環境主義は、生活世界から離床した自然、ピュシス、を基礎とする近代の自然観から生まれた。その(西洋の)環境主義が、自然の中から人間(「原住民」たち)を排斥していく様が描かれたのが、直前の講義の前半部、「黒い脅威」である。
NGOに代表される人々が、虐げられた「先住民」を、無知な役人や、資本主義的な企業から救う様が描かれたのが、後半部、「高貴な野蛮人」である。
不思議なことに、配役こそ違え、二つの相反するように見える物語の基本的なシナリオは同じである。「黒い脅威」は、悪い非白人(原住民)から、かよわい女性(自然)を守る善き白人の物語であり、「高貴な野蛮人」は悪い役人や企業から、かよわい女性(先住民)を守る善きNGOの物語なのである。ともに『駅馬車』のシナリオと呼べよう。
われわれの持っている「黒い脅威」論的な環境主義への不満が、一見、すべて解決されているかの如くに見える「高貴な野蛮人」のシナリオには、大きな問題が隠されている。そのことを指摘していくのが、この章の目的である。
じつは、「高貴な野蛮人」のシナリオには、「黒い脅威」のシナリオと同じ性質の問題が潜んでいるのである。「黒い脅威」の中において、近代の側が彼ら自身のフィルター1 を通じて伝統社会を見ていたのだが、同じことが「高貴な野蛮人」にも言えるのだ。違う言葉で言い換えれば、伝統は、近代によって見られるように、一枚岩的に悪玉(「黒い脅威」)でもなければ、一枚岩的に善玉(「高貴な野蛮人」)でもない、ということである。
第?章、生態主義と文化主義の対立の議論を思い出していただきたい。「フィルター」の比喩を用いれば、生態主義とはピュシスのフィルターを通じた対象社会の像を描くことが目的であったのだ。この章で強調されるのは文化主義的見方、すなわち、彼ら自身のことばによる彼ら自身の社会の記述の重要さを確認することなのである。
キーワード:ニューエイジ、霊性(スピリチュアリティ)、類化と一般化、物象化、エピステーメー、共通の相違点の構造と共約不可能性、
伝統社会がお互いよく似たものと見えてしまう現象を「類化」 (generification) というキーワードで捉えていくこととしたい。それは「一般化」 (generalization) とは似ていながら、決定的に違うプロセスを描くことばである。定義はしばらく置くこととしたい。とりあえず「類化」という言葉は印象主義的に使っていく。
先住民像の類化という現象は、「近代の魔術化」としばしば呼ばれる脈絡の中に現れてくる。
マックス・ウェーバーの言う近代の[脱魔術化」は、たしかに、進行中である。それは、わたしの言う「離床」に重なるものである(そして、ギデンズの「脱文脈化」につながるものであろう)。しかし、無視し得ない傾向として、「加速する魔術化」と呼びたくなるような現象も、同時に起きているのである。アフリカの植民地後の世界のそのような傾向を、ピーター・ゲシーレは「妖術の近代」として描写する(Geschiere, n.d.)。ことはアフリカに限らない。ヨーロッパ、アメリカを始め、日本などの近代資本主義の社会にも、「ニューエージ哲学」を典型とする魔術化の現象は進んでいるように見える。離床は起きなかったのだろうか? [ under construction ] (Errington and Gewertz 2001)。
魔術化の傾向は、環境主義の言説に顕著に現れる。まじめな顔をして、ビールスやら岩やらの権利を論じるばかばかしい神秘的で哲学的な生態学があらわれてきている。母なる地球、ガイア、エコトピア、エコ・サイキックな任務やらの言葉があふれる。 (Ellen 1986: 8) これらの神秘的な言説の塊を、しばらくは「グリーン教」と呼んでおこう。
グリーン教の言説の中で伝統社会は「自然を愛し、尊敬する」社会として描かれることとなる。ある環境運動家は次のように先住民一般について次のように述べている—
:
先住民の文化は生態学的な概念に富んでいる。「母なる地球」とは世界のほとんど全ての先住民たちの宇宙論の中のリアリティである。これこそが汎先住民哲学を作り上げているものであり、またインディアンの人々の基本的なメッセージでもあるのだ。 (Barreiro 1991: 200) (Quoted in (Brosius, n.d.: 379))
あとで詳しく取り挙げるが、ボルネオ島のプナンについては次のように語られる。
:
プナンにとってこの森は生きており、脈動し、彼らの肉体的必要とともにスピリチュアルな準備に対して、いくつもの方法で対応しようと身構えているのである。 (Davis 1990: 90)
木々は精霊によって祝福され、動物たちは呪術的なパワーに満ちているのだ。 (Davis 1990: 99)
このタイミングで、カナダの先住民(ファーストネーションたち)と環境主義者の間に起きた軋轢を紹介することは、わたしがこの章で展開する議論を予見するためにも有益であるはずだ。カナダの先住民たちの権利をめぐる戦いを、環境主義の戦いとして捉える環境主義者たちに、彼ら先住民たちは反感を抱くようになった。そして、先住民たちは、皮肉をこめて環境主義者たちを「シャーマン的」であると揶揄したのである。(先住民たちの貧困とは全く無関係な)都会に住む環境主義者たちは、先住民たちの土地への尊敬というものを、ニューエイジの精神に満ちたカルト的なものへと変形してしまったのである。 (Harries-Jones 1993: 49)
「先住民の知識」議論そして「高貴な野蛮人」議論は、それらの議論が擁護している筈の先住民たちから反発を招いているのである。いったいこれらの議論の何が反発を招いているのだろうか— それがこの章の解こうとする問題である。
いくつかのグリーン教の 布教者たちの具体的な言説を見ることから始めたい。
グリーン教の言説は、もちろん、無から生まれているわけではない。
ボルネオのプナンは、リンドゥ以上に環境主義者の間で有名な部族である。プナンの自然愛をめぐるシナリオがいかにして完成し、そして流通してきたのかを見ていこう。
プナンを調査した人類学者ピーター・ブロシウスが、自分が1986年の民族誌の中で描いたプナンの像が、いかに環境主義者によって翻訳されているかについて語っている。
プナンの風景について著者は自分の1986年の論文をまず引用する。川の重要性と風景の濃密さとである。
プナンにとって風景、とりわけて川は、彼らの環境に関する知識の骨格を形作るものである。
:
プナンにとっての川の重要性は強調しても強調し足りないほどのものである。視界がつねに60mほどの環境において、これらの川や小さな小川は環境に関する知識の骨格をなすのである。・・・森の中を旅するとき、プナンの人びとは自分の位置をさまざまな川からの相対的な位置づけの中で正確に把握している。・・・ (Brosius 1986: 174–175)
風景の重要性はそれだけに留まるのではない。それは詳細な生態学的知識の貯水池であり、また過去の出来事の貯蔵庫でもあるのだ。 (Brosius 1986: 175)
:
風景そのものが歴史的な、そして系譜的な情報の維持というイディオムとして機能している。このイディオムは決してノスタルジーを表現するといった些細なものではない。・・・それは社会的関係を維持するのに重要な役割を担う記憶装置なのだ。同時に、それはプナンの共同体が特定の場所の資源を使用する権利表現としても機能するのである。祖先が蒔された川は、現在の子孫たちの生活の糧となっているのである。 (Brosius 1986: 175) quoted in (??? 375)
以上がブロシウスの民族誌である。それらの民族誌的な記述が環境主義者によって流用されるとき (Brosius 1997: 378) それらの記述はニューエイジの哲学へと変貌する。
:
プナンにとってこの森は生きており、脈動し、彼らの肉体的必要とともにスピリチュアルな準備に対して、いくつもの方法で対応しようと身構えているのである。 (Davis 1990: 90)
木々は精霊によって祝福され、動物たちは呪術的なパワーに満ちているのだ。 (Davis 1990: 99)
・・・ プナンにとって、全ての森の音は精霊の言語の要素なのである (Davis 1990: 99)
神[God]の森を歩くことは地上の楽園を通り抜けることなのだ。そこでは聖なるものと俗なるものの境界も、物質的なものと非物質的なものの境界も、自然と超自然の境界もすべて消失する。 (Davis 1990: 99)
太陽の熱を畏怖し、海を知らず、天からは大木の枝によって遮られ、彼らの認識的な、そしてスピリチュアルな全世界は森林に基礎を置いているのだ。 (Davis and Henley 1990: 106)
プナンは森を複雑で生きているネットワークとして見ているのだ。精霊の地理が彼らの想像力と経験によって組み立てられる。それは、川や山の地名、洞窟、巨礫や森と響き合う、太古の昔からの領地や古代のルートをくっきりと浮かび上がらせるのだ。 (Davis 1993: 25)
著者は、風景を認識するやり方や知識を(風景に)埋め込むプナンの人びとのやり方が、それらの知識の大部分を無視するようなやり方で、蒙昧主義的で、本質主義的な言説へと変形されてしまったとブロシウスはなげく。(Brosius, n.d.: 376)
[ under construction ]
ジルの描くマンガライにおいて先住民そして部族社会を代表する、あるいは「部族という幻想を保守する」(Tsing 1999: 162) 人間としての部族の首長、サレスマグルを思い出していただきたい。彼の正統性は、その伝統的衣装に多くを依存している。われわれは、ビジュアルにサレスマグルの伝統衣装を思い描くことで、サレスマグルの伝統性を自らに納得させるのだ。それが如何にまちがった把握であるのか、わたしたちが如何にしてホッブズの手品にだまされてしまったのかを示すのが、同じマンガライでの「伝統家屋」に関するアーブの紹介する事例である。
前章で「黒い脅威」論として例に出した(東インドネシア、フローレス島の)マンガライを別の目(環境主義者の目)で見た描写を紹介しよう。
ジルは、国立公園が森林を保護することにより、地元のマンガライの人びとが水を確保できることを述べる。 (Gill 1995: 1) 環境主義者と地元民は、幸福な関係を築いているのだ。悪党は、よそからやってきた盗伐者たちである。 (Gill 1995: 3–4) 彼ら盗伐者にも言い分があることをジルは認めるが、大事なことは、地元の人びと、マンガライの人びとが、この伐採で困っていることなのだ。
ジルは、マンガライの代表、部族の首長であるサレスマグルの次のような語りを引用し、自分があくまで原住民、マンガライの人びとの側に立っていることを強調するのである —
:
「伝統的衣裳に身をつつんだ首長、サレスマグルは私に語った—われわれはここで一所懸命に、そして正直に働いている。かせぎは少ない。盗伐者たちはここにやってきて、法を犯し、われわれの生活を脅かしているのだ。政府は彼らは違法だとは言うものの、なにも対策をとろうとしないのだ」。 (Gill 1995: 4)
邪悪な盗伐者、無能な政府に囲まれた正直な(伝統的な衣裳まできている)先住民を助けるのが、騎兵隊ならぬ環境主義者であるのだ。
マンガライの「伝統家屋」に関する興味深いエピソードをアーブが記録している(Erb 1998)。次のようなものである。
マンガライに20年住んだカトリックの司祭がマンガライを去ることになった。彼は、ある村に慣習家屋が存在しないことを憂えていた。慣習家屋は共同体の象徴である。彼はマンガライの人びとへの感謝の気持を、慣習家屋の建築の負担をすることで表わそうと決心した。ところが、村人たちが建てた慣習家屋はとても「伝統的」とは(少なくとも宣教師にとって)見えないものだったという。
アーブは次のように言う— 「宣教師は家屋の形にのみ拘っていたのである。本来は、慣習家屋が慣習家屋であるのは、その社会の中の位置なのである」 (Erb 1998: 186)と。各氏族による材料、労働の分担の中で浮かび上がるものなのである。どの氏族がどのような材料を、どのような儀礼の中で、家屋のどの部分を作っていくのかがこと細かに規定される。慣習家屋は、そのような社会関係の中で慣習家屋となるのである。
マンガライの人びとにとっての慣習家屋とは、社会関係の網の目、あるいは大きな体系の中に位置付けられる、あくまで一つの要素、点に過ぎないものである。慣習家屋が慣習家屋であるためには、その体系の中の適当な位置にあることが必要なのだ。家屋の形態は、それがトタンで葺いた屋根をもとうと、どのみち二の次の問題であったのだ。ところが、宣教師は、背後に控える体系を無視して、その形態という項目にのみ着目し、それだけを選択しているのである。その形態をもって家屋が「伝統的である」(か否か)というのは、あくまで宣教師の側のフィルターの目の問題なのだ。
類化とは、まず第一に、近代による近代自身のフィルターによる選択なのである。
環境主義によって有名になったインドネシア、スラウェシ島のリンドゥの人びとの記述もまた環境主義による選択という類化の事例である。
環境主義者が描くリンドゥ像は、選択的であり、かつ複雑である、とリーは言う。環境主義によるリンドゥの記述は次のようなものである。リンドゥは伝統的ではある。同時に彼らがキリスト教徒であることも強調される。その事実は、インドネシアの国内において国家に認めらた位置をリンドゥに保証するのである。2 しかしながら、90年以上に渡るその地域での宣教師の活動がどれほど「伝統的」な文化に影響を与えたかについては巧妙に隠匿される。リンドゥは、自然とつねに接触し、「部族の英知」の所有者として描かれる。森林は薬草を取る場所であり、また家の建築の材料を取る場所である— 彼らの自給的な森林利用が強調されるのだ。一方、リンドゥの人びとに少なからぬ収入を齎す、山に広がるコーヒー園については沈黙する。 (Li 2000: 132–133)
グリーン教は、「伝統社会」がどのようなものであるべきかについてすでにフィルターを持っているのである。
リンドゥの社会を記述する際に使用されるフィルターは近代の持つ「(善き)伝統社会」というフィルターである。そのような「偏見」に対する反省から、「彼らを特別にわたしたちと違った社会と見ること」への反省から生まれたのが「先住民の知識」の概念、そして「生態学的に高貴な野蛮人」の考え方である。この時、「わたしたち」を特徴づけるものとして選択されたのが「科学」なのでである。
[ under construction ]
続けて、マンガライ同様に前章の「黒い脅威」論の中で取り上げた(フィリピンの)パラワンを見る別の目、環境主義者の目を紹する。
行政府のもつ「無知な野蛮人」観、「黒い脅威」論を否定しながら、プログラムの実行者たちは、果敢に「先住民」の共同体の中に分けいる。彼らが最初にコンタクトをするのはパンリマ panglima と呼ばれる共同体のリーダーたちである。プログラムは、リーダーたちと密接に接触し、リーダーたちは、共同体にその理念を植えつける。
パラワン人および彼(女)らの共同体はホッブズによってつぎのように描写される—
:
たしかに彼女らは生存のぎりぎりに生きているかもしれない。しかし彼女らは高地パラワンの自給農民であることに誇りを持っている。じっさい彼女らはいつも仕事で忙しいのだ。環境に依存した上でよりよい生活を彼女らは望んでいる。たとえ金持ちになるよい機会があったとしても、誰も低地 (lowland) に行こうとなどは誰も考えもしない。・・・高地で仲間のパラワンといっしょに過すことこそが彼女らが望むことなのだ。パラワンにとっての理想の生活とは、かつてそうであったような生活 —米の収穫は豊富で、森には果物や獲物があふれているような生活をおくることなのだ。 (Hobbes 2003: 52)
平等主義のこの共同体の中で、リーダーである「パンリマ」はみなの尊敬を集めている。彼(女)は選出されてパンリマとなったのである。ホッブズはパンリマの役割を強調する— パンリマの言うことにみなが従い、森林保全はたいへんにうまくいった、というのである。環境主義者の先住民の間での運動は成功し、ほとんどの村人が環境保全について熱心に語ったとホッブズは報告する。そして、みなが植林をし、植えた木々の世話をしているのだ。さらに植林を続ける計画も持ち上がってきているという。パンリマの言葉にあるような「かつてそうであったような」「森に果物や獲物があふれているような」生活を、彼らが望んでいるからこそ、環境主義の運動は実を結んだことが暗示される。
ジルの描くマンガライも、ホッブズの描くバタクの人びとも、ことさらに似かよっている。
類化の理論的考察に入る前に、類化の流通について簡単に述べておきたい。
リーは、自らの調査したインドネシア、スラウェシ島のラウジェ (Lauje) の人びとと隣接する部族であるリンドゥ (Lindu) の人びととに対する環境主義者の扱いの違いに注目する。違いは、彼女によれば、リンドゥの「文化」については、すでにシナリオが出きあがっているという点にあるのだ— リンドゥは伝統的な生活を送る「部族民」であり、自然と一体化した生活を送り、彼らは自然を商業的に搾取することはなく、持続可能な形で自分たちの生活のためにだけ利用するのである、というシナリオが。リーは、「急いでいる人々にとっては既に『先住民シナリオ』が確立しているところが望ましい。そんな場所は典型例となり、人びとが押しかけ、描かれ、引用され、流通していくのだ」 (Li 2000: 142) と結論する。
自然が生活世界から離床した近代社会において、自然観は一つである。それは量化、数学化された自然観である。それに対して、自然が離床していず、いまだ生活世界に埋め込まれた伝統社会においては、自然観という独立した意味論的領域は存在しない。強いて自然観を取り出そうとするならば、それは生活世界をも取り出すことになる。そして、伝統社会の自然観は、伝統社会の数だけ存在することになるのだ。それら同士の単純な比較は不可能である。
ところが、近代社会のフィルターを通して見えてくる、すなわち、類化を通して見える伝統社会は、比較可能な形で浮かび上がる。
次回の講義では、このフィルターとレンズの比喩を通しての直観的理解をより分析的なものにすることに費やされる。
Barreiro, J. 1991. “Indigenous Peoples Are the ‘Miners Canary’ of the Human Family.” In Learning to Listen to the Land, edited by B. Willers, 274–77. Washington, DC: Island Press.
Brosius, J. Peter. 1986. “River, Forest and Mountain: The Penan Gang Landscape.” Sarawak Museum Journal 36 (57 (New Series)): 173–84.
———. 1997. “Endangered Forest, Endangered People; Environmentalist Representations of Indigenous Knowledge.” Social Text 25 (1): 47–69.
———. n.d. “Endangered Forest, Endangered People: Environmentalist Representations of Indigenous Knowledge.” In The Environment in Anthropology: A Reader in Ecology, Culture, and Sustainable Living, edited by Nora Haenn and Richard R. Wilk, 367–85. New York; London: New York University Press.
Davis, W. 1990. “A Way to Stay.” In Penan: Voice for the Borneo Rainforest, edited by W. Davis and T. Henley, 97–101. Vancouver: Western Canada Wilderness Committee.
———. 1993. “Death of a People: Logging in the Penan Homeland.” In State of the Peoples: A Global Human Rights Report on Societies in Danger, edited by M. Miller, 23–32. Boston: Beacon Press (for Cultural Survival), Inc.
Davis, W., and T. Henley, eds. 1990. Penan: Voice for the Borneo Rainforest. Vancouver: Western Canada Wilderness Committee.
Ellen, Roy [F.]. 1986. “What Black Elk Left Unsaid.” Anthropology Today 2 (6): 8–12.
Erb, Maribeth. 1998. “Tourism Space in Manggarai, Western Flores, Indonesia: The House as a Contested Place.” Singapore Journal of Tropical Geography 19 (2): 177–92.
Errington, Frederick, and Deborah Gewertz. 2001. “On the Generification of Culture: From Blow Fish to Melanesian.” The Journal of the Royal Anthropological Institute 7 (3): 509–25.
Geschiere, Peter. n.d. The Modernity of Witchcraft: Politics and the Occult in Postcolonial Africa. Charlottesville; London: University of Virginia Press.
Gill, Ian. 1995. “An Innovative Bank Project in Indonesia Helps an Island Community Save Forests : Turning Illegal Loggers into Agents of Change.” ADB Review, 3–5.
Harries-Jones, Peter. 1993. “Between Science and Shamanism: The Advocacy of Environmental Organizations’ Use of Science.” In Environmentalism: The View from Anthropology, edited by Kay Milton, 43–58. ASA Monograph 33. London: Routledge.
Hobbes, Marieke. 2003. “Pala’wan Managing Their Forest (Palawan Island, the Philippines).” In Co-Management of Natural Resources in Asia : A Comparative Perspective, edited by Gerardus Antonius Persoon, Dimphena Maria Elizabeth van Est, and Percy E. Sajise, 43–62. Copenhagen: Nordic institute of Asian studies (NIAS).
Li, Tania Murray. 2000. “Locating Indigenous Environmental Knowledge in Indonesia.” In Indigenous Environmental Knowledge and Its Transformations — Critical Anthropological Perspectives, edited by Roy [F.] Ellen, Peter Parkes, and Alan Bicker, 5:121–50. Studies in Environmental Anthropology. Australia, Canada, France, Germany, India, Japan, Luxemburg, Malaysia, The Netherlands, Russia, Singapore, Switzerland: Harwood Academic Press.
Miller, D., ed. 1995. Worlds Apart: Modernity Through the Prism of the Local. London: Routledge.
Tsing, Anna Lowenhaupt. 1999. “Becoming a Tribal Elder, and Other Green Development Fantasies.” In Transforming Indonesian Uplands: Marginality, Power and Production, edited by Tania Murray Li, 4:159–202. Studies in Environmental Anthropology. Australia, Canada, China, France, Germany, India, Japan, Luxembourg, Malaysia, The Netherlands, Russia, Singapore, Switzerland: Harwood Academic Press.
Zerner, Charles. 1994. “Through a Green Lens: The Construction of Customary Environmental Law and Community N Indonesia’s Maluku Islands.” Law and Society Review 28 (5): 1079–1122.