ここまで人類学の視点について語ってきた。人類学は文化をゲームのようなものと見なす。 [ under construction ]
人類学的視点で開発に語るわけだが、それは批判的な語りとなる。
まずこれから3つばかり続く講義の流れを予告しておこう。文化が一種のゲームだとわたしは言った。「経済の考え方もまた一種のゲームである」、これが大きなテーマとなる。
第二講義(本講義)は開発の失敗について述べる。そうしながら開発をささえる思想(それを、とりあえず「経済学」と呼んでおこう)を詳述する。あなたがたに覚えておいて欲しいのは、この講義は経済学にのめり込んで語られる、ということだ。もっとはっきり言えば、この講義の語り口は人類学的ではない、ということである。
開発を支持する考え方、「経済学」を簡単に示しておこう。それは一種の進化論である。資本主義(市場主義)の経済が、人間にとってもっとも望ましい制度と考える、そのような考え方である。1
わたしたちはこの思想にのめりこんでしまっている。そこから一抜けるために、人類学が登場する。それが第三講義である。そこにおいて、市場主義とはまったく違う経済思想を紹介したい。そして、2つの経済思想を2つのゲームとして比較するのが第四講義となる。
というわけで、この講義の間は、人類学的な考え方からしばらく離れることになる。人類学的考え方を忘れてもらいたくないので、ここに第四講義(2つのゲームの比較)で出てくるアイデアを小出しにしておきたい。
本将棋にのめりこんでいれば、角が斜めに動くこと、飛車が縦横に動くことは「自然な」ものと見えてくる。そのような規則の体系(ゲーム)を生きる中で、人はさまざまな作戦や常識をつくりあげていく。「駒の損得をつねに考える」、「二枚換えはたいてい得になる」、「離れ駒はなるべく避ける」、「王ははや目に囲う」などなどの常識や作戦が生まれてくるだろう。
プレーヤーは、それらの常識や作戦を学び、その中で盤面を見る目を養う。
[ under construction チェスの例 ] (???)
「貧困」とは、近代あるいは市場経済というゲームの中の、パターンなのだ。
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現在原発批判が盛んである。原発に反対することに、わたしはとりわけて反対はしない。ただ、彼ら彼女らが、「反対」をした後、どのようなビジョンがあるのかが、わたしには分からないのだ。あるテレビ解説者が、「原発を止めることは、生活を全面的に変えることだ。原発反対は、そのような含意があることを肝に命ずるべきだ」といった発言をしていたのを見たことがある。この解説者くらいの心構えは、原発反対者にはあると、わたしは思いたい。ただ、わたしが思うのは、「生活を全面的に変える」程度ではすまないと思う。もし、資本主義社会そして国民国家というこの社会の仕組みを変えないならば、原発は、いずれ10年もたてば戻ってくると思う。2 そして、資本主義と国民国家という枠組みをなくしてしまえば、わたしたちは何をその代わりとすべきか途方に暮れるだろう。
突然、原発反対運動を出してわたしが何を言いたいかというと、開発の議論も、それに近いもの、「開発は悪いから止めろ」という議論になりがちだ、という自戒である。
資本主義と国民国家をとりのぞくというのが、理想かもしれないが、そのようなことを述べる自信はない。3
「開発反対」を述べながら、「開発のない社会」として、資本主義・国民国家抜きという大仰な代替案でなく、もう少し手軽な代替案を、できれば、講義の最後で提示していきたいと思っている。
今回の講義は、ゲームの中から始めよう。
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原洋之介は「貧困」「開発」の語の歴史を次のように説明する― 「第二次対戦後の世界で開発が国民所得統計で順序づけられた低開発状態からの脱出として縮約され受容されていった背景には、アダム・スミスの自由主義思想にも強く影響されて近代ヨーロッパで誕生した近代進歩主義史観が存在していたことは間違いない。ヴィクトリア王朝文明が達成したとされる「明々白々たる優越性」において頂点に達したとする「進歩」という歴史観が、近代ヨーロッパで「発明」された (Bowler)。この発明された進歩という概念を前提として、一九世紀中葉にイギリスとフランスとで貧困層・貧困地域と認定された人々と地域に対して、国家が保護者として働きかける必要が認識されはじめたなかで、「低開発」の「開発」という概念がこれまた「発明」された (Cowen and Shenton) といってよい。」 (???)
ここまではいい。将棋がプレイされている中で、矢倉囲いが発見されるようなものなのだ。ビクトリア朝時代の都市のあるカテゴリの人びとを「貧困」の名のもとに捉えることは間違いではない。しかし、はさみ将棋をしている人に「矢倉囲い」を教えても、それはナンセンスである。そして、「貧困の拡張」という言葉でわたしが主張したいのは、まさにそのようなナンセンスな事なのである。
そして、第二次世界大戦の後、 1949年のアメリカ大統領トゥルーマンにより大統領就任演説が行なわれた。開発の歴史で誰もが引用する演説である:
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「われわれは、新しく大胆な試みに着手しなければならない。科学の進歩と産業の発達がもたらしたわれわれの成果を、低開発国の状況改善と経済成長のために役立てようではないか」(順造 1997: 2)。
「開発という語が、現在のような意味をおびるようになった背景には、はじめにも述べたように、第二次対戦後の欧米植民地帝国の崩壊と旧植民地社会の復権と大挙しての独立が挙げられる。ファシズムを倒した、疑う余地のない「アメリカの正義」と、それを支えたあめりかの富と技術―第二次体戦後のアメリカの楽天主義と自己肯定の時代の中で発せられた、先に引いたトルーマン大統領の開発宣言。イギリスではアトリーの労働党政権が、植民地の社会福祉 (social welfare) という発想から、開発の必要性を打ち出した。フランスでは、植民地支配を「文明化の使命」 (mission civilisation) の遂行とみなす十九世紀以来の大義名分が、社会党左派のマンデス=フランス時代から活発になる植民地の独立以後は、開発ないし発展 (dEveloppment) のための援助 (assistance) や、のちにド・ゴールの第五共和制下ではより明確に協力 (coopEration) という概念に置き換えられることになる」。(??? 13)
かくして世界の中に貧困が発見されその撲滅が叫ばれたのだ。
まとめ―単線進化の図式
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開発は歴史の動きから、倫理へと活動、グローバルスケールの貧困との戦いという倫理の活動になってきた。
19世紀の人類学者は黒人を生物学的に劣った人種とし、自治の能力のないものとみなした (crewe-harrison-development-28)
見当違いとは言え、「開発」を推し進める人たちの意図は、善意である。ところが、じっさいの開発現場で何が起きているかというと、ほぼその意図する状態と逆の状態が生まれているのである。― 開発の進む中、貧困はますます増加し、環境は悪化し、そして貧富の差が広がっていくという証拠がある (Crewe と Harrison 1998: 14)。
「これまで誰もが『成功した開発』として納得するような事例はなかった」ということは、誇張ではない。4
それゆえ、開発産業への批判は高まっている― 高級取りの外国人が手も足も出ないローカルに実効性のない計画を押しつけ、援助のプロセスは汚職にまみれ、非効率性に蝕まれている。援助はドナーを満足させることが目的であって、受け手は問題にされない、というのだ (Crewe と Harrison 1998: 14)。
開発のおかげで、アジアやアフリカに高給とりの外人たちがおしかける。 ― アジア、アフリカ、中南米で 15万人の外人をかかえる。アフリカだけで一日に900ポンド(15万円)の金が一人のコンサルタントなどに支払われる。
それは一大産業となったのである― 「開発産業」である。これに携わる外国人たちの給料にドナーの金のうちの年間七〇億ドルから八〇億ドル(八千億円ほど)が費されるのである。 (Crewe と Harrison 1998: 61)
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The result is that Africa, Asia and South/Central America have over 150,000 expatriate residents or visitors working in development projects. This expert' assistance consumes an estimated _DOLLAR 7--8 billion of donor money a year in Africa alone, and even a non-government organization (NGO) may spend up to Pounds 900 a day on a very expensive consultant. According to Nindi, the highly paid
experts’ have done nothing to prevent Africa plunging into an economic crisis.
(Crewe と Harrison 1998: 61)
開発ではないが、近代化の悲喜劇を三つつ引いておこう。
「そのようなアエタに対して一九七五年に、米軍および教会関係者や地元有志によってマイノリティ開発財団 (Ecumenical Foundation for Minority Development, Inc.) が組織され、スイスの教会組織からの資金によって、社会経済開発のプロジェクトが実施された。具体的には、南西麓にカキリガンという名の集落を開き、四〇ヘクタールほどの耕地を造成し、山を下りて村落に定住した五〇家族ほどのアエタたちに、畑地とカラバオの分配を行ったのである。しかし、移動焼畑から定着犂耕農業による陸稲栽培へという、生業の全面的な変換を目的とするプロジェクトは、当初計画の八年間では目にみえる成果を上げることができず、大失敗に終わった。その理由の詳細については別項(一九九〇、第四章)で論じているので繰り返さない。
要約すれば、その根本的な原因は、彼らの社会が塩を除いてほぼ食糧の自給が可能であり、鉄器や布などはバナナなどの商品作物との交換や売買によって入手でき、したがってプロジェクト自体が善意の無理解にもとづく不要不急のものであったからである。そもそも安定した生存のための彼らの基本的な戦略は、食糧獲得のための選択肢の幅をひろげ、状況に応じて力点の置き方を変えながらもその多様性を最大限に活用する。それによって危険を分散させ、必要最低限の食糧を確保するというものであった。」(清水 1997: 162163)
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以下は清水よりの引用である―
そうしたネグリート系先住民の変容過程のなかで、もっとも悲劇的な事例がパラワン島のバタックの場合である。エダーの『民族絶滅の途上にて』(一九八七)によれば、彼が交流と研究を続けた二〇年のあいだに、バタックの人々は、野生ヤムイモと蜂蜜の採取を中心とした狩猟採集によるほぼ自給自足の生活から、商品経済に巻き込まれていくことによって、変容どころか滅亡の危機に直面しているというのである。狩猟採集を生業としていた頃にはバランスのとれた栄養価の高い食事をしていたが、缶詰や米を交換で得るために商品価値の高いラタンやマニラ・コーパル(樹脂)などの採取に力点を置くようになると、単位労働時間あたりの食物カロリーの獲得の効率が低下し、慢性的な栄養不良に陥った。結果として、出産数の減少と死亡率の増加によって人口が減少してゆき、一九世紀末には八〇〇人あまりであったグループが現在では三〇〇人を割り込んでしまっている。 [160/1]
しかも彼らが平地民社会に組み込まれてゆくときに、きわめて不利な社会経済条件のもとでその最底辺へと位置づけられるため、生活様式の変化のみならず、言語や各種儀礼も行なわれなくなってしまう。そのために、民族の誇りや個人の尊厳、アイデンティティーを奪われ、強いストレスやアパシーに襲われるという。さらにそうした状況のもとでは、たとえ平地民との通婚が行われたとしても、その子供たちはバタック固有の文化や自然環境に関する深い知識を継承せず、また学校や教会にも通わないために平地民の文化も十分に習得できない。そのうえ政治的な諸権利や各種の行政サービスも享受できないために、文化変容ならぬ文化剥奪 (de-culturation) が生じており、人口の減少とあいまってまさに「民族絶滅の途上にある」と警鐘を鳴らすのである。 (清水 1997: 160)
【引用されているのは】 (Eder 1988)
もう一つはニューギニアのウォプカイミンの悲劇である。
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オク・テディ鉱山の開発に必要な土地のほとんどは、ウォプカイミン(Wopkaimin) の人々が所有していた。ウォプカイミンは人口約七〇〇人の民族集団である。一九七三年に . . . 人類学者デイヴィッド・ハインドマン (David Hyndman) は、ウォプカイミンに関するフィールドワークを行った (Hyndman 1994)。彼は特にウォプカイミンの男たちが情熱を傾ける狩猟に関心があった。彼らは、弓矢をもって、標高約四五〇メートルのオク・テディ川の川岸から標高約二四〇〇メートルの高原地帯まで歩き回る。ハインドマンは、ウォプカイミンがしとめる獲物のほとんどを四種類の動物が占めることを見出した。最もしとめられる頻度の高い動物は二種類の樹上性有袋類で、クスクスとリングテイルである。ユビムスビとも呼ばれるキヌゲクスクスは縫いぐるみのようで、その体重は二キロにも満たない。クロアシリングテイルの大きさもほぼこれと同様である。一方、獲物のなかで最も大きいのは野生のブタとヒクイドリ ・・・ である。
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ハインドマンは彼らが男女ともに畑仕事に従事し、主食となるタロイモを含む多くの穀物を栽培しているのに気づいた。タロイモは彼らの食卓において、カロリーの三分の一を占めていた。彼らはまた、食料として実をつけるパンダーヌスや澱粉質の多いサゴヤシからなるヤシの木畑をつくる。ブタは女性が育てる。彼らは魚やカエル、野草、シダもとって食べた。このように、鉱山が開山する以前にはバラエティー豊かな食生活を送っていたのだ。
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ハインドマンが一九八〇年代に、オーストラリアの大学からウォプカイミンのもとに戻ったときに目の当たりにしたように、鉱山の開山は彼らの生活を劇的に変えていた。熱帯雨林のなかにあった部落は放棄され、ウォプカイミンは道路わきの密集した村へと移動していた。彼らは、捨てられていた梱包材を用いて小屋をつくった。これらの小屋は、後に近代的な住宅に取って代われた。
・・・
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一九八四年に実施した食事に関する調査によって、一〇年前にハインドマンが報告した伝統的な食生活に、大きな変化が生じていたことが明らかになった。主食は伝統的なタロイモからさまざまな根菜類や商店で購入するコメに代わっていた。鉱山開発に携わり、会社の食堂で食事をする若くて働き盛りの男たちだけが多く食べ物にありつける状態であり、子どもの栄養失調は相変わらずのままであった。また、夫が鉱山会社に雇われているか、そうでないかによって女性の食生活にも新たな不均衡が生じていた。
新たに道路わきにできた村では、健康状態にも変化が起こった。標高の低い土地に移動したことによってマラリアが増加した。売春とともに性感染症も増加した。やがて鉱山会社が従業員用の医療サービスを共同体全体に拡張したため、村の衛生状態はかなりの改善をみせた。
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鉱山開発のピークを過ぎると、一九八二年には鉱山労働力の六〇%以上を占めていたウォプカイミンが担う非熟練労働は、一九八六年には五%へと急激に落ち込んだ。鉱山熟練労働者は、海外から来た者や同じパプア・ニューギニアでも他地域の出身者だったのである。地域住民のなかには鉱山の周辺で新たな職を見出した者もいれば、鉱山に貸与している土地の使用料に頼る者もいた。ある者は他地域出身の不法住民で満ちあふれた道路沿いの村を捨て、古い男性イニシエーションの儀礼や狩猟、タロイモ栽培を復活させるために熱帯雨林に雨移り住んで新たな集落を形成した。++
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++ これらすべては、結婚や死その他の人生の重大な局面で行われる伝統的な交換に貨幣が持ち込まれたことによって、劇的に変化した社会のコンテクストのなかで起こったおのである。現金収入は、欧米の水準からみると大きいものではないが、彼らの生業経済を一変させ、社会の基盤を切り裂いたのである。(Townsend 2000: 8386)>【
Crewe, Emma, と Elizabeth Harrison. 1998. Whose Development? An Ethnography of Aid. London; New York: Zed Books.
Eder, James F. 1988. On the Road to Tribal Extinction: Depopulation, Deculturation, and Maladaptation Among the Batak of the Philippines. University of California Press.
Townsend, Patricia K. 2000. Environmental Anthropology: From Pigs to Policies. Illinois: Waveland Press.
順造. 1997. 「序 いま、なぜ「開発と文化」なのか」. いま、なぜ「開発と文化」なのか, 編集者: 川田 順造, 岩井 克人, 鴨 武彦, と 恒川 恵市and 原 洋之介and 山内 昌之, 157. 岩波講座『開発と文化』. 岩波書店.
清水展. 1997. 「開発の受容と文化の変化」. いま、なぜ「開発と文化」なのか, 編集者: 川田 順造, 岩井 克人, 鴨 武彦, 恒川 恵市and 原 洋之介, と 山内 昌之, 15376. 岩波講座『開発と文化』. 岩波書店.