第3章 「これはケーキです」―ゲームと虚構

Satoshi Nakagawa

1 はじめに

[ under construction ]

1.1 これまで

異文化の見える時を題材にして、これまでアスペクト把握にそって議論を進めてきた。複相把握こそが異文化を見つけるキーモーメントであるのだが、その複相把握に二種類ある、というのが前章までに明らかになった。野矢((野矢 2011))の言葉をつかえば相貌をもった複相把握(深い複相把握)とそうではない複相把握(淺い複相把握)とである。

前章は、二つの複相把握を区分する鍵となる「相貌」を、アスペクトのもつ全体性の中から説明した。すなわち、あるアスペクトが部分となるような全体性があり、その全体性を見据えた上での複相把握が相貌をもった、すなわち深い複相把握だ、ということを明らかにしたのだ。

1.2 これから

この章では、深い複相把握のさらに十全な理解へと進んでいきたい。

そのための対象としてゲームと虚構について見ていく。この章は三つに分かれる― 最初の節は「中川のゲーム論」であり、そこではわたし(中川)の『言語ゲームが世界を創る』((中川 2009))で描かれたゲーム論を修正する作業が行なわれる。簡単に言うと、『言語ゲームが・・・』で、わたしは、まだ複相把握を分けて考えていなかったのだ。

次の節ではウォルトンの虚構(映画や小説)についての議論((Walton 1993))をとり挙げ、鑑賞者(観客や読者)の態度とは、虚構というゲームに参加するプレーヤーであることを示す。プレーヤーの態度を理解するポイントは、彼女は、虚構の中と外の二つの視点を作り出すということである。

ウォルトンの議論を、さらにベイトソンの「空想とゲームの理論」((ベイトソン 2000))に重ねあわせるのが、その次の節である。ここでは、ウォルトンの二つの視点というのが、ある種のパラドックスの上に成り立っていることを示す。

複相把握、とりわけ深い複相把握とは、論理的な矛盾をさえ含むような能力なのである。

2 中川のゲーム論

この節では、アスペクト論をゲームをめぐる議論(ゲーム論)へと接木したい。ケンダル・ウォールトン((Walton 1993))によれば、すべての虚構(フィクション)は “Make-believe” (ごっこ)であるという。ゲーム論とはすなわち虚構論でもあるのだ。わたしは、アスペクト論をゲーム論、虚構論へとつなげていきたいのだ。

まずは、アスペクト論をゲームをめぐる議論の中に取り込む作業から始めよう。

2.1 全体性としてのゲーム

アスペクト把握の全体性は、アスペクト把握の背後になにか全体性をもった体系を示唆する:それは言語であり、そして文化なのだ。それらをゲームと一般化することによって捉えよう、というのがこの節の作戦である。すなわち、アスペクトを把握する能力とはゲームを遊ぶ能力であると言い換えた上で、問題を「ゲームを遊ぶ」とはどのようなことか、と再提示したいのだ。

2.1.1 ままごと

出発点としての自閉症の欠けている能力としてのアスペクト把握(「空想的知覚」)にもどろう。ここに既にゲームが言及されていたという事実を思い起こしてもらいたい。自閉症者はゲームを遊ぶことができないのである。「石をケーキとみなす」というアスペクト把握は、ままごとというゲームの場の中で起きることである。あるいは「タクアンを卵焼きに見立てる」 (野矢 1999: 野矢 1999) (166: 野矢 1999)というアスペクト把握は「花見ごっこ」というゲームの場の中で起きることなのだ。

2.1.2 二つの態度

この節の目的は、わたしがかつて示した「ゲームの遊び方」を紹介したうえで、それを修正していくことである。

『言語ゲームが世界を創る』((中川 2009))の最初の章で、わたしは、ゲームに望むプレーヤーの態度から議論を始めた。

それには二つある:「のめり込む」と「いち抜ける」である。 [ under construction ]

態度 意味 ルール
のめり込む ある 不可視
いち抜ける ない 可視

当該の本ではアスペクト論に言及はしていなかったが、これをアスペクト論に接木するのは簡単である。 [ under construction ]

態度
単相 のめり込む
複相 いち抜ける

2.2 議論への疑問

10年以上講義で使ってきた人類学入門であるが、わたしは近年、この図式にたいしていくつかの疑問を感じるようになった。

一つは日常生活(人生、文化)と通常のゲームとの違いである。 [ under construction ]

2.2.1 とりあえずの答

もちろん、それなりの答をもって二つの態度の議論はした。すなわち、通常のゲームがいち抜けられるのは、それを取り囲む日常生活という土台があるからだ、と。そして生活世界には、そこから抜けたときに踏むべき土台はないのだ、と。それが『分裂病の少女』(???)が示すことだ、と。

[ under construction ]

2.2.2 それでもおかしい・・・

以上が、『言語ゲーム・・・』を執筆していた当時のわたし自身の答である。しかし、現在考えると、その答は納得のいくものではない。最も問題となるのは、ゲームとは、その本質としていつでも一抜けることができるものではないか、という疑問があるのだ。その点を抜きにして、ゲームと(一抜けることが想定されていない)生活世界といっしょに議論することは正しくないと、現在の私は思う。

もう一つの問題がある。こちらは第一の問題(ゲームの本質は一抜けることができる、という点)に比べれば、本質的ではない。しかし、人類学者としてのわたしには致命的なものである。ゲームに対する態度として二つを挙げた― のめりこむと一抜ける、である。文化にのめりこんでいるのは原住民であろう。一抜けているのは旅人であろう。わたしの疑問とは、人類学者とは原住民とも違うし、また単なる旅人とも違う。原住民と生活世界への態度が違うというのは、わたしの実感である。簡単に言えば、わたしは調査が終わればいつでも一抜けて、わたし自身の生活世界へと戻ることを知っているのであるから。そして、単なる願望なのかもしれないが、それでも旅人のような(一抜けている)態度をとっているとも思いたくない。人類学者は旅人よりももう一歩現地の人の生活世界に近い位置にいる、と思いたいのだ。

答は、もちろん、見えている。複相を二つに分けた現段階から言い換えると、旅人を淺い複相把握に、人類学を深い複相把握に当て嵌めればいい、ということだ。問題は、ゲームに対する態度において二つの複相をどのように区別すべきかが、まだ見えていないのだ。

その問題に取り組む前に、まず用語、とりわけ問題の多い「のめりこむ」について整理しておきたい。

2.2.3 「のめりこむ」の削除

これ以降、その解釈が問題となる「のめり込む」は使わないことにする。「のめりこむ」が「誘惑」の段階(深い複相把握)にも、「転落」の段階(もうひとつの単相)とも、はっきりしないからである。

ゲームへの、あるいは異文化への転落の状況を「ゲームに融即する」 (to participate) と呼び(cf (Walton 1993: 190))、それの一歩手前の状況をすなわち、深い複相把握あるいは「誘惑」の段階を「ゲームにとらわれている」と表現したい。

「融即」の語については、ここでは、「一体化」と捉えていただければよい。あるいは、バックパッカーの用語で言えば「沈没」となろう。

また浅い複相はゲーム論の中では「ゲームにとらわれている」状況から推移した段階として描いたので「一抜ける」という語を使ってきた。逆にゲームに気づかない状況、すなわち「平穏」からの推移としては「気づき」あるいは「観察」などの語がふさわしいだろう。ここでは「観察」を使わせてもらう。

よろめき 平穏→ 出会い 誘惑 →転落
モーム型 平穏← 興醒め 疑惑 ←熱中
図と地
(もとは図)
よろめき 平穏 出会い 誘惑 転落
アスペクト 単相 複相 複相 単相
ゲーム 生きる いち抜ける とらわれる 融即
/観察 /遊ぶ

[ under construction モーム型について ]

[ under construction 図と地 ]

「融即」の語について簡単に説明する。 [ under construction レヴィ=ブリュル ]

[ under construction 二つの疑問の復唱 ]

2.2.4 二つの契機

本筋に戻ろう。わたしはゲームの二つの複相把握について考えようとしていたのだ。この問題を解く手掛かりは二つあった。一つは「分析美学」と呼ばれる領域から、もう一つはある特異な人類学者(グレゴリー・ベイトソン)の著作からである。個人的体験を先に述べれば、ベイトソンの方が先にくる。しかし、ベイトソンの議論を、先の疑問に結びつける(それを疑問への回答として読む)ことができたのは、分析美学からの導きである。ここでは、 [ under construction ]

議論が長くなるので、あなたがたが、もともとの疑問との関連を失なってしまうのが怖い。先に答を掲げておく― 図-(???) を見ていただきたい。

: ゲームとアスペクト把握

よろめき | 平穏→ | 出会い | 誘惑 | →転落 |
アスペクト | 単相 | 浅い複相 | 深い複相 | 単相 |
| | | (相貌) | |
| ウサギだ | ウサギ | アヒル | アヒルだ |
| | と信じている | に見える | |
文化 | 生きる | 一抜ける | とらえられる | 融即 |
| | /観察する | | /生きる |
ゲーム | 生きる | 観察する | 遊ぶ | 融即する |
| | /一抜ける | | 石を食べる |

[ under construction 表の説明 ]

2.3 内在的と外在的態度

【これはゲームと虚構のうち、「中川ゲーム理論の修正」に挿入する。さらに、それだけで一つの章にすべきだろう。(そして後半の虚構とゲームで別の章にする。)

2016年1月の最初にここから始めるので、復習の意味をかねている。

「内在的」と「外在的」を導入して、正直に言えば、議論の筋は変わらない。それでもこの用語を導入するのは、この二つの語の持っている対称性のゆえである。

議論をすすめるのに便利な言葉として、「内在的態度」と「外在的態度」という語を導入したい。これは伊藤笏康が「虚構と科学」 (笏康 1997) (伊藤 1997) という興味深い論文の中で使ったことばだ。

2.4 虚構とゲーム

どのように置き換えるかを最初に示しておこう。「浅いアスペクト把握」あるいは「一抜ける」を「外在的態度」に、「(転落としての)単相」あるいは「融即」を「内在的態度」に置き換えたいのである。

ただし、伊藤の用法は、この置き換えとは微妙に異なっている。まずは、伊藤の議論を紹介しよう。

2.4.1 伊藤の議論

伊藤自身の議論は、タイトルから分かるように、虚構の分析である。虚構の話から始めよう。

虚構を見るにあたって二つの態度を区別しよう、というのが、伊藤の議論の発端である。伊藤はその二つを「内在的態度」と「外在的態度」と呼ぶ。この語の対称性がひとつは通常の状況、『ジャックと豆の木』のお芝居をお芝居として鑑賞する立場である。子供たちはそのお芝居に引き込まれ、ジャックが巨人に追いかけられればドキドキする。「フィクションを怖がる」のだ。この子供たちの態度を、伊藤は「内在的態度」と呼ぶ。

もう一つは、たとえば園児のお芝居を見ている親や先生の立場である。「かれらが見ているのは虚構の世界ではなく、現実のわが子や園児たちがふりつけにしたがって演技している姿である。親や先生たちにとって『ジャックと豆の木』の虚構世界は、もともとわが子や園児の成長という現実を見るための、刺身のつまにすぎないのである」(笏康 1997: 108) (伊藤 1997: 108) 彼らは現実の一齣として、そのお芝居を見ているのである。そして、その態度は批評家のそれと重なるものであることを、伊藤は、正しく、指摘する。

伊藤は、虚構を楽しむとは、内在態度と外在的態度の二つのベクトルの合成にある、と結論する (笏康 1997: 109110) (伊藤 1997: 109110)。

2.4.2 間違い

伊藤の議論は、わたしの『言語ゲームが世界を創る』 (中川 2009)に似た間違いを犯している。伊藤の「内在的態度」と「外在的態度」は、『言語ゲーム・・・』における「のめりこむ」と「一抜ける」に正確に対応しているのだ。そして、すでに示したように、「のめりこむ」は融即の単相状況ではない。それ自身がすでにゲームの遊び方なのである。同じように伊藤の議論の中での内在的態度自身が 、虚構の遊び方になっている。すでに述べたように「フィクションを怖がる」のは、じっさいの恐怖とは違うのだから。伊藤のいう内在的態度は、それ自体が虚構の楽しみ方を示している。合成されているのは外在的態度と内在的態度ではなく、外在的態度と融即なのである。

2.4.3 修正

伊藤の言う内在的態度は融即ではない。ここでは、それを踏まえた上で、伊藤の「内在的態度」を(その意味を変更して)「融即」の言い換えとしたい。

わたしは、深いアスペクト把握(虚構を楽しむ、ゲームを遊ぶ)とは、淺いアスペクト把握と融即(単相)の間の往復運動である、と言った。これと同じことを、つぎのような言い換えでも可能にしたいのだ。すなわち、虚構を楽しむとは、外在的態度と内在的態度の合成である、と。

いつもの図を使えば次のようになる:

よろめき 平穏→ 出会い 誘惑 →転落
アスペクト 単相 浅い複相 深い複相 単相(融即)
虚構 外在的態度 楽しむ 内在的態度

3 ベイトソンのゲーム論

わたしなりの解釈を施したウォルトンの議論の結論、すなわち遊ぶとは、観察/一抜けると融即/没入することを同時にするのだ、という結論に対する理解をさらに深くするために、この節ではベイトソンによる「遊びと空想の理論」((ベイトソン 2000))を、そのような脈絡で読んでいきたい。

3.1 コミュニケーションの理論

ベイトソンが当該の論文で展開するコミュニケーション論は、「表象」の仕方をめぐる議論だとまとめることができよう。表象とは、何か (A) がその何かとは別のあるもの (B) を表わす (represent, stand for) ことである。そして、もっとも原初的な形態ではあらわされるモノ (B) は世界の中の事物、事態である。

3.1.1 シグナル

もっとも原初的なコミュニケーションは、意図が伴わないものである。 [ under construction ](「自然的」)

3.1.2 シグナルはシグナルだ

次の段階は「シグナルはシグナルに過ぎない」ということを知る段階となる。その知識を利用した戦略として、シグナルを発する側の視点から言えば、たとえば、脅しがあるだろう。じっさいになぐるつもりがなくても、拳をぐっと握りしめることが、相手に喧嘩となることを示すことになるのだ。こうすることにより、じっさいに喧嘩をすることなく、その本来の目的(例えば、餌に相手を近づけない)を果たすことができるのである。

おどしというコミュニケーションは、おどしがおどしとして知られてはならない、そのようなコミュニケーションだ。コミュニケーションの歴史の中で、そこからさらにもう一歩が踏み出される― ベイトソンの言う「メタ・コミュニケーション」である。脅しを脅しとして(ほんとうの喧嘩のシグナルとしてではなく)楽しむ方法である。メタ・コミュニケーションの一つの例として、ベイトソン((ベイトソン 2000) (ベイトソン 2000))は遊びに注目する。「ケーキをどうぞ」と一人が言うとき、そのメッセージとともに、「これは遊びだ」というメタ・メッセージがあるのである。あるいは、ベイトソンの例を使えば、子ザルががおたがいに噛み付きながら、「これは噛んでるんじゃないよ」というメタ・メッセージを発しているのだ((ベイトソン 2000: 261))。

3.2 論理階型の混同

ベイトソンの最大の功績は、この遊びという現象が「エピメニデスのパラドックス」あるいは「ラッセルのパラドックス」と共通の構造を持っていることを示したことである。

3.2.1 論理階型の混同

最初にラッセルのパラドックスの説明から始めよう。有名なパラドックスなので、筋書だけ示す。世界中の「赤い」モノの集合を考えよう。庭に咲いているバラ、机の上の赤い筆箱、等々、さまざまなモノがその集合に含まれるだろう。ここで、その集合自身を考える。その集合は、もちろん、赤くはない。それゆえ、その集合は、その集合に含まれない。

ここまでは問題がない。つぎの例題は「赤くない」モノの集合である。これもまた数えきれないほどのモノがその条件を満たし、それゆえその集合に含まれていくだろう。さきほどと同じようにその集合自身を考えてみよう。その集合自身は赤くない。それゆえ、その集合に含まれることになる。自分自身をメンバーとするような集合ができあがった。

というわけで、二種類の集合があることになる― 自分自身を含まない集合と、自分自身を含む集合だ。ここで集合をメンバーとするようなある集合を考えよう。その集合とは、自分自身を含まない集合を集めた集合である。

さて、そのようにして出きあがった集合を、 S と呼ぼう。次の問題について考えてほしい― 「S は S のメンバーであろうか?」

答は「イエス」か「ノー」かのどちらかである。「イエス」だと仮定しよう。すなわち、S は S のメンバーだ、ということになる。すると、S は「自分自身を含まない」集合を集めたものであるから、その条件に合致しないことになる。だから答えは「ノー」となる。すなわち、S は S のメンバーにならないのだ。そうならば S は S のメンバーになる資格がある(S は「自分自身がメンバーではない集合」の集合なのだから)。だから答は「イエス」である。

というわけで、(S は S のメンバーでもないし、S のメンバーでもある、という)パラドックスがここに顕現することとなった。これがラッセルのパラドックスである。 *****

ラッセルはこのパラドックスを「論理階型の混同」と呼ぶ。すなわち、集合そのものと集合のメンバーという階型 (type) の違うものを同時に扱うことから、このパラドックスは出てきたのである、と彼はいう。このパラドックスを集合論から除去するためには、集合論の中で階型の違うものを同時に扱うことが必要であるのだ。

3.2.2 無限の往復

矛盾がこの世界に存在しえない。わたしたちは論理階型の混同を虚構やゲームというこの世界の事物に適用したいのだ。ここで、論理階型の混同を論理的な矛盾としてではなく、この世界の現象として考える方法を探索する必要があるだろう。

「絶対矛盾的自己同一」という言葉さえ脳裏をよぎった。あるいは、ベイトソンを引用することも可能かもしれない―

:

ラッセルの《論理階型》の理論によれば、この種のメッセージは、端的に禁止されるべきである。というのも、「表わす」 denote という語が二つの異なった抽象レベルで現われ、それが同義として使われているからだ。しかし論理学からの批判によって、われわれは以下のことを学び取ればいいのではないか。 ― 自然史の学徒は、哺乳動物の精神プロセスとコミュニケーション習慣が、論理学的な“正しさ”に合致して進展してきたと安易に考えることはできないと。((ベイトソン 2000: 262)

次の図を見ていただきたい。これは、言わば、ラッセルのパラドックスの回路図であると言える。


+----------+
|          |
|       +------x
|      /   
|    +-------------o
|    |  +---+  +------+
|    |  |   |  | bell |
s    |  |EM |  +------+
|    =  +---+
|    |     |
|    +-----|
+----------+

ベルの回路図である。 =が電池であり、 EM は電磁石である。 s がスイッチだ。 s をオンにすると、回路が完成するので、EM が電磁石として働く。すると oを突端とする腕が磁石に引きつけられて、全体として下にさがる。そして o がベルを打つ。この時、xの部分もいっしょに下に下がるので、回路が開いてしまう。電流が流れないので、電磁石は磁石とならない。

わたしがこの回路図を使って言いたいことは、ラッセルの言う矛盾を「無限の往復」という運動として捉えたい、ということである。

3.2.3 嘘つきのパラドックス

さて、つぎにエピメニデスのパラドックスを見てみよう。このパラドックスの方が、遊びのメタ・コミュニケーションにより近いと言えるかもしれない。

エピメニデスはクレタ島出身の有名な哲学者であるという。彼がこう言ったという話が伝わっている― 「クレタ人は嘘つきだ」と。

この例をパラドックスとして説明するのは1 長く不自然な解説を必要とする。問題になっているパラドックスの本質を捉えた端的で短い例をつかいたい。嘘つきのパラドックスである。すなわち、「わたしはいま嘘をついている」という発言だ。

これがラッセルのパラドックスのように無限の往復に陥る類のパラドックスだということはとくに記す必要はないだろう。

遊びにおけるメタ・コミュニケーションが、ラッセルの議論や嘘つきのパラドックスに通じるというベイトソンの指摘は、さきほど言ったように、重要なものである。ただ、その指摘の後に続くベイトソンの議論は、わたしには混乱しているとしか思えない。ここからは、ベイトソンの指摘に基礎を置いたわたしの議論となる。

ここからは最も単純な嘘つきのパラドックス、すなわち、「わたしは今嘘をついている」を」基本的な枠組みとしながら、ベイトソンの指摘を、わたしの単相・複相議論そしてわたしの虚構論にあてはめていってみよう。

第一段階はつぎのようなものである。


これはケーキです

これが単相(「平穏」)の状況である。全く問題はないだろう。

第二段階は階型理論に基づいた矛盾を含まない状況である。


次の枠組みの中は嘘である

+----------------------+
|                      |
| これはケーキです      |
+----------------------+

これが虚構論の中の俳優の態度、すなわち「ふりをすること」に相当するのである。あるいはゲーム論で言えば「一抜けた」状況である。ラッセルの教えに忠実な、論理階型を混同しない、言わば行儀のいい状況である。この状況が浅い複相把握に相当することとなる。

この章の探求のポイントである複相把握、虚構論における「準恐怖」を感じる状況に相当する状況、あるいはゲーム論における「遊ぶ」に相当する状況は、以下の通りである。


+----------------------+
| この枠の中は嘘である  |
|                      |
|  これはケーキです
+----------------------+

ポイントは、もちろん、「この枠の中は嘘である」というメッセージが、それ自身が指し示す枠の中にはいってしまっている、ということだ。論理階型混同が起きている。「この枠の中は嘘である」というメッセージを理解して、その枠の中にある「これはケーキです」が嘘であることを理解する状況があるだろう。しかし、最初のメッセージは自分自身にも言及している。ということは、枠の中のメッセージはほんとうである、ということだ。だから「これはケーキです」は真面目にとるべきメッセージということになる。そして・・・

深い複相把握は、言わば、論理的に矛盾する状況であると言えよう。そしてこの矛盾こそが、虚構論の最後にわたしが述べた二つの視点を生成するメカニズムなのである。

3.2.4 無限の往復

一方でほんとうに恐怖し、もう一方でそれは嘘であると認識している、それが虚構の楽しみ方である。一方でケーキを見ながら、もう一方の視点ではそれがケーキであるのが嘘だと認識している、それがゲームの楽しみ方なのだ。それは論理階型の混同に由来するのである。

[ under construction ]

4 まとめと展望

遊びが成立するためには、融即されても、一抜けられてもダメなのだ。自閉症児のように石を口にしても(融即)、「つまらん」と放り出されても(一抜ける)、遊びは成立しない。遊びでは融即と一抜けることが同時に起きているのだ。

4.1 まとめ― (1) 民族誌の書き方

この議論を導入した本(『言語ゲームが世界を創る』)では、わたしは人類学の方法論について述べていた。

「のめり込む」は、もちろん、関の言う「没入」の謂いである。

[ under construction 行ったり来たり、使用と言及 ]

図-(???) を見よ。

4.2 まとめ― (2) 図と地

4.3 展望

引用へ!

Walton, Kendall L. 1993. Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Reprint. Harvard University Press.

ベイトソンG. 2000. 「遊びと空想の理論」. 精神の生態学, 改訂第2 版, 25878. 新思索社.

中川敏. 2009. 言語ゲームが世界を創る. 世界思想社.

野矢茂樹. 1999. 哲学航海日誌. 春秋社.

―――. 2011. 語りえぬものを語る. 講談社.

笏康. 1997. 「虚構と科学」. 分析哲学の現在, 編集者: 藤本 隆志 と 伊藤 邦武, 93121. 世界思想社.


  1. このままだとパラドックスにはならない。