人はその時地になっているゲームを生きている。それがゲームであることに気がつかない。典型的な単相状況である。地となっているゲームは自然なものであり、意味に満ちたものなのだ。人はそのゲームにのめりこんでいるのだ。彼女は(図として提示された)ゲームをゲームとして(すなわち、一抜けて)見ている。彼女は自分はゲームの外にいると思っている。しかし、その立場いつでも引用符に入れられるものなのだ。デリダという哲学者「テクストの外側はない」と言った 1 という。かっこういいので、その言い回しを拝借したい— ゲームに外側はないのだ。
デリダ:「テクストの外側はない」(かっこいい)ゲームの外側にいるとは、じつは、単に(いつでも図となり得る)地のゲームをプレイしているだけであるゲームに外側はない
さて、「図と地」の概念をわたしたちの議論に導入することの有意義さは納得してもらったこととしよう。つづいて、図と地の概念を、ひとつの民族誌の解釈に適用してみたい。とりあげる例は私自身の昔の論文の引用論による言い換えである。 2
取り上げる論文は「学校者と出稼ぎ者」 (中川 1999)である。この論文で焦点をあてられるのは、出稼ぎを契機にしたフローレス島のエンデのある村での伝統と近代という二つのゲームのせめぎあいである。
わたしの調査した村を含めたいくつのかの村はひとつの「儀礼共同体」、タナ・ゾゾに統合される。
タナ・ゾゾの起源神話は次のようなものである。 [ under construction ]
洪水クピ山の頂きのみ水から出ている人がくる水が引く人々が世界中に散らばる(クピが世界の中心)
[ under construction バンゴ先生、クピ村への訪問 ]
簡単に言えば、「クピ(地名)が世界一高い山である」(そしてそこから世界中の民族が発生した)ということだ。
[ under construction 坂道でのガスパ先生との会話 ]
神話を何度か聞く—「クピがね・・・」学校の先生:「でも、クピが世界一高いのではないのだけど」
学校では「クピは決して世界一高い山ではない」と教えているのだ。
エンデの村では、いわば、二つの矛盾する教えが共存しているのである。エンデの村人の合理性を維持したまま、この共存をどのように説明すべきか、これが論文で取り組んだ問題である。
伝統と近代(学校、出稼ぎ) —- 伝統:「クピは世界一高い山だ」学校:「クピは世界一高い山ではない」
この問題を分析するにあたり、わたしがまず最初に採用した議論は、スペルベル (スペルベル 1979 (1975)) の象徴的知識に関する議論である。スペルベルがドルゼの民族誌からもちだした疑問は概略次のようなものである:ドルゼの人びとは (1) 豹はキリスト教徒であり、安息日には断食すると言う、そして (2) その安息日に彼らは豹の襲撃を恐れているのだ。
「豹は安息日には断食する」「豹は安息日に断食しない」
この矛盾を解くために、彼は2つの種類の知識を区別する。すなわち、「豹は安息日に断食する」に代表されるような象徴的知識と、「豹はいつでも狩をする」に代表されるような百科全書的知識である。彼の結論は、象徴的知識は引用符に囲まれて百科全書的知識になる、ということである。豹の例で説明すれば、「『豹は安息日に断食する』と祖先が言った」となる。これは百科全書的知識である。この命題は「豹はいつでも狩をする」と矛盾はしないのである。
百科全書的知識 (総合命題の集合):「豹はいつでも狩をする」象徴的知識:「豹は安息日には断食する」
豹は安息日には断食する「豹は安息日には断食する」と祖先が言った
このスペルベルの議論を、しかしながら、直接にエンデの事例に適用ができない、という点がわたし自身の議論の出発点となる。なぜなら、(もちろん、象徴的知識が引用符に囲まれる事例もあるのだが)しばしば象徴的知識ではなく、百科全書的知識が引用符に囲まれているからなのだ。
しばしば百科全書的知識が引用符に囲まれる学校の先生は「クピは一番高い山ではない」と言う
わたしが辿りついたのは次のような結論である: (1) 二つのゲームがある。 (2) 会話状況のなかでどちら一つが地になり、どちらか一つが図になるのだ。図となったゲームの言明が引用符で囲まれる。2つのゲームを伝統の言語ゲームと近代の言語ゲームと名付けよう。あるときは伝統が地になり近代が図となる:「クピ山が世界一高い山だ」と祖先はいった。あるときは近代が地になり伝統が図となる:「クピ山は世界一高い山ではない」と先生が言った、と。
伝統が地で近代が図になる:近代が引用符に囲まれる近代が地で伝統が図になる:伝統が引用符に囲まれる
地になっているゲームは生きられている(人びとがのめりこんでいる)ゲームであり、人びとは図になっているゲームからは一抜けているのだ。地になっているゲームはそれがゲームとしては意識されていない。
地となったゲーム:のめりこむ、ゲームであることに気がつかない(単相)図となったゲーム:いちぬける、意味のないゲームである(複相、引用)
[ under construction JTB ]
S は P を信じている P は真である S は P を信じている理由を正当化できる
P は Q による Q は R による・・・ Z は明らかである(理由を要しない)
[ under construction 感覚印象 ]
[ under construction 「所与の神話」 ]
[ under construction 1963年の Gettier の論文 ]
スミスとジョーンズが会社面接スミスは次の命題を真と考えている — a. 採用されるのはジョーンズであり、かつジョーンズのポケットには10枚の硬貨がはいっちえるスミスは、その会社の社長が「採用されるのはジョーンズ」だと明言したのを聞いたスミスはジョーンズのポケットに10枚の硬貨を数えたスミスは (b) を真であると信じる — (b) 採用される男のポケットには10枚の硬貨が入っている
たまたまスミスのポケットに10枚の硬貨が入っていたたまたまスミスが採用された
スミスの (b) は JTB であり、知識であるべきだ。しかし、知識とは言えない。
[ under construction ]
「正当化理由を心に抱く」という条件をはずすと外在主義が生まれる。
法則的な (lawlike) 関係規則的 (regular) な関係温度計と温度 → 信頼できる
[ under construction 知識の日常的意味 ]、 [ under construction 「間違った知識」 ]
||単相|浅い複相|深い複相|単相2| |外在主義|知識|信念|-|-| |内在主義|(真理)|信念|知識|-| |内在主義改|-|信念|知識||
知識と信念という言葉をつかって、これまでの議論を言い換えたい。
[ under construction JTB ]
わたしの言いたいことは、もちろん、地が知識であり図が信念である、ということではある。ポイントは、知識が問題になるのは、飽くまで信念が問題になった時点でのことだ、ということである。
地:知識図:信念地は図がなければ意識されない知識とは、信念との対照の中でだけ意識されるモノである
地は図があってはじめて地として意識される。図がなければそれは地でさえないのだ。それは単相状況・複相状況の議論とも重なる。単相状況の「ウサギだ」をアスペクトは言わない。複相状況、すなわち「アヒルだ」と出会ったとき、はじめて「ウサギだ」が「ウサギに見える」「アヒルに見える」」となることにより、アスペクトが浮上してくるのでる。
地だけなら地でさえない図があってはじめて地が意識される「ウサギだ」はアスペクトではない「アヒルだ」に出会うとき「アヒルに見える」「ウサギに見える」というアスペクトになる
[ under construction 否定性の欠如 ]
単相:地だけ:否定性の欠如複相:地と図:地の中の否定性としての図:地の文(引用部分が抜けている)
同様に、知識はそれが地であるあいだは知識でさえないのだ。他の信念の出会うとき、はじめて知識として意識される。
図(他の信念)があらわれるとき地(知識)としてあらわれる
オースティンの「真理」 のペーパーを、この議論の脈絡にあうように翻案して紹介したい。 [ under construction ]
「Aをわたしは知っている」「A」となにが違っているのか「Aと約束する」と「A」の違いだ明示的遂行発話
[ under construction ]
「A」:地だけの知識(地でさえない・単相状況)「Aと知っている」:図に対照された地(引用されている)図:「きみはBと信じているかもしれないが」
相対主義の批判としてデイヴィドソンの「概念図式という考え方そのものについて」 について前の論文で言及した。ここで批判の対象になるのは枠組と内容という二元論である。そしてこの批判を、わたしは正しいと思っている。
概念と枠組みの二元論批判
ゲームの外側をあれこれ言う者は、この二元論に与しているのである。枠組の向こう側(ゲームの外側)に内容がある、という考え方である。たとえばウサギゲーム、アヒルゲームの外側に、インクの染みとしての形(内容)がある、という考え方である。野矢は言う:「インクの染みもまたアスペクトである」と(出典不明)。 3
デイヴィドソンの批判:枠組と内容の二元論は成立しない「ゲームの外側」論者は内容を認める— 枠組(ゲーム、アスペクト)の向こう側の基体(インクの染み、など)
「ゲームの外側はない」という考え方に貫かれたのが『言語ゲームが世界を創る』 ( (中川 2009))である。最終章で展開される「事象様相(デ・レ)はない」という宣言こそ、「ゲームの外側はない」という宣言なのである。すべてが言表様相(デ・ディクト)であるとは、すべての言明が潜在的に引用符に囲まれる得る、すなわち「不透明な文脈」を提供する、ということなのである。
事象様相(デ・レ)は存在しないすべてが言表様相(デ・ディクト)である → わたしたちのなすすべての言明が潜在的に引用符に囲まれ得る、不透明性 (opacity) の文脈を提供する → ボルヘスの宣言「人生は引用である」
呪術の脈絡に照らし合わせながら、ここまでの議論をまとめておこう。
流用・先住民の叡智の二つともに、言及だけの引用、すなわち [ under construction ]
表 [@homology] には堕落の項が欠けていた。図と地の議論を通してわたしが指摘したかったことは、堕落とはもう一つの平穏なのだ、ということである。 [ under construction ]
流用・先住民の叡智:「出会い」(観点なしのアスペクト)図と地の逆転:「平穏」と「堕落」の逆転知の相対性堕落はもう一つの平穏
「よろめき型」を語り直してみよう。こうなる。平穏の状況とは地だけの状況である(単相状況)。ためらいで図が浮かびあがってくるのだ(複相状況)。堕落するとは、図が地になってしまう状況のことである。いままでの地が消えてしまうが、いままでの図が全てを覆うわけなので、けっきょく地だけの状況、すなわち単相状況となるのだ。
平穏:地だけ(単相状況)ためらい(出会いから誘惑):図が浮かぶ(複相状況)堕落:図が地になる→地だけ(単相)
これまでの時点の議論を補足して、表 [@homology] を完成させよう。表 [@complete] を見よ。
アスペクト論と引用論(完成版)
|よろめき型|平穏|出会い|誘惑|堕落| |モーム型|平穏|興醒め|疑惑|熱中| |アスペクト論|単相|複相(アスペクト)|複相(相貌)|単相| |引用論|使用|言及|使用と言及|使用| |ゲーム論|のめり込む|いち抜ける|遊ぶ|のめり込む | —– |記述|原住民|旅人|人類学者|原住民| |修辞|主張文|パロディ|アイロニー|主張文(嘘)|
なお最終列(修辞)は、次の節で扱う議論を先取りしたものである。