環境主義という考え方はとりわけて西洋近代の産物である。その信奉者は、もちろん、その考え方が普遍的であると考え、すべての社会に普及させようとする。それらの社会では、環境主義が説得力をもたないかもしれないのに、だ。
この章では、環境主義を産んだ近代西洋というもの、とりわけその自然に対する考え方がどのように産まれたのかを辿りたい。
カール・ポランニーは、西洋の歴史の中で、ある時、経済の領域がその他の領域(彼は「社会」と呼ぶが、これからは「日常生活」という語を使用したい)から独立してしまうという出来事が起きたという (???) (ポラニー 1957)。それが彼の言う「大転換」 (“great transformation”) であり、その大転換を経て、西洋社会は近代へと変容していったというのである。
ポランニーによれば、大転換以前は経済は社会に埋め込まれて (“embedded”) いた。そして、大転換によって経済は社会から離床 (“disembedded”) したと、彼は語る。
私がこれから展開する議論は、このポランニーの議論にのっとっている。すなわち、自然の観念もまた、大転換を経ているのだ。かつては自然は日常生活に埋め込まれていた。そして、ある時自然は日常生活から離床することになるのだ、と。この近代の自然観こそが環境主義を産みだしたのである。
デスコラは大きく二つの自然観を紹介する。自然を「物語をわれわれに語りかけるコスモス (cosmos)」と見る見方と、「数学化に屈し、物言わぬピュシス」 (“physis”) として見る見方とである (Descola 1994: 1) (Descola 1994: 1)。ピュシスとしての自然はわたしたちの生活、ノモス(nomos)、から分離しているのだ。
ニューエージ哲学になりかねない。 [ under construction ]
「伝統的」な社会、とりわけ狩猟採集民の間では、自然は人間と切り離してとらえられることはない。それはコスモスなのであり、それ自体声を持っているのだ。
「自分と天地の間に距離がない」様を民俗学者の描写に見てみよう— 谷川健一はかつての日本人の自然との関りを次のように描写する—
:
越後の山村では一度に熊を数頭も殺した場合、あるいは年功を経た熊の場合には一頭を殺しても、かならず山が荒れると信じられていた。これを「熊荒れ」と呼ぶと『北越雪譜』は述べているが、越後の山民は雪崩の背後に、山の主の叫び声を聞いたのである。また宮古群島の伊良部島では海霊《よなたま》の話がある。ある漁師がよなたまという魚を釣りあげた。人面魚体でよく物を言う魚であった。漁師が炭火をおこし、焙り網にのせていると、夜更けて「よなたま、よなたま、どうして帰りがおそいのか」という声が聞こえ、焙り網にのせられた魚が「はやく津波をやって自分を救ってくれ」と頼んでいた。その声を聞くことができた隣家の母子はいち早くのがれたが、残りのものは、おそってきた津波で全滅したという。これも、海の主である「よなたま」を殺そうとした罪のむくいであった。南島の民は、物音一つしない孤島の夜に、海霊、すなわち海それ自体の魂の声を耳にしてきた。雪崩や津波が海や山の「かくれた神」の存在を告知するとき、自然はたんなる自然ではあり得ない。 (健一 1980: 8–9)
バード・デービッドは狩猟採集民の間では自然と人間の関係が人間同士の関係のメタファーによって描かれるという。 (Bird-David 1993: 112)。ナヤック、ンブティ、バテックの間では、自然は子どもを育てる大人として人間に対照される。(カナダの)クリーでは男と女の関係として描かれるのだ (op. cit.)。
クリーにおいて、狩猟は結婚のようなものである。それは求愛、誘惑、そして強奪という手順を経て行なわれるのである。
性愛の対照として自然を見る見方は決して狩猟採集民に限られらものではない。
農耕民であるマレーの人々の砂糖作りに関して、スキートは次のように書いている。
まず幹に足をかけようとするとき(即ち、まさに登ろうとするときに)マレーの人びとは次の歌詞を繰り返す。
あなたに幸いあらんことを、おおアブカバール!
幹のまん中で、見守りながら、
監視しながら、居眠りをしないでくれ、
さあ、やってきて、私がこの木を登るのにつきあってくれ。
そして、葉柄の中に登り込み、中央の芽をつかみ、三度揺さぶる、そして、次のように唱える。
おまえに幸いあらんことを、我が妹よ、王女たちの中の末娘よ。
中央の芽を見守りながら、監視しながら、居眠りをしないでおくれ、
さあ、やってきて、私がこの木を降りるのにつきあってくれ。
それから彼らは仕事を始める。まず、一つのがく片を折り曲げ、まん中の芽をつかみ、三度、次の行を繰り返す。
あなたに幸いあらんことを、殿下、刈りとられた髪、
蒸留の王女達よ、
そして次のような詩を唱えるのだ。
シ・グデベ・マヤンの花弁の
曲線と花弁の泡だちの中に見える君よ、
シ・マヤンの手先たる七人の王女達よ。
(ここでは、彼は木の魂に呼びかけている)
さあ、ここにやって来い、小さき者よ、
さあ、ここにやって来い、か細き者よ、
さあ、ここにやって来い、鳥よ、
さあ、ここにやって来い、薄き者よ、
こうして、私はあなたの首を曲げ、
こうして、私はあなたの髪を束ねる。
そして、ここにあなたの顔を洗うのを助ける
象牙の砂糖ナイフがある。
ここにあるのは、あなたを短く刈る象牙の砂糖ナイフだ、
そして、ここにあるのは、
あなたの下に捧げ持つ象牙のコップだ、
そして、あそこにあるのは、
あなたの下方で待つ象牙の風呂だ、
手を叩き、象牙の風呂の中でしぶきをあげよ、
というのは、それは王族が着替えをすると呼ばれるからだ。
(Skeat, 日付なし: 216–217)
マレーにおいて、ココ椰子は女性にたとえられ、ココ椰子から砂糖をとる作業は、女性の化粧にたとえられている。
やはり農耕民である(東インドネシア)中部フローレスのエンデおよびリオの人たちは、砂糖椰子 (arenga pinnata) の幹から樹液をとり、それを蒸留して、酒を作る。砂糖椰子、及びそれからとれる蒸留酒をともにモケという。
モケは自然に生えるものであり、持ち主はいない。モケは「精霊の持ち物」と呼ばれる。それ故、モケを作りたいと思った人間がまず最初に行なわなければならないのは、まだ誰も手をつけていないモケ(モケ・トゥマ)をさがし出すことである。モケ・トゥマという名は「まだ手つかずの処女」を暗示する。
適当なモケを見つけたら、梯子を木の幹に掛け、それをのぼる。まず、彼は幹のまわりの繊維を剥す。彼は、自分の作業をモケに告げる。
私は繊維をはぎ取る
ちょうど女性のスカートを脱がすように
次に、彼は
葉柄
をこじ開け、その上に立つ。その様にしながら、彼は次のように唱える。
私は葉柄をこじ開ける
ちょうど女性の太股を開くように
「人は女性を口説くようにモケを説得しなければならない」とエンデ人は言う。腰巻きをはぎ取り、太股を開くのは性行為への序曲である。それらは女性に対してと同様に優しく行なわれる。そして乳房を愛撫するのだ。彼は女性の乳をしぼりとるようにして、モケの木から樹液をとる。
マレイのココ椰子の砂糖作りのレトリックのテーマ、すなわち、作業者の略奪行為の語りによる弁済は、エンデのモケ作りで一つの極へと到達する。
:
wakE gera (梯子)。(gera は bheto あるいは au (tara つきのやつ)を使ってつくる。)梯子を一歩登ったとき: ``aku nai tangi’’
Pepa (板)のところまで来たとき: ``Aku dhajo rewa tEnda’’
``Aku tetE nao // sama ngErE iko lawo’’
``Aku wEla pepa // sama ngErE kagE kega’’
``Aku wEru tengu // sama ngErE koo susu’’
農耕と性交のメタファー。農耕における死と再生のメタファー。 [ under construction 葬歌(ナンギ・パレ)、儀礼、夜中の性交 ]
生態決定論にならないように。 [ under construction ]
生活世界に密接した自然という考え方とは対照的なものが産業社会の自然に対する考えかたである。それは、一言で言えば、生活世界から離床した客体としての自然である。
それは容易に数学化に屈っし、それのみで、すなわち、人間の生活世界とは別個に、自閉した世界を構成するのである。生物学の世界にも、化学の世界にも、そしてとりわけ物理学の世界において(量子力学という例外はあるが)、観察者は、そして観察者の生活世界は削除されているのだ。
ここでは、印象主義的に客体としての自然を紹介するために、絵画の世界に話を限定してみよう— 風景画の誕生について話をしていく。
風景、景色、景観について考えてみよう。
もともと客体と主体との関わり:長目—眺め、気色—景色 [ under construction 前田・立本 ]
生活から分離した環境、すなわち「自然」と、身体から独立した心、すなわち「主体」が共同して風景 (landscape) を誕生させることとなる。
ベルクは言う—
: 近代の主体の確立と風景画の発展
自己とそれをとりまく環境を区別し、その間に距離を設ける主体の出現との相関である。事実一方では、絵画における風景画の発展と、いわゆる線的ないし古典的な遠近法の完成の間に時期の符合が見られ、また他方では、このプロセスと、当時の思想潮流において近代的な主体が徐々に確立されていったプロセスの間に、深い類比関係が感じられるのである。(??? 55)
主体と自然が、かくして、まず最初に16世紀フランドルにおいて landschap 「風景」を、そして「風景画」を誕生させるのである。
風景画で描かれる自然は、切り取られ、管理すべきものとしての自然である。 (???) それは、フッサールの言う「物体界としてのみの自然」であり、われわれの居場所はそこにないのだ。都市工学者中村好夫の洒脱な言い方を借りれば、「風景画に鼻は描かれない」 (??? ?)である。
環境主義を焦点にして物語が組み立てられるのだが、手始めに大きな見取図を描いておくことは意味があるだろう。
ミルトンは二つの環境主義を区別する (Milton 1996: 75) — (1) 技術中心の環境主義と (2) 生態中心の環境主義である。
技術中心の環境主義は技術に信を置く。あくまで人間が自然を支配するのである。政策などを通じて産業が自然にやさしくなるように努めるのが彼女らの環境主義である。開発は疑問に付されることはない。それに対して、生態中心の環境主義は人間はあくまで自然の配下にあるもとと捉える。(Milton 1996: 75)
この二つの対立が明らかになった最も初期の例として谷本によるヘッチ・ヘッチ論争の顛末を引用する。
:
ジョン・ミューア(アメリカでは「自然保護の父」と呼ばれ、アメリカ人ならだれもが知っている人)とギフォード・ピンショーとの対立は、環境保護運動の歴史の中でとりわけ有名なものである。それはこういうものである。飲料水に悩むサンフランシスコ市では、長い間、貯水ダムの建設を計画していた。一八八二年に市の技師がヨセミテ渓谷の北にあるヘッチ・ヘッチ渓谷が最適であると指摘していたが、一八九一年にヨセミテ国立公園が制定されてから立ち消えになっていた。ところが、一九〇四年四月の大地震で市の水不足は深刻になり、ヘッチ・ヘッチにダムを造れという声が再び強くなった。一九〇八年五月、市長は再度ダム建設の申請をした。これに対し、ミューアら自然保護派は反対運動に立ち上がった。しかし、この時代、ミューアとは意見を異にする自然保護活動家がいた。ローズベルト大統領の片腕として森林行政に手腕を発揮したギフォード・ピンショーという人物である。彼は「自然は基本的に人間の役に立てるべきであり、人間が有効に利用し続けるためには自然保護を強化すべきだ」という考えであった。こうして、ミューアとピンショーはヘッチ・ヘッチ渓谷をめぐって激しい論争を展開することになった。_ P3( _P このヘッチ・ヘッチ論争の争点はどこにあったのか。ピンショーは、森の木材を安定供給できるような形で、自然を賢明に管理していくことこそが自然保護だと考えていた。これに対してミューアは、自然を人間の手を加えずにそのままの形で残していくことこそが自然保護であると考えていた。「人間にはパンと同じように美が必要だ」と訴え、自然の倫理的・美的重要性を力説した。これに対してピンショーは「自然が大切なのはわかっている。このケースは違う。サンフランシスコの子どもたちを救うほうが先だ」と反論した。 _MARKB({環境倫理学})では、ピンショーの自然保護の思想を「保全」(conservation)と呼び、ミューアの自然保護の思想を「保存」(preservation)と呼んで、両者を明確に区別している。) (谷本 2003: 228)
Amasoya
[ under construction ]
環境主義が持ち込まれる現場にいるローカルな人びとの視線から二つの環境主義を考えてみよう。
ビンショーの考え方自身はともかく、その発展とされる技術中心の環境主義は、いわば開発思想の薄められたバージョンである。
ブッシュが「京都議定書はまちがった政策である」と言うとき、また「環境保護政策は経済発展を妨げないようにすべきである」と言うとき、彼の技術中心の環境主義(あるいは保存 conservation の環境主義)は明らかである。
経済的効率を考えるならば(そしてそれは、環境破壊を最小に抑えたうえで、最大の経済的効果をはかるならば)、多数の小農よりも少数のプランテーションの方がよい、という考えかたはそれなりに説得力を持っている。1
[ under construction 「彼らだってトヨタが欲しいのだ」—土地の売却 ]
保全 (preservation) の環境主義、あるいは [ under construction ]
[ under construction SF 物語 ]
[ under construction 周辺化される先住民 ]
どちらの環境主義も、ローカルな人びとの視線から見る限り問題を孕んでいる。第三の、ローカルな人びとを周辺に追いやることのないような環境主義は可能なのだろうか?
すぐ思いつく答としては「緑の人権主義」がある。
人類学者もずいぶんと貢献した「(生態学的に)高貴な野蛮人」という考え方を紹介しよう。
[ under construction 理想的「未開社会」、「未開社会」の単一化 ]
といっても授業では Sollen (当為)については触れない—各自考えてくれ。授業では Sein (実在)についてのみである。
自然観のコスモスからピュシスへの移行、そして環境主義との出会いを、アイスランドの漁業の展開の中に見ていこう。ここでは便宜的に、三つの時代— (1) 前産業化時代の漁業、 (2) 産業化時代の漁業、そして (3) 環境コンシャスな時代の漁業—に分ける。 [ under construction サイクルと逆転 ]
[ under construction ]
産業化以前、アイスランドでは peasant による自給思考の漁業が行なわれていた。その時代、つぎのような社会・技術的な制限が漁業にはあったとパルソンは言う– (1) 植民地状況のゆえに、生産に限界があり、 (2) 魚を取る tripに不確定性があったのだと。これらの社会的・技術的諸制限は民俗モデルと密接に関連している— (1) 神秘的な水の生物が海と人間界を媒介する、 (2)人間は魚の受動的な受け手に過ぎない。「さかな性」が個人に関わるものとしても、漁獲高の大小が個人のせいにされることはなかった。人間は自然のなすがままであった。(Pálsson 1990: 129–130)
19世紀末から20世紀末にかけて、2 アイスランドの漁業は自給漁業から市場志向の漁業に変化した。この時、魚と人間の関係は逆転したとパルソンは書く。人間はもはや受動的な富の受け手ではなく、 active なものとなった。そして、人間の労働こそが価値を作りだすものとされる。資源は無制限であり、海は開かれる。古い神話は余計なものとなり、メタファーは時代遅れとなる。魚と資源に関する新しい態度が出現し、社会関係があらたに定義される。漁業は競争的になり、個人の能力、「船長効果」が考慮される。漁獲の大小に個人(船長)の責任が問われる。
ここ数十年間のあいだに、過剰な漁獲の恐れから、アイスランドの漁業に新たな発展が生まれる。漁獲量に再び制限がもたらされるのだ。人間は、集合的に、魚の維持に責任があるとされる。
変化は人間とコスモスとの媒介者としての魚の役割の倒置 (inversion) を示唆する。かつて(前産業化の時代)魚は人間の維持に責任があった。現在は、人間が魚の維持に責任があるとされる。
環境主義の到来によって、変化はサイクルを閉じたように見える — かつての様に、自然の脅威の前に、人々は共同作業を余儀なくされる;新しい規制を破るものは、自然の秩序を乱すものと見做される。しかし、違いもある。魚はもはや精霊からの贈与ではない。魚が「贈与」と見做されるとしても、それは新しい生態学的秩序への人間からの「贈与」なのである。そし、その秩序というのは、もちろん、人間の役に立つものなのだ。
Descola, Philippe. 1994. In the Society of Nature: A Native Ecology in Amazonia. Cambridge, U.K, New York, Paris: Cambridge University Press.
Milton, Kay. 1996. Environmentalism and Cultural Theory: Exploring the Role fo Anthropology in Environmental Discourse. London/New York: Routledge.
Pálsson, Gísli. 1990. 「The Idea of Fish: Land and Sea in the Icelandic World-View」. Signifying Animals: Human Meaning in the Natural World, 編集者: Roy Willis, 119–33. London: Unwin Hyman.
Skeat, Walter William. 日付なし. Malay Magic: An Introduction to the Folklore and Popular Religion of the Malay Peninsular. London: Frank Cass & Co. Ltd.
健一. 1980. 神は細部に宿り給う—地名と民俗学. 人文書院.
谷本光夫. 2003. 環境倫理のラディカリズム. 世界思想ゼミナール. 世界思想社.