2017-07-04 15:11
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この論文で、わたしはインドネシア東部フローレス島に住むエンデの人たちの近代化への取り組みを紹介したい。エンデの人びとの社会は、いわゆる「伝統社会」に分類される社会である。他の伝統社会の住民と同じく、彼女らは、いま、近代化の波にさらされている。その荒波の中で、彼女らがいかに、近代の合理主義に抗して、そのアイデンティティを維持していくかを示すのが、この論文の目的である。
ここで取り上げる近代化の具体例は、開発、すなわち経済の領域における近代化である。発動機の会議は開発の文脈の中で開かれた会議である。発動機を通した事例を通じて、エンデの人びとが、外からの開発という経済ゲームをうまく受け止めながら、自分自身の伝統的な経済ゲームをも維持している様子を描いていきたい。
この節では、エンデの民族誌を簡単に紹介しよう。ただし、その前に開発という文脈におけるエンデ、あるいはフローレス島一般にあてはまる二つの特徴について述べておかなければならない。その第1は、フローレス島には特筆すべき天然資源が存在しない、という事実である。そのため、フローレス島は開発にとって魅力ある場所ではなかったのである。じっさい、古くは、オランダ植民地政府にとってフローレス島は「利益のない島」 (Dietrich 1983)と呼ばれていたのである。かくして、フローレス島の人びと、(そしてそれは、もちろん、エンデのズパドリ村の人びとを含むのだが)は「ノルマンディに上陸する連合国の部隊のような」「専門家たちの大規模の集団の上陸」 (Escobar 1995: 45)を体験してはいない。じっさい、わたしは、ズパドリ村において外部の(開発関連の)専門家に会ったことはない。
天然資源の欠乏に加えて、フローレスには開発を遅らせるもう一つの要因がある。フローレスにおいては最近までこれといった市場経済あるいは都市化といった現象がなかった、という事実である。それゆえ、開発がターゲットとする「ぼろを着たアジアの人びと」や「アフリカの子どもたちの膨れた腹」 (Ferguson, 日付なし: xiii)、すなわち「貧困」を、潜在的な開発者たちはここに見いだすことができなかったのである。「欠乏」しているのは現金だけなのだ。わたしが「エンデにおける開発」と述べるとき、それはファーガソンの言うような巨大な何かではない。エンデにおける開発は、外部からの援助という形をとってのみ顕現するのである。
それでは開発、あるいは近代の経済ゲームを受け入れるエンデの側の伝統的経済ゲームを、まず、紹介しよう。
2008年、わたしは「妹」のリヴァと彼女の夫の家に居候をしていた。ある昼下り、例の発動機の集会の数日後のことだ。わたしは台所でリヴァと、リヴァの世帯の財産について聞いていた。
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[SN]「リヴァ、いま豚は何頭いる?」
[リヴァ]「大きいのが5頭だよ。あと子豚が数匹いる」
[SN]「OK、5頭だね」(数字をノートに記入する)「大きいのが2頭、いつもこの辺をうろついているのは知ってるよ。あと3頭はどこにいるんだい?」
[リヴァ]「人が来て、マザして(取っていった)んだ。」
リヴァは存在しない3頭の豚を、あたかもそこにいるかの如くに勘定したのである。彼女がそうしたのは、問題になる取引がマザmarha(「取る」こと)だったからである。なにか他の方法で借りられたなら、リヴァはそのようには勘定しなかったであろう。婚資などのために動物や象牙が必要なとき、村人はしばしばこの方法を採用する。やり方はあっけないほどに単純である― 彼らは、そのような状況に陥ったとき、動物や象牙に余裕があることをあらかじめ知っている家にいき、しばらくのあいだ動物あるいは象牙をマザしていいか聞くのである。もし、ある男が豚をマザしたならば、彼に余裕が生まれたとき、あるいはもとの所有者が返却を希望したとき、彼はだいたい同じくらいの大きさの豚を返却することが期待される。
このようにして持っていかれた豚は、あたかもまだそこにいるようにもとの所有者の所有物としてカウントされる。
ペッイ pE’i(「質」)はもう一つのものを借りる方法である。ペッイは、とりわけお金を借りるときに採用される。ズパドリ村の村人にとってお金が必要になる機会とは、とりわけて学費の支払いである。村人によれば、10万ルピアを借りるのには、一本の椰子の木をペッイするのが、だいたいの相場だということである。負債を返却していない間、貸主はペッイされた木を利用する権利を持っている。椰子に実がなれば、それを食べること、さらにはそれを売ることもできるのである。
しばしば金を借りるのに象牙をペッイすることがある。また、象牙を借りるのに椰子の木をペッイすることもある。どちらの場合でも、そのペッイが終わる時に返却される象牙は、正確に同じ長さでなければならない。
上述の二つの方法(マザとペッイ)は異った原理に基づいている。マザで作動する原理を「互酬性」と呼ぶことに問題はないだろう。ペッイのそれは市場経済の原理であるところの「等価交換」である。互酬性と等価交換の差は微妙であるが、その差を理解することは村人の生活を理解する上で決定的に重要である。
等価交換の典型的な例、売り買い(「テッカ」と「ンブタ」)もまたエンデの経済ゲームに登場する。それらの語で描かれる情景は、互酬性の典型的な例、贈与、すなわち与える・受け取る(「パティ」と「シモ」)の描く情景と対照的なものとなる。
贈与は、エンデの社会においては、特権的に、婚姻で結ばれた父系の集団(「家」と呼んでおこう)同士の間で行なわれる交換である。家同士で象牙、動物などがやり取りされるのである。
2008年のリヴァのシンセキの間でしばしば話題になっていた豚がいる。ある豚が東から西へ移動したというのである。物語は親族の語りに満ちていた― 関与する親族関係の確認、いま行なわれている婚資の交渉の詳細、どの過去の婚資の交渉が今回の婚資に関与するのかについての論争、などなど。エンデの人びとが最も得意とし、そして最も喜ぶ類いの語りである。
しかしながら、それらの親族の語りを削除して、豚の動きだけに限定して物語を整理すると、それは非常に単純な物語である。要するに、 (1) ズパドリ村の東側の村に住む親族から、ある豚がリヴァの家へ贈られた、そして、 (2) その豚は、リヴァの家から、西側の村へ贈られた― それだけの物語である。
関連する親族語りの面白さのゆえにだろうか、この豚の物語はさまざまな人物によって語られた。わたしは出来得る限りの数の物語のバリアントを収集し、記録した。親族語りはさまざまに変異するものの、基本的な豚の流れに変化はなかった。ある豚が東からズパドリ村へ、そしてズパドリ村から西へ運ばれただけなのである。
数日して、フィールドノートを眺めているうちにわたしは、数人の人の語った興味深いバリアントを発見することになった。その中で、豚は一匹ではなく、二匹いるのである。このバリアントの話者は、(1) と (2) の出来事の間に第3の出来事を挿入しているのである。リヴァの家に運ばれた豚は、じつはズパドリ村の別の村人によてマザされていたのである。数日後にその村人はリヴァに豚を、同じくらいの大きさの別の豚を返却していたのだ。そして、西に運ばれた豚は、最初の豚ではなく、この置換された豚なのである。
互酬性のゲームの中にある限り、二頭の豚は、あたかも一頭の豚として語られるのである。
贈り物は、このように、しばしば短い間に家から家へと移動する。一日に3軒、4軒と移動することも稀ではない。
村人に、自分が与えた豚がめぐりめぐってまた自分に戻ることがあるのかを聞いてみた。「それはタブーである。自分が与えたものを受け取るわけにはいかない」と彼女は、即座に、答えた。しかし、「だけどね、途中で売り買いが入ってれば別だよ」と彼女はつけ加えた。 A が B に豚を贈り、B が C にその豚を贈り、 C が D にその豚を贈ったとする。 D はその豚を A に贈ることはできないのだ。しかし、例えば、C から D に豚が移動するとき、それが売り買いであったならば、 D はその豚を A に贈ってもいい、というのである。たとえ一頭の豚であっても、それは二頭の豚と数えられることとなるのである。
互酬性の交換は人を結びつけ、等価交換は人を切り離す。交換の鎖は、そして交換を通して築きあげられる人と人との鎖は、等価交換によって切り離されるのである。エンデにおいて「買う」ということば、「ンブタ」という言葉が「切る」という意味をも持っていることは示唆的である。
互酬性と等価交換の二つの原理の対照はエンデの社会生活のあらゆる領野に浸透している。それはモノの交換だけに限らない。共同作業を例に取ろう。ソンガ songgaと呼ばれる共同作業がある。多くの人手を必要とする農作業(たとえば種蒔きだとか収穫だとか)の時に採用される方法である。明日種蒔きを予定している世帯は、村人や、近くの村のシンセキや友人に人をやり、「明日ソンガがあるから、来てくれ」と依頼する。
「もし、ソンガに誘われて行かなかったらどうなるんだ?」という私の質問に、ある村人は次のように答えてくれた― 「そのうち、遅かれ早かれ、お前がソンガを必要とするときに、来てくれる人がいなくなってしまうよ」と。ソンガの原理は互酬性なのだ。ソンガに来てくれた人がいつ来たのかとか、何時まで働いたのかを記録するホストはいない。朝早く来るものもいれば、昼過ぎから来るものもいる。昼めしはホストが用意し、畑で提供する。夜は、ホストの家に働いたすべての人間が集まり、宴会となる。しばしばモケ(椰子酒)が振る舞われる。
ソンガと対照的な共同作業に「クマ・ギジ kema girhi」と呼ばれる方法がある。「ギジ」は、おそらくインドネシア語、「ギリラン」からの借用語であろう。「ギジ」あるいは「ギリラン」は「順番」という意味である。「クマ・ギジ」は「順番の仕事」と訳すことができる。このタイプの共同作業は「クロンポック」(インドネシア語)と呼ばれる自助グループを単位に行なわれる。クロンポックは1980年代になって組織された組合である。 1980年代は外部からの援助が盛んにフローレス島に導入され始めた時期である。地方政府は援助金を受け取り、その管理に責任を持つ単位として自助グループを作成するよう、援助金を受け取る各村落に命令した。かくしてできあがった自助グループがクロンポックである。ちなみに、ズパドリ村には二つのクロンポックが存在する。
クマ・ギジは同じクロンポックの成員の間で「順番」に行なわれる共同作業である。クマ・ギジの各回において、クロンポックの成員はその日のホストの畑に、朝8時ちょうどに集合する。昼食は提供されないので、各自が弁当を持参しなければならない。仕事は昼休みを挟んで夕方の4時まで行なわれる。仕事が終わると、それぞれが自分の家に帰宅する。ホストの家での宴会はない。
クマ・ギジが基づく原理は等価交換である。たとえば、次のようなクマ・ギジのルールから、互酬性との対照が明瞭になるだろう― クマ・ギジに参加できない場合、成員は25000 ルピアの罰金を払わなければいけない、というのだ。別の言い方をすれば、罰金を払ってしまえば、クマ・ギジに参加する必要はなくなるのである。
ソンガにおいて、そしてマザにおいて問題とされているのは社会関係である。クマ・ギジにおいて、そしてペッイにおいて問題となっているのは負債の関係である。換言すれば、ソンガとマザの制度を支えているのは「信用」(confidence)であり、クマ・ギジとペッイの制度を支えているのは、「信頼」(trust) (???) なのである。信頼とはあなたが負けるかもしれない賭けである。それは常に「リスク」と表裏一体のものなのだ (???)。信頼のゲームでは、(クマ・ギジやペッイで明らかなように)常に数えること、記録することが重要になる。なぜなら、信頼には、つねに裏切りの可能性があるからだ。
信用のゲームは対照的である。マザとソンガの描写から分かるように、人は数えることも、記録することもしない。近い将来に、だいたい同じようなものが返却されることが期待されるだけである。そして、あたかも何も起きていなかったかのごとくに人びとは行動する。マザされた豚が、いまでもそこで餌を食べているかのごとくに。信用は近代にない制度である。われわれには信用をプレイする余裕はないのだ (???)とギデンズは言う。
この二つのゲームこそが、わたしが冒頭に示唆した「バイリンガリズム」という言葉で意味したものである。エンデの村人たちは、日々の生活を、二つの「言語」を使用しながら生きているのである。彼女らは場面に応じて、言語を切り替えるのだ。マザ、贈与そしてソンガの脈絡では、彼女らは信用と互酬性の言語、すなわち伝統の言語を喋る。一方、ペッイ、売り買いそしてクマ・ギジの脈絡では、彼女らは信頼と等価交換の言語、近代の言語を喋るのである。
発動機の物語に戻ることとしよう。問題の発動機は「フータン・ラキャット」(「国民の森」)と呼ばれる、森林局による一種の開発援助計画の産物である。「フータン・ラキャット」の目的は、「耕されていない」土地に商業価値のある植物を植えることを促進することである。このプログラムに興味のあるグループ(クロンポック)には、50ヘクタール以上の土地を用意し、50人以上の成員を集めることが求められた。この条件を満たし、森林局の地方役所に申請書を提出すれば、マホガニーとカシューナッツの苗が無料でそのグループに提供される。さらに、政府は、苗を植える人びとに手間賃として、一人一日2万ルピアを払うというのである。
このニュースを聞いたズパドリ村の人びとは、まずズパドリ村にあった二つのクロンポックを融合して、十分な大きさの新しいクロンポックを結成した。さらに村のモサザキ(土地の儀礼的所有者)の一人に、十分な大きさの土地を「公共の利益のために」提供するよう説得した。かくして課された条件(十分な土地と十分な人数)はクリアされたわけである。最後に、数人の教育のある人間が選ばれて、申請書を作成した。申請書は受理され、苗が村に届いた。事前に同意されていたのだが、一人あたり一日に払われるお金は、当人には渡されず、クロンポックの口座に入金された。このお金を使って、村の発動機が購入されたのである。すべてが順調に進み、 2007年に発動機が村に届けられた。そして電気が村人の手に入ったのである。そうして、2008年9月のあの集会の時がやってきたのである。
上述の記述から明らかなように、発動機に関わる事柄は近代の言語、信頼と等価交換の言語で語られるべき事柄である。それは開発に関わる事柄であるのだから。
すべてが均一化するとは、比喩的な言い方となるが、すべてが無意味なものとなる、ということである。オジェはスーパーモダンのこの傾向を場所に関して指摘した(Aug, 日付なし)。 [ under construction ]
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Its concrete outcome involves considerable physical modifications: urban concentrations, movements of population and the multiplication of what we call `non-places’, in opposition to the sociological notion of place, associated by Mauss and a whole ethnological tradition with the idea of a culture localized in time and space. The installations needed for the accelerated circulation of passengers and goods (high-speed roads and railways, interchanges, airports) are just as much non-places as the means of transport themselves, or the great commercial centres, or the extended transit camps where the planet’s refugees are parked. (Aug, 日付なし: 34)
[ under construction オジェ ]
[ under construction エンデの場所、非場所(エンデの町、クパン、マレーシア) ]
Aug, Marc. 日付なし. Non-Places: Introduction to an Anthropology of Supermodernity. London, New York: Verso.
Dietrich, Stefan. 1983. 「Flores in the Nineteenth Century: Aspects of Dutch Colonialism on a Non-Profitable Island」. Indonsian Circles 31: 3958.
Escobar, Arturo. 1995. Encountering Development: The Making and Unmaking of the Third World. Princeton, NJ: Princeton University Press.
Ferguson, James. 日付なし. The Anti-Politics Machine: 「Development,」 Depoliticization, and Bureaucratic Power in Lesotho. Minneapolis, London: Univerty of Minnesota Press.