生態主義と文化主義 [ under construction ]
これまでの章においてわれわれは近代の誕生を自然観のなかに見た。有情・有声の主体としての自然、コスモスが、無情・無声の客体としての自然、ピュシスへと変化する様、そしてそれが全体を見る見方から細部への分析的視点に変わっていく様を、これまで辿ってきた。
この章では環境主義の誕生へと議論をつづけたい。環境主義は、生物学から産まれた「生物学的多様性」 (``biodiversity’’)という語をキーワードとして、倫理学の中で、動物愛護の倫理学との対話の中で育まれていった。
すなわち、環境主義は二つのルーツを持っているのだ。一つは生物学であり、一つは倫理学である。この章で扱うのは前者、すなわち生物学における環境主義の誕生である。それは「生物多様性 (biodiversity)」という言葉が誕生するまでの歴史を辿ることとなる。
「序」の最後に、ヘッチヘッチ論争を取り上げたい。この論争は生物学と倫理学共通の始まりの物語として妥当であろうと思われる。ヘッチヘッチ論争の前に環境問題がなかったわけではないが、現在あるような形での「環境問題」を人々の心に植えつけたのがヘッチヘッチ論争だと考えることができるからだ。論争の勝者、ミューアは、アメリカで「自然保護の父」と呼ばれているのだ。
場所はアメリカのサンフランシスコ市、およびその近くにあるヨセミテ公園の北に位置するヘッチヘッチ渓谷、時は19世紀末から20世紀初頭にかけての物語である。
慢性的な水不足に悩むサンフランシスコ市を救うにはヘッチヘッチ渓谷にダムを作ることが最適であることが指摘されていた。いったんはヨセミテ国立公園の制定にともない立ち消えになっていたこの計画が、 1904年の大地震による深刻な水不足を契機に再び議論の俎上にのったのである。
一方に人間の役にたつ形での自然保護を唱えるギフォード・ピンショー、そしてもう一方に自然を人間の手を加えずに残していくことの大切さを訴えるミューアをそれぞれの代表者として論争が繰り広げられたのである。
ピンショーに代表されるような自然保護を「保全」、 conservation と、ミューアに代表されるような自然保護の態度を「保存」、 preservation と呼ぶ。
ミューアの保存の考え方こそが、人間から切り離されたグローブとしての、あるいは風景画にあらわれる風景としての自然、すなわちピュシスの正当な継承者なのである。そして、論争はミューアの側、ピュシスの考え方が勝利を得て終焉することとなる。
本文に入ろう。環境主義の一つのルーツ、生物学の歴史である。「生物多様性」 (biodiversity) という言葉が生まれ、そして生物学的な環境主義が生まれるまでを辿ってみたい。
1990年代、人類学の中で生物多様性の概念に対する批判が起きてきた— 端的に言えば、「生物多様性とは現実に存在するものなのか?」という疑問である (Nazarea 2006: 318)。じっさい、エスコバルは「生物多様性は存在するか?」という論文 (Escobar, 日付なし)を書き、「それは存在しない」と結論する。彼によれば、それは、自然に関する複雑な言説を展開させるために構築された概念にすぎない。 STS の研究者の言う「ネットワーク」の中で、引用され、流用されるなかで構築されていったのだ。そして、そのネットワークの中では、「国際的な組織、北のNGO、植物庭園、大学、第一・第三世界の研究機関、薬剤会社、そしてそれらの場所に位置する様々な専門家がこのネットワークにおける支配的な場所を占めている」 (Escobar, 日付なし: 324)
エスコバルの論文は、結論とレトリックが先にあり、経験的な事例に欠ける論文である。ナザレアは、いささか奥歯にものの挟まったような物言いで「これらの批判者にとっては、生物多様性とはするによいものではなく、考えるによいものになってしまったのである」 (Nazarea 2006: 318) と言う。
この節は、エスコバルの論文と同じ懐疑的姿勢から始めるが、じっさいにどのように生物多様性の考え方が生れてきたのかを、実証的にあとづけることを第一の目標としたい。
過激な人類学(わたしはこれらを「ポピュリズムの人類学」と名をつけたい)は、「生物多様性とは現実に存在するものなのか?」 (Nazarea 2006: 318)と問い、それに (Escobar, 日付なし)を書き、「それは存在しない」と答える。エスコバルによれば、「生物多様性」は自然に関する複雑な言説を展開させるために構築された概念にすぎない。 STS の研究者の言う「ネットワーク」の中で、引用され、流用されるなかで構築されていったのだ。そして、そのネットワークの中では、「国際的な組織、北のNGO、植物庭園、大学、第一・第三世界の研究機関、薬剤会社、そしてそれらの場所に位置する様々な専門家がこのネットワークにおける支配的な場所を占めている」 (Escobar, 日付なし: 324) という。
ポピュリズムの人類学は生物多様性をまるで真空の中に生まれたかの如くに描くのだ。
結論が先に来るだけで、実証的な議論に欠ける彼らの議論をここに紹介することは紙の無駄であろう。ここでは、生物学の歴史を実証的に辿り、「生物多様性」という言葉の誕生までを綿密に追っていった瀬戸口の論文「生態系生態学から保全生物学へ—生態学と環境問題, 1960-1990—」(明久 2000)と「保全生物学の成立—生物多様性問題と生態学—」 (明久 1999)とを紹介していきたい。
われわれは、まず、環境主義の誕生を生物学の中から見ていくこととしよう。
問題は自然の保全戦略に関わっている。瀬戸口(明久 2000)によれば、生物学の中では二つの自然の保全の考え方を見ることができるという。生態学(生態系生態学)に由来する自然の保全と、保全生物学(進化生態学)に由来する自然の保全とである。生態学は生態系の中の物質、エネルギーの循環を扱う。一方、保全生物学は個体群の進化を扱っている。そして、その違いは、二つの生物学の自然観の違いにあると、瀬戸口は結論するのである。
もともとは二つの生態学の間には頻繁な行き来があった。しかし、1960年代を通して、じょじょに二つの対立が明らかになっていったと瀬戸口は語る。それは全体論としての生態系生態学対還元論としての進化生態学という対立を取ることになる。
もともと生態系生態学も数学化をいとうものではなかった。しかし、1960年代を通して、進化生態学の数学的な還元主義に対して、生態系生態学は、自らを全体論の旗手として考え始めたのである。個体を超越したものとして生態系を考え、還元主義を克服するものと自らを捉えはじめたのである。
全体論をとる生態系生態学に対して、進化生態学はその分析的手法を強調しはじめる。進化生態学は生態系生態学の全体論を論難し、自らのデカルト的・分析的手法を、「科学的」手法を誇示するに至る。
生態系生態学は、生態の比喩として何を使うかということで、二つの時期に分けることができると瀬戸口は言う (明久 2000)。第一の時代(1940年代)は「有機体の時代」、そして、第二の時代(1980年代)は「機械の時代」である。
1940年台の生態学者は、生態を有機体の比喩をもって語っていた。生態系は、多少の攪乱要因があっても、(生物個体がホメオスタシスによって安定するように)安定した状態(「極相」)に至ると考えられていたのである。
自然を全体として捉える。自然を一つの有機体として捉える。そのような点において、この時期の生態系生態学はコスモス的世界観の近代における継承者だったのだ。
1960年になると、有機体のアナロジーはじょじょに使われなくなってくる。有機体のアナロジーのもつ目的論的自然観を生態学者たちは避け、より中立的な機械の比喩を使うようになっていったのである。そのような移行を可能にしたのがサイバネティクスの考え方である。生態学は生態系を平衡状態にある機械として考えることができるようになったのである。
生態系生態学の自然保全の戦略はこのような考え方に基いている。彼らにとっての自然保護の第一の目的は生態系のバランスを保つことなのである。ある程度の攪乱があっても、系は、系のもつフィードバック機構によってもとの状態に戻ることができる。ただしある閾値を越えると生態系は崩壊に向かって暴走を始めるのだ。その暴走をもとに戻すこと、それが生態系生態学の自然保護戦略だったのである (明久 2000)。
生態学に由来する自然の保全は、なによりも生態系のバランスを取ることを目的としたものである。それに対して、これから述べる保全生物学では、一つ一つの種を守ることが第一の目的である。極論すれば、種の保全のために生態系のバランスが取れなくても、それはしようがないのだ、と保全生物学者は考えるのである。 (明久 2000)
この「生物学的保全の科学」が生態学とどのように関わっていたかについても、確たる研究は、いまのところない(Sarkar, 日付なし) とサルカルは述べる。
生態系生態学がコスモス的考え方を継承していると言うならば、進化生態学あるいは保全生物学は自然をピュシスとして見る態度である。そして、「生物多様性」の言葉を生み、現在優勢をほこっているのが進化生態学あるいは保全生物学であふ。
それでは、焦点を保全生物学(進化生態学)に移し、そこからどのようにして「生物多様性」(biodiversity) の考えかたが生まれてきたのかを辿っていくこととしよう。
瀬戸口によれば保全生物学は1970年代に誕生し、 1986年に制度化したという。 (明久 1999) しかし、自然の保全という考え方は、生物学の中で、近年新しく誕生した考え方ではない。それは、「生物学的保全」 (biological conservation) としてすでに18世紀、19世紀に現れていた考え方なのである。 (Sarkar, 日付なし)。
保全生物学の歴史を次の三つの時代に分けて見ていくこととしよう— (1) Biological Conservation の時代、 (2) Conservation Biology の誕生、 (3) Biodiversity.の時代(Conservation Biology の制度化)と
保全 (conservation) の考え方は、生物学の中で近年新しく出現した考え方ではない。
「生物学的保全 (biological conservation) の科学」は 18世紀、19世紀のドイツ、インドでの森林保護あるいは猟獣保護を目的として発達してきた。 (Sarkar, 日付なし) もともとは植民地期における資源保護という目的に沿って考えられた科学なのである。ペルーゾの『豊かな森林、貧しい人々』 (Peluso 1991) で描かれるのは、オランダによる「科学的な森林管理」である。
1970年代半ば、アマゾンなどでの野生動物の大量絶滅が問題となり始めた。それに対応する形で、新しい科学、保全生物学が誕生することとなる。 (明久 1999)
瀬戸口によれば、保全生物学は、 (1) 群集生態学(島嶼部の群集生態学)、とりわけ1960年代から1970年代初頭にかけて理論化され、進化生態学の一部にくりこまれるようになった群集生態学と、 (2) 同じく進化を扱う集団遺伝学とを源泉としていると瀬戸口は言う。1
1970年代島嶼部を対象とした群集生態学は、理論化、数学化が進められた。例えば島の種数を予測するのに、大陸からの移入率(それは大陸からの距離が大きいほど小さくなる)曲線と絶滅率(それは、島が小さいほど大きくなる)曲線の間の交点として計算されるようになった。
集団遺伝学では「近交弱勢」や「遺伝的浮動」の現象が数学的に説明されるようになった。近交弱勢とは「大きな集団が、とつぜん小さくなった場合、その集団がますます小さくなること」を言う。これは、集団が小さくなることにより、劣性有害遺伝子のホモ接合度が高くなることにより説明される。経験的に個体数が50を割るとこの現象が起こり始めるという。 (明久 1999) 遺伝的浮動とは、「集団中の対立遺伝子頻度が確率的な原因によってランダムに変動することを指す。」と言う。(明久 1999)
ここで問題となる「多様性」は遺伝的多様性である。
かつて集団遺伝学は生態学の一部ではなかった。生態学的な現象と進化とは異なるタイムスケールで行なわれていると考えられていたからだ。生態学的な現象は、個体ではなく種の存続に関わっているように見えたのである(利他行動など)。しかし、じょじょにその二つの間の距離が縮小してくることとなる。
保全生物学は、カーター大統領のもと、それなりの資金を得ることができ、自然の保護へと向かっていった。しかし、レーガン大統領の時代の反環境主義が来ると、保全生物学者、環境保全論者たちは危機感を覚えることとなる。 (明久 1999) そのような時代に、保全生物学の一大宣伝が行なわれることとなる。
そして1992年のリオデジャネイロで開催された地球サミットにおいて「生物多様性条約」 (CBC — Convention on Biological Diversity) が締結されるのである。その条約では生物多様性は次のように定義される「すべての生きている生物体、およびそれらが部分であるところの生態学的複合体の変異性— そして、それは種の中の、種間の、そして生態系の多様性を含む」 ``the variability among living organisms from all sources and the ecological complexes of whchi they are part; this includes diversity within species, between species, and of ecosystems’’ (??? 4)
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生物学の中で、環境の危機に二つの生態学(生態系生態学と進化生態学)が対処しようとしたわけである。けっかとして、進化生態学である保全生物学が自然保護の大きな部分を占めることとなった。
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そして、アメリカの政治状況の中で急遽生みだされた不細工な用語、「生物多様性」(biodiversity) という受けることを狙って作られた用語の普及によるところが多いであろう。保全生物学が、現在のところ、自然の保全運動のなかでヘゲモニーをとっているように見える。
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Escobar, Arturo. 日付なし. 「Does Biodiversity Exist?」 The Environment in Anthropology: A Reader in Ecology, Culture, and Sustainable Living, 編集者: Nora Haenn と Richard R. Wilk, 243–45. New York; London: New York University Press.
Nazarea, Virginia D. 2006. 「Local Knowledge and Memory in Biodiversity Conservation」. Annual Review of Anthropology 35: 317–35.
Peluso, Nancy Lee. 1991. Rich Forests, Poor People: Resource Control and Resistance in Java. Berkeley; Los Angeles, California: University of California Press.
Sarkar, Sahotra. 日付なし. 「Conservation Biology」. The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 編集者: Edward N. Zalta. http://plato.stanford.edu/archives/win2004/entries/ conservation-biology/.
明久. 1999. 「保全生物学の成立—生物多様性問題と生態学—」. 生物学史研究 64 (13–23). http://homepage3.nifty.com/stg/histbiol64.htm.
———. 2000. 「生態系生態学から保全生物学へ—生態学と環境問題,1960-1990—」. 生物学史研究 65 (4月): 1–13. http://homepage3.nifty.com/stg/histbiol65.html.
サルカルは保全生物学が先駆者のさまざまな科学とどのように関連しているのかについては定説はない、と述べる。 (Sarkar, 日付なし)↩