コスモス—伝統社会の自然観

Satoshi Nakagawa

2024-05-26

1

伝統と近代の自然観について

2 コスモスとしての自然

2.1 略画としての自然

近代の自然観、ピュシスを描く際に頻繁に引用することとなる「伝統」の擁護者、大森荘蔵の語り口を紹介しよう。

:

. . . [物理作用だけでは]用が足りていない人、それもひどく用が足りていない人が呪力や魔力を進んで招じ入れるのはまことに自然なのである。. . . 世界の細部と、不透明表面に遮 [さえぎ]られらた内部の観察を阻まれた略画的世界観が鬼神乱神、諸霊、和魂 [にぎたま]荒魂 [あらたま]で賑[にぎ]わうのは当然なのである。そしてそこでは山川草木すべてが生きている。「物」は現代物理学が描くような死物ではなく「生き物」なのである。この生き物にあふれた世界で人はまたそれぞれしがない生き物、苦しい生活を送り、病気や死に、絶えずさらされている短命な生き物でしかない。しかしここには自我対死物世界といった対立は生じえない。自分と天地の間に距離がない。自分は死物的肉体と生きた心の合成物ではなく、いわば全身で生きているのだから、世界は自分の皮膚に密着している。 (大森 1994: 31–32)

ベイトソンの杖

2.2 イバンの魂

「略画的世界」の描写は、人類学者、岩田慶治の独壇場であろう。岩田の本から一つのパッセージを引用しておこう。ボルネオのイバンの語りである。

人間が死ぬと、その魂は身体を離れ、さまざまな場所を訪れる。さらに、肉体の死後三年たつと、とうとう魂もまた死ぬこととなる。

: 稲の魂

    こうして三年たつと魂も死ぬ。死んで雲になる。雲となって山の

峰にかかるのだが、そういうところこそ焼畑の適地で、近くには必ず陸稲が育っているに違いない。そこで、雲に姿を変えた人間の魂は、今度は稲の花、稲の実のなかに入りこんで稲魂となる。稲魂はやがて稲とともに刈り取られ、ロング・ハウスに運ばれ、屋根裏部屋のティバーンのなかに運びこまれる。それが精米され調理されて村びとの口に入ることになる。人間の魂が再び人間の魂として再生するわけである。スマンゴット・パディがスマンゴト・ミンシアに戻るのである。(慶治 1979: 376)

この話をイバンの古老から聞いた岩田は、「それはこの世とあの世、現世と他界の境をこえて往来する魂のあり方をしめすとともに、人間と稲との相違をこえて流通し変換するの本質をしめすものであった」 (慶治 1979: 377) と深い嘆息をつくのである。

2.3 コスモスとピュシス

デスコラは大きく二つの自然観を紹介する。自然を「物語をわれわれに語りかけるコスモス (cosmos)」と見る見方と、「数学化に屈っし、物言わぬピュシス」 (physis) として見る見方とである (Descola 1994: 1)。ピュシスとしての自然はわたしたちの生活、ノモス(nomos)、から分離しているのだ。

2.4 声ある自然

「自分と天地の間に距離がない」様を民俗学者の描写に見てみよう— 谷川健一はかつての日本人の自然との関りを次のように描写する—

:

越後の山村では一度に熊を数頭も殺した場合、あるいは年功を経た熊の場合には一頭を殺しても、かならず山が荒れると信じられていた。これを「熊荒れ」と呼ぶと『北越雪譜』は述べているが、越後の山民は雪崩の背後に、山の主叫び声を聞いたのである。また宮古群島の伊良部島では海霊《よなたま》の話がある。ある漁師がよなたまという魚を釣りあげた。人面魚体でよく物を言う魚であった。漁師が炭火をおこし、焙り網にのせていると、夜更けて「よなたま、よなたま、どうして帰りがおそいのか」というが聞こえ、焙り網にのせられた魚が「はやく津波をやって自分を救ってくれ」と頼んでいた。そのを聞くことができた隣家の母子はいち早くのがれたが、残りのものは、おそってきた津波で全滅したという。これも、海の主である「よなたま」を殺そうとした罪のむくいであった。南島の民は、物音一つしない孤島の夜に、海霊、すなわち海それ自体の魂の声を耳にしてきた。雪崩や津波が海や山の「かくれた神」の存在を告知するとき、自然はたんなる自然ではあり得ない。 (健一 1980: 8–9)

2.5 自然は主体である

【まとめ】アチュアルは超自然を自然と峻別された一つのレベルとはみなさない。自然のすべての存在は人間ととりわけて区別されない。彼らが従っているのは、人間の市民社会を統制している法則と同じである。 (Descola 1994: 93)

3 狩猟採集民

狩猟採集民の社会では、われわれの社会で言うところの自然と人間の関係が、人間と人間の関係として描かれることが多い。それはわれわれ自然という主体客体との関係ではなく、主体と主体との関係なのである (Bird-David 1993: 112)

3.1 ナヤック—自然に教わる

バード・デービッド狩猟採集民の間では自然と人間の関係が人間同士の関係のメタファーによって描かれるという。 (Bird-David 1993: 112)。ナヤック、ンブティ、バテックの間では、自然は子どもを育てる大人として人間に対照される。(カナダの)クリーでは男と女の関係として描かれるのだ (op. cit.)。

3.2 クリー—自然を誘惑する

クリーは北米に住む、採集狩猟を生業とする先住民族である。1

クリーにおいて、狩猟は結婚のようなものである。それは求愛、誘惑、そして強奪という手順を経て行なわれるのである。

インゴールドはクリーのトナカイの特異な生態を例に出し、二つの説明(生態学的説明とクリー自身の説明)を対比させる。問題となる特異な生態は次のようなものである— トナカイ猟は、トナカイの跡を追いかけることにより行なわれる。トナカイに気づかれないように、こっそりと後をつけるのだ。猟の途中で決定的瞬間がおとずれる。狩られるものが狩るものに気づく瞬間である。トナカイは、そのとき、すぐに逃げるのではなく、人間の目を見つめる、というのだ。この見つめあいは狩人にとって、大きなチャンスであり、もちろん、この時、クリーの狩人たちはトナカイを射とめることとなる。

生態学者によると、トナカイのこの特殊な行動は狼に対する適応の結果だという。すなわち、この決定的瞬間において、トナカイの側から狼の目を見つめることにより、トナカイはその場の主導権を握ることができるのだという。その主導権を生かして、トナカイは一瞬早く逃走に入ることにより、生存の可能性を高めてきたのである、と生態学者は説明をする。

クリーの説明は全く赴きを異にする。クリーにとってトナカイは(決して進化のなかで必然的にあのような行動をとるのではなく)霊を持ったものとして、「人間に我が身を捧げる」のである (Ingold 2002)。インゴールドは言う:「クリーにとって、トナカイは有情のもの (sentient) なのだ」と。

3.3 マクナ—自然と結婚する

アマゾンのマクナにおいては、動物はそれぞれが神々 (gods) から「武器」をさずかったとされる。それらの武器は動物の生産力を物体化 (objectify) し、動物を存在へと、そして再生産へと導く。さらに捕食者は、獲物を食べることによって、獲物の持っているそれらの力を内部に取り入れるという。 (Århem 1995: 194)

人間と獲物の関係は、姻戚の関係に比される。人間が(動物の所有者である)精霊に供物 (spirit food) を与える。代償として、精霊は人間に獲物を割り当てるのだ。 (Århem 1995: 192)

3.4 ギミ—自然と相互に関わる

ニューギニアのギミでは、自然は社会と区別されるものではない。自然は、社会と同じようにノモス(法)に従っているのである。

人々と森はいつも交渉してきたし、これからもそうであろう。そうすることによって、人と森のそれぞれが自分自身を作り、そして再び作ってきたのである。ギミは、人間が生者とアウナとの交渉、社会的関係から作りあげられた肉からできていると信じている。そして、アウナは死者との交渉・社会的関係の中で作りあげられるのである。アウナは、「魂」「力」「生の精神」「使い魔」「生命力」と訳されてきた。 (West 2005: 635)

ギミの世界は人間動物精霊祖先が相互に関連しあう場であり、そこ において人格が生まれてくる (west-translation-638)

狩猟場に帰ると、アウナはコレ(精霊や祖先)になる。女のコレは地面近くをはい、男のコレは空高く上がり、鳥や風となる。アウナが散らばっていくと、それはそこら中に居つくこととなる。人間の生命力が森林となり、森林の「野生」の部分が死んだギミのコレでいっぱいになり、また、動かされるのである。 (West 2005: 635)

3.5 プナン–自然を入れ、出す

かつては動物の精霊盗み聞きをするのを恐れて、狩人は行先や獲物の種類を家族にも語らなかった。しばしば誰も起きぬまに出掛けることさえあった。 (Puri 2005: 234)

3.5.1 音と声

鳥の鳴き声カミの声であり、さまざまなメッセージがそこに 読みこまれる(卜田 1996: 88)

: プナンのカミ

プナンのいうカミ(バルイ baley)は、実にさまざまな存在をさしている。まず、すべての動物は自分の「魂」 [95/96](ブルウン beruwen)を持っているとされる。この魂もまたカミの一種としてとらえられている。通常、たんに魂と言えば人間の魂を指し、動物につちえはブルウン・カアン(動物の魂)と限定的に言及される。また人間も含めたすべての動物は、魂の他にいくつかカミを持っている。このカミの多くは、肉体の死後、魂とともに天界(ランギット langit)に移るが、なかには地上にとどまるものもある。この地上にとどまったカミは、まもなく他の肉体に宿ることになる。それは多くの場合、死者の近親者の肉体である。また、魂は死後ただちに天界に昇るのではなく、しばらくの間・・・・・、地上にいてうろうろしている。この状態の魂は、ウガップ ungap と呼ばれ、しばしば人間に災厄をもたらすとされる。やがてほとんどのウガップは天界に移り、狭義のカミとなる。プナンによれば、このような天界に移った「カミとなった魂」が、新たな肉体に宿り、ふたたび魂に戻ることで新しい生命が誕生するのである。(卜田 1996: 95–96)

: プナンの感性と知性

五感によって感じとられ、体に入り込んでくるものは、今度は身体の内的感覚と身体運動によって外に出される。感じることは知ることであり、プナンにとって感性と知性は切り離せないものである、いかにプナン語を了解しても・・・・・多くのことを感じられなければ、ことばをわかった・・・・・とは認めてくれない。特に、ことば(声)の場合には、それになんらかの力を感じることができてはじめて意味がある。そしてその力は、すでにみたように、カミによってもたらされ、あるいは強化されるものである。この点で、カミとの駆け引きによって手にいれた食料を調理し食べること、それを体内で変形して出すこと、とりわけ屁として音声のかたちで出すこと、また経血や精液、さらには子どもを出すことまでも、なんらかのかたちでカミと関わっている限りにおいて、発生と同じ基盤におかれるものである。(卜田 1996: 151)

: プナンの大便の鑑賞のしかた

[大便に関するのと]同様の批評は、嗅いに関してもおこなわれる。嗅いについては、大便の場合と変わらない。音に関しては、主として長さと「音の数」(lubun daqaq) について記述的に語る。長さはうたの場合と同じようにニュラティンとムタを中心とした記述であるが、・・・特に長いもの(それは高く評価される)に対してはルビ lebiq も用いられる。(卜田 1996: 138–139)

: プナンの声の意味

プナンにとっての声の意味がある。彼らにとってピアとは、通常動物が意識的に喉を制御して発する音響であり、それゆえ潜在的に力(プシット pusit)を持つとされる。この潜在的な力が強化されるのは、カミが関与することによってである。それに対してダアウは、カミによって生じる場合も少なくないので、その点では力を持つが、しかし人間の側で制御できないものが大半である。プナンにとって、声は人間が力を与えることのできる音響であり、音はそうではない。音が力を持つとすればそれは、全面的にカミに由来するものとされるのである。[footnote omitted] (卜田 1996: 180)

: プナンは食料を食べるように鳥の声を聞く

肉や野菜を食うように、鳥の声を聞く。大便をするようにうたを歌う。

プナンは、カミのことばとして鳥の声を聞き、それに対応して声を発っするという音声のやりとりと、食物を摂取してそれを排泄物として外界に戻すという循環とを関連づけてとらえている。聞くことと食べること、声を出すこととひり出すこととは、彼らにとって同一の地平におかれており、たんなる比喩ではない。こうしたプナンの考え方、いわば外的世界と内的世界との関係についての思想は、うたに関わるプナン自身の美学的考察を解明する重要な糸口である。(卜田 1996: 121)

4 農耕民

[中世ヨーロッパの] 人びとは自分自身を世界の一部と考えていた。. . . 彼の自然との関わりは密接で綿密なものだったので、彼は世界を外側から見ることはできなかった。 (Gurevich 1992: 297)

4.1 マレー—誘惑としての砂糖作り

性愛の対照として自然を見る見方は決して狩猟採集民に限られらものではない。

農耕民であるマレーの人々の砂糖作りに関して、スキートは次のように書いている。

まず幹に足をかけようとするとき(即ち、まさに登ろうとするときに)マレーの人びとは次の歌詞を繰り返す。

   
    あなたに幸いあらんことを、おおアブカバール!
    幹のまん中で、見守りながら、
    監視しながら、居眠りをしないでくれ、
    さあ、やってきて、
      私がこの木を登るのにつきあってくれ。

そして、葉柄の中に登り込み、中央の芽をつかみ、三度揺さぶる、そして、次のように唱える。

   
    おまえに幸いあらんことを、
      我が妹よ、
      王女たちの中の末娘よ。
    中央の芽を見守りながら、
      監視しながら、
      居眠りをしないでおくれ、
    さあ、やってきて、
      私がこの木を降りるのにつきあってくれ。

それから彼らは仕事を始める。まず、一つのがく片を折り曲げ、まん中の芽をつかみ、三度、次の行を繰り返す。


    あなたに幸いあらんことを、
       殿下、
       刈りとられた髪、
       蒸留の王女達よ、

そして次のような詩を唱えるのだ。


    シ・グデベ・マヤンの花弁の
    曲線と花弁の泡だちの中に見える君よ、
    シ・マヤンの手先たる七人の王女達よ。
        (ここでは、彼は木の魂に呼びかけている)
    さあ、ここにやって来い、小さき者よ、
    さあ、ここにやって来い、か細き者よ、
    さあ、ここにやって来い、鳥よ、
    さあ、ここにやって来い、薄き者よ、
    こうして、私はあなたの首を曲げ、
    こうして、私はあなたの髪を束ねる。
    そして、ここにあなたの顔を洗うのを助ける
        象牙の砂糖ナイフがある。
    ここにあるのは、あなたを短く刈る象牙の砂糖ナイフだ、
    そして、ここにあるのは、
        あなたの下に捧げ持つ象牙のコップだ、
    そして、あそこにあるのは、
        あなたの下方で待つ象牙の風呂だ、
    手を叩き、象牙の風呂の中でしぶきをあげよ、
    というのは、それは王族が着替えをすると呼ばれるからだ。

(Skeat, n.d.: 216–217)

マレーにおいて、ココ椰子は女性にたとえられ、ココ椰子から砂糖をとる作業は、女性の化粧にたとえられている。

4.2 エンデ—性交としてのヤシ酒作り

やはり農耕民である(東インドネシア)中部フローレスのエンデおよびリオの人たちは、砂糖椰子 (arenga pinnata) の幹から樹液をとり、それを蒸留して、酒を作る。砂糖椰子、及びそれからとれる蒸留酒をともにモケという。

モケは自然に生えるものであり、モケは「精霊の持ち物」と呼ばれる。持ち主はいない。それ故、モケを作りたいと思った人間がまず最初に行なわなければならないのは、まだ誰も手をつけていないモケ(モケ・トゥマ)をさがし出すことである。モケ・トゥマという名は「まだ手つかずの処女」を暗示する。

適当なモケを見つけたら、梯子を木の幹に掛け、それをのぼる。まず、彼は幹のまわりの繊維剥す。彼は、自分の作業をモケに告げる


    私は繊維をはぎ取る
    ちょうど女性のスカートを脱がすように

次に、彼は葉柄をこじ開け、その上に立つ。その様にしながら、彼は次のように唱える。

    
   私は葉柄をこじ開ける
   ちょうど女性の太股を開くように

「人は女性を口説くようにモケを説得しなければならない」とエンデ人は言う。腰巻きをはぎ取り、太股を開くのは性行為への序曲である。それらは女性に対してと同様に優しく行なわれる。そして乳房愛撫するのだ。彼は女性の乳をしぼりとるようにして、モケの木から樹液をとる。

マレイのココ椰子の砂糖作りのレトリックのテーマ、すなわち、作業者の略奪行為の語りによる弁済は、エンデのモケ(椰子酒)作りで一つの極へと到達する。

エンデのモケ作りの呪文はエロチックな隠喩に満ちている。

: モケ作り

wak'e gera (梯子)。(gera は bheto あるいは au (tara つきのやつ)を使ってつくる。)梯子を一歩登ったとき: “aku nai tangi”

Pepa (板)のところまで来たとき: “Aku dhajo rewa t'enda”

“Aku tet'e nao // sama ng'er'e iko lawo”

“Aku w'ela pepa // sama ng'er'e kag'e kega”

“Aku w'eru tengu // sama ng'er'e koo susu”

4.3 死と豊穣のメタファー

農耕と性交のメタファー。農耕における死と再生のメタファー。 [ under construction 葬歌(ナンギ・パレ)、儀礼、夜中の性交 ]

5 敵としての森

やさしい自然だけではない。圧倒的な力をもって人間に対峙する自然もある。

5.1 カントゥ—与え奪う自然

カントゥでは生と死、文化と自然がバランスを取ると考えられている (Dove 1998: 43)

ローマン・カトリック教会の富は、その悪業(竜へ死者の肉を | |あたえて、その金の糞をえる)によるものである、 (Dove 1998: 28)

5.2 メキシコ—そびえたつ自然

[メキシコでは] 「力のある森」には二つの見方がある。ひとつは、作物と野生の植物を連続体の二つの極と見る見方である。森を駆逐し、畑をつくっても、いずれは森が再びそこを制服する。森が再び現れるのは、それによって土壌が豊かになるので、いいことである。

もう一つは、もともと産業的農業に関わっていた農民の見方である。この見方の中で、森は畑に徹底的に対立するもとの捉えられる。森を開けば、そこは永久に畑となるのだ。彼らにとって森の力は、否定的なものである。 (Haenn, n.d.: 229)

6 まとめ

メキシコの第二の森林観、奪い取る対象としての自然が産業的農業の従事者に見られることは興味深いことである。


このような自然観を、タンバイアは「因果論的自然観」として、伝統社会のもつ自然観、「融即的自然観」と対照した。

タンバイアは、1990年の本『呪術、科学、宗教および合理性の領域』 (Tambiah 1990)において、融即の議論を、人類学の場で再び取り上げたタンバイアのの結論部分を紹介しよう。彼は、科学を因果論的説明と、そして呪術を(レヴィ=ブリュル風に)融即的説明((レヴィ・ブリュル, n.d.))と特徴付ける。

タンバイアは、この二つの世界に対する態度を表 のような対照的な対で説明する。

因果と融即
因果論 融即
世界 vs 自我、自我中心性 自我/人格と世界、社会中心性
原子論的個人主義、距離をおく・作用と反作用の中立性 連帯、統一、ホーリズム
時間と空間における進化というパラダイム 時間と空間の連続性
事物を変化させる道具的行為と
技術的行為の因果論的効率性 規約的 (conventional) 間主観的理解を通して表れる
表現的行為、神話の語り、儀礼の遂行
科学的知識の構築のなかでの現象の連続的な断片化と
原子化 (atomization) コミュニカティヴな行為の遂行的な効率。

パターン認識、現象の統合化 (totalization)、全てを包みこむ唯一者 (encompassing cosmic oneness) の感覚| |「次元的」分類の言語 (Piaget)、科学と実験|隣接関係と相互行為の論理に制御された「複合的 (complexive)」分類の言語| |「表象」の教義 (doctrine) (Foucault)|「類似」の教義 (doctrine) (Foucault)| |「説明」(Wittgenstein)、「出来事の自然科学的客観化と説明」|「生活の形式」 (Wittgenstein) とそれに関連した経験の全体性|

わたし自身の言葉で言い換えれば、次のようになる。「呪術的態度」あるいは融即的態度とは、自然が世界へ埋め込まれているという世界把握の方法に由来する態度である。そして、「科学的態度」あるいは因果論的態度とは、自然が世界から離床しているという世界把握に由来する態度である。

Århem, Kaj. 1995. “The Cosmic Food Web: Human-Nature Relatedness in the Northwest Amazon.” In Nature and Society — Anthropological Perspectives, edited by Philippe Descola and Gísli Pálsson, 185–204. London; New York: Routledge.

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  1. ほとんどはカナダに住み、最大のファーストネーションである。人口は20万人を数える。