二つのオジェック―経済主義と文化主義

Satoshi Nakagawa

2017-06-23 09:09

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この講義では、前の講義で紹介した二つの議論(ギアツの『インヴォリューション』とスコットの『モラル・エコノミー』の議論)に対する反論を紹介し、論点をより明確にしていきたい。

この節では、論争がどんなものであるのかをいささか印象主義的にではあるが、予告しておこう。

1.1 浅いものとしての文化

まずは、論争のあとの雰囲気を紹介することから始めよう。『農業のインボリューション』の数十年後に、この本をめぐる論争を回顧しながら、著者ギアーツは次のように語る。

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インボリューション論争に関する限り、「経済偏重主義」は、もともと避けようとしていた「障害としての文化」対「刺激としての文化」という枠組みを想起させる文化(あるいは社会文化)の外部化に導いていった。今では「ごまかしのイデオロギーとしての文化」 . . . または「無力な飾りとしての文化」 . . . となり、権力と搾取の力学を隠す . . . 共同幻想や、何の実りもない言葉遊びとなりがちである。文化は浅いものであり、底深いところでは社会は欲望のエネルギーで動いている。 (ギアーツ, 日付なし: 205)

具体的に言うと、文化の一例は(ギアツが本の中で強調した)「貧困の共有」である。経済主義者たちは言う― 「『貧困の共有』というイデオロギーは、単なるごまかしのイデオロギーなのだ。飾りに過ぎないのだ」と。

問題は「何をごまかしているのか」あるいは「何を飾っているのか」だ。それこそが「欲望のエネルギー」なのだ(と経済主義者たちは主張する)。

たとえば、あの素晴しい民族誌『ハマータウンの野郎ども』(P. E. 1996) (初版 1977年)を取り上げてみよう。生きいきと描写された「野郎ども」の(対抗)文化は、けっきょくのところ、(ウィリスの分析の中では)イデオロギーすなわち「虚偽意識」に過ぎないとされてしまう。それは、主流社会の「階級制度」を再生産するためのものなのだ。「野郎ども」はそれを知らぬまま、うんぬんかんぬん…と。息をもつかせぬ華麗な民族誌から、一気にマルクス主義のクリシェへと落下していくのを読者は経験するだろう。「理論の役割は調査を実行可能にするというよりは、むしろ反対に、調査の役割は理論の強化にあるという社会[学]理論家の習性が、ここでも明らかに認められる」(ギアーツ, 日付なし: 206) のだ。説明の中で「何かが失なわれてしまったのだ」(ギアーツ, 日付なし)

「生態人類学」の冒頭で紹介したコーンの引用を続けてみよう。

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還元主義者にとって、イデオロギーとか文化というものは、神秘化、虚偽意識の表現なのである。さもなくば、それらはあらかじめ規定された生物学的欲求の作用の表出であるか、行為者の「じっさいの」行動から生じた後付けの合理化なのである。 (Cohn 1980: 200)

(経済主義者の主張する)文化がごまかしているもの、文化が飾っているものの詳細は本文に譲るとして、「序」の最後に、ギアツが代表している立場と経済主義者の立場とをほのめかすエピソードをいくつか列挙しておきたい。

1.2 ベチャとベモの乗り方

[ under construction ジャカルタのベチャ、エンデの村のベモ ]

1.3 二つのオジェック

[ under construction ピートとベートの夫 ]

1.4 ほのめかされていること

ここでほのめかされているのは二つの態度である。ピートはもうけたいがために(あるいは自己の「欲望」のままに)いささか法外な値段をふっかけている。それに対して、ベートの夫は、社会的規範(「文化」)に基づいて行動しているのだ。いささか先走りして付け加えておくと、これらのエピソードは、この講義の対象(「欲望」と「文化」)に関わっているのみならず、結論にも深く関わっている。

2 欲望の原理

ギアツに代表される態度を「文化主義者」、その反論者たちを「経済主義者」と呼ぼう。1

もう一度だけ整理しておこう。「文化主義者」は「文化こそが彼らの『経済的行動』を説明するのだ」と主張し、「経済主義者」は「文化は虚偽意識であり、行動を決定しているのは、『欲望』である」と主張するのである。

2.1 コモンズの悲劇

1966年の『サイエンス』に掲載された G・ハーディンの「コモンズの悲劇」(???)は衝撃的な内容をもった論文であった。わたしたちの議論の出発点として、この「コモンズの悲劇」を利用することとする。

[ under construction ]

ハーディンは、それゆえ、共有地は廃し、すべてを私有地にすべきであると結論するのである。

わたしたちの文脈で問題にしたいのが(3)の部分である。これが「欲望」である。共有地の表しているアイデア(「公共性」、「共同体」)に対照させれば、(3)は「個人の欲望」を「他者を押しのけて自分だけ利益を得よう」とする態度、あるいは「フリーライド(ただ乗り)」を表わしていると言えるだろう。

文化主義者は、じっさいの事例を紹介しながら、「共有地」は維持できると主張する。たとえば、(Peluso と Atkinson 1993) では西カリマンタンの農民自身による森林管理のシステムが紹介されている。それは、モラル、文化によって維持されているのだ。

経済主義者は、その事例は認める。しかし、それらの共有地を維持しているのは、やはり、[ under construction 欲望 ]なのだ、と議論を展開するのである。そして、欲望とは、とりもなおさず、「最大の利益最初の損失」の謂いなのである。

2.2 囚人のジレンマ

[ under construction ]

3 インボリューション論争

『インボリューション』の刊行の後に現れた反論は、「ギアーツ・バッシング(幸生 2001) と呼ばれる割にそれほどのインパクトはない。

3.1 インヴォリューション批判さまざま

加納((???)> と 、[2]、[4]および

Cohn, Bernard S. 1980. 「History and Anthropology: The State of Play」. Comparative Studies in Society and History 22 (2): 198221.

Peluso, Nancy Lee, と Bermardine Atkinson. 1993. The Impact of Social and Environmental Change on Forest Management. Community Forestry Case Study Series 8. Rome: Food; Agriculture Organization of the United Nations.

P. E. 1996. ハマータウンの野郎ども. ちくま学芸文庫. 筑摩書房.

ギアーツC. 日付なし. インボリューション―内に向かう発展. NTT出版.

幸生. 2001. 「訳者解説」. インボリューション―内に向かう発展, 27183. NTT出版.


  1. 通常、ギアツへの反論者は「合理的選択論者」と呼ばれている。しかし、前回の講義で示したように、「理」は経済主義者(「近代」)にのみあるわけではない。様々な「理」があるのだ、ということを考慮して、この呼称(「合理的選択論者」)は使用しません。