「黒い脅威」から「高貴な野蛮人」へ

Satoshi Nakagawa

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1.1 事務連絡

1.2 前回まで

わたしたちは、この講義シリーズの冒頭で、近代の生活世界から離床した自然観、ピュシスについて、とりわけ伝統社会における「埋め込まれた」自然観、コスモスとの対比で述べてきた。

ピュシスという自然観の一つの行き着いた場所が「環境主義」というゲームである。 [ under construction ]

1.3 ポイントとキーワード

この章では、環境主義の実行者の側からの視線で物語を紡いでいこう。最初の節は、悪者としての原住民が外側より描かれる。「黒い脅威」の物語である。「黒い脅威」が植民地の想像力であるという(本講義で紹介する)考え方以上に、「黒い脅威」は、「保全生物学」、あるいは「保存」(preservation) に基づくものであることは、この講義を聞いてきたあなたには理解ができるであろう。

続いて、その物語への反動として、全き善きものたちとして原住民が描かれるようになる。「高貴な野蛮人」の物語である。背後にあるのは、「生態系」の考え方であり、そして、「保全」(conservation) の考え方なのだ。

「高貴な野蛮人」像の徹底的な、理論的な批判の紹介は次の章に譲りたい。この章の最後は、事実に基づく「高貴な野蛮人」像への批判を紹介するにとどめる。

この講義は、おもに事実の羅列となり、表題になった二つの言葉(「黒い脅威」と「高貴な野蛮人」を除けば)とりわけてキーワードがあるわけではない。しかし、フィリピンのパラワン、インドネシア、フローレス島のマンガライ、そしてパプアニューギニアのギミは、次の章でもとり扱うので、できれば覚えておいていただきたい。

2 黒い脅威

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2.1 女性としての自然—植民地期の原住民

ソーヤーとアグルワルは、植民地期の「自然観」を次のように刔り出す。植民地の想像力のなかで新たに獲得した土地、その自然は(非白人の)女性であった。植民地に白人の女性が増えるにつれ、白人の女性が非白人の男性と性的な交渉を持つことは、清浄さの衰退と考えられた。このような非白人の男性は、「黒い脅威」(Black Peril)として捉えられてきたのである。 (Sawyer と Agrawal 2000: 94)

彼らによれば、環境保全の運動は、植民地時代の西洋による「他者」観の残存であるという。植民地期の「黒い脅威」の考え方と現在の環境主義には心を痛める類似がある、と言うのだ。今日、その豊穣さかよわさのなかで「自然」こそは守られなければならないものである。そして、その自然に対する脅威こそが、黒い原住民たちなのだ。 (Sawyer と Agrawal 2000: 94)

2.2 富んだ森林、貧しい人々—ジャワの人々

インドネシア、ジャワ島を舞台に、植民地期に端を発する「黒い脅威」観が現在まで続いていることを、膨大な文献と現地調査で後付けたのはペルーゾである。 (Peluso 1991) 以降、ジャワの森林管理の歴史をペルーゾに従って概観したい。

2.2.1 植民地期

1808年、ジャワ島にダエンデル総督が到着する。彼は資源としてのジャワ島のチーク材に注目する。彼は、すべての森林を国家のものとし、住民の森林の商業使用を禁止した。そして、森林を管理する国家期間「森林監理局」 (Dienst van het Boschwezen) を発足させたのである。この三つは、以後2世紀に渡るインドネシアの森林管理の原則となった。かくして、ジャワ島の森で暮す人びとはその環境から排除されることになったのだ。そして、森で暮すことそのものが「犯罪」となったのである。

19世紀初頭、ナポレオンの時代、オランダは独立を失ない、蘭領インド(インドネシア)はイギリスによって統治された。 1816年、再び、オランダがジャワ島を支配下に置くこととなる。

1865年、森林法が発行される。「科学的」と呼ばれる森林管理法がこれ以降のジャワの森の人びとに大きな影響を与えることになるのである。

20世紀初めの森林管理法では、森林監理局の力が強くなった。その変化は「監視」から「警察」と言うことができるほどであた。 1927年の森林管理法では、ジャワの1/4が国家の統制のもとに置かれることになったのだ。

植民地政府と森に暮らす人びとの利害は大きく異なっていた。森に暮らす人びとにとって、森とはそこで家畜を放牧し、また木材を伐採し、ときによっては、そこで農耕をするそのような場所だったのだ。 (Peluso 1991: 73) これらすべての活動は、植民地政府にとって「犯罪」を構成するものとみなされたのである。「犯罪」は「警察」によって取り締まる。 [ under construction ]

2.2.2 占領、独立戦争、独立

インドネシアは動乱の占領期から独立戦争を経て、独立を果すこととなる。独立後の政府のとった森林政策は、しかしながら、オランダ政府によるものと変わりなかったのである。人々は、オランダ時代同様に、森林へのアクセスを禁止されていたのだ。また、人々が持つ管理管のイメージもまったくといいほどに、変わらなかった。

ダルール・イスラムの叛乱、共産党台頭、そしてその影響による農業戦争など、独立後のインドネシアの森林はいくつかの曲折を経ることになるが、省略しよう。

2.2.3 開発時代

1965年、共産党蜂起未遂事件により共産党の影響力がインドネシアで一掃され、スハルトによる開発独裁の時代が来るのである。


けっきょく、[ under construction ]

2.3 邪魔物としての原住民—マンガライの人々

資源の豊富なジャワは植民地の主人公である。インドネシアの辺境、フローレス島を見てみようフローレス島は資源が乏しい。それでもジャワと同じような現象が起きている。現在の西フローレス島のマンガライ県での国立公園の様子をアーブに従って見ていこう。

国連は 1993年を「先住民の年」とした。インドネシア政府は、UN のこの宣言に公式的には関心を払わなかった。インドネシア政府の公式見解によれば、インドネシアには「先住民」は存在しない。((Li 2000)を見よ。)あるいはもっと分かりやすく言えば、インドネシアに住むのすべての民族は「先住民」なのである。(公式に「masyarakat terasing」とされた)クブ人であろうと、(政治の中枢を握る)ジャワ人であろうと、すべての人びとは「先住民」なのである。 1993年は、インドネシア政府によって他のテーマにふりあてられた— 「環境」である。 (Persoon ほか 2004: 30)

ADB(アジア開発銀行)は、40,000,000USドル(そのうちの一部はローンである)を生物多様性保護 (Biodiversity conservation)プロジェクトに割当てた。ひとつは、フローレスのマンガライであり、もうひとつはシベルートである。マンガライに生物多様性を守るための国立公園が設立されたのである。

アーブはマンガライの国立公園の出自が植民地時代にまで遡ることができることを指摘している。現在のマンガライ県にある国立公園、「自然観光公園」(Taman Wisata Alam — TWA) として指定されている地域は、(1)1933年から1979年までは植民地期の遺産を引き継ぐ形で「保護林」とされていた。つづいて(2)1979年から1993年までは「森林領域」(kawasan hutan) として、同じく人々から隔離されていた。そして、1993年に TWA という新しい名前を得たのである。 (Erb 2001: 76–77)

国立公園となったとき、ローカルな人びとがとして使っていた土地がとつぜんと「」として保存されるという出来事が多く起きたのである。政府の役人がやってきて、保護地域の画定をする際に、山に登るのがめんどうくさいので、適当に境を動かしたことに起因するのだ。ローカルな人々は徹底的に無視されたのである。さらに、ローカルな人々は、「環境の破壊者」として規定されることになった。そして、国家と外国人が、その「保護者」となるのである。国家は国立公園を制定することによって、また外国人は、環境に敏感な (sensitive) エコツーリストとして、その役目を果すこととなる。彼等外部の者たちが齎す金は、環境の保護と村人に渡され、かくして、村人たちはもはや森林を必要とすることはない、と規定されることとなる。 (Erb 2001: 75)

2.4 無知な原住民—パラワンの人々

次に取り上げるのは、フィリピンの「最後の生態学のフロンティア」(the last ecological frontier)と呼ばれてきたパラワン島である。珊瑚礁、森、その他豊かな自然が保たれてきた島である。

2.4.1 パラワンの環境問題

しかし、パラワン島にも環境問題が起きてきている。それは陸と海の両方に渡っている。「パラワンにおける森林破壊の主たる原因は、商業的で非合法な伐採、森林に対する農業用地としての、そして住宅用地としての需要を拡大した人口増大、そして焼畑農耕である」 (Hobbes 2003: 46) とホッブズは書く。同じように海の環境にもさまざまな破壊の手が延びているとホッブズは言う— 「ダイナマイトや青酸カリによる漁業、魚の取り過ぎ、マングローブの開拓などが、同じように、海岸部と、海の環境の破壊に繋がっている」 (Hobbes 2003: 47)

原因の一つとしてホッブズが挙げる人口の急激な増加は次のような数字からうかがえる。パラワン島の人口は、 1903年には3万5千人ほどであった。しかし、移民の増大で、 1948年に10万人、1960年には16万程度になり、 1994年には60万が記録されている。 (Hobbes 2003: 46) 人口の増加に伴なって、「最後の生態学のフロンティア」に危機が訪れているのである。

2.4.2 パラワン熱帯森林保護プログラム

上記のようなさまざまな環境破壊の状況を受けて、 1995年にパラワン熱帯森林保護プログラムが発足する

ホッブズは政府の行政の役人について次のように報告をする。プログラムを実行する役人たちは、環境を破壊する原住民たちを、できれば、放逐したいと思っている。それが不可能なので、唯一の方法は「原住民」の学習である。プログラムの実行者たちは、そのような彼らの方法がうまくいっていると自負に満ちた発言をする — 「部族社会の人々こそが森林破壊の唯一の原因なのである。そしてこのプログラムのおかげで、彼らは森林を焼くのではなく、森林を保護しなくてはならないことを学習をし、意識的になったのだ」と。 (Hobbes 2003: 47)

2.5 欲張りな原住民—ニューギニアの人々

パプアニューギニア高地、ギミの人々が暮す地域に環境保全の計画が導入された。計画の特徴は、その計画の中に、環境保全が経済的な発展と組になって取り入れられていることである。計画は「保全と開発の統合プロジェクト」 (Integrated Conservation and Development Project—ICDP) と呼ばれる。

ICDP [Integrated Conservation and Development Project] の計画は、もしギミの生活が生物多様性と直接に関連するならば、彼らは生物多様性に「価値を見出し」、それを「保護する」ようになるだろう、という前提に基いていた。[この「経済学的」前提がおかしい—というのがこの論文の主旨である。] (West 2005: 634)

「ギミが森林を資源としてのみ見ており、それゆえギミは脅威である」という環境主義者の前提はまちがっている (West 2005: 639)

By viewing Gimi as a threat to their forests on the basis of an assumption that Gimi value them only as natural resources and potential commodities, conservation, indeed, got wrong.'' Further, by using similar categories to translate social life among Gimi to conservation-related actors, environmental anthropology would generify culture, failing to explain that Gimi cosmology creates a conceptual divide that makes the establishment ofvalues’’ impossible. [ west-translation ]

2.6 「黒い脅威」のまとめ

トップダウンによる政府の一方的介入は、そこに住む人びとを放逐することとなった。 [ under construction ]

3 高貴な野蛮人

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3.1 先住民の知識論

1998年の論文「先住民の知識の展開(開発)」(Sillitoe 1998)は次のような(人類学の論文でひさびさに聞く)勇ましい宣言より始まる— 「トップダウンの干渉からグラスルーツによる参加型のパースペクティブに世界がその焦点を移動するにつれて、民族誌の中に革命が起きつつある」 (Sillitoe 1998: 223)というのだ。その革命の焦点こそが「最近の開発での参加型アプローチという大きな脈絡の中での、新しい専門性、『先住民の知識』という専門性」 (Sillitoe 1998: 223)なのである。

3.1.1 ネパールの植物学

西洋社会に知られていなかった先住民の知識の一例として、シリトーはネパールの事例をとりあげる。ネパールでは、そこに生えている木ののかたちが、土壌の侵食と深い関係があるとされていた。最近まで、科学的には、葉の形と土壌の侵食のあいだに因果関係は認められていなかった。しかし、最近の調査で、関係があることがわかった。(Sillitoe 1998: 227)

3.1.2 ボルネオの農学

マイケル・ダヴはボルネオにおける「科学的」(と言われてきた)ゴムの大規模プランテーションと、「非科学的」(と言われてきた)小規模農園主の農耕法を比較する。距離をとって植えられたゴムの木、きれいにされた下生え— このようなプランテーションのゴム園に比べると、小規模農園主たちの農園は、「ジャングルのようだ」と酷評されてきた。しかし、と農学者ダヴは言う、このジャングルのようなやり方のほうが、より効率的で、「科学的な」ゴムの栽培法である、と。 (Dove 2000: 225)

3.1.3 民俗薬学

アマゾン原産のマラリアの特効薬キニーネから、現在のダイエット薬まで、西洋は「未開」からさまざまな薬草に関する知識を吸い上げ、市場に展開してきた。じっさい、西洋企業がその特許を得、高価な薬として、その発見者である先住民に売りつけるという、(ダヴによれば(Dove 2006: 196))「言語道断」なケースさえ見られるのである。

3.2 生態学的に高貴な野蛮人

無知で自然を破壊するだけの「原住民」たちが、じつは、科学的な試験にも耐え得る、そして近代社会の知らなかった、環境に関する知識を持っていることが人々に知られてきたのである。かくして、「原住民」像は徐々に変化してくる。彼女らは環境に配慮し、持続可能な方法で自然を利用する人々、「生態学的に高貴な野蛮人」として描き直されることとなるのである。

3.2.1 焼畑は環境破壊ではない

これまで先住民の環境破壊の最たるものとして挙げられてきた焼畑が見直される。

いずれにせよ、焼畑農業は火を使用するから破壊的である、というのが一般の認識のようである。焼き畑農業をスケープゴートにして、開発政策の抱える根本的な矛盾から世間の目を逸らそうとしてきた為政者による「刷り込み」がだいぶ効いているようだ。もっとも強い刷り込みとなったのは、大企業などによって宣伝された「熱帯林消失の主要な原因は焼畑農業である」という言説であろう。しかし、特に東南アジア島嶼部の森林消失は、企業による商業的木材伐採(入口)で始まり、主に入植者による地力収奪的な「非伝統的」焼畑農業(出口)で終わる一連のプロセスの結果だったのである。[footnote omitted] 焼畑農業だけが悪者にされるのは実に不当なことだといわねばならない。 (??? 3)

マスティピケーニャたちは「焼畑は環境破壊ではない」と主張する。フィリピンのアグタの人びとの焼畑は十分な間隔を置いて行なわれ、土地が回復することが可能なのである。先住民たちは持続可能な形で自然を利用しているのだ。 (Mastipiqueña, Persoon, と Snelder 2000: 183)

1997年から1998年の大旱魃に続いて起きた森林火災の原因を調べにはいった生態学者、ヴァイダとサフールは、 (Vayda と Sahur 1999) 焼き畑農耕が森林火災の原因であるという確信を得ることができなかった。

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政府官僚は、コントロールできない火をおこすことに関して、焼き畑農耕を行う地方の農民をスケープゴートにして、咎める傾向にある。ヴァイダはこれが事実であるという確証をつかむことができなかった。焼き畑農耕を行う地域では、農民は耕地を開墾するために用いる火をうまくあつかう経験を積んでいた。管理の行き届いた共同体はどこも、人びとに火の管理を徹底させ、隣人の畑や家屋に被害が広がらないように、制裁(規則や罰金、その他の罰則)を設けているはずである。

出火原因を究明する野外調査において、ヴァイダがより詳細に調べたのは、硬質材(ウリン)[Ulin — Borneo Iron Wood] の伐採という違法行為であった。硬質材は耐火性にすぐれた、強く丈夫な木材であるために、建材としての価値が非常に高い。ウリンの伐採業者はさまざまな用途に火を用いた。彼らは木材の伐採や運搬を容易にするため、下ばえを焼き払うために火をつけた。また、料理、喫煙、そしえ蚊の撃退といった自分たちの快適さのために小さな火をおこした。このような火を彼らがコントロールできないことがあった。以前行われてあ伐採によって森林が荒れたまま放置され、伐採を受けていない森林より燃えやすい状態だったことが、森林火災の隠れた原因となったのである。

警察の目を逃れるため、伐採した材木の運搬は夜に行われた。夜間に森林を抜ける道を材木を搭載して走るトラックの運転手はときとして車を停め、パンクしたタイヤを修理したり、交換したりする必要に迫られた。彼らは暗闇を照らすため、そして蚊や幽霊を追い払うために火をつけた。樹木の伐採業者がつけた火と同じく、こうして用いられた小さな火はいずれも、乾燥した状況下では、出火の原因となったかもしれない。 (Townsend 2000: 139–140)

環境破壊を起こしているのは、皮肉なことに、焼畑によって打撃を受けた森林を回復することを目的に導入されるさまざまなプロジェクトの方である。カメルーンでそのようなプロジェクトについて現地の人びとは次のように語る。これらの新しいプロジェクトは特定の有用な種を導入することにより、森林の生物多様性が減少しているのだ。生物多様性が減少することにより、かつての狩猟の獲物が減少するし、また、特定の種以外の木材が森林に育たなくなってしまうのだ。むしろ、新しいプロジェクトの方が環境破壊を起こしているのである、と。現地の人びとの大きな反対運動の中で、このプロジェクトはとり下げられたという。 (Sillitoe 1998: 225)

3.2.2 持続可能な資源の利用

先住民が限りある資源を取り尽くさないように、言い換えれば、持続可能な形で、自然の資源を利用するは数多く報告されている。

プナン

ボルネオの狩猟採集民族のプナンにとって、サゴ椰子は貴重な資源である。何ヶ月もの間、ひとつの場所でサゴ椰子を取りつづけると、サゴ椰子が一時的に絶滅状態に陥ることをプナンの人びとは知っている。ある場所が一時的にサゴ椰子の枯渇状態になったとき、プナンの人々はその場所でのサゴ椰子の採集を禁止する。かくして、その場所のサゴ椰子は回復する時間的余裕を得るのである。 (Brosius 1986: 177)

アチュアル

アチュアルの狩猟活動は森林資源の持続可能性を高めるよう組織化されている。聡明なアチュアルのハンターは「ペッカリーの群れ再生する能力を失なわないように、妊娠している雌のペッカリーやを連れたペッカリーの母親を殺さないように注意を払う」と民族誌家は述べている。 (Descola 1994: 237)

イヌイット

E.A.スミスによればイヌイトはガチョウの狩の際に、ガチョウの子は狩らないという。 (Smith 1991: 282)


その様な先住民による持続可能な形での資源活用の有名な例が東インドネシアのサシであろう。1

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東インドネシアでは、特定の資源の利用を集団(この場合は村)が規制する慣習法がある。ふつうこの慣習は、サシ (sasi) とよばれる。たとえば島の周囲のサンゴ礁に生息する高瀬貝、夜光貝、真珠母貝、ナマコなどの磯生物がこの規制の対象となるし、陸上ではサゴヤシやココヤシ、レモンなどの樹木作物、特異な場合にはフウチョウ(ふつう極楽鳥とよばれる)の利用が制限される (Pollnac et al 1992)。

磯の生物については、調査によると年間に一、二回連続する一週間だけ解禁になり、あとの期間は利用することができない。 (智彌 1995: 190–191)

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3.2.3 呪術の中の環境主義

呪術信仰の体系に埋め込まれているがゆえに、一軒迷信の様相を呈する先住民の知識が存在する。

ニューギニア高地人の悪魔

ニューギニアの高地人たちに「環境保全」について尋ねても、彼らは途方にくれるだろう、とシリトーは言う。しかし、と彼はつづける。ニューギニア高地人たちには、「森に住む悪魔」という信仰があるのだ。彼らが森林を不当に搾取すると、悪魔が彼らを罰することとなる。 (Sillitoe 1998: 229–230)

カヤポの精霊

ブラジル、アマゾンに住むカヤポでは蜂蜜の採集が重要な生業である。彼らは蜂蜜を採る際に、蜂の巣を完全に破壊することはない。蜂蜜の一部、花粉蜂の子のいる巣のかけら等をつねに巣箱の中に残しておくのだ。それは精霊ベプコーローローティ (Bepk^or^or^oti への捧げものである。かくの如くして、蜂がまたその巣箱に再び巣作りをすることを容易にしているのであるという。 (Posey 1998)

ポージーはさらに、カヤポの狩猟慣習についても触れる。彼らが川で漁撈を行なうとき、ウグイの大群を採ることは避けるという。20mもの長さの蛇、ムリカッアク (mry-ka’ak)の祟りを彼らは恐れているのである。「そうすることによって」ポージーは結論する、「カヤポの人びとは川の食物連鎖を破壊することを避けているのだ」と。

3.3 ルングスの悲劇

呪術信仰に埋め込まれた先住民の知識の一例として、ジョージ・アッペルの描く (Appell 2005) ルングスの人びとの悲劇を詳しく見ていこう。

ルングスの悲劇は二重の悲劇である。第一の悲劇は、一見迷信のように見えるが故に、近代の知的体系(キリスト教および国家)によって破壊された先住民の知識の悲劇である。第二の悲劇は、そのような先住民の知識を失なうことにより、環境破壊、ひいては彼女らの生活世界全体が解体してしまうという悲劇である。

3.3.1 かつてのルングス

アッペルの描く西洋近代(国家そしてキリスト教)に接触する以前のボルネオのルングスの描写は感動的である。アッペルは、伝統的なルングスの生活世界を「文化的な生態系」 (``cultural ecosystem’’) と呼ぶ。「かつてはルングスの認識の世界と生態系の評価は、生態系の使用と一致していた。そして生態系は破壊されることはなかったのだ。」 (Appell 2005: 225–225)と言うのだ。

かつてのルングスの風景は聖なる木立ち、二次林、いくつかの原始林 (primary forest)、果物のなる木の木立ち、ロングハウス、水田からなっていた。 (Appell 2005: 237)

ルングスの心はこのような環境の中に埋め込まれていたのだ、とアッペルは主張する。精霊たち(ロゴン)は聖なる木立ちだけでなく、いたる所に棲息していた。豊穣と富はロゴンの善き意志に依存していた。また、病気はロゴンよりの罰として受け止められていた。人々はロゴン農業の生産性、人間同士の関係病気、すべてが環境と結びついていたのである。 (Appell 2005: 238)

3.3.2 変化

しかし、ルングスのほとんどは、もはやこのような伝統的な方法で生活していない。信念の体系と行動の中に変化が導入されることにより、環境は搾取され、解体されていった。その解体の中に、皮肉なことに、かつてのルングスがいかに環境と一体になって生活していたかが、あらためて分かるのだ、とアッペルは考える。

3.3.3 聖なる木立ち

聖なる木立ちを例に、アッペルによるルングスの悲劇を辿ってみよう。

もともと、聖なる木立ちのある場所には、精霊が住んでおり、木立ちは切ってはならないものであった。

第一の影響は宣教師によるものである。彼らは「精霊からは福音書が守ってくれる。あそこの土壌は肥沃である」と言って、ルングスに切りはらわせた。ルングスの一人は「そんなことをすると、この土地は干上がってしまう」と言っていたという。そして、現在、この土地は干上がってしまっているのだ。 (Appell 2005: 229)

第二点は、政府の影響である。 1960年代、英国政府によって、土地所有が変更されたのだ。循環する使用権の考え方は消滅した。個人による土地の永久所有が現在のシステムである。このことは風景とその使用を変化させた。 (Appell 2005: 225) 聖なる木立ちは、本来、公共の役にたつものである。しかし、そこを所有している個人は、その貸借料を払わなければならない。けっきょく、多くの聖なる木立ちが切り払われることとなった。

個人所有の考えは、居住形態、家屋の構造、労働、相互扶助の体系を変化させることになったのだ。 (Appell 2005: 226)

3.3.4 環境の搾取とその結果

独立後の政府も環境から利益を上げることにかかりきりになる。ルングスの環境は破壊される。 1970年代に政府は油ヤシプランテーションにとりかかる。ルングスたちはみじめな場所に移住させられ、さまざまな規制のもとに生きなければならなかった。 (Appell 2005: 222)

1970年台後半にはアカシア栽培が導入された。ルングスのの狩猟地であったアランアラン(Imperata) の草原が無駄な土地とされ、アカシアが植えられる。これが大失敗する。景観は様変わりした。二次林はほとんどなく、中国人の経営する油ヤシプランテーションと、そこここにルングスの植えたココ椰子がある。

1996年に農業省がわたしの調査地にゴムを導入した、とアッペルは書く。焼畑に使われていた土地さえも協同組合に取られ、ゴムが植えられたのだ。土地はもはや村の管理の外にある。ゴムがうまくいくかどうかは、まだ分からない。

最後のステップは2002年進行中だ。焼畑がプランテーションに変えられ、油ヤシが植えられた。政府はそのために honey tree を切り倒した。 Honey tree はかつてはルングスにとって蜂蜜の採集場所だったのだ。 (Appell 2005: 223–224)

3.3.5 現代のルングス

かくして風景は変化した。現在は風景はプランテーション、道路、教会、店、薬局 (dispensary — 酒屋)、個人の所有する家屋からなる村、ほんのすこしの水田といった具合になってしまった。そして原始林はほとんどなくなり、二次林でさえ、そこここに残っているだけだ。

現在のルングスの認識のなかの世界は大都市での賃金労働者としての仕事の機会や、村の外、しばしば半島での公務員としての仕事の機会などで満ちている。・・・学校薬局、教会に加えてテレビラジオが彼らの認識の世界を形作っている。・・・教育は経済的機会を改善し、現金経済の中の地位を獲得するためのものとして考えられている。スポーツはバドミントン、サッカーなどだ。ロックミュージックが重要で、若者は自分のバンドをつくっている。 (Appell 2005: 237–238)

3.4 「高貴な野蛮人」のまとめ

この節の冒頭で紹介した論文で、著者、シリトーは、論文をつぎのように結ぶ— 「現在の民族誌的技術を改善しようとする試みは、すべて、その開発への関与と効果によって評価されるだろう。人類学的に知識づけれらた調査に費された、余分な資源と時間は、じゅうぶんにそれだけの価値があることを示さなければならない。時代の精神の中で、わたしたちは、わたしたちの収集した情報の信頼性、有用性によって評価されるのだ」 (Sillitoe 1998: 235) と。

4 まとめと展望

4.1 まとめ

環境をめぐる近代と伝統の出逢い、(ツィンの言う)摩擦 (``friction’’) (Tsing 2005) の中で、 1980年代を境として、伝統社会の描き方は「黒い脅威としての原住民」像から、「生態学的に高貴な野蛮人」へと変化していく。これが今回の講義の粗筋である。

しかし、摩擦の現場では、「黒い脅威」論がいまだ優勢である。NGOを代表とするような環境主義者は、保全すべき自然の中の異物は、あくまで、邪魔者である。政府を代表とするような開発主義者にとっては、開発すべき自然の中に住人がいることは、同じように、邪魔なのである。NGOとローカルな人びとの各々のセカンドベストが重なるところに「高貴な野蛮人」が役にたっているのだ。現状はこのようなものである、オルロヴは描く。 (Orlove と Brush 1996: 336)

4.2 展望

「高貴な野蛮人」論には問題がある。その問題は、じつは、「黒い脅威」論のもつ問題と共通しているのだ、という点から次の講義は始まる。

講義シリーズ冒頭でわたしが宣言したドグマの一つを思い出していただきたい— 「『近代』は一枚岩である。しかし、『伝統』は一つ一つが違う」。出発点は、(「このドグマを認めるとすると」の議論であるが)「高貴な野蛮人」で描かれる社会が画一的であるということである。「彼ら」は「自然と一体になって生活し、森や木々に住まう精霊を敬う」先住民像が、そこここに描かれるのである。


[ under construction 二段階—類化とゲームのコンフリクトとして ]

5 補論:「高貴な野蛮人」論への反論

[ under construction ]

ここでは、「高貴な野蛮人」論の土俵に乗った上での、問題点の指摘を列挙しておく。

5.1 先住民は環境破壊をする

グリーン教のシンボルともなっているインディアンのティーピーは、森林破壊や野牛の消滅の一因でもある。

ニューギニアでは過剰耕作によって、広い草原が作り出された。森林は焼くことによって破壊されてきた。

ターンブルによれば、ンブティたちは、森林をうやまいながらも、動物を狩るために、それを焼き払う。

更新世のヨーロッパの大型動物は過剰な狩猟によって多くが滅亡した。ヨーロッパの森林も(低い技術と低い人口密度を持つ社会の)農民たちが破壊したのである。(Ellen 1986: 10)

アルヴァードによれば、アマゾンのピロの人びとは、最適採餌理論にもとづいて狩猟をするという。 (Alvard 1998)

同じくアルヴァードは、先住民の焼き畑を援護する議論は、科学的根拠に欠けていることを指摘する。 (Alvard 1993)

5.2 「先住民の知識」概念の問題

(Dove 2006)

5.3 「先住民」の問題

[ under construction ]

「遊牧民などは「先住民」で救えるが、ほかにも難民などそのカテゴリーに入れることのできない貧しい人々がいる」とダヴは指摘する (Dove 2006: 194)

. . . Whereas nomadism and transhumance [移動放牧] fit into a recognized indigenous niche, there are far greater numbers of people involved in resettlement, migration, and flight. Thus, the resource knowledge and management skills of urban squatters . . . and frontier colonists . . . have tended to be less visible, less privileged, and less studied.

【まとめ】生存ぎりぎりのう状況で、また生態学的に退行した状況で生きている人々の中には、「先住民」の定義からこぼれ落ちる人々がいる、たとえば、グプタは主張する。 (Gupta 1998)

言わば、グプタとは逆の視点からの批判として、レッドフォードとステアマンは「先住民に現在の暮しを続けろというのは、彼らの成長を否定することだ」とも主張する。 (Redford と Stearman 7AD: 252) (quoted in (Ludwig, Mangel, と Haddad 2001: 499))

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  1. 場所や、対象となる種によって名前は異なるが、ここでは一般的に「サシ」と呼ぶこととする。