異文化、ゲーム、虚構

Satoshi Nakagawa

1 はじめに

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1.1 これまで

異文化の見える時を題材にして、これまでアスペクト把握にそって議論を進めてきた。複相把握こそが異文化を見つけるキーモーメントであるのだが、その複相把握に二種類ある、というのが前章までに明らかになった。野矢((野矢 2011))の言葉をつかえば相貌をもった複相把握(深い複相把握)とそうではない複相把握(淺い複相把握)とである。

前章は、二つの複相把握を区分する鍵となる「相貌」を、アスペクトのもつ全体性の中から説明した。すなわち、あるアスペクトが部分となるような全体性があり、その全体性を見据えた上での複相把握が相貌をもった、すなわち深い複相把握だ、ということを明らかにしたのだ。

1.2 これから

この章では、深い複相把握のさらに十全な理解へと進んでいきたい。

そのための対象としてゲームと虚構について見ていく。この章は三つに分かれる― 最初の節は「中川のゲーム論」であり、そこではわたし(中川)の『言語ゲームが世界を創る』((中川 2009))で描かれたゲーム論を修正する作業が行なわれる。簡単に言うと、『言語ゲームが・・・』で、わたしは、まだ複相把握を分けて考えていなかったのだ。

次の節ではウォルトンの虚構(映画や小説)についての議論((Walton 1993))をとり挙げ、鑑賞者(観客や読者)の態度とは、虚構というゲームに参加するプレーヤーであることを示す。プレーヤーの態度を理解するポイントは、彼女は、虚構の中と外の二つの視点を作り出すということである。

ウォルトンの議論を、さらにベイトソンの「空想とゲームの理論」((ベイトソン 2000))に重ねあわせるのが、その次の節である。ここでは、ウォルトンの二つの視点というのが、ある種のパラドックスの上に成り立っていることを示す。

複相把握、とりわけ深い複相把握とは、論理的な矛盾をさえ含むような能力なのである。

2 ウォールトンの虚構論

とりあげるのはケンダル・ウォールトンの虚構論((Walton 1993)(ウォルトン 2015))である。おもに「フィクションを怖がる」 (ウォルトン 2015)の議論を紹介したい。

2.1 フィクションを怖がる

ウォルトンは次のように問題を示す― 「チャールズは恐怖映画を見ながら恐怖を感じている。この恐怖はほんものの恐怖なのだろうか?」と。

ウォルトンの議論にならい、鑑賞者を、そのまま、チャールズと呼ぶこととしよう。ウォルトンはスライムが出てくる映画を材料としている。スライムはいささか時代遅れなので、(またすぐに時代遅れになってしまうかもしれないが)「ジョーズ」(大鮫)で代替したいと思う。

2.1.1 準恐怖

その「恐怖」は、チャールズが他の場面で感じるであろう恐怖と多くの点で一致している。しかし、その恐怖は、たとえば、じっさいに鮫(ジョーズ)がやってくる場面で感じたであろう恐怖とは、たとえば恐怖のもっている対象において決定的に異なっている― すなわち映画をみての恐怖だと、その対象は、いわば、「虚構のジョーズ」であるのに対し、じっさいの場面での恐怖の対象は「ほんもののジョーズ」である、ということである。

以上を鑑みて、ウォルトンは、映画の中の恐怖を「準恐怖」 (quasi fear) と名づける。

2.1.2 ふりをする―作者と俳優

準恐怖と間違えてはいけないのは、恐怖のふりである。

たとえば映画の中でジョーズに追いかけられている俳優の「恐怖」を考えよう。ここで俳優はわたしたちが恐怖と呼ぶような感情を感じていないことは明瞭であろう。俳優の感じているものがなんであれ、それは恐怖ではない。

同じことが(議論に少し変更を加えれば、 mutatis mutandis)、作者に対しても言える。サールは、「虚構的叙述の論理的な地位」((Searle 1979))の中で虚構の作者について述べている。「ジョーズが来た」と書く作者を考えよう。彼女は「ジョーズが来た」と主張しているのは確かだが、それは真面目に主張しているのではない。彼女は主張しているふりをしているだけなのだ。

サールはこのような主張をすることを、「不真面目な主張をする」、あるいは「偽装主張をする」と呼ぶ。ここでは、ウォルトンの言葉 “Make-believe” を副詞にした(“Make-believedly”)「ごっこで」という語を使いたい。すなわち、作家は「ごっこで主張」しているのだ。

2.1.3 まじめに主張する―批評家

ウォルトンは取り上げていないが、虚構の分析に欠かせないもう一人の人物をとりあげよう― 批評家である。

サールの分析((Searle 1979))によれば、典型的な批評家の文体は次のようになるであろう― 「虚構のなかでジョーズが来た」と。この主張は、生活世界の中で(サールの言い方を借りれば)まじめに行なわれる。

「まじめに」を、「現実に」1と言い換えたい。

注意すべきなのは、虚構は独立した世界でも閉じた世界でもないということだ。虚構と現実の関係は、二つの世界という関係ではない。虚構は、現実の中の部分に過ぎないのだ。ちょうど椅子が現実の部分を成すように、虚構は現実の部分を成しているのだ。

俳優と批評家の違いを強調しておこう:俳優は決して「虚構の中でジョーズが来た!」とは叫ばない。

2.1.4 鑑賞者―虚構にとらわれる

サールは作者と批評家とを対象に虚構論を展開する。サールとは異なり、ウォルトンは虚構を見るのに、作者だけでなく鑑賞者(「チャールズ」)をもその中に入れて考える。そして私もこの作戦に賛成する。虚構の仕組みを見るのに、鑑賞者を議論の対象として組込むのは必須である。

準恐怖を対象にして、わたしたちが行ないたいことを、ウォルトンの言葉を借りていい直しておこう。鑑賞者の提起するはこうである:

:

虚構世界は、われわれがそれは現実でないと十全に認識しているときでも、現実世界とほとんど同じくらい「現実的 (real)」に思われる。いったいどのようにしてこのようなことが起こるのか。 (ウォルトン 2015: 324)

これが、強いて言い換えれば、「虚構的現実性」の仕組みを見出すのが、わたしたちの課題となるのだ。

このような鑑賞者の態度の特徴は、これまで「不信の宙吊り」(suspension of disbelief)2 とか「距離の縮減」と呼ばれてきた。3 それらはたいへんに印象論的な表現である。それをより正確に表していこうとするのが、ウォルトンの議論である。

「距離の縮減」も「不信の宙吊り」も適当ではない、とウォルトンは言う。われわれは「ハックルベリーフィンが存在したとは信じていない」 (ウォルトン 2015: 324)のである。不信は宙吊りにはされていないのだ。

ウォルトンは、チャールズの「準恐怖」を全く別の仕方で説明する。

2.2 ごっことしての虚構

ウォルトンの議論を二段階で説明しよう。ひとつは「ごっこ (Make-believe)」に関する議論、より具体的に言えば「虚構を鑑賞するとは、ごっこに参加することである」というテーゼと、そしてもう一つは、「虚構あるいはごっことは内包オペレーターである」という議論である。4

2.2.1 準恐怖の仲間たち

映画『ジョーズ』を見ているチャールズが、つき進んでくる巨大(「ジョーズ」である)を見て、思わず「おう!」と声をあげた状況を考えよう。冒頭の「準恐怖」とまさに同じ状況である。

準恐怖は、恐怖と似ている。違いは対象が虚構内のものか、そうでないかというという点である。その点において、準恐怖は「不信の宙吊り」ではない。繰り返すが、チャールズはジョーズを信じてはいない。不信はそこにあるのだ。

2.2.2 準恐怖ではないもの

たとえば、チャールズが、「ジョーズが来る」という発言をしたときを考えよう。これは「お!」の発言とは異なっている。5 ここでは、チャールズは、むしろ、ふりをしているのである。それは、俳優と同じ状況である。「おう!」と発話するチャールズが恐怖、すくなくとも準恐怖を感じているのに対し、「ジョーズが来る」と発話するチャールズは、(「ジョーズが来る」と発話する俳優と同じように)恐怖を、あるいは準恐怖を感じてはいないのだ。

2.2.3 虚構を鑑賞するとはごっこに参加することである

それでは準恐怖を感じているチャールズ、思わず「お!」と発話するチャールズをどのように捉えればいいのだろうか。

鑑賞者(ここではチャールズとなる)の態度についてもっとも重要な点は、鑑賞者は、ウォルトンの言葉を借りれば、「外側の観察者ではない」 (ウォルトン 2015: 322) という点である。

鑑賞者のもつこの特徴(「外側の観察者ではない」)を敷衍して、ウォールトンは小説を読む体験、映画を観る体験を、ごっこ (Make-believe) への参加の体験と重ねる。すなわち、鑑賞者は虚構に参加 (participate) しているのだ。いよいよ、ここにおいて、虚構論がゲーム論に重なるのだ。

ウォルトンが挙げるごっこは次のようなごっこである。父親が恐い顔をして子供を追いかけている、そして子供が「きゃーきゃー」言いながら逃げまわっている。そのようなごっこである。

映画を見て、思わず「お!」と叫ぶチャールズは、きゃーきゃー言いながら逃げる子供と同じ状況なのだ。

2.2.4 中川ゲーム論との重なり

俳優として虚構に参加する仕方、すなわち「ふりをする」ことが、中川のゲーム論の「一抜けた」に、そして、チャールズのように「物語にとらわれている」(ウォルトン 2015: 324)6 虚構に参加する仕方が、中川ゲーム論の「遊ぶ」に相当することは明瞭であろう。表 ((???)) を見よ。

: ゲームと虚構

|よろめき|平穏→|出会い|誘惑|→転落| |モーム型|平穏←|興醒め|疑惑|←熱中| |アスペクト|単相|浅い複相|深い複相(相貌)|単相| |中川ゲーム論|現実|一抜ける|遊ぶ|(石を食べる自閉症児)| ― |ウォルトン虚構論|現実|ふりをする(俳優)|遊ぶ(鑑賞者)|(『パタリロ』の宇宙人)|

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2.3 内包オペレーターとしての虚構

ウォルトンは作者や俳優のふり(サール風に言えば「偽装主張」)と、鑑賞者の態度(それは準恐怖に端的にあらわれる)を論理学的に明瞭にしていく。ウォルトン自身は、明示的に述べていないが、ここでは三浦の『虚構世界の存在論』((俊彦 1995))に基づいて、解説していきたい。その道具立ての主役は「内包オペレーター」 (intensional operator) である。

そのためには指示の不透明性についての準備作業が必要である。なるべく簡単に指示の不透明性の問題を紹介したい。

2.3.1 外延と内包

まずは、「外延」と「内包」についての復習から始めよう。 [ under construction ]

:

例えば<人間>という概念の内包は<人間性>、外延は<人類>となる。フレーゲでは、ある概念(=述語の意味)に属する対象の集合(値域)が当の概念の外延であるが、また当の述語の意義がほぼ内包に相当する。カルナップは、フレーゲ的意味と意義の区別を改変しつつ一般化し、外延と内包の区別に重ね、名前、述語、文の各外延(内包)を、それぞれ、個体(個体概念)、個体の集合(性質)、真理値(命題)とみなした。 (野本 1988)

2.3.2 外延と文の真理値

命題とその命題を構成する語の外延については、たいがいの場合、つぎのことが言える:命題の中の語を、それと同じ外延をもつ語と入れ替えても命題の真偽値は変わらないのだ。

[ under construction いくつかの例 ]

これを外延性原則と呼ぼう。この原則はわたしたちの直観とも整合的である。

2.3.3 エレクトラのパラドックス

しかし、じつは、この原則のあてはまらない例が存在する。

次のような状況を考えてほしい。

エレクトラ7は彼女の前にいる男が弟であることを知らない((a))。そして、エレクトラはオレステスが彼女の弟であることを知っている((b))。さて、彼女の前にいる男は、じつはオレステス、すなわち、彼女の弟だったとしよう。

以上の三つの文から、(d)「エレクトラはその同一人物が彼女の弟であること知っており、かつ知らない」という文が導き出せる。もちろんこの文は成立しない。

2.3.4 パラドックスの解消法

論理学の入門書はつぎのようにこの矛盾のよって来たるところを指摘する── (b)における彼女の知識は、オレステスという表現の外延よりはむしろその内包に関係している。このことが(c)を不適切なものにしている。というのは、(c)は外延の同一性のみを主張しているからである、と。

あるいは、雑な言い方をすれば、 (c) は現実世界に関する言明であるのに対し、 (b) は(エレクトラの)信念世界に関する言明であるのだ。

2.3.5 明けの明星のパラドックス

現実世界と信念世界の対立について述べたが、パラドックスは信念だけに限るわけではない

明けの明星のパラドックスと呼ばれるパラドックスがある。

「あけの明星と宵の明星は同一の天体である」(1)は、この世界で成立する同一性言明である。「あけの明星が太陽系の内側から二番目の惑星である」という文が成立するのなら、もちろん、「宵の明星が太陽系の内側から二番目の惑星である」という文も成立する。ところが、「古代エジプト人はあけの明星が宵の明星であることを知っていた」 (2)という文を考えてみよう。この文(2)に、同一性言明の (1) を当てはめると、「古代エジプト人はあけの明星があけの明星であることを知っていた」(3) という無意味な、すくなくとも、(2)とはまったく違った意味の文が誕生するのだ。

2.3.6 命題的態度と不透明性

命題を目的語とする動詞、たとえば「信じる」「思う」「知っている」「発見する」等の目的語となる文の中では外延性の原則、すなわち、外延による同一性言明による入れ替えが成り立たない、これが「命題的態度文という文脈の中の不透明性」の問題と呼ぶ。

2.3.7 デ・レとデ・ディクト

そして、現実世界に関する読みをデ・レ(事象様相)と、そして言われたことの読みをデ・ディクト(言表様相)と呼ぶ。 [ under construction ]

言い換えれば、命題的態度を示す動詞は、導かれた命題を内包的に(あるいはデ・ディクトとして)読むことを強制するのである。このように内包的に読むことを強制する文脈を用意するもの(命題的態度がその主たるものだが)を、ここで内包オペレーターと読んでおこう。

[ under construction ] 様相命題―「6+1 が 7 であるのは必然的である」←→ 「6+1 が 惑星の数であるのは必然的である」

議論を整理するためだけが、ここで「外延オペレーター」という語を導入したい。「つづく命題を外延的に読め」というオペレーターである。おそらく、このような語を使った哲学者はいないと思う。ほとんどの文が外延性の原則を満たしているので、日常会話では「外延的に読め」というマークは必要ないのだ。すなわち、日常会話において、外延オペレーターは、ほとんど、使われることはない。

2.3.8 スコープ

さて、ここで、次のような文を考えてみよう:「野崎は阪大教授はすべて音痴だと信じている」。「信じている」が命題的態度を導く動詞、すなわち内包オペレーターであることから、デ・ディクトの読みをすべきであることは見当がつくであろう。しかし、それでもまだ問題は残るのだ。

この文には、じつは、二つの読みが可能である。一つは、野崎が知っているすべての阪大教授を想定して、その一人一人が音痴だと、野崎が考えている、という読みである。もう一つは、野崎の信念世界において阪大教授がすべて音痴だ、というのだ。

この違いを生みだすのが命題的態度を指定する動詞、あるいは内包オペレーター(ここでは「信じる」)のスコープである。下図を見よ。


(a) all (x, F(x) -> B(a) [G(x)])     (de re)
(b) B(a) [all(x, F(x) -> G(x))]     (de dicto)

(a) すべての F であるような X について、
信じている(a) [x は G である]

(b) 信じている(a)
[ すべての F であるような x について、x は G である]

ただし F(x) は、「阪大教授である」、 G(x) は、「音痴である」を意味する。

(a):野崎くんの信念世界において、阪大教授がすべて(すなわち、これらの世界で阪大教授である個人の全てが)音痴であることを意味し、(b)では、野崎くんは一群の命題を信じている。すなわち阪大教授の各々(現実世界の阪大教授)に対して、この個人は音痴であるという命題を野崎くんは信じているのである。

2.3.9 ウォルトンの議論

以上の道具立ては、「虚構において」を内包的オペレーターとして見よう、という意図のもとになされている。そして、批評家、俳優、鑑賞者のそれぞれの態度を内包的オペレーターのスコープの問題として整理したいのだ。

2.4 三つの態度

以下、三浦の『虚構世界の存在論』((俊彦 1995))のまとめによって、ウォルトンの議論をまとめておこう。なお、わたしは、ここで三浦の例だけでなく議論そのものも修正している。これから行なわれる議論が正しければ、その99%は三浦の手柄であり、議論が間違っていれば、その99%はわたしの責任である。

以下の整理において中括弧でくくったものはオペレーターである。「{ごっこで}」は内包オペレーターである。「{現実に}」は外延オペレーターであり、サールのいう「まじめに」に相当するものだ。

2.4.1 虚構オペレーターと現実オペレーター

さて、中川の修正による三浦によるウォルトンの議論のまとめを挙げよう。三浦のオリジナルにはないが、対照を明瞭にするために、現実世界のジョーズと、そのジョーズを見た人間(「野崎」という名前だとしよう)の発話をかんがえる。

次のようになる。なお、以下の (A) はオリジナルにはなく、 (A’)は、オリジナルにおいては (A)である。


(A) 野崎は{現実に}主張する[{現実に}ジョーズが来た]
(A') 批評家は{現実に}主張する[{ごっこで}ジョーズが来た]
(B) 俳優は{ごっこで}主張する[{現実に}ジョーズが来た]
(B') 読者は{ごっこで}心配する[{現実に}ジョーズが来た]

「{}」に囲まれた句はオペレーターである:「{ごっこで}」は内包オペレーターであり、「{現実に}」が外延オペレーターである。内包オペレーターのスコープ(作用域)にある語句は内包的に読まなければならない。外延オペレーターは、読み(解釈)において、省略して問題ない。オペレーターのスコープ(作用域)は大括弧(「[]」)で示されている。

さて、それぞれを解釈していこう。

批評家(A’)は、あたかも虚構を相手にしているかのごとくであるが、すでに述べたように、じつは野崎くん(A)と同様、現実だけの世界に生きているのだ。 (A’)(批評家)において、虚構は世界ではなく、現実世界の部分にしか過ぎないのである。

  1. そして (B’) は「ふりをしている」だけである。この段階での読者は、俳優と同じであり、彼の心配や恐怖は決して「準恐怖」ではない。

ごっこに参加するチャールズが感じる「準恐怖」のは、つぎの (C) の段階である。


(C) {ごっこで}[読者は{現実に}心配する[{現実に}ジョーズが来た]]

「{ごっこで}」という内包オペレーターのスコープが広がるのである。 (B’) においては、それは動詞「心配する」だけを含んでいた。 (C) においては主語である「チャールズ」をも含むのである。読者、たとえばチャールズは現実の読者ではなく、虚構のチャールズとなるのである。チャールズは、言わば、自らを演じるのである。

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2.4.2 虚構世界の拡張

虚構オペレーターのスコープが読者、鑑賞者、チャールズまでも含むとは、図式としては分かりやすいが、その具体的な意味を直感的に理解にしにくい。

ここで論理学をほとんど使わずに議論しているウォルトンのオリジナル論文に戻ろう。

:

ごっこ上でわれわれは、ハック・フィンがミシシッピ川を下ったということを信じているし、知っている。そしてごっこ上でわれわれは、彼や彼の冒険のついて様々に感じ、様々な態度をとる。 (ウォルトン 2015: 325)

この問題、言ってみれば「準信念」、「準知識」、「準恐怖」を、わたしたちは「オペレーターのスコープの拡大」として語ったのだが、同じことを、ウォルトンは次のように言う:

:

自分をどうにか騙して虚構を現実として思わせるというよりは、われわれ自身が虚構的になるのである。こうしてわれわれは結局、虚構と「同じレベル」に立つ。 (ウォルトン 2015: 325)

すなわち、虚構を現実にするのではなく、「われわれが虚構のレベルに降りてゆく」 (ウォルトン 2015: 324) ことが、虚構の現実感の答なのである。この状況は、石を食べてしまう自閉症児と同じことになる。融即の状況だ。ポイントは、その状況全体を「{虚構で}/{ごっこで}」という内包オペレーターがとり囲んでいる、という点である。

「{虚構的に}」という内包オペレーターが文全体をそのスコープに置くとき、その外側に「{現実に}」の外延オペレーターがある。わたしたちは虚構に降りた自分と現実の自分の二人に分裂するのである。

「わたし」を「視点」と言い換えよう。視点が二つに分裂するのだ。そうすると、この状況こそが、そもそもの複相把握の原点、視点の複数化の言い換えであることに気づくだろう。さらに言えば、複相把握の議論の際に、わたしが持ち出したラカンの鏡像段階の議論を思い出してほしい― あの時に用いた言い回しと別の言い回しで鏡の中の自身をはじめて見た幼児の状況をあらわしてみよう。幼児は鏡の中の自分と鏡の外側の自分という二つの視点を、同時に体験するのだ。それこそが、「自我」を生む体験なのだ、と。

ヒッチコックの映画『サボタージュ』(1936)に、それと知らずに時限爆弾をかかえて走る少年がでてくる場面がある。せまりくる爆発の時間を知っている観客は手に汗を握って少年を見守る。そして・・・なんと時限爆弾が爆発するのだ。観客はあっけに取られる。なぜ観客は驚いたのか― それはこの爆発が映画の文法を無視しているからだ。

この事例がわたしの言いたいことを見事に説明してくれるだろう。すなわち、たしかに、手に汗にぎって少年を見守っているとき、わたしたちは虚構に降りていっている(のめりこんでいる)。しかし、もう一つの冷静な目、虚構を虚構として見ている視点が同時に存在したのだ。その視点は少年が爆死したときにあらわになる― その視点こそが、「なぜヒッチコックはこんな映画の文法を無視した展開をとったのだ」という感想として浮かび上がってくる視点なのだ。8

きゃーきゃー逃げまわる子供は、決して一抜けて、ふりをしているわけではない。だからといって、父親が噛み付いたら、途方に暮れるだろう。もう一つの視点は、これが虚構だということを認識しているからなのだ。

お化け屋敷のおじゃる丸。

ウォルトン議論のまとめ

虚構を楽しむとは、すなわちゲームを遊ぶとは、虚構を外から見る(一抜ける)視点と虚構の中に降りてゆく(融即する)視点の二つの視点を同時に持つことなのだ。これこそが深い複相把握なのである。

前節、中川のゲーム論の中での疑問は次のようなものであった。人類学者は融即している現地の人でも、一抜けて、観察している旅人でもない。それでは人類学者はどのような態度で異文化に接しているのだろう、と。答は、彼女は融即と観察とを同時に行なっているのだ、ということになる。まさに融即・観察あるいは参与・観察である

(???)を見よ。

: ゲームと虚構

|中川ゲーム論|現実|一抜ける/観察|観察&融即/参与|融即(石を食べる自閉症児)| ― |ウォルトン虚構論|現実|ふりをする(俳優)|遊ぶ(鑑賞者)|(『パタリロ』の宇宙人)|

3 絵画の見方

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3.1 ウォルハイムの絵画論

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わたしたちは絵画鑑賞の際にどのような作業を行なっているだろうか、という問題に答えよう。

誰でも知っている絵画、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を考えよう。9 絵に描かれる女性を、ここではモデルと言われるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、すなわち「モナ・リザ」(リザ夫人)を指すとして、話を進める。

ウサギ・アヒルの図を経由したわたしたちは、すぐに絵画の鑑賞の仕方とは、絵画をモナ・リザとして見ることだと言いたくなる。

ウォルハイムは「の中に見ること、として見ることそして画像的表象」 (Wollheim 1980)という論文の中で、絵画の鑑賞は「として見ること」(seeing-as) ではなく、「の中に見ること」(seeing-in) だという議論を展開する。わたしたちはそのキャンバスに描かれた絵を「モナ・リザ」として見ているのではない、と。わたしたちは「モナ・リザ」をキャンバスの中に見ているのだ、と。

もし「モナ・リザ」として見ているのなら、ウォルハイムは言う、わたしたちはそこにモナ・リザしか見ないだろう。単相の議論を思い出して欲しい― 単相には認識論はない。「あれはウサギに見える」のではなく、「あれはウサギだ」という存在論の世界なのだ。「モナ・リザとして」見ている場合、それは本物のモナ・リザと出会っている場面と全く異ならないのである― 「あれはモナ・リザだ」。

しかし、わたしたちは『モナ・リザ』の絵を見るとき、そのモデルであるモナ・リザを見るだけでなく、その見事な筆捌き、色の使い方などを同時に鑑賞しているのだと。

を例にすると分かりやすいかもしれない。通常、わたしたちは字を字として見ている;「あ」の字を「あ」として見ているのだ。少々下手な字であろうとも、そうと認識できる範囲で、わたしたちはそれを「あ」として見ているのだ。書道の鑑賞の仕方は違う。たしかに、わたしたちは書道の作品を字として見ている。しかし大事なことは、その作品の中の筆捌きなどをも同時に見る。これが書道の鑑賞なのだ。これがウォルハイムの言う seeing-in なのだ。最後に、わたしたちが未知のスクリプトの事例を見ている場合を考えよう。この場合、わたしたちは「として」見る方法を持たない。それらのスクリプトを板に刻みこまれた傷としか見ることはできないだろう。

[ under construction 書取りと書道 ]

わたしたちの言い方を使おう。わたしたちが『モナ・リザ』を見ているとき、わたしたちはその筆捌きや色の使い方だけを見ることもできよう。これが外在的態度(一抜ける)である。可能性として、絵画をモナ・リザとして見ること(本物のモナ・リザに出会っているように見ること)もあるかもしれない。これが内在的態度(融即)である。そして、本来の絵画の鑑賞の仕方はその合成にあるのだ。すなわち、本物のモナ・リザのいる世界を地として、筆捌きなどの(現実世界)を図として見ているのである。

|絵画||筆さばき||本物のモナ・リザ| |絵画|現実世界|外在的態度||虚構世界への内在的態度|

4 まとめと展望

4.1 まとめ

4.2 展望

Searle, John. 1979. 「The Logical Status of Fictional Discourse」. Expression and Meaning. Cambridge, London, New York, New Rochelle, Melbourne, Sydney: Cambridge University Press.

Walton, Kendall L. 1993. Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Reprint. Harvard University Press.

Wollheim, Richard. 1980. 「Seeing-as, Seeing-in, and Pictorial Representation」. Art and Its Objects, 13751. Cambrdige: Cambridge University Press.

ウォルトンK. 2015. 「フィクションを怖がる」. 分析美学基本論文集, 編集者: 西村清和, 30134. 勁草書房.

トリュフォーF. 1981. ヒッチコック映画術. 晶文社.

ベイトソンG. 2000. 「遊びと空想の理論」. 精神の生態学, 改訂第2 版, 25878. 新思索社.

俊彦. 1995. 虚構世界の存在論. 勁草書房.

西村清和. 2015. 「解説(『分析美学基本論文集』)」. 分析美学基本論文集, 編集者: 西村清和, 41133. 勁草書房.

中川敏. 2009. 言語ゲームが世界を創る. 世界思想社.

野本和幸. 1988. 現代の論理的意味論 ― フレーゲからクリプキまで. 岩波書店.

野矢茂樹. 2011. 語りえぬものを語る. 講談社.


  1. これは三浦((俊彦 1995))の議論との整合性のために導入した。

  2. 訳注によれば、この語を最初に使ったのはコールリッジだという。

  3. 大澤による「アイロニカルな没入」を、リストに加えることができるだろう。

  4. 「内包オペレーター」の語は、論文の中では使われていない。それは、彼の議論の中に暗示されているだけである。この語を使ってウォルトンの議論を紹介したのは、翻訳論文集の編者(西村)による解説((西村 2015))である。

  5. ウォルトンは、「おう!」と発言したチャールズと、「ジョーズが来る」と発言したチャールズを、同じ状況にいると主張しているとも読める。わたしは、そうではないと思う。

  6. 同じページでウォルトンは「のめり込む」を使っている。ここでは使わないほうがいいだろう。

  7. ギリシャ神話に登場する女性である。

  8. ちなみに、ヒッチコック自身、この展開はまちがっていたと認めている。((トリュフォー 1981)

  9. ウォルハイムは違う例をつかっている。ここでは「誰でも知っている」とされるこの絵を例にしたい。