薔薇であるような世界「彼女は薔薇のようだ」という直喩:現実世界を地として、薔薇世界を図とする「彼女は薔薇だ」という隠喩を楽しむ:薔薇世界を地として、現実世界を図とする、そのような構図を楽しむ

3.7 現代美術

内在的態度と外在的態度および図と地の新しい用語をつかって、民族誌の分析に入るまえに、ひとつだけ新しい項目の分析を行なってみよう — 絵画という芸術形態である。

民族誌にはいる前にもうひとつ — 絵画

さらに「図と地」の用語をより大きな枠組みの中で使ってみたい。

グリーンバーグは言う、芸術は自然模倣引用)であった、と (Greenberg 1939)。そして、彼は続ける、アバンギャルドの芸術は芸術の引用だ、すなわち引用の引用だと。

芸術:自然の引用アバンギャルド:芸術の引用(すなわち、引用の引用)

このグリーンバーグの言葉を下敷きにしながら、近代アートワールドを図と地を使用して、次のように記述することが可能であろう:生活世界(ライフワールド、日常)であり、そこには日用品(芸術作品ではないモノ)が置かれている。美術館である。それは(博物館がそうであったように)引用符として働く。芸術作品は美術館に入れられ、括弧でくくられるのだ。

地:日用品は日常という場に図:芸術は美術館(引用符)という場に

そのような意味で、アバンギャルドは、いわば、引用符との戦いだ、と言える。デュシャンは作品『』において、だれが見ても日用品である便器を引用符で囲んだ(美術館に展示した)。アバンギャルドによる引用符への挑戦である。ただし、これは言わば芸術の枠内での芸術への挑戦であり、ある意味で、この挑戦の敗北は見えていたのではないかとわたしには思える。

デュシャン:日用品を引用符(ホワイトキューブ)で囲む→芸術の中での反芸術 FF:芸術作品を日常の場(美術館の外側)に置く→芸術から引用符をはずす

登 ( (登 2015)) は、新世代のアバンギャルド(たとえばマーサ・ウィルソン)の活動を分析し、この挑戦の新しい展開を描く。ウィルソンらは、日用品に引用符を与えるというデュシャンの試みとは対照的な挑戦をする:芸術作品から引用符をはずすのである。具体的には芸術作品を美術館外側へと配置するのだ。デュシャンが地を図にしたのに対し、ウィルソンは図を地にしたのである。

デュシャン:図を地にする FF: 地を図にする

直島とどうちがうのか?

4 まとめと展望

5 References