以下は、隠喩論の覚書である。
最も単純な隠喩だけを取り上げる。「S は P である」という類いの隠喩である。たとえば「山口さんはスズランである」とか、「キタトラくんはシェパードである」とかだ。
直喩 (simile 「シムリ」と発音するらしい)
「ヤマグチさんはナデシコのようだ」が直喩である。
隠喩は直喩の省略である。 [ under construction ]
それは字義通りを意味し、(たいていの場合)真であり、そして暗号解読すればメッセージは入手できる。
なぞかけみたいだ。
あとに残らない。
Metaphors We Live By という面白い本がある。
「隠喩は字義通りのことを意味している」
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隠喩はあるメッセージwo 伝えているという考え、つまり、隠喩には(もちろん、その字義通りの意味以外に)内容とか意味があるという考え、は捨てなくてはならない。これまで考察してきた様々な理論は、目標が間違っているのである。そのような理論は、暗号化された内容を解読するための方法を提供すると人々は考えているのだが、実は、その理論は隠喩がわれわれに与える効果についてなにごとかを語っている(あるいは、語ろうとしている)のである。(287) ・・・問題の核心は、・・・隠喩と隠喩によってわれわれが理解することがどのように関係するか、という問題にあるのである。 (デイヴィドソン,D. 1991: 287288)
あたらしい光の中で物を見る、その仕方に限りはない。また、それが命題となるとは限らない。
直喩は「出会い」「一抜ける」「浅い複相把握」であり、隠喩は「誘惑」、「遊ぶ」、「深い複相把握」なのだ。隠喩は字義通りの意味と直喩とを往復運動するのだ。
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隠喩とアイロニーがどこまで類似し、どこから相違するかは、これでおおよそ明らかになったと思う。要約すると、隠喩が、一緒に世界の創成にあたろうという呼び掛けであるのに対し、 [footonote omitted] アイロニーは創成された世界のほころびを剔出して、もうひとつの世界へ行こうという誘惑である。 (菅野 2003: 199)
デイヴィドソン,D. 1991. 「隠喩の意味するもの」. 真理と解釈, 26296. 勁草書房.
菅野盾樹. 2003. 新修辞学―<反哲学的>考察. 世織書房.