文化を単位に見るのではなく、その担い手から見る
平穏 → ためらい → 転落
「ためらい」という茫漠とした言葉でイメージを伝えていた「異文化の見える時」を言葉でアスペクト議論を簡単にまとめる。
ためらいが一つの離散的状態だということは、主張してきたが、この章でそのことを納得してもらいたい。さらには、ためらいの状態が、じつは二段階になっていることも示したい。
ためらいが離散的な中間段階であることためらいが2つの段階を持っていること
ここで簡単に学説史的な事実関係について述べておこう。この章の多くを、わたしは野矢に負うている。「単相」・「複相」は、野矢の最初期の著書『心と他者』 (野矢 2012 (1995)) に出てくる概念である。「相貌」は(現時点での最新の本)『語りえぬものを語る』 (野矢 2011)の中で大きな役割を担っている。 1 野矢は「複相」における相(アスペクト)と相貌を同じ意味に使っているように見える。
単相・複相—『心と他者』(1995) 複相としての相貌—『語りえぬものを語る』(2011)
わたしの貢献は、いわば、野矢のアイデアのパッチワークである。複相の把握を二つに分け、そのうちの一つを複相に当てる、という作業、これがわたしが行なった作業である。
複相を二つに分ける: (1) 相貌をともなわない(浅い)複相把握 (2) 相貌をともなう(深い)複相把握
「アスペクト」という概念は、ウィトゲンシュタインが、『哲学探求』で使用したものである。ウィトゲンシュタインのアスペクトの考え方、とりわけ「アスペクト盲」の思考実験をつうじて、この概念に深みを与えたのが、野矢の一連の論考である。おもに野矢に基づきながらアスペクトについて見ていこう。
ウサギにもアヒルにも見える反転図形がある。Aがこの図の前に立ち、「これはウサギだ」 (1) と言う。この状況を、野矢は「単相状態」と呼ぶ (210: 野矢 2012 (1995))。この状況ではアスペクトは介在しない。見え(アスペクト)は問題にならず、ウサギはそこにあるのだ。ちょうど独我論に我がないように、単相に相(アスペクト)はないのだ。Bが同じ図の前で言う、「これはアヒルだ」と。これもまたBにとっての単相状態である。よろめきドラマの比喩でいう「平穏」にあたるものである。
単相:Α「これはウサギだ」→存在論(純粋実在論)否定性の欠如単相:Β「これはアヒルだ」→存在論
二人が会話しはじめると、それがウサギなのかアヒルなのかという問題が生じる。ここでは、決着がつかずに、AおよびBがそれぞれ自分の共同体に戻った状況を考えてみよう。なお、Aの共同体では、全ての人がこの図をウサギに、そしてBの共同体では、アヒルに見ているとする。
論争 → 決着がつかない→ 帰還するAの共同体:ウサギ共同体Bの共同体:アヒル共同体
その論争が終わった後の、論争の報告を考えてみよう (2)。Aは報告する、「Bは「これはアヒルだ」と言う」(2a) と。あるいは、同じことだが、「Bは「これはアヒルだ」と信じている」(2b)と。
(2a) Α:Βは「これがアヒルだ」と言う (2b) Α:Bは「これがアヒルだ」と信じている(否定性の誕生)
後により詳細に取り上げるポイントであるが、この時点ではじめて信念文が登場することになる。すなわち、信念文とは、他人の心の中を見据えて語るのではなく、ある発話を、その発話の内容に異論が出ることが予想される共同体の中で報告するときに使う特別な文だ、ということはおさえておきたい。
ひとの心の中を描写する文ではないある発話を(その発話の内容に異論がでることが予想される読者にむかって)報告する文である(後述)→ 信念と知識(図と地)
Aが報告の中に、「見え」のイディオムを導入することは自然だろう— 「Bはこれをアヒルとして見ている」、「Bにはこれがアヒルに見える」(2c) と。見え(アスペクト)が介入してきたのだ。この段階を野矢は「複相状態」と呼ぶ。
(2c) A:「Bにはこれがアヒルに見えている」
この複相の段階が異文化の見える時、すなわち前の章で述べたためらいの状況であるのだ。Aは「ウサギ」文化に属しながら、「アヒル」文化を垣間見ているのだ。否定性としての他者が、異文化がAの視野に現出したのである。
異文化の見える時でありためらいの状況なのだAは「ウサギ」文化に属しながら、「アヒル」文化を垣間見ている否定性(「分からないもの」)の現出
次の段階を考えよう。「複相」としてまとめるしかないのだが、直前の段階より、言わば「より深い」理解をもって「アヒル」文化(Bの文化)を見ている段階である。
直前の複相より、より深い理解をともなうもの
Aがこう言うのだ、「Bにはこれがアヒルに見えている」、さらには「わたしにはこれがウサギに見える」 (3) と。この段階に達すれば、Aは「これをアヒルとして見る」ことも可能となる。
浅い複相:「出会い」—つき離している深い複相:「誘惑」— より添おうとしている
浅い複相状態すなわち出会いの段階は、他者・異文化の存在に気がついている段階である。しかし、まだ他者・異文化を、言わば、つき離している状態だと言えよう。誘惑の段階とは、他者・異文化を、自らと同じモノ(者・文化)として見ようとする/理解しようとする段階である。
「異文化の見える時」すなわち「ためらい」の状態を二つに分けようという試みがこの章の一つのポイントである。そうでありながら、二つに分ける基準が印象論的であり、曖昧であることに、わたしも気づいている。
「ためらい」を二つに分ける — (1)浅い複相と(2)深い複相理解しかし、あまり説得的ではない
複相の把握の二段階、すなわち浅い複相の把握と深い把握とを説得力をもって示すことが、以降の課題である。まず、ここでは、野矢による「相貌」の概念を導入して区分を示したい。
浅いと深いの区分の基準を「相貌」(野矢)の有無ではかる
あらかじめ白状しておくが、この段階でさえ、区分(浅い把握と深い把握の区分)が説得力をもって示せるとは、わたしもまだ考えていない。より詳細な議論は次の節(「全体論」)に譲るとして、ここではイメージを得てもらえばいいと考えている。
この段階で「相貌」の議論が決定的だとは思っていない浅い把握と深い把握の区分の(おおまかな)イメージを抱いてもらえば、成功である—まだ印象論的である
野矢は『語りえぬものを語る』( (野矢 2011))の中で、「アスペクト」を「相貌」と言い換える。とくに定義を示してはいない。これこそが、わたしが「初級編」で「深いアスペクト把握」として示したものである。
野矢は相の代わりに「相貌」を使い始める深いアスペクト把握を「相貌をもった把握」と呼びたい
野矢の相貌の説明は、どれも、いささか歯切れが悪い感が否めない。つぎの引用を見てもらいたい。
概念を所有するとは、それゆえ言葉を使用するとは、パソコンを使いこなすのと同様、ある技術を身につけることである。あいまいな言い方になってしまうが、相貌とは、こうした技術知 (know-how) が対象に投影されたものにほかならない。 正しく足し算の計算を実行していようとも、足し算の技術をもたない者にはそれは足し算の相貌では現われない。 足し算の相貌は見る者が足し算の技術を身につけていることを要求する。同様に、犬の相貌とは、「犬」という語をいかに使用すべきかの知識が対象に投影されたものだと言えるだろう。 [noya-kataru] (57: 野矢 2011)
概念の所有するとは、技術を身につけることだ相貌とは、暗黙知(技術知) (know-how) が対象に投影されたものである「犬」の相貌とは「犬」の語の使用の技術知が対象に投影されたものである
些細なことだが、野矢の言う「技術知」を「暗黙知」と言い換えさせてもらう。詳細は脚注 2 を参照してほしい。
暗黙知という知は、それを言語的に伝達できないような知のことを言う。顔の認知を典型的な例として挙げることができるだろう。わたしたちはある人の顔を即座に認知できる。さらには、同じ人の子供の時の顔をも認知できる。しかし、その認知の仕方を言語で人に伝えるには苦労するだろう。このような知を暗黙知と呼ぶのだ。
わたしは、 (3) において、Aは(Bによる)相貌を見出したのだ、と言いたいのだ。すなわち、誘惑(3) とは相貌をもった複相状態なのだ。
A:Bは「これがアヒルだ」と言った(アスペクト=相貌なし) Α:Bはこれをアヒルとして見ている(深いアスペクト=相貌)
Aによる浅い複相把握の状況(「Bは「これはアヒルだ」と言っている」)では、AはまだBの視点を把握していない。AはBの発言を、言わば、反響(エコー)しているだけなのだ。深い把握(3)すなわち相貌をもった把握(「Bはこれをアヒルとして見ている」)において、Aは、Bの発言の内容を理解しているのだ。あるいは、Bからの見えを(言わば「内側」から)把握している、Bの観点を自分のものとしているのだと言えるだろう。だからこそ、「これをアヒルとして見る」ことも可能になるのである。
そして最後の段階 (4) として、Aが「これはアヒルだ」と言う状況を考えることができるだろう。
A:「これはアヒルだ」
Aは、Bのアスペクト(「アヒル」)を把握した(誘惑された)だけでなく、Bの文化に転落してしまうことになる。浜本の言葉を使えば、呪縛されるのだ。Aのこの状況は、(1) におけるBの状況と同じである。すなわち、Aはふたたび単相にまいもどったのである。ただし、この時、AはBの文化の中に転落して/呪縛されているのである。
単相へ転落、呪縛
転落の事例としては、アヒル・ウサギの図以上に、図 ([@cube]) の透視図の方が適切だろう。
[ under construction 透視図を作成、挿入する ]
黒丸が向こう側に見えたり、こちら側に見えたりすると思う。それを逆転と呼ぼう。逆転こそが「転落」と呼ばれる単相の状況なのだ。いったん転落すると、もとに戻すのにそれなりの時間がかかる筈である。
単相・複相の議論が再び単相へと戻ったこの機会に、単相について他の形で述べておきたい。「単相状態だけで生きている人間を考えてみよう」というウィトゲンシュタインの思考実験(『哲学探求』 (Wittgenstein 1968))の誘いにのってみよう。「単相状態だけで生きている人間」とは、すなわち「として見る」ことの出きない人間である。このような人間をウィトゲンシュタインは「アスペクト盲」と呼ぶ。野矢を引用しよう—
ウィトゲンシュタインの「アスペクト盲」という思考実験—単相だけで生きている人間
アスペクト盲は「あの雲はなんだか猫に見える」とは言わない。そしてまた私が「この黒板消しをスリッパとして見てごらん」と促しても、何をしてよいのか分からない。タクアンを卵焼きに見立てることもできない (166: 野矢 1999)。
アスペクト盲はウサギが見えないわけではないそれをアヒルに見立てること(知覚的空想)ができないのだ彼は永遠の単相状況に生きる人なのである
アスペクト盲とは単相状況だけを生きる人間であり、彼女は独我論者・自閉症者と同じ世界を生きているのだ。
村上は自閉症児の一つの特徴を「知覚的空想」(
(Husserl
2005))の能力の欠如と呼ぶ。その能力を説明するために彼が出す例がままごとである—
石をケーキとみなし、ママという役割を演じる
、
(111: 村上 2008)
これが知覚的空想であり、自閉症児にはこの能力が欠けているのだ。そして、この知覚的空想の能力こそが、もちろん、アスペクト把握である。
石をケーキとみなす/見立てる石と知覚しながらケーキと空想する
ウィトゲンシュタインは言う:「アスペクト盲がもしあるとすれば、それは色盲などとは違い、なにか根源的な疾患なのではないかと」 [ under construction 典拠をチェック! ] わたしたちは、とまどうことなく言える、「アスペクト盲とは、自閉症なのだ」と。
ウィトゲンシュタイン:「色盲とは違い、根源的な疾患だろう」「それは自閉症だ」
これまでの議論を、よろめきドラマとしてまとめておこう。注意すべき点は、よろめきドラマ自身が修正されていることである。すなわち、「ためらい」段階が、二つに区分されているのだ— 「出会い」と「誘惑」に。その上で、アスペクトの議論をシナリオに重ねるとこうなる:(1)単相とはすなわち「平穏」の段階である。ためらいのうち、出会いが(2)の浅いアスペクト把握に、そして誘惑が (3)の深いアスペクト把握、あるいは相貌をともなったアスペクト把握に相当する。そして転落とは(4)の単相である。
修正点:ためらい→出会いと誘惑(1)平穏:単相(2)出会い:複相(浅いアスペクト把握)(3)誘惑:複相(深いアスペクト把握/相貌)(4)転落:単相(文化Bの呪縛)
繰り返すが、アスペクト(相)が問題になるのは、複相状況においてのみである。単相状態((1) と (4))にアスペクト(相)はない。
単相—アスペクトはない—アスペクト盲複相—アスペクトがある
単相状況あるいは独我論的/自閉症的状況において((1) と (4))は、視点は存在しない。その世界では「見え」の語が消失する。それはあるモノだけの世界、純粋実在論の世界なのだ。そこには他者も異文化も存在しない。存在しない(否定性)ことさえ欠如しているのだ。 (2) から (3) にかけて、すなわち複相状況において、はじめて「見え」あるいは「他者の視点」が問題になり、認識論の世界が広がるのである。
単相:存在論(純粋実在論)(他者・射異文化がいない—「いない」ことさえ欠如している)複相:認識論(他者/異文化(否定性))のいる世界)
初級編において一番の問題は、その議論のポイントである「ためらい」の二分割、すなわち浅いアスペクト把握と深いアスペクト把握(相貌をもったアスペクト把握)の説得力の弱さである。
ポイント:ためらいの分割(浅い/深い把握)基準(相貌)がよくわからない
説得力の弱さの原因は、じつは、とりあつかう例にあったのだ。「相貌」はアスペクト把握のもつ全体論的性質に由来し、全体論性を説明するためにはウサギ・アヒルの図はあまりに単純すぎるのだ。この例だとアスペクト把握のもつ全体論的性格を示すことができないからなのだ。
ウサギ・アヒルの図の例がよくないアスペクト把握は全体論的性質をもつそして「相貌」はその性質からしか説明できないウサギ・アヒルではそれを説明しきれない
アスペクト把握について、わたしが強調したいのは、アスペクト把握というものが全体論的性質をもつ、ということである。 3
【BEGIN:../relativism/holism より】
わたしは野矢のいう「相貌」の概念がアスペクト把握において重要であることに賛成である。しかし、その説明を「暗黙知」に求めるのは的外れである。相貌を説明しきれるのは、アスペクト把握のもつ全体論的性質である
暗黙知は的外れアスペクト把握のもつ全体論的性質
ウサギ・アヒルの図のかわりに言語あるいは概念を例にしていこう。こうすることによって、複相の二段階、すなわち相貌をもたない、浅いアスペクト把握と相貌をもった、深いアスペクト把握の違いを、より明瞭に示すことができるはずである。
ウサギ・アヒルをはなれ、野矢のように言語一般について考えてみよう。まずは野矢の例から始めよう。「犬」というアスペクト/相貌についてである。さきほど引用した箇所で彼は次のように言う:「犬の相貌とは、「犬」という語をいかに使用すべきかの知識が対象に投影されたものだと言えるだろう」 (57: 野矢 2011) 同じことを言っているのかもしれないが、わたしは、相貌とは犬という語の価値だと言いたい。
野矢:使用のための暗黙知が対象(概念)に投影された中川:対象(概念)の価値である
「価値」とはソシュールの用語である。ソシュールの構造主義的言語学は、その全体論的傾向において特徴づけられる。その全体論は、「それは部分はそれ自身としての意味を持たない。大事なのはつねに体系の中における他の部分との差異である」という考え方にまとめることができるだろう。
言語には差異しか存在しない —- 部分は体系の中での他の部分との差異によって意味を担う
[ under construction ]
日本人にとっての r/l インドネシア語「おしん」の例エンデ語の「イワ」の例
[ under construction ]
「弁別特性の束」である弁別特性:他と区別される仕方「い」は「あ」とどう違うのか「い」は「う」とどう違うのかそして、「あ」は「い」との違い、「う」との違い
たとえば、ソシュール (ソシュール 1972)は語の意味を語の置かれた位置から見る。それを彼は価値と呼ぶ。英語の “Rabbit” を日本語で「ウサギ」と訳すのは便宜的には許されるかもしれないが、その価値はあきらかに違う、と言えるのである。なぜなら、 “Rabbit” は “hare” (「野兎」と訳すらしい)と密接に関わっており、 “Rabbit” は “hare” との差異の中で意味が決定されるからだ。「ウサギ」にはそれがない。それゆえ、 “rabbit” と「ウサギ」の価値は異るのである。
価値は全体のシステムの中の位置英語の “Rabbit” と日本語の「ウサギ」の価値は違う “Rabbit” は “hare” との差異の中で意味を担う「ウサギ」にはそれがない
野矢の例にもどろう。わたしは、野矢の「犬」という概念の相貌を知るということを「犬」という概念だけに焦点をあてる方法ことは、間違っていると思うのだ。「犬」という概念の相貌を得るとは、その概念だけでなく、その概念が置かれた全体系の中での位置(すなわち価値)を知るということであるとわたしは考える。
【END:../relativism/holism より】
言語を学ぶ状況を例にして考えてみよう。最初、わたしたちは「言語」という考え方をもっていない。 4 ある時、「英語」という別の言語を示され、じぶんが喋っているのが一つの言語であり、それが「日本語」と呼ばれることを知る。学校で英語の文法や語彙をならい、すこしずつ知識が増えていく。わたしたちが日頃「いぬ」と呼んでいたものを英語では “dog” と呼ぶのだ、などなどといった知識が。
この段階は浅い複相把握である— 「かれらは『それは dog だ』と言う」というあの段階だ。
ある時、Aha 体験がやってくる。ぼくらは英語話者の観点を把握するのだ。それは全体の差異の体系が見えたときである。些細な例だが、たとえば “dog” が “hound” とどう違っているのか、 “rabbit” が “hare” とどう違っているのか、それらが一気に見えたとき、わたしたちは「英語を話すことができる」という段階に達するのである。それは深いアスペクト把握、すなわち相貌を伴なった複相を見ることができる段階なのだ。
[ under construction ndia/pe na::kami/kita ]
相貌を伴なう複相状況に達することを、野矢は観点を、内側からの観点を、把握することとも言い替える。さらに、彼は観点を「生き方」という言い方もする。ここで、彼の卓抜なクリーニャの例を紹介して、「生き方」や「観点」という考え方が、彼の議論の中でどのように使われているかを見ていこう。
観点生き方 ← クリーニャ
たとえば、日本語の猫という概念と掃除機という概念を集めた集合を考えよ、と彼はいう。そのような概念が通用している文化を考えよ、と。彼ら(その文化に住まう人々)はそれを「クリーニャ」と呼ぶ。そのような想定をしたあとで、彼は言う— 「だが、あるものがクリーニャーとして見えるということがどのようなことなのか、もはやあからさまにわれわれの想像を越えているだろう」 (109: 野矢 2011)と。なぜなら、アスペクトとは生き方の問題だからなのだ。
クリーニャ:猫と掃除機をあわせたもの「あるものをクリーニャとして見る」ことを想像できない(cf カラムのヒクイドリ、エンデの親族擁護)
われわれにとっては、一匹の猫はどうしたって猫としての相貌をもっている。それは容易に変えることはできない。それはすなわち、われわれがその分類を引き受け、いわばその概念を生きているからである。概念を変えるということは、生き方を変えるということなのである。 (109–110: 野矢 2011)
われわれには猫は猫だ猫は猫としての相貌をもっている概念をつかうとは、その概念を生きているということだ概念を変えろ(「クリーニャとして見よ」)というのは、生き方を変えろ、ということだ
相貌に言及してる別の箇所を見てみよう。相対主義者がしばしば言及する「立場の違い」という言い回しを捉え、立場とは命題の集合ではない、と野矢は宣言する。そして立場が命題の集合でないならば、何かと問い、それは「観点」であると彼は答える。「そして観点の異なりに応じて異なってくるものは、相貌である」 (128: 野矢 2011) と。
観点が相貌を産むその観点に立たない限り相貌を得られない(「他の視点」は想像可能である)
野矢の議論は、クリーニャの相貌を得るとは、クリーニャを生きることであり、それは(ほとんど)不可能であるということになってしまう。前半部の議論、クリーニャの相貌を得るとは、それを生きることであるということに、わたしは賛成する。そして、わたしは人類学者として言いたいのだが、それは可能なのだ。ここでも重要なのは、相貌が全体性と関わっているという点にある。
クリーニャの相貌を得るとはその概念を生きるということである
それは想像不可能である
OK
想像可能である
人類学者は職業がら、クリーニャのような奇妙な例を沢山知っているのだ。南太平洋の島、ドブでは、芋は人間であるという。パプア・ニューギニアのカラムの人びとの間では、ヒクイドリは鳥ではない。 5
ドブ:芋は人間であるカラム:火喰鳥は鳥ではない
ここではわたしのよく知っている東インドネシア、フローレス島に住むエンデの人々の例を出そう。
エンデ語に「アリ・カッエ」という言葉がある。親族用語である。わたしが最初にエンデの村に入ったとき、アプさんという村人がわたしの「お父さん」となってくれた。彼は、わたしの「アリ・カッエ」を紹介してくれた。彼の息子たちである。わたしはすぐにこの言葉を「兄弟」として理解できた。姉妹は「ウェタ」と呼ぶこともすぐに学んだ。
しばらくすると、わたしが「アリ・カッエ」と呼ぶべき人が、単にアプさんの息子(わたしの「兄弟」)だけに限られているわけではないことに気づいた。父系の従兄弟たちもまた「アリ・カッエ」なのだ。さほど悩むこともなく、これは日本の姓(名字)を適用して考えればいいことに思い至った。すなわち「中川家」の男のメンバーがアリ・カッエなのだ、と。 6
次の関門は、女性の「アリ・カッエ」がいることだ。姉妹は、さきほど言ったようにウェタと呼ぶ。しかし、日本ならば姉妹のようなものである兄弟の嫁たち(「義理の姉妹」)もまたアリ・カッエなのである。この例もまた「中川家」を基本に考えて、納得した。すなわち、ウェタ(姉妹)たちは中川家を出ていく者であり、(女の)アリ・カッエは中川家の中にいる者たちなのだ、と。
最後の謎は、また別の女性のアリ・カッエと呼ぶという形で示される。母の兄弟の娘たちをもアリ・カッエと呼ぶのだ。
これはエンデの親族のルール、母方交差イトコ婚というルールと関連づけてはじめて理解できるアリ・カッエである。エンデでは、男は母方の交差イトコ(母の兄弟の娘)と結婚することが期待されている。 7 すなわち、母の兄弟の娘は、このルールに従うならば、中川家に嫁入りする女性たちなのだ。男のアリ・カッエの嫁たちをアリ・カッエと呼ぶのが事後承諾的呼び方とすれば、母の兄弟の娘をアリ・カッエと呼ぶのは事前の期待にもとづく呼び方と言うことができるだろう。
この時点で、わたしはエンデの親族体系の全体を(ほぼ)理解した。それゆえ、母方の叔父と妻の父を同じ名称(マメ)で呼ぶこと、あるいは母方の叔父の娘の夫を、兄弟と同じことば(「アリ・カッエ」)で呼ぶこともすべて理解できたのである。 8
「アリ・カッエ」の相貌は把握できるのである。それは全体の中の位置(価値)をつかむことである。いったん、その相貌を把握すれば、「アリ・カッエ」はごく自然なものだ。
その観点はエンデの親族制度の内側のものである。しかし、エンデの親族制度を知らぬ人には、「クリーニャ」の相貌と同じように、無意味なものでしかないだろう。
エンデの「アリ・カッエ」:兄弟と父方並行イトコ(男)と母方交差イトコ(女)とをいっしょにするエンデの親族制度を知っていれば、観点を持つことができ、「アリ・カッエ」の相貌を得ることができるそうでなければ、それは「クリーニャ」と同じく奇妙なままにとどまる
初級編で相貌を説明するのがうまくいかないのはその例(ウサギ・アヒルの図)であった、という言い訳の意味がここで明らかとなっただろう。ウサギのアスペクト、アヒルのアスペクトの背後に、それぞれの相貌を生み出す全体性が欠けているのだ。
ウサギを含む全体性アヒルを含む全体性がない
言語や文化を例にすると、一つの文でアスペクト把握のそれぞれの段階を表わすことは不可能に近くなっているが、とりあえず、単相および複相(浅い把握と深い把握)を表にしておこう。 [ under construction ]
これは猫だ
Bは「これはクリーニャだ」と言う/信じている
Bはこれをクリーニャとして見ている(ぼくはこれを猫として見ている)
これはクリーニャだ
これは病気だ
エンデ人は「これは呪術だ」と言う/信じている
エンデ人はこれを呪術として見ている(←→ 「わたしはこれを病気として見ている」)
これは呪術だ
すでに明らかであろうが、「相貌」 9の語を、あらためて、二つの相貌把握に適用しておこう。
「出会い」の複相把握は、全体論的理解を欠いた、あるいは観点を欠いた(言わば「浅い」)アスペクト把握である。もう一つは全体論的な理解にのっとった、あるいは相応の観点からの(「深い」)アスペクト把握、すなわち相貌の把握である。これは「誘惑」の段階の理解である。
(浅い)アスペクト把握:全体論的理解を欠いた→「出会い」相貌 (visage) ・(深い)アスペクト把握:全体論的理解に基いた、観点からのアスペクト把握→「誘惑」
ゲームとアスペクト把握